『レムナント・ヴェイル ― 光の残響 ―』

第4章 南の熱き鉄

「おい、あれ……門の煙、おかしくないか」

南の地平線を見たまま、カイは足を止めた。

セレスティアも立ち止まり、数秒だけ無言で煙の流れを観測する。 遠くに見えるのはテラ・フォージ外縁の高炉群だ。見慣れたはずの黒煙は、いつもなら真っ直ぐ空へ上がってから、風に押されて南へ流れる。だが今、煙は途中で不自然に折れ、渦を巻き、まるで見えない壁にぶつかったみたいに形を崩していた。

「重力偏差が局所発生しています」

セレスティアが言う。

「範囲は外縁工区から中央工廠にかけて拡大中」

カイの顔から、わずかに血の気が引く。

「……早すぎるだろ」

「はい」

「まだヘイヴンから戻って、そんな経ってない」

「均衡崩壊は待ってくれません」

「そういう話してるんじゃねえ!」

カイは駆け出した。

乾いた赤土を蹴り、崩れた旧輸送路を飛び越え、息が切れても速度を落とさない。 南の空は、いつも通り赤かった。だが今日は、炉の火に照らされた赤ではなく、熱を帯びた傷口みたいな色に見える。

セレスティアは隣へ並び、速度をきっちり合わせてくる。

「カイ」

「何だ!」

「都市内部の反応が通常より多い」

「それは見れば分かる!」

「あなたの故郷は、既に私の帰還を認識している可能性が高い」

カイは歯を食いしばった。

「だろうな」

「対応を考えるべきです」

「考えてる」

「結論は」

「最悪だ」

「同意します」

「お前、その一言だけはたまに人間っぽいよな」

テラ・フォージの外縁門へ着く頃には、そこはすでに平常ではなかった。

兵士の数が多い。 砲座が通常より外向きではなく、門の内外両方を意識した角度に修正されている。 蒸気圧装甲車が三台、門前の待機線を塞ぐように並び、その周囲では義肢を露出させた重装兵たちが緊張した顔で持ち場についていた。

カイが近づくと、見張り櫓の上から怒鳴り声が飛ぶ。

「止まれ! 所属と目的を示せ!」

「カイ=ヴォルトだ! 外縁探索帰り!」

「同行個体を確認!」

「そっちは……!」

カイが一瞬だけ言葉に詰まると、門上の兵士が先に叫んだ。

「ルーメン反応に近似! 警戒等級を上げろ!」

蒸気圧装甲車の前面板が開き、内蔵電磁砲がこちらへ向く。 兵たちの義肢から補助フレームが展開し、足元の地面へ固定杭が打ち込まれた。

カイは両手を広げる。

「撃つな! 敵対してねえ!」

「中央工廠より命令が出ている!」

門番の顔は強張っていた。

「当該個体セレスティアを確認次第、拘束・隔離・中枢審査だ!」

「話が早すぎるだろ!」

「お前が遅すぎるんだよ!」

カイは一瞬だけ、返す言葉を失った。

その隣で、セレスティアは砲口の向きと兵の姿勢を見ながら言う。

「敵意は高いですが、即時殺傷優先ではありません」

「分析してる場合か」

「重要です」

「分かってるよ」

たしかに砲座の角度は、破壊ではなく無力化を狙っている。 中央工廠が欲しがっているのは死体ではない。 捕獲だ。

カイはそれを理解した瞬間、胃の底が重くなるのを感じた。

「……くそ」

セレスティアが小さく顔を向ける。

「どうしますか」

カイは門の上を睨んだ。

自分はここへ帰ってきたかっただけだ。 ミラに会って、状況を整理して、東で得た記録をどう扱うか考えて、それから次へ向かうつもりだった。だが故郷のほうは、とっくにその段階を過ぎている。

「入る」

「危険です」

「分かってる」

「それでも?」

カイは短く息を吐いた。

「ミラが中にいる。工廠も街も、全部中だ」

「はい」

「ここで門前から逃げたら、もっと面倒になる」

セレスティアは一秒だけ黙ったあと、うなずくように言った。

「了解しました。同行します」

カイは門へ向けて怒鳴る。

「中央へ通せ! 勝手に撃つなら、工監連中が欲しがってる“現物”が壊れるぞ!」

その言葉は、門番たちの迷いを一瞬だけ増やした。

数秒後、内線でも入ったのだろう。 門上の伝声管から別の声が響く。

「カイ=ヴォルトおよび同行個体セレスティア、条件付きで通行を許可する。武装は保持したままでも構わないが、誘導路から外れるな。中央工廠審査区画へ直行せよ」

カイは舌打ちした。

「やっぱり待ってたかよ」

「歓迎されていますね」

「一番嫌な意味でな」


テラ・フォージの街は、見慣れた故郷のままだった。

鉄骨で組まれた通路。 蒸気排熱塔。 怒鳴りながら荷車を引く労働者。 工房前で火花を浴びる鍛冶師。 赤熱した鋼材を運ぶ磁気クレーン。 どこもかしこも熱く、騒がしく、油臭い。

なのに、今日はその景色の上へ薄い緊張が一枚張りついている。

通り過ぎる人々が皆、セレスティアを見る。 兵士だけではない。整備士も、職人も、荷運び人も、子どもまで。 好奇心。警戒。欲望。恐怖。 感情が隠されていないぶん、ヘイヴンよりよほど露骨だった。

「……見世物だな」

カイが低く言うと、セレスティアは辺りを見回して答えた。

「観測対象として注目されています」

「そういうのを普通は見世物って言うんだよ」

「記録します」

「記録するな」

中央工廠へ近づくにつれ、街路は広くなり、人の質も変わる。 油まみれの現場職人より、軍工評議会に近い技師や士官が目立つようになる。大型磁気炉の並ぶ工区の間を抜け、二人は巨大な半球屋根の建物へ通された。

工廠中枢審査区画。

中へ入った瞬間、カイは顔をしかめた。

空気が違う。 工房の熱気や煤臭さが薄く、代わりに薬品と冷却液と絶縁材の匂いが強い。ここは“作る”場所というより、“解体して調べる”場所だ。

「最悪だな……」

「同意します」

「お前、その返し気に入ったのか」

「有用です」

待っていたのは、軍工評議会直属の技師たちだった。

先頭に立っている男を見て、カイはさらに顔をしかめる。

「バルド……」

工監バルド=レッカ。 中央工廠の統括級技師であり、軍工評議会に強い発言権を持つ男。五十代半ば。大柄。頭髪は薄く、代わりに顎髭が鋼線みたいに太い。左目は義眼、右腕は肩から先が重作業用義肢になっている。子どもの頃、カイが工廠へ忍び込んで怒鳴られた相手の一人でもあった。

バルドはセレスティアを見て、深く、獣じみた息を吐いた。

「……こいつか」

その声には、嫌悪より先に欲があった。

カイは一歩前へ出る。

「先に言っとく。勝手なことはするな」

バルドの義眼が、ゆっくりカイへ向く。

「何を勝手と呼ぶかによるな」

「分解とか、接続とか、兵器扱いとか、その辺全部だよ」

「大きく出たな、遺跡潜り風情が」

「遺跡潜りだから分かることもある」

「それで世界が分かるつもりか」

「少なくとも、お前らが目の前の出力に目を奪われてるのは分かる」

周囲の技師たちがざわつく。 バルドだけは笑わなかった。

「ヘイヴンから外縁情報が流れてきている。お前は西で妙な騒ぎを起こし、そのルーメン個体と共に評議会中枢へ侵入したそうだな」

「だいぶ脚色されてるな」

「侵入したのか」

「……した」

「なら十分だ」

バルドはセレスティアに向き直る。

「貴個体へ通告する。テラ・フォージ軍工評議会は、現在のヴェイル均衡崩壊兆候に対し、貴個体の演算能力が文明防衛に必要と判断した。以後、協力を要請する」

カイは即座に言う。

「要請って言いながら断る気ないだろ、それ」

「賢いやつは言葉の綾に付き合わんでもいい」

「やっぱりかよ」

バルドはカイを無視して続ける。

「我々はヘイヴンほど愚かじゃない。お前をただ壊すつもりはない。力を貸せ」

セレスティアは静かに答えた。

「条件を確認します」

カイは思わず振り返る。

「おい」

バルドの義眼が鈍く光る。

「話が早いな、ルーメン」

「私は人間文明を一律に拒絶しません」

「ならば歓迎しよう。必要なのは単純だ。ヴェイル侵食を止めるため、我々の重電磁炉群と接続し、現象出力を増幅して都市境界を固定しろ。可能なら量産可能な演算補助技術も提供してもらう」

カイはバルドを睨む。

「それ、協力って言うより絞り取る気満々だろ」

「文明は資源で動く」

「人も、か」

「当然だ」

その返答の速さに、カイは一瞬だけ言葉を失う。

ヘイヴンは冷たかった。 だがテラ・フォージは別の意味で容赦がない。 こちらは感情もあるし仲間意識もある。なのに、必要と判断した瞬間、それごと全部“使う”側へ振り切れる。

セレスティアがバルドを見る。

「拒否した場合は」

「拘束下での強制接続に移行する」

工廠審査区画の空気が、そこで完全に固まった。

カイは短く息を吸う。

「お前、最初からそれやる気だろ」

バルドは少しだけ口角を上げた。

「交渉とは、拒否権が残っているように見せる技術でもある」

「最低だな」

「生き残る気があるなら、綺麗事だけでは足りん」

そこへ、横の隔壁が開いて誰かが駆け込んできた。

「ちょっと待って!」

ミラだった。

いつもの作業着のまま、片手に工具端末を持ち、息を切らしている。額には油汚れ。髪も乱れていた。

「勝手に審査区画へ入れるなって言ったろ!」

バルドが苛立たしげに言う。

「整備班の立ち入り権限は限定だ!」

「だから急いで来たの!」

ミラはカイを見るなり駆け寄り、そのまま眉を吊り上げる。

「何やってんの、あんた!」

「いや、俺も今まさにそれ思ってたとこ」

「冗談じゃない。街中、あんたとルーメンの噂で持ちきりだよ。軍工評議会は朝から中枢炉の接続準備してるし、外縁じゃ重力偏差が出てるし、フォージ全体が浮き足立ってる」

「知ってる」

「知っててここ来たの?」

「だから来たんだよ」

ミラはセレスティアを見て、それからバルドを見た。

「工監。あんた、本当にやる気?」

「何をだ」

「強制接続」

「文明防衛のために必要ならな」

「必要“かもしれない”だけでしょ!」

バルドの義眼が冷たく光る。

「ミラ。お前は優秀だが、全体の尺度に欠ける」

「全体って、街ひとつ守るために世界を壊すかもしれないこと?」

「ヘイヴンの計画を知っているのだろう」

ミラの顔が強張る。 どうやらカイが戻る前に、ある程度の情報はもう届いていたらしい。

バルドは低く言う。

「西は次の時代へ乗り換える準備をしている。東は記録に閉じこもって動けん。なら、南が遅れを取るわけにはいかない」

「だからってルーメンを炉に繋ぐのかよ!」

「繋げるなら、な」

「それ、兵器じゃん!」

「防衛手段だ」

言葉だけが違う。 本質は同じだと、カイにも分かった。

セレスティアは一歩だけ前へ出る。

「提案します」

全員の視線が向く。

「私は限定的な防衛支援なら可能です。ですが恒久接続、技術抽出、演算機関への強制アクセスは拒否します」

バルドは唸るように息を吐いた。

「理由は」

「あなたがたは現時点で、抑制機構に干渉する危険性を理解しきれていない」

「理解は接続のあとで深めればいい」

「その過程で都市が消失する可能性があります」

「可能性なら、放置しても同じだろう」

セレスティアは一瞬だけ沈黙した。

それが答えに詰まったのではなく、相手の論理を測っている間だと、カイにはもう分かる。

「……はい。放置も危険です」

バルドはその一瞬を見逃さなかった。

「なら話は早い。お前の力を我々が最大化し、フォージのために使う」

カイが踏み込む。

「勝手に決めるな!」

「決めるのが評議会だ」

「セレスティアは道具じゃない!」

「なら何だ。文明の外から来た神か? 観測者か? どちらにせよ、使えるものを使わずに滅ぶほど南は上品じゃない」

ミラが低く言う。

「バルド」

「黙れ」

「黙らない。あんたたち、もう炉の出力を上げ始めてるでしょ」

その言葉に、カイの顔色が変わる。

「何だって?」

ミラは答える。

「中央工廠の深層炉。今朝から通常の一・六倍で回ってる。しかも古い基盤へ無理やり接続かけてる。たぶん、こいつを繋げた瞬間に一気に噛ませる気だ」

カイはバルドを睨んだ。

「お前……」

「準備は必要だ」

「暴走するぞ!」

「お前が判断するな!」

その瞬間、工廠全体を揺らすような低音が響いた。

誰もが一瞬、動きを止める。

足元から来た。 深いところで、何か巨大なものが息をしたみたいな振動だった。

ミラの顔が引きつる。

「……ほら」

バルドも眉をひそめた。

「深層炉の共振か」

セレスティアの瞳が明るくなる。

「違います」

その声が、場の空気を一気に冷やした。

「ヴェイル基盤の反応です。既に接触が始まっている」

「何だと」

「あなたがたは中央工廠の下にある古代基盤を起こし始めました」

バルドが怒鳴る。

「馬鹿な。あれはただの地中残骸だ」

「違います。抑制機構の副接続節点です」

カイは舌打ちした。

「最悪だ……!」

「同意します」

「今はいらねえ!」

振動は二度、三度と続く。 天井から細かな粉が落ち、壁の計器群にノイズが走った。

工廠警報が鳴る。 赤いランプが点滅し、遠くで蒸気抜き弁が開く轟音が響く。

「中央炉の安定率低下!」

どこかで技師が叫ぶ。

「第三補助環が制御不能です!」

「重力偏差上昇!」

「外縁壁面に亀裂発生!」

バルドの顔から、初めて余裕が消える。

ミラが吐き捨てる。

「やらかした!」

だがそれでも、バルドは即座に立て直した。

「全員、第二態勢へ移れ! ルーメン個体を接続炉へ移送する!」

カイは耳を疑う。

「今の聞いてたか!?」

「今だからだ!」

「狂ってんのかお前!」

「出力が要る!」

「その出力が原因だって言ってんだろ!」

バルドは怒鳴り返した。

「なら抑え込むためにも更なる出力が要る!」

ヘイヴンの合理性とは違う。 だが同じだった。 自分たちの手の届く力で、目の前の破綻をねじ伏せようとする。

セレスティアが一歩下がる。

「カイ」

「分かってる!」

兵たちが一斉に展開する。 今度はただの審査区画ではない。床下から固定杭がせり上がり、天井から電磁拘束ワイヤが垂れ、周囲の壁面が厚い装甲板で閉じ始めた。

中央工廠そのものが、巨大な捕獲檻へ変わる。

「逃がすな!」

バルドの怒号。

カイは磁槍を引き抜き、目の前へ迫った重装兵の義肢関節を薙いだ。火花。金属音。兵士が膝から崩れる。だが次が来る。

ミラが横の制御盤へ飛びつき、工具端末を差し込んだ。

「拘束環だけでも切る!」

「できるのか!」

「やるしかないでしょ!」

セレスティアは包囲網の中心で立ち尽くしていた。

いや、立ち尽くしているのではない。 殺さないために、ほとんど動けないのだ。

彼女が本気で現象演算を振るえば、この区画ごと兵も工員も消し飛ぶかもしれない。だから出力を絞っている。だがその制限が、今は逆に足枷になっていた。

電磁拘束ワイヤが一斉に射出される。

セレスティアが手をかざし、半数を空中で止める。 だが残りが肩と腰へ巻きつき、床下の固定杭へ引かれた。

工廠の深部から轟音が響く。 どこかの炉が、もう正常域を越えている。

「セレスティア!」

カイが叫ぶ。

彼女は苦しげでもなく、ただ静かに言った。

「私はまだ出力を上げられます」

「上げるな!」

「ですが、このままでは――」

「人を巻き込む!」

セレスティアは一瞬だけ、カイを見る。

その視線に逡巡があった。

そして、それは遅すぎた。

工廠床面の中央に走っていた古い継ぎ目が、突然、内側から裂けた。

赤熱した蒸気ではない。 黒い根のようなケーブル束と、白く発光する結晶の塊が地中から噴き出したのだ。

誰かが悲鳴を上げる。

「何だこれ!」

「配管じゃない!」

「地盤から構造物が……!」

セレスティアの声が、初めて明確に切迫する。

「離れてください! 抑制節点が露出します!」

だが間に合わない。

深層炉の電磁場と、セレスティアの出力と、地下基盤の古代構造が一気に噛み合った。

白い閃光。

それに続いて、音のない衝撃。

世界が一拍、裏返る。

カイは浮いた。 正確には、足元の重力が一瞬だけ消えた。兵士も工具も鉄片も、全部が空中へ持ち上がり、次の瞬間には逆向きに叩きつけられる。

「がっ……!」

床を転がり、カイは辛うじて起き上がる。

見ると、工廠中央の裂け目から、森が生えていた。

ありえない光景だった。

赤い鉄と白い照明の工廠のど真ん中に、黒い幹と金属光沢の葉を持つ樹木が何本も突き出している。根元には白い花――ヴォイド・リリー。しかもそれだけじゃない。裂けた床の向こうには、工廠地下ではなく別の地形が見えていた。崩れた遺跡。霧。重力に逆らって浮く石片。

ヴェイルが、都市の中へ侵入してきたのだ。

「侵食……!」

セレスティアが言う。

「大規模ヴェイル侵食です!」

警報が都市全域へ広がる。

外では砲声が上がった。 防壁側だ。 侵食はここだけではない。

誰かが叫ぶ。

「外縁壁が裂けた!」

「ゴースト・マシン反応多数!」

「重力異常、街路第七区まで拡大!」

カイは血の気が引くのを感じた。

始まった。

本当に。

バルドが立ち尽くしたまま、裂け目の向こうを見ている。

その表情には、さっきまでの確信がもうなかった。

「……こんなはずでは」

ミラが怒鳴る。

「その台詞、一番いらない!」

彼女は制御盤を蹴り、カイへ叫ぶ。

「避難路を開ける! あんたは人を外へ流して!」

「お前は!」

「中央拘束系を殺す! セレスティアが動けないともっとまずい!」

カイは即座にうなずく。

「死ぬなよ!」

「そっちこそ!」

セレスティアが拘束ワイヤを引きちぎる。 今度はもう手加減だけでは追いつかないと判断したのだろう。彼女の周囲で青白い円環が開き、裂け目から噴き出したケーブル束と結晶塊が一斉に押し返される。

だがその力は、都市を守るために使われていた。 敵を潰すのではなく、広がる侵食を一時的に抑えているだけだ。

カイは走った。

倒れた兵を跨ぎ、泣き叫ぶ工員を立たせ、開きかけた避難シャッターを義肢でこじ開ける。通路の向こうからは、半分機械獣、半分瓦礫みたいなゴースト・マシンが三体這い出してきた。磁槍を突き込み、一体の頭部を砕く。二体目は転倒した蒸気台車へ誘導し、爆ぜた高圧蒸気で視界を奪ってから兵士たちへ「今だ!」と怒鳴る。

工廠の兵たちも、こうなればセレスティアどころではない。 街を守るために動くしかない。

セレスティアの声が、どこか高い場所から響いた。

「カイ! 外縁へ侵食核が三つ拡散しています!」

「多い!」

「中央核を私が押さえます! 外へ向かってください!」

カイは歯を食いしばる。

「ミラ!」

「あと二分!」

隔壁の向こうで彼女が叫ぶ。 制御盤を直結しているのだろう、壁越しに青い火花が漏れていた。

そのとき、裂け目のさらに奥から、低いうなり声がした。

カイは振り向く。

巨大な影。

工廠地下からせり上がってきたのは、もはや獣と呼ぶには大きすぎる何かだった。古い重機械の胴体に、何本もの脚が継ぎ足され、背中には砲塔と骨みたいなフレームが刺さっている。ゴースト・マシン。だが今まで見たどれよりも巨大で、しかも侵食の中心と繋がっている。

「……冗談だろ」

セレスティアの声が鋭くなる。

「中枢残骸個体です! カイ、下がって!」

巨獣が砲口を開いた。

その先で、空間が歪む。 ただの砲撃じゃない。重力異常を伴う砲だ。

カイは飛び退く。 直後、さっきまでいた場所の床が音もなく押し潰され、鉄板ごと握り潰したように沈んだ。

「くそっ!」

磁槍では届かない。 兵器が要る。 だが周囲は避難で混乱している。

そのとき、背後からミラの声が飛ぶ。

「カイ! こっち!」

見ると、彼女が重搬送レール脇の補助砲座を起こしていた。 本来は工廠内で使う大型の電磁杭射出機だ。対人用ではなく、巨大部材を固定するためのものだが、出力だけなら十分すぎる。

「使えるか!」

「一発なら!」

「十分だ!」

カイは砲座へ飛びつく。 義肢を接続端子へ叩き込み、出力を無理やり同期させる。照準は巨獣の胸部。そこだけ、侵食核の光が濃い。

「セレスティア!」

「はい!」

「動き止めろ!」

「三秒です!」

彼女が両手を開く。 巨大な青光輪が工廠全体へ展開し、巨獣の四肢だけを精密に重力拘束する。巨体が軋み、砲口の向きがぶれる。

「今だ!」

カイは引き金を引いた。

電磁杭が唸りを上げて射出される。 白熱した鉄の槍はまっすぐ飛び、巨獣の胸を貫いた。次の瞬間、内部で暴走していた侵食光と反応し、核ごと爆ぜる。

衝撃。 巨獣が崩れ、裂け目の向こうへ沈む。

だが同時に、工廠全体が大きく傾いた。 中央基盤そのものが耐えきれなくなっている。

「全員退避!」

カイは喉が裂けるほど叫ぶ。

兵士も工員も、もう命令系統など関係なく走り出す。 ミラが最後の制御盤を叩き壊し、工廠中央の拘束系が完全停止する。セレスティアが押さえていた侵食の圧力が一気に増すが、その代わり彼女は自由になった。

「カイ!」

「分かってる!」

カイはミラの腕を掴み、出口へ向かう。 その背後で、セレスティアが振り返った。

彼女の表情はいつも通り静かだった。 だが、その静けさの奥に、初めて明確な怒りに近いものを見た気がした。

白銀の輪郭が強く発光する。

「境界再定義」

その声とともに、彼女の足元から巨大な現象式が広がった。

工廠中央の裂け目を囲むように、青白い幾何学円環が幾重にも重なり、侵食してきた森と遺跡と重力異常の塊を“押し返す”。完全に消し去るのではない。都市内部へこれ以上広げないため、一時的な壁を築いたのだ。

その規模は、人間の装置で再現できるものではなかった。 工廠ひとつどころか、周辺街区までまとめて包むほどの現象演算。

兵も工員も、皆それを見て言葉を失っていた。

カイも、ミラも。

ミラが呆然と呟く。

「……これが、ルーメン……」

カイは短くうなずくしかなかった。

「本物だよ」

工廠の外へ転がり出ると、そこもすでに戦場だった。

第七街区の石畳を樹木の根が突き破り、外縁壁の一部は完全に崩れている。向こうにはヴェイルの森が見えた。昨日まで都市の外にあったはずのものが、今は街の一部になっている。兵器列車が横倒しになり、その脇を小型ゴースト・マシンが駆け抜ける。砲撃音。悲鳴。避難誘導の怒号。

テラ・フォージはまだ終わっていない。 だが、もう以前と同じ安全地帯ではなくなった。

バルドがふらつきながら出てくる。 煤と血で顔を汚し、義眼の光も乱れていた。

カイは彼を睨んだ。

「満足かよ」

バルドは答えない。 答えられないのかもしれなかった。

ミラが低く言う。

「これ、工監の責任じゃ済まない」

「分かってる」

「評議会全体がやったことだよ」

「分かってる!」

そこでバルドが、初めて怒鳴った。

その声には、さっきまでの確信ではなく、痛みが混じっていた。

「だから何だ! 何もしなければ防げたとでも言うのか!」

カイは言葉を飲み込む。

防げたかどうかは分からない。 均衡崩壊はもう始まっていた。ヘイヴンも、アーカイブも、それぞれ別の形で火をつけていた。テラ・フォージだけが悪いわけではない。

けれど。

「少なくとも」

カイは重く言った。

「お前らは、目の前の力を“使える”と思った」

バルドは何も言わない。

「それが今だよ」

遠くで、またひとつ爆発が上がる。 セレスティアの築いた境界壁の向こう側で、侵食した森が不気味にうねっていた。

やがて、白銀の影がこちらへ歩いてくる。 セレスティアだ。 彼女の発光は少し弱っている。先ほどの出力は、さすがに無傷では済まなかったのだろう。

ミラが、今度は真正面から彼女を見る。

「……助けたんだね」

セレスティアは答える。

「可能な範囲で」

「可能な範囲、ね」

ミラは苦く笑った。

「それで街半分守るの、スケールがおかしいよ」

「まだ十分ではありません」

「十分だよ。少なくとも、さっきまでここにいた全員はそう思ってる」

セレスティアは沈黙した。

カイは封印箱を背負い直し、崩れた街を見渡した。 故郷は傷ついた。 その傷はたぶん、今日一日では塞がらない。 そして、ここへ長く留まるほど状況は悪くなる。

「……南の鍵は、もう分かったな」

セレスティアがうなずく。

「はい。フォージの機体基盤。深層炉群と古代機構の接続様式は確認できました」

ミラが振り向く。

「待って。じゃあ次は」

「北だ」

カイが答える。

「シルヴァン・リム」

ミラは目を見開く。

「北方残存部族? なんでそんなとこへ」

「説明は道でやる」

「またそれ?」

「今度は本当に長くなる」

ミラは一瞬だけ口をつぐみ、それから街を振り返った。

熱い鉄の国。 騒がしい故郷。 壊れかけていて、それでもまだ人が動き続けている場所。

彼女の目に迷いが浮かぶ。 残るべきだ。普通なら。 街には整備士が要る。制御系に触れる手も、今はいくらあっても足りない。

だがその迷いの先で、彼女はカイを見た。

そしてセレスティアを見た。

「……わたしも行く」

カイが目を瞬く。

「は?」

「何その顔」

「いや、残ると思ってたから」

「残りたいよ」

ミラは吐き捨てるように言った。

「でも、ここだけ直しても終わりじゃないんでしょ」

誰も答えない。 それが答えだった。

「だったら、壊れ方の元をどうにかしなきゃ意味ない」

彼女は工具端末を腰へ差し込み、乱れた髪を後ろで束ね直す。

「それに、あんた一人じゃ絶対すぐ死ぬ」

「そこまで言うか」

「言う」

ミラはセレスティアへ視線を移す。

「そっちは強いけど、人間の街で人間相手に加減しすぎる。結局、雑なとこ埋める係が必要」

セレスティアは数秒、ミラを見ていた。

「同行を歓迎します」

「歓迎してる顔じゃないけどね」

「表情は学習中です」

「カイ、ほんとにそれに慣れてるんだね……」

カイは苦笑した。

「嫌なことに、な」

遠くで避難鐘が鳴る。 テラ・フォージはまだ燃えていた。 だが、完全に沈んではいない。人々は動いている。街は悲鳴を上げながらも、まだ生きている。

カイは最後に故郷を見渡し、低く言った。

「帰ってくる」

誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。

ミラが隣で答える。

「そのためにも、先に北だね」

セレスティアは北の空を見る。

「シルヴァン・リム。最終継承鍵の保持確率は高いです」

「その言い方、もう文句言う気力もないな……」

カイは肩を回し、磁槍を担いだ。

熱い鉄の国の背後で、侵食したヴェイルの森が不気味に揺れている。 境界はもう絶対ではない。 文明圏は、崩れ始めた。

そして三人は、北へ向かう。

轟音と熱と、未だ消えない故郷の火を背にして。 次に待つのが咆哮なのか、答えなのかも知らぬまま。

だが少なくとも、もう一人ではなかった。