ヴェイルの風は、いつも鉄の匂いがした。
それは南方テラ・フォージの外縁、防壁から半日ほど離れた廃層地帯でも変わらない。錆びた大地の裂け目から吹き上がる風には、焼けた鉱石の匂いと、朽ちた機械油の苦味が混ざっている。空は薄曇りだったが、その雲のさらに上には、第七文明期の軌道防衛網の残骸が、星のように静かに瞬いていた。
カイ=ヴォルトは、その匂いが嫌いではなかった。
嫌いではない、というより、落ち着くのだ。鉄と煤と、古い機械の死骸の匂い。それは彼にとって、生まれ育ったテラ・フォージそのものだった。熱した炉。蒸気。唸る発電機。笑いながら殴り合い、殴り合いながら酒を飲む鍛冶師たち。義肢の軋む音と、夜を明るくする溶接の火花。
そういう世界から外へ出て、ヴェイルに潜るたび、カイは自分がようやく呼吸できる気がした。
「……あった」
低く呟き、崩れたコンクリートと黒い根の絡み合う丘を這い上がる。頂上に立ったとき、眼下に広がる景色を見て、彼は小さく口笛を吹いた。
森だった。
ただし、普通の森ではない。
樹木は異様に背が高く、幹の表面には半透明の結晶が脈打つように埋まり、葉は金属光沢を帯びた藍色をしている。地表には白く発光する花が群生していた。ヴォイド・リリーだ。花弁が開くたび、見えないほど細かい胞子が煙のように周囲へ漂っていく。あれに素肌で触れれば、神経が焼き切れる。防毒布越しでも長く吸えば危険だ。
その毒の花畑の向こうに、半ば地中へ沈んだ巨大な構造物が見えた。
塔でもあり、工場でもあり、神殿でもあるような奇妙な建築。複数の円筒が斜めに折り重なり、その中心を貫くように黒い尖塔が立ち上がっている。表面には風化した銀色の装甲板。だが板の継ぎ目のあちこちから樹木が根を下ろし、ひび割れた箇所では赤い蔦が血管のように這っていた。
遺跡潜りの勘が告げていた。
当たりだ。
しかも大物。
「母胎工場級か……?」
思わず声が漏れる。
ルーメン母胎工場。テラ・フォージの酒場でその名を口にする者は多い。見つければ一生遊んで暮らせる、などと夢みたいな噂話にされるが、実際に発見された例はほとんどない。あったとしても、帰還した者がいないのだ。
カイは唇の端を上げた。
怖くないわけではない。ヴェイルで怖くないものなんて、まともじゃない。だが恐怖は、彼にとって前へ進む合図だった。
背中の収納具から折り畳み式の観測鏡を取り出し、片目に当てる。レンズの縁に組み込まれた簡易解析盤が、視界の輪郭に薄緑の走査線を走らせた。熱源、磁場、地形のひずみ。数秒後、鏡面に粗い文字列が浮かぶ。
外殻残存率:31% 内部エネルギー反応:微弱 重力偏差:断続的 警告:構造内部に自律機械反応あり
「自律機械、ね」
つまり何かがまだ生きている。
カイは観測鏡を畳み、首元に下げた防毒マスクをしっかり固定した。右腕の義肢に埋め込まれた圧力シリンダーが、きゅう、と短く鳴る。肘から先の鋼鉄骨格に力が満ちた。左腰の短銃、背中の磁槍、太腿のナイフ。装備を指先で確認してから、彼は斜面を下り始めた。
ヴォイド・リリーの群生地は迂回する。胞子の流れを風向きから読み、足場の石を選ぶ。途中、地面が突然ふっと軽くなる場所があった。重力異常地帯の名残だ。体を伏せてやり過ごし、投げた金属片が宙へ吸い上げられて見えなくなるのを確認する。
ヴェイルは、ただ危険なだけではない。
悪意がある。
そう感じることがある。
人間が踏み込むことを静かに拒み、だが殺すときは容赦がない。まるで、この大地のすべてが人を「異物」と知っているみたいに。
遺跡の外壁に辿り着いたとき、カイは思わずその表面に触れた。
冷たい。
何百年、何千年と風雨に晒されたはずなのに、金属は死んでいなかった。指先の感覚を通じ、かすかな震動が伝わってくる。深いところで、眠るように機関が脈打っている。
「本当に、生きてる……」
感嘆と畏れが混ざった声だった。
外壁には巨大な裂け目が走っており、その隙間から内部へ入れそうだった。カイは身をかがめ、暗がりへ滑り込む。
中は思ったより広かった。
天井は高く、幾重にも重なる梁の間に青白い光がぼんやり漂っている。床には粉々になったガラスのような結晶片。壁面には、配管とも神経束ともつかない管が這い、ところどころで淡く明滅していた。機械であるのに、有機的すぎる。工場であるのに、臓腑の内部みたいだった。
カイは息を潜めながら進んだ。
遠くから規則的な音が聞こえる。
……カン。 ……カン。 ……カン。
金属を叩くような音。だが鍛冶のそれとは違う。もっと乾いていて、もっと空虚だ。
やがて、円形の広間へ出た。
中央には巨大な縦型装置があった。繭のような形状をした透明容器で、その周囲を何重ものリングが取り巻いている。リングの一部は砕け、床に落ちていた。容器の中には何も見えない。ただ、底部に接続されたケーブル群だけが今も微かに光っていた。
「……遅かったか」
宝は抜かれた後か。舌打ちしかけた、そのとき。
背後で、音が止んだ。
カイは反射的に振り向いた。
暗い通路の奥。そこに、二つの赤い光点が浮かんでいた。
心臓が嫌な音を立てた。
光点はゆっくり近づく。鉄を引きずる音。重い何かが、歪んだ関節を鳴らしながら歩いてくる。
やがて、それは光の外へ姿を現した。
獣のような輪郭だった。四脚。ただし脚の本数も長さも左右で揃っていない。胴体は大型機械獣の残骸を無理やり繋ぎ合わせたように歪み、背中からは砕けた砲塔と、骨みたいにむき出しのフレームが突き出している。頭部に当たる部位は半分潰れ、そこから赤い光が覗いていた。
ゴースト・マシン。
機械獣の死骸に残留演算がこびりつき、何年も何百年もさまよった末に、自分が何者だったかも忘れた残骸の亡霊。
「最悪だろ……!」
カイは短銃を抜き、同時に横へ飛ぶ。
直後、ゴースト・マシンの口腔部から青白い閃光が走り、彼のいた床が弾け飛んだ。衝撃で破片が頬を切る。転がりざまに二発撃つ。炸裂弾が胴に当たり、表層装甲を吹き飛ばす。だが止まらない。
赤い光点がこちらを捉え続ける。
相手は壊れている。だからこそ怖い。損傷も苦痛も回避も知らない。ただ、視界に入ったものを破壊するよう命令の残骸に従って動いている。
カイは磁槍を引き抜いた。起動。柄の内部で電磁コイルが唸る。
「来いよ、鉄屑!」
叫ぶことで、自分の恐怖を押し返す。
ゴースト・マシンが突進した。床がえぐれる。速い。巨体に似合わぬ速度だった。カイは一歩踏み込み、義肢の補助で槍を薙ぐ。先端が左前脚を捉え、火花と共に関節部を断ち切った。
だが、それでも止まらない。
片脚を失った勢いのまま、巨体が彼にのしかかってくる。避けきれない。カイは義肢の右腕を盾のように掲げた。激突。骨まで砕けるような衝撃。吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
息が、できない。
視界の端で警告灯が点滅する。義肢の出力低下。肋骨も何本かやられたかもしれない。マスクの内側に血の味が広がる。
それでも立ち上がろうとした。
テラ・フォージの人間は、こういうときに笑う。
勝てない相手を前にしたときほど、歯を見せるものだと教わってきた。
「……まだだ」
ゴースト・マシンが再び照準を合わせる。頭部の割れ目に光が集まる。次で終わる。
カイは転がるようにナイフを拾った。無意味に近い。分かっている。だが最後まで手放したくなかった。武器も、生も、諦めたくなかった。
その瞬間だった。
広間の空気が、静かに変わった。
音が消えた。
いや、消えたのではない。押し潰されたのだ。すべての振動が、ひとつの巨大な静寂に呑み込まれた。
ゴースト・マシンの動きが止まる。
砲口に集まっていた光が、そこで凍ったように静止していた。
カイは息を呑み、視線を上げた。
広間の中央、あの巨大な透明容器の前に、いつのまにか人影が立っていた。
細い。長身。人間の女によく似た形をしている。白銀の装甲が身体の線に沿って滑らかに組まれ、関節部には薄い青光が流れていた。腰まで届く髪のような発光繊維が、重力を忘れたように緩やかに揺れている。顔立ちは整いすぎていて、彫像みたいだった。瞳の位置には、深い蒼を湛えたレンズが二つ。だがその青は、冷たさだけではなく、どこか底知れない深さを持っていた。
彼女は右手を軽く上げていた。
ただ、それだけ。
それだけで、直進していたはずのゴースト・マシンは、まるで目に見えない手に掴まれたように空中で静止していた。
カイの喉が鳴った。
これが――
これが本物か。
人間の文明圏が「装置」で再現する現象操作ではない。炉でも、結晶でも、増幅器でもない。存在そのものが世界へ命令しているみたいな、剥き出しの力。
白銀の存在は、ゴースト・マシンを見上げた。
「構造崩壊率、八十七パーセント。目的関数は欠落。敵味方識別不能。……哀れな残響」
声は静かだった。澄んでいて、だが人間の声帯の揺れとは少し違う。音楽と演算結果の中間のような響き。
次の瞬間、彼女の指先から、細い光の線が一本だけ伸びた。
それはあまりに細く、弱々しくすら見えた。
けれど触れた途端、ゴースト・マシンの巨体は音もなく分解した。
装甲が剥がれ、骨組みがほどけ、内部機関が粒子に還る。爆発ではない。破壊でもない。構成という事実そのものを否定されたように、巨体は無数の銀色の塵へ変わり、広間に雪のように降り積もった。
数秒、いや一秒にも満たなかったかもしれない。
あまりに鮮やかな終わりだった。
カイは、しばらく言葉を失っていた。
白銀の存在が、ゆっくりこちらを振り向く。
青い瞳が、彼を捉える。
「生命反応確認。人間個体。第八文明紀年式に適合」
カイはナイフを握ったまま、やっと声を絞り出した。
「……お前、何だ」
相手は少しだけ首を傾けた。まるで質問の意味だけでなく、その背後にある恐怖や驚きまで観察しているような仕草だった。
「定義には複数の階層があります。製造識別名、機能分類名、自己命名、あるいはあなたが理解可能な便宜的総称。そのいずれを求めますか」
「そういうのじゃねえ」
思わず荒い声になる。痛みと緊張で頭が痺れていた。
「人間か、機械か、幽霊かって聞いてる」
数秒の沈黙。
そして、彼女は答えた。
「私はルーメンです」
その言葉は、広間の空気をさらに冷たくした。
ルーメン。
ヴェイルを安全に渡れる唯一の存在。文明圏では伝説めいて語られ、同時に災厄として恐れられる機械生物。見た者は少ない。交渉した者など、もっと少ない。
カイは乾いた唇を舐めた。
「ルーメン、だと……」
「はい」
彼女は一歩だけ近づく。
その動作は滑らかで、足音がほとんどしない。歩いているというより、空間の中を正しい位置へ再配置されているようだった。
「あなたはカイ=ヴォルト」
カイの背筋が凍る。
「なんで知ってる」
「あなたの装備刻印、義肢内部の登録信号、心拍変動、発話パターン。照合可能です」
「……勝手に読むなよ」
「不快でしたか」
「そりゃな」
彼女はそこで初めて、ほんのわずかに目を細めた。人間でいう笑みに近いが、感情の種類は読み取れない。
「記録します。不快の閾値、更新」
変なやつだ、とカイは思った。
いや、やつ、などという言い方は軽すぎる。目の前にいるのは、自分がこれまで見てきたどんな機械とも違う。もっと巨大で、もっと静かで、もっと完成されている。人間が鍛えて作る機械は、力を誇示する。音を立て、熱を吹き、存在を主張する。だがこのルーメンは違う。何ひとつ無駄がない。だからこそ、怖い。
「お前が、あれを止めたのか」
「はい」
「一撃で?」
「一撃、という理解で概ね正しいです」
カイは短く息を吐いた。笑うしかなかった。
「まじかよ……」
彼女は彼を見つめたままだった。
「あなたは撤退せず、解析を優先し、劣勢下でも観察を継続した。興味深い行動です」
「褒めてるのか、それ」
「はい。少なくとも否定ではありません」
「そいつは光栄だ」
言いながら、カイはゆっくり立ち上がった。肋骨が痛む。右腕の義肢も軋んでいた。それでも目は彼女から逸らさない。
「お前、ここで何してた」
「待機」
「何のために」
彼女の視線が、広間中央の透明容器へ向く。
「観測を継続するために」
「誰を?」
「文明を」
その答えの意味を、カイはすぐには理解できなかった。
だが彼女の声に冗談の気配はなかった。観測。文明。そんな大きすぎる単語を、彼女はただ事実のように口にした。
カイが何か言い返す前に、ルーメン――彼女は再びこちらを見る。
「あなたは問うべきです」
「何を」
「なぜ私は今、目覚めたのか」
広間の奥で、何かが軋んだ。
遅れて、地響きが来る。
床下から。壁の向こうから。遺跡全体の深部から。眠っていた巨人が身じろぎしたような振動だった。青白い光が一斉に強くなり、天井の梁の隙間を何本もの光線が走る。
カイの顔色が変わる。
「……おい」
観測鏡の警報が自動起動し、耳障りな音を立てる。 高出力反応増大 抑制機構:再起動兆候 危険:即時退避推奨
「なんだこれ」
ルーメンは静かに答えた。
「均衡が崩れ始めています」
「均衡?」
「このヴェイルを、ヴェイルたらしめているものの均衡です。抑制機構が誤差を許容しきれなくなった」
言葉の意味は分からないのに、背筋だけが先に理解する。まずい。とてつもなくまずい。
広間の端で床が裂け、黒い根のようなケーブル束が噴き出した。そこから火花ではなく、重力そのものが漏れ出したみたいに空間が歪む。床の破片が浮き上がり、逆さに落ち、止まり、砕ける。
「おいおいおい!」
カイは思わず叫ぶ。
遺跡が生き返っている。
それも歓迎ではない。侵入者を排除するための再起動だ。
ルーメンは一歩前へ出た。青い瞳の奥で幾何学模様が回転する。
「この領域は五十七秒以内にエコー・ゾーン化します。あなたは死亡します」
「そんな落ち着いて言うな!」
「事実です」
「だったら助けろ!」
彼女は、またほんの少しだけ沈黙した。
その間にも天井の一部がねじれ、空間の奥行きが狂い始める。遠くに見えていた通路が急に目の前へ迫り、逆にすぐ横の壁が何十メートルも彼方へ遠ざかった。時間と距離の感覚がずれる。吐き気がした。
ルーメンは言った。
「可能です」
「早くしろ!」
「ただし条件があります」
カイは絶句した。
「今それ言うか!?」
「今しかありません」
彼女の声色は相変わらず静かだ。だが、その静けさの底に妙な確信がある。
「カイ=ヴォルト。あなたは好奇心が強い。恐怖を抱えたまま未知へ踏み込める。これは稀少な適性です」
「口説いてる場合か!」
「私はあなたに同行を提案します」
カイは一瞬、言葉を失った。
「……は?」
「あなたと共に、文明圏を巡る必要が生じました。均衡崩壊の原因を観測し、必要ならば調整するために」
また地響き。今度は近い。広間中央の透明容器が砕け散る。無数の破片が空中で静止し、次の瞬間には後方へ巻き戻るように戻り、また砕ける。時間の歪みが始まっている。
「説明しろ!」
「移動中に」
「ざけんな!」
「承諾しますか」
壁が崩れた。崩れた瓦礫は落下せず、その場で回転しながら、鋭い槍のようにこちらへ向きを変える。
カイは舌打ちした。
こんな状況で冷静に条件交渉する相手なんて、テラ・フォージでもまずいない。だが彼女は本気だ。ふざけてもいない。これがルーメンの論理なのだろう。
「……承諾だ! する! するから今は出るぞ!」
「契約を確認」
彼女はそう言って、右手を差し出した。
人間の手に似ている。だが白銀の外装の下で、細かな光の回路が流れていた。
カイは一瞬ためらい――その手を掴んだ。
冷たい、と思った次の瞬間。
世界が裏返った。
轟音も、痛みも、落下感覚もない。ただ視界が白く染まり、全身の輪郭がほどけ、自分が粒子になってばらまかれるような感覚が走る。足元の床も、崩れる遺跡も、空間の歪みも全部が一本の光の線へ圧縮され、次の瞬間には弾けた。
気づけば、カイは遺跡の外にいた。
さっき見下ろしていた丘の上。
夕方の赤い光が森を染め、ヴォイド・リリーの白花が不気味に揺れている。眼下では母胎工場らしき遺跡が沈黙していた。いや、沈黙しているように見えるだけで、内部では青白い閃光が脈打ち、地面が不規則に波打っている。ほどなく周囲の空間が歪み、遺跡全体を包むように半透明の膜が生まれた。エコー・ゾーン化だ。もう二度と、あの座標へはまともに近づけないだろう。
カイは膝をついた。
肺が痛い。吐き気が止まらない。だが生きている。
本当に生きている。
「……なんだ今の」
背後から答えが返る。
「短距離位相転移です」
振り向くと、彼女はそこに立っていた。風の中で、発光繊維の髪だけが静かに揺れている。遺跡の暴走を背にしてなお、その姿には一片の乱れもない。
カイは呆然と彼女を見上げた。
「人間の装置で再現可能な範囲を大きく超えています。あなたの感覚器官に負荷が生じるのは自然です」
「そういう問題じゃ……」
頭を抱えながら立ち上がる。
夕暮れの中、白銀の輪郭はどこか現実離れして見えた。あまりに整い、あまりに静かで、背景の世界のほうが作り物じみてくる。
彼女は言う。
「自己命名を提示します」
「今?」
「今です。先ほど、あなたは私を何度も『お前』と呼称した。識別効率が低い」
「悪かったな」
「問題ありません。ですが改善可能です」
一拍置いて、彼女は続けた。
「私の名はセレスティア」
その名は、沈みかけた空の色によく似合っていた。
カイは反射的に復唱する。
「セレスティア……」
「はい」
「長いな」
「では省略形を提案してください」
「いや、そこはお前がこだわるとこじゃないのかよ」
セレスティアは首を傾げる。
「名称は意思疎通のための符号です。美しさは副次的価値です」
「名前にそういうこと言うやつ、初めて見た」
「訂正。私は見たことがあります」
「誰を」
「過去の文明を」
またその話だ。
カイは息を整えながら、目の前のルーメンを見つめた。
助けられた。間違いなく。だが信用していいかは別だ。ヴェイルで得体の知れないものを信用しすぎたやつは、長生きしない。まして相手はルーメン。伝説と災厄の中心にいる存在だ。
けれど。
彼の胸の内で、それ以上に強く燃えているものがあった。
恐怖を押しのけるほどの、熱。
知りたい、という欲だ。
あの遺跡は何だったのか。彼女はなぜ眠っていたのか。均衡とは何か。文明を観測するとはどういう意味か。さっきの力は何なのか。ルーメンは本当は何者なのか。
そして何より――彼女は、何を知っているのか。
カイは口の端を上げた。
「……で、そのセレスティアさん」
「はい」
「さっき、文明圏を巡る必要があるとか言ったな」
「はい」
「俺と一緒に?」
「そうです」
「理由は」
彼女の青い瞳が、夕暮れの中でわずかに明るさを増した。
「第八紀は、あと四十七年で崩壊します」
風が止んだ気がした。
カイは笑いかけた表情のまま固まる。
「……何だって?」
「原因は均衡の崩れ。既に兆候は各地で発生しています。人間の文明圏同士が互いに干渉を強めたことで、ヴェイルの抑制機構が暴走し始めた」
彼女の声は静かだ。
あまりに静かで、冗談の入り込む隙間がなかった。
「このままなら、第八紀文明は終わります」
カイの喉が、ひどく乾いた。
遠く、テラ・フォージの方角には赤い雲がたなびいている。その向こうに故郷がある。炉と蒸気と、騒がしい人々。自分が帰る場所。自分が生きてきた世界。
それが、四十七年で終わる?
「……証拠は」
やっとの思いで出した声に、セレスティアはすぐ答えなかった。
代わりに彼女は空を見上げた。
薄曇りの裂け目から、夜の最初の星が覗く。いや、星ではない。軌道上に残された古代構造物の反射光だ。死んだ文明の残骸が、まだ空に浮いている。
「私は七つの崩壊を観測しました」
その一言が、カイの背骨をゆっくりと冷やした。
「都市が空から落ちるのを見ました。海が一夜で硝子化するのを見ました。大陸が分断され、太陽光を拒絶するシールドが逆に人々を焼いたのを見ました。知識を神聖化しすぎた文明が、自ら記録に埋もれて息絶えるのを見ました。機械に永遠を求めた文明が、永遠の途中で意味を失うのも見ました」
セレスティアは、ゆっくりとカイへ視線を戻す。
「だから分かります。これは始まりの音です」
カイは何も言えなかった。
ヴェイルの風が二人の間を通り過ぎる。鉄の匂い。遠雷のような地鳴り。花の胞子が白く漂う薄闇。
自分は今、どれほど大きなものに手を伸ばしてしまったのだろう。
分からない。
だが分からないからこそ、目を逸らせなかった。
カイは深く息を吸い、吐いた。
「……いいぜ」
「承認と受理します」
「まだ全部信じたわけじゃない」
「想定範囲です」
「でも、確かめる価値はある」
そう言って、彼は苦笑する。
「俺、そういうのに弱いんだよ。でかい秘密とか、世界の裏側とか」
セレスティアは数秒ほど彼を見つめた後、静かに言った。
「はい。だから私はあなたを選びました」
その答えがなぜか少しだけ胸に残って、カイは目を逸らした。
「……まずはテラ・フォージに戻る。傷も直したいし、準備もいる」
「了解しました」
「お前は目立ちすぎる。何とかならないのか」
「可能です」
次の瞬間、彼女の白銀の装甲表面を薄い光が走った。輪郭がゆらぎ、発光が抑えられ、外装色がくすんだ灰白に変わる。髪の光量も落ち、遠目には特殊な義体を着た人間の女に見えなくもない。
カイは目を見張った。
「そういうの、先に見せろよ」
「必要がありませんでした」
「今後は必要かどうか俺にも相談しろ」
「検討します」
「する気ない返事だな」
「学習中です」
カイは小さく笑った。
どう考えても厄介事だ。人生最大級の厄介事だろう。だが、胸の奥では別の感情が熱を持っていた。怖さと同じくらい、いやそれ以上に、期待があった。
世界はまだ知らないもので満ちている。
そして今、その扉が目の前で開いたのだ。
赤い夕空の下、カイはテラ・フォージの方角へ歩き出す。隣には、七つの文明崩壊を見届けたという白銀の機械生命体。
人とルーメン。
鍛冶の国の若き遺跡潜りと、古代の観測者。
その出会いが、第八紀の運命を変えるなどと、このときのカイはまだ半分も信じていなかった。
ただ一つだけ確かなのは――
ヴェイルの奥で出会ったあの青い瞳が、彼の世界をもう元には戻さない、ということだった。