北方残存部族シルヴァン・リムの朝は、音よりも先に匂いで始まる。
湿った樹皮の匂い。夜のあいだに降りた霧が、苔の奥へ染みこんだ匂い。焚き火の灰がまだ少しだけ熱を持っていて、そこに乾いた針葉が落ちた時の、かすかな焦げの匂い。
マキナはその匂いの中で目を覚ました。
木と獣皮を組み合わせた寝台の上で、しばらく天井を見つめる。天井といっても、そこにあるのは古い枝材を編んだ骨組みと、その隙間を埋める厚い葉膜だ。葉膜は朝の湿気を吸い、淡く透けていた。外から差し込む光はまだ弱い。森の朝は、太陽が昇ってからもしばらく眠たそうにしている。
マキナは上体を起こし、右手を握ったり開いたりした。
指先に異常はない。腕にも痛みはない。昨日、崖下の水場で滑って肩を打ったはずだったが、もうほとんど違和感は消えていた。
シルヴァン・リムの民にとって、それは珍しいことではない。 体内に受け継がれた微細機構――古い時代の言葉ではナノマシンと呼ばれていたものが、軽い損傷なら一晩で塞ぐ。もちろん、死なないわけではない。大きな傷や毒、病、老いまでは避けられない。それでも、森で生きるには十分すぎるほどの恵みだった。
マキナは寝台から降り、腰の小袋を手に取る。中には乾燥果実、火打ち片、小型の骨刃、それから古びた金属片が入っている。
金属片は、彼が十歳の頃にヴェイルの外縁で拾ったものだ。手のひらに収まるほどの小さな板で、片面に読めない文字が刻まれている。リムの古老たちは「旧文明の残骸だ」と言った。危ないから捨てろとも言われた。
けれど、マキナは捨てなかった。
読めない文字。 何のために作られたのか分からない形。 森の中にあるどんな石や骨とも違う、冷たい硬さ。
それはマキナにとって、外の世界そのものだった。
「また持っていくのか」
入口の幕をめくると、外にいた兄弟子のリオウが呆れた顔をした。
リオウはマキナより四つ年上で、すでに狩り組の末席に加わっている。肩には弓、腰には曲刀。黒髪を後ろで束ね、頬には昨日の訓練でできた浅い傷が残っていた。
「何を?」
「その鉄屑」
「鉄屑じゃない。これは旧時代の記録媒体か、制御板か、あるいは――」
「鉄屑だ」
即答され、マキナは唇を尖らせた。
「リオウは想像力が足りない」
「お前は警戒心が足りない」
「警戒はしてる。危険性も分かってる」
「分かってて近づくから問題なんだよ」
リオウはため息をつき、森の奥を顎で示した。
「今日は外縁までだ。ヴェイルには近づくなってユラが言ってた」
「外縁もヴェイルの一部だ」
「そういう屁理屈を言うな。お前が言う外縁は、だいたい他の連中が言う危険地帯の三歩手前だ」
「三歩も余裕がある」
「その三歩で死ぬやつもいる」
リオウの声は冗談めいていたが、目は笑っていなかった。
ヴェイル。
その名を聞くだけで、リムの大人たちは顔を曇らせる。森の西北、白い霧と歪んだ地層に包まれた旧文明の遺跡帯。機械生物が徘徊し、空間が時折ありえない角度で折れ、動植物が妙な形に変異している場所。
危険地帯。 禁域。 過去の墓場。
大人たちはそう呼ぶ。
だがマキナにとって、ヴェイルは別のものでもあった。
伝承の入口だ。
幼い頃、彼は何度も焚き火のそばで同じ話を聞いた。
世界が終わりかけた時、南から来た青年がいた。 青年は機械の腕を持ち、白銀の観測者と共に四つの文明圏を巡った。 西の空中都市。 東の記録都市。 南の機械都市。 そして北の森。 やがて青年は、観測者と共に世界の中心へ向かい、終わりを終わりのままにしなかった。
話す者によって、細部は違った。
ある者は青年を英雄のように語った。 ある者は白銀の観測者を恐ろしい終末の使者として語った。 ある者は、彼らが世界を救ったとは言わず、「世界が終わるのを少し遅らせただけだ」と語った。
マキナは、その揺れが好きだった。
完全な伝説ではない。 誰も同じようには語れない。 だからこそ、そこには本当に起きた何かがある気がした。
「聞いてるのか、マキナ」
「聞いてる」
「じゃあ復唱しろ」
「今日は外縁まで。ヴェイルには近づかない。危険を感じたら戻る。機械生物の痕跡を見つけたら追わない。見慣れない発光体には触らない。遺跡の中には入らない。白い霧が濃くなったら引き返す」
「分かってるじゃないか」
「分かってることと、納得することは別だ」
「納得しろ」
「検討する」
「するな。決定しろ」
リオウはマキナの額を軽く弾いた。マキナは大げさに痛がるふりをしたが、リオウは騙されなかった。
集落の中央では、朝の支度が進んでいた。女たちは火を起こし、老人たちは水を運び、狩り組は装備を点検している。子どもたちはまだ眠そうにしながら、木の器を抱えて並んでいた。
その穏やかな光景の奥、森のさらに奥に、薄い白が見える。
霧ではない。 雲でもない。 木々の向こう、世界の端が少しだけ色を失っているような白。
ヴェイルだ。
マキナは無意識にそちらを見ていた。
「行くぞ」
リオウが声をかける。
「ああ」
マキナは答え、歩き出した。
けれど胸の奥では、すでに別の何かが動き始めていた。
◇
森は、リムの民にとって身体の一部のようなものだった。
どの枝が折れやすいか。どの苔が水を含んでいるか。どの鳥の鳴き声が天候の変化を告げるか。どの沈黙が獣の気配を意味するか。
マキナはそれらを知っている。
知っているが、得意ではない。
正確に言えば、彼は森を読むことより、森の向こうにあるものを考える方が好きだった。
「足音が大きい」
前を行くリオウが言った。
「わざとだ」
「なぜ」
「小動物に先に逃げてもらうため」
「嘘だな」
「足音が大きいのは事実だ」
「認めるな」
リオウは呆れたように言いながらも、歩調を緩めた。 マキナはその横に並ぶ。
「リオウは外に行きたいと思ったことないのか」
「ある」
意外な答えだった。
「あるのか」
「子どもの頃はな。南の機械都市を見てみたいと思った。東の記録都市にも興味があった」
「今は?」
「今は、森が俺の場所だと思ってる」
「どうして?」
「守るものがあるからだ」
リオウは短く答えた。
マキナは少し考える。
「守るものがあると、見たいものは見なくてよくなるのか?」
「そうじゃない。優先順位が変わる」
「俺は、まだ変わってない」
「知ってる」
リオウは横目でマキナを見た。
「だから皆、お前を心配してる」
「俺はそんなに無謀じゃない」
「お前は無謀じゃない。もっと面倒だ」
「どういう意味だ」
「危険を計算して、その上で行く。止めづらい」
それは褒められているのか、怒られているのか。マキナには判断しかねた。
しばらく歩くと、森の様子が少し変わった。
樹木の間隔が広くなり、地面に古い人工物が混じり始める。石ではない、妙に平らで硬い板。根に絡め取られた金属管。半分土に埋まった円形の蓋。リムの民が外縁と呼ぶ領域だ。
ここから先は、森と遺跡が混ざる。
リオウは立ち止まり、地面を指差した。
「見ろ」
湿った土の上に、深い跡が残っていた。獣の足跡ではない。規則的な爪痕。円形の重み。金属が地面を擦った跡。
「機械生物?」
「小型だな。数は三、いや四」
マキナはしゃがみこみ、跡を観察した。
「移動方向は西。ヴェイル側に戻ってる。逃げてる?」
「普通は逆だ。機械生物は森の奥へ出てくる」
「何かから離れた可能性がある」
「何か、か」
リオウの表情が険しくなる。
「今日はここまでだ」
「まだ外縁に入ったばかりだ」
「機械生物が逃げるような何かがいるなら、十分だ」
「確認した方がいい」
「しない」
「でも原因を把握しないと、あとで集落に――」
「マキナ」
リオウの声が低くなった。
「戻るぞ」
マキナは口を閉じた。
論理として、リオウの判断は正しい。 未知の異常がある。こちらは二人。武装は軽い。集落へ報告し、狩り組を組織してから再調査するべきだ。
正しい。
正しいが。
マキナは、西の方を見た。
木々の向こう、白い霧が揺れている。 その奥から、かすかな音が聞こえた気がした。
音というより、振動。 耳ではなく、骨の内側に触れるような微かな震え。
「……今の、聞こえたか?」
「何が」
「音」
「鳥か?」
「違う。もっと低い。いや、高いのか? 分からない。音っていうより――」
「マキナ」
リオウが彼の肩を掴んだ。
「戻るぞ」
今度の声には、迷いがなかった。
マキナは頷いた。
少なくとも、その場では。
◇
その夜、集落では小さな評議が開かれた。
焚き火を囲んで、狩り長のユラ、巫者イサラ=ネム、狩り組の数人、そしてリオウが話している。マキナは本来、その場にいられる立場ではなかったが、足跡を最初に見た一人という理由で、少し離れた場所に座ることを許された。
ユラは相変わらず寡黙だった。
灰色の髪を短く切り、左目の下に古い傷がある。何を考えているのか読みにくい顔だが、森の異変には誰よりも敏感だった。
「機械生物がヴェイル側へ戻った、か」
ユラが言う。
「追跡は?」
リオウが答える。
「していません。痕跡を確認後、撤退しました」
「正しい」
マキナは黙っていた。
正しい。 またその言葉だ。
イサラ=ネムが、火の向こうで目を細めた。白髪に木の実の飾りを編み込んだ老巫者は、マキナが子どもの頃から伝承を聞かせてくれた人物でもある。
「ヴェイルが騒いでいるのかもしれませんね」
「騒ぐ?」
マキナは思わず口を挟んだ。
ユラの視線が飛んでくる。マキナは少し背筋を伸ばしたが、イサラは穏やかに笑った。
「世界には、眠りの浅い場所があります。ヴェイルはそのひとつです。普段は静かに死んだふりをしている。けれど、ときおり寝返りを打つ」
「寝返りで機械生物が逃げるんですか」
「逃げることもあるでしょう。集まることもある。あるいは、何かを迎えに行くことも」
「何かって?」
「それを知りたがるところが、あなたの良いところで、悪いところです」
周囲の大人たちが小さく笑った。マキナは不満だったが、反論はしなかった。
イサラは火に小枝をくべた。火の粉が舞い、夜の闇へ消える。
「昔、白銀の観測者がこの森を通りました」
その一言で、場の空気が少し変わった。
マキナの胸が強く鳴った。
知っている話だ。何度も聞いた。 それでも、聞くたびに耳が勝手にそちらを向く。
「南の青年と、機械の娘と共に」
「機械の娘?」
マキナは首を傾げた。
「ミラのことですか?」
「彼女は機械ではありませんよ。ただ、機械と話すのがとても上手だった」
イサラは懐かしそうに言った。
「白銀の観測者は、終わりを見るための存在でした。けれど最後には、終わりではないものを見ようとした。南の青年は、それを選ばせたのではありません。共に選んだのです」
「カイ=ヴォルト……」
マキナは名前を呟いた。
その名は、口にするだけで遠くへ続く道のように感じられる。
「彼は今、どこにいるんですか」
「さあ」
イサラは首を振った。
「旅をしているとも、どこかの文明圏で調査をしているとも、ヴェイルの奥に消えたとも聞きます。噂は風より軽い。掴もうとすると形を変えます」
「会ったら、分かると思うんです」
マキナは気づけばそう言っていた。
大人たちの視線が集まる。
「何が分かる」
ユラが問う。
「外の世界が、どうなってるのか。伝承がどこまで本当なのか。白銀の観測者が何だったのか。世界が終わりかけたっていうのが、どういうことだったのか」
「それを知ってどうする」
「……分かりません」
正直に答えた。
「でも、知らないままここにいると、ずっと考えると思います」
火が爆ぜた。
ユラはしばらくマキナを見ていた。怒るでも、諭すでもない。ただ、マキナという一人の少年の輪郭を測るような目だった。
「考えることは悪くない」
ユラは言った。
「だが、ヴェイルは問いに答える場所ではない。問いを増やす場所だ」
「それでも、答えに近づくことはあるかもしれない」
「あるかもしれない。死ぬかもしれない」
マキナは黙った。
ユラの言葉は、いつも短くて逃げ道がない。
評議はその後、明朝に狩り組を組んで外縁を調査するという結論で終わった。マキナは同行を願い出たが、当然のように却下された。
「お前は集落に残れ」
リオウにそう言われた。
「足跡を最初に見たのは俺だ」
「だから?」
「現場を説明できる」
「俺ができる」
「でも俺の方が細かく見てた」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題だ」
「お前をヴェイルに近づけたくない」
あまりにも率直で、マキナは一瞬返事に困った。
「子ども扱いか」
「半分はな」
「残り半分は?」
「お前が本当に行きたそうだからだ」
リオウはそう言って、背を向けた。
マキナはその背中を見送った。
悔しさはあった。 だが、それよりも強いものが胸の奥に残っていた。
音。
昼間に聞こえた、あの振動。 森の音ではない。機械生物の音でもない。 もっと遠くから、もっと深い場所から、自分だけを呼んでいるような音。
そんなわけがない。 そう考えるのが論理的だ。
音の正体は、風で揺れた金属片かもしれない。地下の旧機構が動いただけかもしれない。自分の期待が、ただの環境音を意味あるものに変換しただけかもしれない。
可能性はいくつもある。
だから確認する必要がある。
マキナは自分の小屋に戻り、寝台に腰を下ろした。小袋から古い金属片を取り出す。刻まれた文字を指でなぞる。
読めない。
読めないが、そこには確かに誰かの意図があった。 誰かが何かを残そうとした。 それが今、自分の手の中にある。
「外の世界……」
小さく呟く。
その夜、マキナはなかなか眠れなかった。
目を閉じると、焚き火の向こうで語られた白銀の観測者が浮かぶ。南の青年カイ=ヴォルトが、機械の腕で崩れかけた世界を支えている姿が浮かぶ。もちろん、それが本当の光景ではないことは分かっている。伝承とは、語る者の願いで形を変えるものだ。
それでも。
もし、その願いの奥に本物があるなら。
自分は、それを見たい。
◇
夜明け前、マキナは小屋を出た。
集落はまだ眠っている。見張り台には一人立っているが、反対側の谷へ注意を向けていた。マキナは足音を殺し、木々の影に沿って進む。
腰には小袋。背には短弓。矢は少ない。戦うつもりはない。 確認するだけだ。昼間の足跡の場所まで行き、音の正体につながる痕跡があるか確かめる。危険があれば戻る。
自分にそう言い聞かせる。
嘘ではない。 ただ、全部ではない。
森はまだ暗かった。朝霧が低く漂い、膝のあたりを冷やしていく。マキナは慣れた道を進んだ。外縁までの道は何度も歩いている。どの根が足を引っかけるかも、どの岩が濡れると滑るかも知っている。
やがて、昨日の足跡が残る場所に着いた。
痕跡は夜の湿気で少し崩れていたが、まだ読める。機械生物たちはやはり西へ向かっていた。ヴェイルの奥へ戻っている。
マキナはしゃがみ、土に指を当てた。
微かな震えがあった。
地面の奥から、一定ではない振動が伝わってくる。まるで巨大な何かが、遠くでゆっくり呼吸しているようだった。
「……やっぱり」
聞き間違いではない。
マキナは立ち上がった。
戻るべきだ。
その判断は即座に出た。リオウならそうする。ユラならそう命じる。イサラなら、問いを増やす場所だと言うだろう。
だが、マキナの足は西へ向いた。
理由はあった。 振動の発生源を少しだけ特定する。危険があれば即座に撤退する。今のうちに情報を得れば、狩り組の調査にも役立つ。
理由はあった。
けれど本当は、それだけではなかった。
マキナは知りたかった。 森の向こうに何があるのか。 伝承の白銀は、ただの話なのか。 カイ=ヴォルトが歩いた世界は、どんな匂いがするのか。
白い霧が濃くなる。
木々の形が歪み始める。幹の途中から金属の管が生え、枝先に透明な結晶がついている。鳥の声が消え、代わりに遠くで低い駆動音が響いた。
ヴェイルの外縁。
何度も来た場所のはずなのに、その朝のヴェイルは違っていた。
静かすぎる。
普段なら、機械生物の擦過音や、小型機構の断続的な起動音がどこかで聞こえる。だが今は、それらがない。生き物が息を潜めるような静けさだけがある。
マキナは弓を手に取り、ゆっくり進んだ。
霧の奥に、古い遺跡の影が見える。
半分崩れた塔。地中に沈んだ通路。割れた壁面。そこに絡む植物の根。 マキナは立ち止まった。
昨日の振動は、そこから来ている。
論理的に考えれば、ここで戻るべきだった。 自分一人で遺跡に入るのは危険だ。機械生物がいなくなっている理由も不明。未知の現象が起きている可能性も高い。
マキナは深く息を吸った。
「入口を見るだけだ」
小さく言う。
自分に向けた言葉だった。
遺跡の入口は、斜めに傾いた壁の下にあった。古い扉はすでに半分開いている。内部から、白い光が漏れていた。
霧の白ではない。 朝の光でもない。
もっと冷たく、もっと澄んだ白。
マキナの心臓が強く鳴る。
その光を見た瞬間、彼はなぜか、イサラが語った白銀の観測者を思い出した。
足が止まらなかった。
入口をくぐる。
内部はひどく静かだった。壁面には見たことのない紋様が走り、床には古い機械の残骸が散らばっている。マキナが一歩進むたび、足元の埃が薄く舞い上がる。
奥へ。
さらに奥へ。
白い光が強くなる。
やがて通路が開け、広い空間に出た。
そこは、かつて何かを生み出す場所だったのだと、マキナは直感した。
円形の床。周囲を囲む管。天井から垂れ下がる無数のケーブル。中央には、割れた繭のような構造物がある。白く、滑らかで、ところどころが欠けていた。
そして、その前に。
誰かが立っていた。
人の形をしている。 だが、人ではない。
白銀の髪。 透けるような肌。 光を吸っているのか、放っているのか分からない輪郭。 その存在の周囲だけ、空気がわずかに違って見えた。
マキナは息を止めた。
話には聞いていた。 けれど見たことはない。 誰も正確な姿を語れなかった。 それでも、一目で理解した。
あれは、ルーメンだ。
白銀の存在が、ゆっくりと顔を上げる。
マキナの身体は震えていた。 逃げるべきだ。 隠れるべきだ。 観察対象に気づかれた時点で撤退するべきだ。
頭の中では、正しい判断がいくつも浮かんでいた。
だが、足は動かなかった。
いや。
動いた。
後ろへではなく、前へ。
マキナは、自分の意思より先に一歩踏み出していた。 喉が乾く。指先が冷える。心臓がうるさい。恐怖はある。確かにある。
それでも、口が開いた。
「……お前は」
白銀のルーメンが、無言でこちらを見ている。
マキナは震える声で続けた。
「伝承に出てくる、白銀の観測者なのか?」
答えはない。
けれど、その瞳の奥で、何かが微かに揺れた。
白銀のルーメンは、答えなかった。
ただ、マキナを見ていた。
その視線は、人間のものとは違っていた。 敵意があるわけではない。好奇心があるようにも見えない。そこに温度はなく、判断もなく、まるで光の角度を測る計器のように、マキナという存在の輪郭をなぞっている。
マキナは喉を鳴らした。
逃げろ。
その判断は、まだ頭の中にあった。
相手はルーメンだ。伝承の存在だ。過去文明と終末に関わる何かだ。リムの大人たちが恐れ、イサラが曖昧な言葉でしか語らなかった白銀の存在だ。
接触すべきではない。 距離を保つべきだ。 観察するなら、相手の反応範囲を確認してからにするべきだ。
そう考えながら、マキナはさらに一歩進んだ。
自分でも馬鹿だと思った。
白銀のルーメンは動かない。
その立ち姿は、壊れた繭の前に固定された彫像のようだった。だが彫像ではない。微細な光が、彼女の皮膚の下で流れている。血管ではない。もっと細く、もっと規則的で、けれど完全な機械のようでもない。
光の川。
マキナは、そんな言葉を思い浮かべた。
「俺は、マキナ」
名乗ってから、なぜ名乗ったのか分からなくなった。
相手が言葉を理解する保証はない。そもそも、この存在が自分に関心を持っているのかも分からない。
だが、沈黙に耐えられなかった。
「シルヴァン・リムから来た。北の森の、残存部族だ。……分かるか?」
白銀のルーメンは、わずかに首を傾けた。
反応した。
マキナの胸が跳ねる。
「シルヴァン・リム。北方共生群。旧実験系譜。ナノマシン継承民。そういう呼ばれ方も、したらしい」
イサラから聞いた古い言葉を並べる。
ルーメンの瞳に、ほんの一瞬だけ細い光が走った。
マキナは息を吸った。
通じている。
少なくとも、何かに反応している。
「俺たちは、あんたたちのことを伝承で聞いてる。白銀の観測者。世界の終わりを見てきた存在。南の青年と一緒に、北へ来た存在」
反応は薄い。
「カイ=ヴォルト」
その名を口にした瞬間、空気が変わった。
白銀のルーメンの輪郭が、わずかに揺れた。 周囲の管に走っていた白い光が、脈打つように明滅する。
マキナは目を見開いた。
「知ってるのか?」
ルーメンは答えない。
だが、確かに反応した。
マキナは恐怖を忘れかけた。 いや、恐怖はある。膝は震えている。手のひらには汗が滲んでいる。逃げるべきだという思考も消えていない。
それでも、それ以上に強いものがあった。
伝承と現実が、いま目の前で重なっている。
「セレスティア」
さらに、その名を口にした。
今度は、反応が大きかった。
白銀のルーメンが、初めて明確にマキナの方へ身体を向けた。壊れた繭のような構造物の周囲で、眠っていた機械が低く鳴る。天井から垂れたケーブルの先端が、わずかに震えた。
マキナの背筋を冷たいものが走る。
反応させてはいけない言葉だったのかもしれない。
だが、もう遅い。
ルーメンの足元から白い波紋が広がった。
床に積もった埃が、音もなく払われていく。空間そのものが磨かれていくように、視界が澄んでいく。白銀の存在は、一歩、マキナへ近づいた。
マキナの身体が硬直した。
逃げようとした。
今度こそ、本当にそう思った。
だが、足が動かない。
床から伸びた見えない糸に絡め取られたように、膝も、足首も、指先も動かせなかった。
「な……」
声だけが出た。
ルーメンはゆっくりと近づいてくる。
一歩。 二歩。 三歩。
足音はない。
彼女が動くたび、周囲の白い光がわずかに遅れてついてくる。まるでこの遺跡そのものが、彼女の移動に合わせて息をしているようだった。
マキナは歯を食いしばった。
恐怖で頭が白くなる。
自分は何をした。 何を呼び起こした。 何の名前を口にしてしまった。
ルーメンが目の前に立つ。
近い。
彼女の顔には、表情らしい表情がない。美しい、という言葉は思い浮かんだ。だが、それだけでは足りなかった。人間の美しさではない。結晶や星空や、凍った湖面を見る時の感覚に近い。触れれば壊れそうなのに、こちらの方が壊されそうな気がする。
白銀の手が伸びる。
マキナは叫ぼうとした。
声は出なかった。
指先が、彼の額に触れた。
瞬間、世界がほどけた。
◇
映像が流れ込んできた。
空を埋める塔。 海の底に沈む都市。 砂に覆われた無数の墓標。 燃える森。 白い雪原を歩く黒い人影。 砕けた月のような天蓋。 泣きながら笑う誰か。 笑いながら壊れていく誰か。
知らない景色。 知らない言語。 知らない文明。
けれど、そのすべてに共通するものがあった。
終わりだ。
栄えたものが沈む。 築かれたものが崩れる。 守ろうとしたものが、守るための力によって壊される。 誰かが最後まで残り、誰かが最後を見る。
マキナは息ができなかった。
これは記憶なのか。 観測記録なのか。 ルーメンの中に蓄積された、過去の文明の残響なのか。
思考が追いつかない。
映像の奔流の中で、ひときわ鮮明な白が見えた。
白銀の少女。 今目の前にいるルーメンではない。 似ているが、違う。 もっと完成され、もっと静かで、もっと悲しそうな白。
そのそばに、青年がいた。
機械の腕を持つ青年。 黒髪。 埃に汚れた外套。 真っ直ぐ前を見ているが、その目には迷いがあった。
カイ=ヴォルト。
マキナは、なぜかそう確信した。
青年の隣には、工具袋を背負った少女がいる。乱暴に何かを言いながら、青年の義肢を叩いている。 ミラだ。 名前しか知らないはずなのに、そう思った。
白銀の少女が振り返る。
彼女が何かを言う。
音は聞こえない。
けれど、その口元が形作った言葉だけが、マキナの意識に焼きついた。
――終わりではなく、保留を。
次の瞬間、映像が砕けた。
砕けた白の奥から、別の声が聞こえた。
言葉ではない。
信号。 呼びかけ。 深い場所から伸びてくる、細い糸のような意思。
マキナの中の何かが、それに応えようとした。
違う。
応えるものなど、自分の中にはないはずだ。
そう思った瞬間、額に触れていた指が離れた。
現実が戻ってくる。
遺跡の白い空間。壊れた繭。目の前のルーメン。動かない自分の身体。
ルーメンは、マキナの顔をじっと見ていた。
その瞳に、さっきまでとは違う光があった。
解析。
マキナはそう感じた。
彼女はマキナを見ているのではない。 分解し、照合し、照準を合わせている。
白銀のルーメンが、自分の胸元に手を当てた。
そこに走っていた光が集まる。ゆっくりと、彼女の身体の一部が剥がれ始めた。皮膚でも肉でもない。白い結晶と液体と光の中間のようなものが、薄い膜となって浮かび上がる。
マキナの心臓が跳ねた。
「何を……」
ようやく声が出た。
ルーメンは答えない。
剥がれた白銀の断片は、彼女の手のひらの上で小さく震えていた。生き物のようだった。形は定まっていない。水滴のように丸まり、次の瞬間には細い糸のように伸び、また小さな羽のように広がる。
マキナは全身に力を込めた。
動け。
動け。 動け。
足は動かない。
白銀の断片が、ゆっくりと浮いた。
そして、マキナへ向かってきた。
距離はわずかだった。 逃げられない。 避けられない。 叫ぶことすらできない。
断片が、胸に触れた。
冷たい、と思った。
次に、熱い、と思った。
その二つが同時に来た。
胸の奥に氷を差し込まれたような冷たさ。 その氷が一瞬で白く燃え上がるような熱。
「あ――」
声が途切れた。
断片が、身体の中へ入ってくる。
皮膚を破った感覚はない。血も出ない。だが、確かに何かが自分の内部へ侵入している。骨の隙間、血管の流れ、神経の束、そのすべてに白い糸が絡みついていく。
心臓が強く鳴る。
一度。 二度。 三度。
次の鼓動で、何かが変わった。
視界が白く染まった。
◇
どれくらい眠っていたのか、分からなかった。
マキナが目を覚ました時、最初に感じたのは硬さだった。
背中が痛い。
寝台ではない。土でもない。冷たい石のようなものの上に横たわっている。
ゆっくりと目を開ける。
天井が見えた。ひび割れた石材。そこを這う黒い根。根の隙間に、ところどころ白い光の粒が残っている。遺跡の中だ。
マキナは跳ね起きようとして、失敗した。
「っ……!」
全身が重い。
筋肉が鉛になったようだった。頭の奥が痺れている。胸の中心が熱を持ち、そこから細い針が身体中へ伸びているような違和感があった。
しばらく呼吸を整え、もう一度ゆっくり身体を起こす。
彼が横たわっていたのは、石の寝台のような台だった。もとは何かの処置台か、観測台だったのかもしれない。表面には古い溝が刻まれており、その溝の一部が微かに白く光っている。
白銀のルーメンの姿は、どこにもなかった。
「……夢、じゃないよな」
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
胸に手を当てる。
鼓動はある。 呼吸もある。 皮膚に傷はない。
だが、自分の身体が自分のものではないような奇妙な感覚があった。
手を握る。
開く。
指は動く。関節も問題ない。痛みはない。
それでも、何かが違う。
耳の奥で、かすかな音がした。
――……
マキナは息を止める。
声、のようなもの。
「誰かいるのか?」
返事はない。
遺跡の中は静かだった。 ただし、完全な静寂ではない。壁の奥で古い機械が眠っているような低い唸りがある。天井から水滴が落ち、遠くで金属片がわずかに揺れる音がする。
マキナは寝台から降りた。
足が床に触れた瞬間、膝が少し笑った。壁に手をつき、深呼吸する。
帰る。 まず帰る。
それ以外は後だ。
この場所で何が起きたのか。 白銀のルーメンが何だったのか。 胸に入った断片はどこへ行ったのか。
考えるべきことは山ほどある。
だからこそ、ここに残るべきではない。
マキナは出口を探した。 来た時の通路は、幸いにも崩れていない。白い光はかなり弱くなっており、さっきまでの異様な圧迫感も薄れていた。
慎重に歩く。
通路を抜け、傾いた入口から外へ出る。
外は夕方だった。
「……まずい」
夜明け前に出たはずだ。 つまり、ほぼ一日経っている。
集落では騒ぎになっているだろう。リオウは怒る。ユラは黙って睨む。イサラは困ったように笑うかもしれない。どれも気が重い。
だが、生きて戻れればまだいい。
マキナは森の方角を確認した。 ヴェイルの白い霧は、夕暮れの赤を吸って淡く紫がかっている。木々の影は長く伸び、地面の凹凸を見えにくくしていた。
急がなければならない。
そう思って歩き出した時、左手の茂みが揺れた。
マキナは即座に身を低くした。
遅れて、金属が擦れる音。
機械生物だ。
一体ではない。 二、三、いや、もっといる。
茂みの奥から、小型の機械生物が姿を現した。四脚型。胴体は丸く、背に棘のような金属突起が並んでいる。頭部らしき部分には赤い単眼。森の外縁で時々見る掃討型の亜種だ。
一体。 二体。 三体。
その後ろに、さらに四体。
「数が多いな……」
マキナは小さく呟いた。
短弓を構える。だが矢は少ない。七体を相手にするには足りない。距離を取って逃げるべきだが、今の身体は重く、全力で走れるか分からない。
機械生物たちは、すぐには飛びかかってこなかった。
赤い単眼が、じっとマキナを見ている。
観察されている。
嫌な感覚だった。
先ほどのルーメンの視線とは違う。こちらは獲物を測る目だ。
マキナは後退する。
一歩。
機械生物も前進する。
弓で一体の単眼を狙う。手が少し震えた。呼吸を止め、矢を放つ。矢は先頭の個体の頭部に当たり、赤い単眼の横に突き立った。
浅い。
機械生物が鋭い音を立てる。
同時に、周囲の個体が動いた。
「くそっ!」
マキナは横へ跳んだ。
直前までいた場所を、二体の機械生物が突進していく。地面が抉れ、枯れ枝が砕ける。
次の一体が側面から来た。
マキナは骨刃を抜き、振り下ろす。刃は脚部の関節に当たったが、硬い。火花が散り、手首に痛みが走る。
機械生物の尾部がしなった。
腹に衝撃。
マキナの身体が吹き飛び、背中から岩に叩きつけられた。
「がっ……!」
息が抜ける。
視界が揺れる。
痛い。 だが、動ける。
リムのナノマシンが、すでに損傷部位へ集まり始めているのが分かる。熱を持った痺れが肋骨の周囲に広がっていく。
それでも、回復には時間がかかる。
機械生物たちが、半円を描くように近づいてくる。
マキナは立ち上がろうとした。
膝が崩れる。
まずい。
数が多すぎる。 弓では止めきれない。骨刃も通らない。逃げるには距離が足りない。近くに登れる木はあるが、四脚型なら幹を削りながら登ってくる可能性がある。
思考を巡らせる。
周囲の地形。 岩。 倒木。 霧。 敵の位置。 自分の残り矢。 身体の状態。
突破口を探す。
その時、頭の奥で声がした。
――現象操作。
マキナの思考が止まった。
「……何?」
声は、耳から聞こえたのではない。
頭の内側。 胸の奥。 自分の神経の隙間。
そこから、言葉が浮かび上がった。
――現象操作、可能。
意味が分からない。
だが、身体が反応した。
右手が勝手に持ち上がる。
先頭の機械生物が跳びかかってくる。
マキナはその赤い単眼に手のひらを向けた。
次の瞬間、世界の音が変わった。
風の音。 機械の駆動音。 自分の心音。 地面の奥に残る微かな振動。
すべてが波になって見えた。
見えるはずのないものが、見えた。
空間を伝わる揺れ。 音の震え。 熱のざわめき。 機械生物の脚部が地面を叩いた反響。 自分の呼吸が生む微細な振動。
それらが、手のひらの前に集まっていく。
いや、集めている。
マキナ自身が。
理解より先に、身体が知っていた。
波を束ねる。 振幅を揃える。 向きを与える。 密度を上げる。
胸の奥が熱くなる。
白い断片が、そこで脈打った気がした。
――射出形態。
言葉が響く。
マキナの手のひらから、白い光が伸びた。
それは火でも雷でもなかった。
細い柱のような光。 だが、ただ光っているだけではない。空気を押し退け、霧を裂き、一直線に機械生物へ到達する。
着弾。
音が遅れて来た。
轟音。
先頭の機械生物が、突進していた勢いとは逆方向へ弾き飛ばされた。まるで見えない巨人に殴られたように、胴体が歪み、脚が千切れ、背後の岩へ叩きつけられる。
岩が割れた。
機械生物は、潰れた金属塊になって地面へ落ちた。
マキナは手を下ろせなかった。
息が荒い。
今、何をした。
自分の手から、何が出た。
残りの機械生物たちも動きを止めていた。赤い単眼が一斉にマキナへ向いている。先ほどまでの捕食者の動きが消え、警戒の距離を取っている。
マキナの胸が、さらに熱くなる。
もう一度できるのか。
そう考えた瞬間、頭の奥で警告のような感覚が走った。
――連続行使、非推奨。
「誰だよ、お前……」
マキナは呟いた。
答えはない。
機械生物の一体が、低く唸る。 別の一体が、後退した。
群れの判断が変わった。
先ほど吹き飛ばされた個体の損傷を見たのだろう。残りの機械生物たちは、じりじりと距離を取り始める。やがて一体が背を向け、茂みへ消えた。
それを合図に、他の個体も撤退していく。
金属音が遠ざかる。
森に、夕暮れの静けさが戻った。
マキナはその場に立っていた。
右手が震えている。 手のひらに火傷はない。傷もない。 だが、腕の骨の奥が軋むように痛かった。
胸の中心が熱い。
そこに何かがいる。
その事実だけは、もう疑えなかった。
「現象操作……」
マキナは、さっき聞こえた言葉を繰り返した。
現象操作。 それは、リムの民が使える力ではない。シルヴァン・リムは、森と共に生きる部族だ。ナノマシンを受け継いではいても、空間や物理現象へ直接干渉する手段など持たない。
そんなものは、旧文明の装置か、ルーメンの領域だ。
マキナは右手を見つめる。
白い光はもうない。
けれど、感覚だけが残っている。 波を束ねた感覚。 世界の表面に触れ、その裏側の揺れを掴んだ感覚。
恐ろしい。
そう思った。
同時に、どうしようもなく胸が高鳴った。
外の世界。 伝承。 白銀の観測者。 カイ=ヴォルト。
それらが遠い物語ではなく、自分の身体の中へ入ってきた。
マキナは笑いそうになり、すぐに顔をしかめた。
「笑ってる場合じゃない」
帰らなければならない。
今すぐ。
◇
集落に戻った時、空は完全に暗くなっていた。
見張りがマキナを見つけるなり叫び、数人の大人が駆け寄ってきた。 次にリオウが来た。
怒鳴られると思った。
だが、リオウは何も言わず、まずマキナの肩を掴み、全身を確認した。顔、腕、胸、腹、脚。生きているか。怪我はないか。血は出ていないか。
その確認が終わってから、拳が飛んできた。
頬ではない。頭だ。 痛い。
「馬鹿野郎!」
リオウの声が集落に響いた。
「悪かった」
マキナは素直に言った。
その素直さがかえって不気味だったのか、リオウは眉をひそめた。
「何があった」
「説明する」
「今すぐだ」
「でも、その前にユラとイサラを――」
「もう呼ばれてる」
見れば、ユラがこちらへ歩いてきていた。その後ろにイサラもいる。二人とも、表情は静かだった。静かすぎて怖い。
マキナは集会所へ連れて行かれた。
火が焚かれ、人が集まる。 マキナは中央に座らされた。まるで罪人だ、と少し思ったが、実際かなり悪いことをした自覚はあったので黙っていた。
ユラが言う。
「話せ」
マキナは話した。
夜明け前に集落を出たこと。 昨日の足跡の場所へ行ったこと。 地面の振動を感じたこと。 ヴェイルの遺跡へ向かったこと。 白い光を見つけたこと。 内部で白銀のルーメンと出会ったこと。
その言葉で、場がざわめいた。
リオウが息を呑む。
イサラだけが、目を細めて静かに聞いていた。
マキナは続けた。
セレスティアとカイの名に、ルーメンが反応したこと。 動けなくなったこと。 額に触れられ、映像のようなものを見たこと。 ルーメンが自分の身体の一部を切り離し、その断片が胸に入ったこと。 目覚めたら遺跡の石台の上にいたこと。
そこで、リオウが耐えきれず口を挟んだ。
「胸に入った?」
「うん」
「傷は」
「ない」
「痛みは」
「その時はあった。今は……違和感はある」
ユラの視線が鋭くなる。
「違和感とは」
「何かがいる感じがする」
集会所が静まり返った。
マキナは続けるしかなかった。
帰り道で機械生物に襲われたこと。 数が多く、追い詰められたこと。 頭の中で声がしたこと。
現象操作。
可能。
その言葉を聞いたこと。
「そして、手から光が出た」
誰も喋らなかった。
「機械生物を吹き飛ばした。岩に叩きつけて、活動停止させた。たぶん、普通の光じゃない。衝撃があった。熱もあったかもしれない。でも、俺には詳しく分からない」
言い終えると、沈黙が落ちた。
焚き火の音だけがする。
やがてユラが立ち上がった。
「右手を出せ」
マキナは従った。
ユラは彼の手首を掴み、脈を取る。次に腕、肩、胸元へ触れる。医者ではないが、狩り長として身体の異常を見る目は確かだった。
続いてイサラが近づいた。
彼女はマキナの胸に手をかざした。触れはしない。だが、その手の下で、マキナの胸の奥がわずかに反応した気がした。
イサラの表情が変わる。
ほんの少しだけ。
「歌が乱れています」
彼女は言った。
「リムの歌ではありません。けれど、完全に外のものでもない。あなたの内側に、別の旋律が混ざっている」
「それは……危険ですか」
マキナは聞いた。
イサラはすぐには答えなかった。
「分かりません」
その言葉は、どんな警告よりも重かった。
ユラが言う。
「明日から、お前は単独行動禁止だ」
「分かってる」
「ヴェイルへの接近も禁止」
「……分かってる」
「現象操作とやらも使うな」
「使い方が分からない」
「なら覚えるな」
ユラの声は冷たかった。
マキナは反射的に反論しそうになった。 だが、できなかった。
ユラが恐れているのは、力そのものだけではない。マキナがそれに惹かれることを恐れているのだ。
そして、それは正しかった。
マキナ自身、あの感覚を忘れられない。
波を束ねる感覚。 世界の裏側に指をかけた感覚。 恐ろしいほど危険で、恐ろしいほど美しかった。
「マキナ」
リオウが言った。
怒りはまだある。だが、それ以上に疲れた声だった。
「頼むから、しばらく大人しくしてろ」
「……努力する」
「努力じゃなくて決定しろって、何回言わせるんだ」
マキナは何も言えなかった。
◇
それから数日、マキナは集落からほとんど出されなかった。
怪我はない。 熱もない。 食欲もある。
だが、胸の違和感は消えなかった。
むしろ、時間が経つほどはっきりしてきた。
声が常に聞こえるわけではない。 何かを命じてくるわけでもない。 ただ、時折、思考の端に白い粒のようなものが浮かぶ。
危険。 静止。 観測。 非推奨。 待機。
単語だけ。
人格と呼べるほどではない。 だが、何もないとは言えない。
マキナはそれを誰にも言わなかった。
言えば、さらに監視が厳しくなる。 それに、まだ自分でも理解できていない。
理解できていないものを、他人に説明するのは難しい。 そして理解できていないものほど、マキナは自分で確かめたくなる。
もちろん、ヴェイルには近づけなかった。
リオウが目を光らせていたし、ユラは狩り組の巡回経路まで変えた。マキナが外縁へ向かおうものなら、すぐに誰かが気づく。
イサラは、マキナに古い歌を聞かせた。
リムの民が体内に宿すナノマシンの働きを整えるための歌だ。意味のある歌詞ではなく、音の連なりに近い。マキナは昔からその歌が少し苦手だった。眠くなるからだ。
だが今回は、違った。
歌を聞くと、胸の奥の白い違和感がわずかに落ち着く。
イサラはそれに気づいていた。
「あなたの中に入ったものは、あなたを壊すだけのものではないようですね」
「じゃあ、安全ですか」
「安全と断言できるものは、だいたい危険です」
「それ、答えになってますか」
「なっています」
イサラは微笑んだ。
マキナは不満だったが、彼女の前ではあまり強く言えなかった。
「イサラは、あれが何か知ってるんですか」
「知りません」
「白銀のルーメンなのに?」
「白銀にも、さまざまな白があります。雪の白、骨の白、月の白、灰の白。同じに見えても、意味は違う」
「詩じゃなくて、情報がほしい」
「詩は情報ですよ。圧縮形式が違うだけです」
マキナは眉をひそめた。
「それ、俺の言い方を真似してます?」
「少し」
イサラは楽しそうだった。
けれど、次の言葉は静かだった。
「マキナ。あなたはこれから、その力を知りたがるでしょう」
「……はい」
「止めても、知りたがる」
「たぶん」
「なら、ひとつだけ覚えておきなさい」
イサラはマキナの胸元に視線を落とした。
「力は、あなたの願いを大きくします。けれど、願いの向きを正してはくれません」
マキナは、その意味をすぐには飲み込めなかった。
だが、言葉だけは残った。
◇
最初の現象操作から一年が過ぎた。
その一年で、マキナは多くのことを隠し、多くのことを学んだ。
隠したのは、声が以前より少しだけ明瞭になっていること。
学んだのは、その声が必ずしも命令ではないということ。
胸の奥の存在は、マキナの危機に反応した。 機械生物の接近。崖崩れの予兆。毒性植物の胞子。時には、リオウが背後から訓練用の矢を放とうとしていることまで知らせた。
ただし、万能ではない。
言葉は断片的で、判断は偏っている。生命維持と危険回避を最優先し、感情的な事情は考慮しない。たとえば、幼い子どもが木から落ちそうになった時、声はこう告げた。
――介入、非推奨。負荷増大。
マキナは無視して飛び出し、子どもを受け止めた。肩を痛めたが、後悔はしなかった。
その夜、胸の奥で妙な反応があった。
――非推奨行動。結果、生存個体増加。
まるで、理解できない結果を記録しているようだった。
マキナはそれを面白いと思った。
怖さは消えなかった。 けれど、それだけではなくなっていた。
現象操作も、少しだけ扱えるようになった。
もちろん、ユラには禁じられていた。リオウにも釘を刺されていた。だからマキナは、集落から離れた安全な岩場で、誰にも見つからないように試した。
最初にできたのは、あの射出だけだった。
波を集める。 束ねる。 向きを与える。 放つ。
だが、一発撃つだけで全身の力が抜ける。二発目はほとんど形にならない。無理に撃とうとすると胸の奥が冷たくなり、視界が暗くなる。
声はそれを、ソウル不足と表現した。
――ソウル残量、低下。行使不可。
ソウル。
ルーメンが活動するためのエネルギー。 通常は空間から少しずつ補充される。急激には増やせない。体内にどれだけ蓄えられるかが、出力と持続時間を決める。
マキナは、その説明を誰から聞いたわけでもない。
胸の奥の存在が、断片的に教えた。
より正確には、マキナの頭の中に概念を置いた。
彼はそれを理解した。
理解してしまった。
自分が普通ではないことも。 この力が、リムの外へ続いていることも。
一年が過ぎる頃、マキナは決めていた。
外へ行く。
カイ=ヴォルトを探す。 セレスティアを知る。 自分の中の白銀が何なのかを確かめる。 そして、「失われた姉妹」の意味を知る。
その言葉は、白銀のルーメンと出会う前から伝承の中にあった。
イサラが一度だけ語った古い断片。
白銀の観測者には、記録されなかった同系がいた。 生まれなかったもの。 失われたもの。 姉妹と呼ばれたもの。
当時のマキナは、それをただの物語だと思っていた。
だが今は違う。
セレスティアの名に反応した白銀のルーメン。 自分の中に入った断片。 胸の奥で響く声。
それらが、一本の線でつながり始めている。
もちろん、線を引いているのは自分の期待かもしれない。 偶然を意味に変換しているだけかもしれない。
だから確かめる。
それが、マキナの結論だった。
◇
旅立ちの朝、空はよく晴れていた。
シルヴァン・リムの森にしては珍しく、霧が薄い。木々の間から差し込む光が、地面の苔を明るく照らしていた。
マキナは小屋の前で荷物を背負った。
乾燥食。水袋。骨刃。短弓。矢。古い金属片。イサラから渡された薬草。リオウが無言で置いていった予備の弦。
そして、胸の奥の白銀。
見送りに来たのは、リオウとイサラだった。
ユラは来ないと思っていた。 だが、出発の直前に森の奥から姿を現した。
狩り長は、いつものように無表情だった。
「行くのか」
「はい」
「止めても行くな」
「はい」
「なら、止めん」
マキナは少し驚いた。
「いいんですか」
「よくはない」
ユラは即答した。
「だが、ここに縛っておけば安全というものでもない。お前の中のものは、いずれ外と響き合う」
その言葉に、マキナは胸を押さえた。
「ユラは、知ってたんですか」
「見れば分かる。お前は一年で変わった。隠しているつもりでも、歩き方が違う」
「歩き方?」
「危険を探す歩き方から、道を探す歩き方になった」
マキナは返す言葉を失った。
ユラは腰の後ろから、一本の短い刃を取り出した。 リムの狩人が使う骨刃ではない。柄に古い金属が組み込まれた、頑丈な刃だった。
「持っていけ」
「これは?」
「昔、南から来た者が置いていった。フォージ製だ」
マキナの目が輝いた。
「テラ・フォージの?」
「憧れるのは勝手だ。だが、南はお前の夢の形をしているとは限らない」
「分かってます」
「分かっていないから言っている」
厳しい言葉だった。 だが、刃を渡す手は確かだった。
マキナはそれを受け取る。
「ありがとうございます」
リオウが近づいてきた。
「戻ってこいよ」
「もちろん」
「“もちろん”って言うやつほど危ない」
「じゃあ、確率は高い」
「もっと悪い」
リオウはため息をつき、それからマキナの肩を強く叩いた。
「死ぬな」
「死なない」
「危ないものに触るな」
「努力する」
「決定しろ」
マキナは少し笑った。
「危ないものには、なるべく触らない」
「駄目だな」
「俺もそう思う」
二人はしばらく黙っていた。
リオウは怒っていた。心配していた。呆れていた。 それでも、止めなかった。
マキナはそのことを、たぶん長く忘れないと思った。
最後に、イサラが前へ出た。
「マキナ」
「はい」
「外の世界では、あなたの中の声が正しいこともあるでしょう。あなた自身の判断が間違うこともあるでしょう」
「はい」
「でも、逆もあります」
イサラは穏やかに言った。
「声が間違い、あなたが正しいこともある。忘れないように」
胸の奥で、かすかな反応があった。
――記録。
マキナは小さく笑いそうになった。
「今、記録したみたいです」
イサラは少し目を丸くし、それから微笑んだ。
「なら、その子にも伝えておきなさい。世界は、記録するだけでは分からないと」
その子。
マキナは胸に手を当てた。
まだ名前はない。 まだ存在と呼べるのかも分からない。
けれど、確かにそこにいる。
「行ってきます」
マキナは言った。
リオウが頷く。 イサラが祈りの仕草をする。 ユラは無言で道を開ける。
マキナは南へ歩き出す。
何が待っているのかは分からない。 伝承がどこまで本当なのかも、自分の胸に宿った白銀が何なのかも、まだ何ひとつ分かっていない。
けれど、分からないからこそ、確かめに行ける。
森の匂いが背中へ遠ざかる。 湿った樹皮、焚き火の灰、苔の冷たさ、朝霧の薄い甘さ。 生まれてからずっと自分を包んでいたものが、少しずつ遠くなる。
寂しさはあった。
だが、それ以上に胸が高鳴っていた。
胸の奥で、かすかな声が響く。
――進行方向、南。未知要素、多数。
「知ってる」
マキナは答えた。
――危険、増大。
「それも知ってる」
――行動継続、理由不明。
マキナは少し笑った。
「理由ならある」
森の出口が見えた。 その向こうに、まだ見たことのない光が広がっている。
「見たいんだ」
胸の奥の白銀は、それ以上何も言わなかった。
ただ、ほんのわずかに、鼓動のようなものが重なった気がした。
少年は森を出る。
白銀の断片を胸に宿したまま。
保留された世界の、その先へ。