第2章 境界都市アッシュバルト

森を出て三日目、マキナは初めて、空が広すぎると思った。

シルヴァン・リムの空は、いつも枝葉に切り取られていた。見上げれば、まず木がある。蔓があり、葉があり、鳥の影がある。その隙間に青や灰色がのぞく。空とは、森の向こうにあるものではなく、森の一部だった。

けれど南へ向かう道では違った。

空がそのまま落ちてくる。

雲は遠く、風は横から吹きつけ、地平線はどこまでも続いている。木々はまばらになり、代わりに赤茶けた土と、黒ずんだ岩と、旧時代の道路らしき平らな帯が現れた。

マキナは何度も足を止めた。

遠くに見える鉄塔の残骸。 斜めに傾いた送電柱。 半分砂に埋まった円形の機械。 そのどれもが、森にはなかった。

「……すごいな」

誰にともなく呟く。

胸の奥で、かすかな声が応じた。

――構造物劣化率、高。接近非推奨。

「感想がそれか」

――落下危険。金属疲労。腐食進行。

「分かった。近づかない」

そう言いながら、マキナは少しだけ近づいた。

胸の奥が、警告のように熱を持つ。

――接近非推奨。

「近くで見るだけだ」

――先ほども同一発言。

「今回は本当に見るだけだ」

壊れた鉄塔の根元には、見たことのない文字が刻まれていた。テラ・フォージのものだろうか。それとも、もっと古い文明のものだろうか。指でなぞると、錆がぱらぱらと落ちる。

読めない。

けれど、読めないものがそこにあるというだけで、胸が高鳴った。

マキナは小袋から、古い金属片を取り出した。刻まれた文字と、鉄塔の文字を見比べる。似ているようで、少し違う。

「同じ系統か?」

――照合不能。情報不足。

「お前にも分からないことがあるんだな」

――多数。

声は淡々としていた。

その淡々さが、最近少し面白く感じるようになっていた。

マキナの中にいるものは、まだ名前もない。性別も、意思の形も、はっきりしない。ほとんどは警告と記録と推奨だけでできている。

けれど、完全な機械ではない気がする。

時々、言葉の選び方が微妙にずれる。

時々、何かを知りたがるような沈黙がある。

それが本当に意思なのか、マキナが勝手にそう感じているだけなのかは分からない。

だから、確かめる必要がある。

そのために南へ向かっている。

テラ・フォージ。

南方の機械都市圏。

カイ=ヴォルトの故郷であり、ミラという整備士がいた場所であり、今の自分の身体に起きている異常を説明できるかもしれない場所。

森を出る前、イサラは言った。

外の世界は、あなたの問いに答えるかもしれません。 けれど、答えをくれるとは限りません。 問いを増やすだけかもしれません。

マキナは、その時こう思った。

問いが増えるなら、それはそれでいい。

けれど旅が十日を過ぎ、二十日を過ぎる頃には、その考えは少しだけ甘かったのかもしれないと思い始めていた。

森の外は、広い。

広いということは、自由だということだと思っていた。 どこへでも行ける。 何でも見られる。 誰にも止められない。

だが実際には、広い世界は、迷う場所だった。

水場が遠い。 食べられる草が少ない。 夜は思っていたより寒い。 遠くに見える光が、近づくとただの反射だったりする。 地図にあるはずの旧道が崩れていたり、逆に地図にない道を人々が歩いていたりする。

足の裏は何度も裂けた。

肩の荷紐は皮膚に食い込んだ。

夜中、遠くで機械生物の駆動音を聞いて、焚き火を消したこともある。 白い胞子を撒く植物を避けるために、半日かけて谷を迂回したこともある。 誰もいないはずの廃道で、錆びた標識だけが風に鳴っているのを見たこともある。

それでも、南へ進むたびに、マキナの胸は軽くなった。

知らないものが増えていく。 分からないことが増えていく。

それが、嬉しかった。

胸の奥の声は、その気持ちを理解していないようだった。

――疲労蓄積。休息推奨。

「まだ歩ける」

――足底損傷、再発。荷重分散、必要。

「リムのナノマシンが治す」

――修復は無限ではない。

「分かってる」

――理解と行動、不一致。

「そこまで言うか」

森を出て二十七日目の昼、マキナは南方交易路の小さな中継地に着いた。

そこには、森ではありえない数の人間がいた。

荷車を引く商人。 義肢をつけた労働者。 顔を布で覆った旅人。 防護服のようなものを着た調査員。 外骨格を背負った傭兵。 荷台に座って眠る子ども。 何かの部品を売っている老人。 鳥ではなく小型の浮遊機を肩に乗せた女。

言葉も、服も、匂いも違う。

油の匂い。 焼いた肉の匂い。 汗の匂い。 金属粉の匂い。 薬品の匂い。 知らない香辛料の匂い。

マキナは中継地の入口で立ち止まった。

「……すごい」

――人口密度、リム集落比二十七倍以上。

「そういうすごさじゃない」

――定義不明。

「見れば分かるだろ」

――視覚情報処理中。雑多。

「雑多って言うな。たぶん、それがいいんだ」

荷車の横を、機械義足の少年が走っていく。 隣では、太った商人が義手の指を器用に動かして硬貨を数えている。 その奥で、傭兵らしい男が巨大な銃のようなものを分解していた。 さらに奥では、小さな屋台から白い蒸気が上がっている。

森の伝承で聞いた南方は、鉄と炎と巨大な炉の世界だった。

だが、目の前にある南方の端は、もっと混ざっていた。

油と笑い声。 鉄屑と香辛料。 怒鳴り声と値切り。 煙と歌。

マキナは歩き出した。

胸の奥の声が言う。

――警戒推奨。視線多数。

「分かってる」

実際、マキナは目立っていた。

北方の民特有の衣服。骨刃。短弓。森の匂い。旅慣れていない歩き方。 そして何より、年齢。

十六歳の少年が一人で南方交易路を歩いている。目を引かない方がおかしい。

屋台の女が声をかけてきた。

「北の子かい。腹減ってない?」

「減ってる」

「正直でいいね。鉄麦粥、二枚だ」

「二枚?」

「銅片二枚」

マキナは小袋を探った。リムの集落から持たされた南方用の小さな貨幣がある。だが、どれが銅片二枚に相当するのか少し迷った。

女はそれを見て、笑った。

「貸してみな」

「騙さないか?」

「騙すなら、もっと金持ってそうな相手を選ぶよ」

「合理的だ」

「変な褒め方だね」

女はマキナの手の中から小さな銅貨を二つ取り、代わりに湯気の立つ器を渡した。

鉄麦粥は、見た目は灰色だった。 正直、あまり美味そうではない。

だが一口食べると、強い塩気と油の甘さが口に広がった。森の食事とはまるで違う。粗い。重い。熱い。

「うまい」

「そりゃよかった」

「これは何が入ってる?」

「聞かない方がうまいよ」

「それは不安だ」

――摂取物分析不能。注意。

「もう食べてる」

――事後警告。

「遅いな」

女はマキナの独り言を聞いて、眉を上げた。

「誰と話してるんだい?」

マキナは器を持ったまま固まった。

「……自分と」

「若いのに大変だね」

「たぶん、そういう意味じゃない」

女は笑った。

「どこへ行くのさ」

「テラ・フォージ」

その名を出した瞬間、女の表情が少し変わった。

「内部都市へ?」

「できれば」

「悪いことは言わないよ。いきなり内部へは入れない。身元、技能、保証人、許可証。どれかが足りなきゃ門で止められる」

「じゃあ、どうすればいい?」

女は中継地の南を指差した。

「あんたみたいなのがまず行くなら、アッシュバルトだね」

「アッシュバルト」

「境界都市。フォージ圏内に入りたい連中の溜まり場さ。移民、傭兵、労働者、技師崩れ、犯罪者まがい、夢見がちな馬鹿。だいたい全部いる」

「夢見がちな馬鹿も?」

「多いよ」

「俺もそこに分類されそうだ」

「自覚があるなら、少しは長生きする」

マキナは粥を食べながら、女の言葉を反芻した。

境界都市アッシュバルト。

名前だけで、胸が少し高鳴る。

境界。

森と外。 外縁と内部。 夢と現実。 人間と機械。 自分と、胸の中の白銀。

その全部が重なる場所のような気がした。

「アッシュバルトへ行けば、テラ・フォージ内部に入れるのか?」

「簡単じゃないけど、道はある。労働許可を取る。技師試験を受ける。隊商護衛で信用を積む。あとは傭兵候補査定戦で上に行くか」

「査定戦?」

女は器を洗いながら答えた。

「戦える奴を等級分けするんだよ。フォージ内部の企業や工房や警備隊が、使えそうな人材を拾う。腕に覚えがある連中はみんな受ける」

「勝てば内部に入れる?」

「勝てば、可能性は上がる。負ければ、怪我する。下手すりゃ死ぬ」

「死ぬのか」

「一応、殺しは禁止だよ。一応ね」

マキナは少し考えた。

戦いは得意ではない。 少なくとも、リムの狩人としてなら半人前だ。

けれど、現象操作がある。

胸の奥が微かに反応する。

――戦闘参加、非推奨。能力露見危険。

「でも、手がかりは要る」

――代替案検索。情報不足。

「なら、行ってみるしかない」

屋台の女が目を細める。

「あんた、本当に一人で来たんだね」

「そう見えるか?」

「そう見える。連れがいる奴は、もっと迷い方が違う」

「迷ってるように見える?」

「見えるよ。だけど、迷ってるわりには目が楽しそうだ」

マキナは少し笑った。

「楽しいからな」

「なら気をつけな。楽しい場所ほど、人を食う」

その言葉は、冗談のようで冗談ではなかった。

マキナは器を返し、礼を言って中継地を出た。

南へ。

アッシュバルトへ。

空は赤くなり始めていた。

       ◇

アッシュバルトが見えたのは、中継地を出てさらに六日後の夕方だった。

最初に見えたのは、壁だった。

森の集落には壁がなかった。 木々と谷と霧が、自然の境界だったからだ。

だがアッシュバルトには壁があった。

赤黒い金属板を何層にも重ね、ところどころに石材や旧時代の構造物を継ぎ接ぎした巨大な外壁。高さは不揃いで、まっすぐではない。修理に修理を重ねた結果、都市そのものが錆びた獣の甲羅のようになっている。

外壁の上には監視塔があり、銃座らしきものが突き出していた。 門の前には人と荷車の列。 煙突からは黒い煙。 街の奥では、金属を打つ音が絶え間なく響いている。

鉄と、油と、熱。

マキナは立ち止まった。

一ヶ月近く歩いてきた足が、そこでようやく重さを思い出したように痛んだ。 靴底は削れ、荷袋の紐は何度も結び直してある。肩には赤黒い擦れ跡が残り、外套の裾には乾いた泥と灰がこびりついていた。

それでも、視線は外壁から離れなかった。

「……これが、南方」

――大気中金属粒子濃度、高。呼吸器負荷、上昇。

「少しは感動しろ」

――感動、定義未確定。

「だろうな」

けれど、マキナ自身も、自分が想像していたほど単純に感動していないことに気づいていた。

すごい。

それは間違いない。

だが同時に、重かった。

アッシュバルトは、遠くから見ても圧力があった。人の願いや怒りや諦めや欲望を、全部鉄板で囲って蒸し焼きにしているような街だった。

門へ近づくと、列の中から怒鳴り声が聞こえた。

「だから許可証は昨日出したって言ってるだろ!」

「記録にない。次」

「ふざけるな! こっちは三日待って――」

「次」

門番は外骨格のような装備を着ていた。腕だけが異様に大きく、背中には小型の圧力炉がついている。顔は煤で汚れ、目だけが冷たい。

列に並ぶ者たちは、皆それぞれ何かを抱えていた。

荷物。 道具。 武器。 子ども。 怪我人。 希望。 苛立ち。

マキナの番が来た。

門番が彼を上から下まで見た。

「名前」

「マキナ」

「姓は」

「ない」

「出身」

「シルヴァン・リム」

門番の眉がわずかに動いた。

「北の森か」

「そうです」

「目的」

「テラ・フォージ内部へ行きたい」

門番は一瞬だけ黙り、それから鼻で笑った。

「ここへ来る連中の半分はそう言う」

「残り半分は?」

「逃げてきた連中だ」

「なるほど」

「納得するな」

門番は手元の板状端末を操作した。古いが頑丈そうな機械だ。画面には文字と記号が流れている。

「保証人は」

「いない」

「許可証は」

「ない」

「技能証明は」

「ない」

「金は」

「少し」

「武器は」

「短弓と刃」

「傭兵経験は」

「ない」

門番は端末から目を離し、マキナを見た。

「帰れ」

「まだ全部聞いてない」

「聞く必要がない。内部都市へ行きたいなら、最低限の身元か技能か金を持ってこい。ここは観光門じゃない」

マキナは門の奥を見た。

壁の内側には、狭い通りと、蒸気と、人影が見える。

「アッシュバルトに入るだけでも駄目なのか?」

「入るだけなら、一時滞在票を買え。三日分。宿なし。問題を起こせば外へ放り出す」

「三日で何ができる?」

「大抵の奴は、何もできずに出ていく」

「できる奴は?」

門番は少しだけ口角を上げた。

「査定戦の登録所へ行く」

マキナの胸が小さく反応した。

「傭兵候補査定戦」

「知ってるのか」

「少し聞いた」

「なら話が早い。戦えるなら登録しろ。勝てば滞在資格が延びる。等級が上がれば、仕事も紹介される。運が良ければ、内部へ入る推薦もつく」

「運が悪ければ?」

「医療費で身ぐるみ剥がされるか、壁の外だ」

門番は端末を叩いた。

「どうする」

マキナは考えた。

選択肢は少ない。 森へ戻るつもりはない。 内部都市への正式な道は、今は閉じている。 情報を得るには、街に入る必要がある。 街に残るには、身分が要る。

査定戦。

危険なのは分かっている。

胸の奥から、声がする。

――戦闘参加、非推奨。未知環境。能力露見危険。身体負荷、不明。

「分かってる」

門番が眉をひそめた。

「何がだ」

「こっちの話です」

マキナは顔を上げた。

「一時滞在票を買う。査定戦にも登録する」

門番は少しだけ興味を持ったようだった。

「北の森の子どもが?」

「十六だ」

「子どもだ」

「リムでは、十五で森に入る」

「ここでは、死ぬ奴は何歳でも死ぬ」

「覚えておく」

門番は銅色の薄い札を一枚投げた。マキナは慌てて受け取る。

「三日票だ。なくすな。登録所は大通りを進んで右、煙突が三本ある建物の地下。怪しい勧誘にはついていくな。喧嘩は買うな。盗まれたものは戻らない。飯は先に値段を聞け。寝る場所は扉が閉まるところにしろ」

マキナは目を瞬かせた。

「親切ですね」

門番は顔をしかめた。

「北の奴は皮肉も分からないのか」

「いや、今のは親切だと思う」

「早く行け。次」

マキナは札を握り、門をくぐった。

その瞬間、音が押し寄せてきた。

鉄を打つ音。 蒸気の噴き出す音。 車輪の軋む音。 怒鳴り声。 笑い声。 売り声。 泣き声。 何かが爆ぜる音。 遠くで鳴る警鐘のような低い鐘。

森の音とは違う。

森の音は、耳を澄ませば層になっていた。風、葉、鳥、虫、水、獣。 アッシュバルトの音は、すべてがぶつかっていた。音が音を押しのけ、隙間を奪い合っている。

マキナは思わず笑った。

「すごい」

――騒音値、危険域未満。ただし長時間曝露、疲労増大。

「お前の言い方にも慣れてきた」

――適応確認。

「褒めてない」

通りは狭かった。両側に鉄板と木材を継ぎ接ぎした建物が並び、上空には管や橋や布が複雑に渡されている。足元には排水溝があり、そこを黒い水が流れていた。

人々は早足だった。

誰もが目的地へ向かっているように見える。 あるいは、立ち止まると押し流されるから歩いているのかもしれない。

マキナは何度か肩をぶつけられ、そのたびに謝ろうとしたが、相手はすでに遠くへ行っていた。

「速いな、みんな」

「田舎者、道の真ん中で止まるな!」

背後から怒鳴られ、マキナは横へ避けた。

荷車が通り過ぎる。車輪には小型の駆動機がついており、引いている男はほとんど力を入れていない。

マキナはそれを目で追った。

「今の仕組みは?」

――小型補助駆動。圧力式。出力低。

「出力低くても便利そうだ」

――構造単純。再現可能性あり。

「本当か?」

――部品不足。

「だよな」

胸の声と話していると、少し落ち着いた。

この街は情報が多すぎる。

右を見れば義手。左を見れば煙突。上を見れば橋。下を見れば排水溝。前を見れば喧嘩。後ろを見れば物売り。

見たいものが多すぎて、視線が追いつかない。

だが、同時に気づく。

誰もマキナを特別には見ていない。

門の外では北方出身というだけで目立った。だが街の中には、もっと奇妙な人間がいくらでもいた。

全身を機械外殻で覆った男。 左半身が義肢の女。 目に透明な板を埋め込んだ老人。 背中に小型炉を背負った少女。 異国の文様を肌に刻んだ傭兵。 人間なのか機械なのか判断しづらい者。

その中に入ると、白銀の断片を胸に宿した自分でさえ、雑踏の一部に紛れる。

そのことが、マキナには少し嬉しかった。

「ここなら、何か分かるかもしれない」

――危険要素多数。

「それも含めて」

――肯定不能。

「別に肯定しなくていい」

大通りを進むと、門番の言った通り、三本の煙突が立つ建物が見えた。

周囲の建物より低いが、横に広い。入口には鉄製の看板があり、そこに大きく文字が刻まれている。

マキナは読めなかった。

近くにいた男に尋ねる。

「あの看板、何て書いてある?」

男はマキナをちらりと見て、面倒くさそうに答えた。

「傭兵候補査定登録所。読めないなら帰れ」

「ありがとう」

「礼を言うな。調子狂う」

男は去っていった。

アッシュバルトの人間は、口は悪いが情報はくれる。

マキナはそう記録した。

――観測対象、言語攻撃性高。実害低。

「それ、たぶん合ってる」

登録所の入口は地下へ続いていた。

階段を降りると、空気が変わる。上の通りよりも熱く、汗と油と血の匂いが濃い。壁には鉄板が貼られ、ところどころに古い傷がある。殴った跡。刃物の跡。弾痕のような穴。

地下は広い空間になっていた。

中央には受付。 奥には掲示板。 右手には待機所。 左手には小さな診療室。 さらに奥には、訓練場へ続くらしい大きな扉がある。

人が多かった。

若い者もいれば、年を食った者もいる。体格のいい男。痩せた女。片目の傭兵。義肢持ち。外骨格持ち。武器を磨く者。壁にもたれて眠る者。誰かと賭けをしている者。

そして、全員が何かしら荒い。

森の狩人たちとは違う荒さだ。

狩人は静かに危険を抱えている。 ここにいる者たちは、危険を見せることで自分の場所を確保している。

マキナが入ると、数人がこちらを見た。

すぐに興味を失う者。 値踏みする者。 笑う者。

「おい、迷子か?」

誰かが言った。

周囲に小さな笑いが起きる。

マキナは声の方を見た。鉄製の肩当てをつけた大柄な男が、椅子に足を乗せてこちらを見ている。

「登録所を探してる」

「ここは託児所じゃねえぞ」

「それは見れば分かる」

男の目が細くなった。

笑いが少し止む。

マキナは自分の返答が挑発に聞こえた可能性に気づいた。

まずい。

門番は喧嘩を買うなと言っていた。

男が立ち上がる。

「北の小僧。口の利き方を――」

「ガルド、また新人いびりか」

受付の方から、女の声が飛んだ。

低く、乾いていて、よく通る声だった。

大柄な男――ガルドが舌打ちする。

「ただの挨拶だ」

「お前の挨拶で先月二人折れた」

「柔い方が悪い」

「登録前に壊すな。金にならない」

女は受付の奥から出てきた。

年齢は三十前後だろうか。短い灰色の髪。右目の下に小さな傷。白衣のようなものを着ているが、袖はまくり上げられ、腰には工具と医療器具が混ざった道具袋を下げている。

医者なのか、整備士なのか、どちらにも見える。

女はマキナを見た。

「登録希望?」

「はい」

「名前」

「マキナ」

「姓は」

「ありません」

「出身」

「シルヴァン・リム」

周囲が少しざわついた。

女もわずかに眉を上げた。

「北の森から一人で?」

「はい」

「親は?」

「集落です」

「逃げてきた?」

「旅に出ました」

「同じようなものね」

「違います」

「本人がそう思うなら、今はそういうことにしておく」

女は受付へ戻り、古い端末を引き寄せた。

「私はノルン=ハザ。ここの登録医兼、装備検査官兼、面倒事の後始末係」

「多いですね」

「人手が足りないのよ」

ノルンは端末に入力しながら続ける。

「傭兵候補査定戦に登録するなら、まず身体検査、武器確認、戦闘方式の申告。虚偽申告で死人が出た場合、本人責任。相手を故意に殺した場合、資格剥奪の上で拘束。治療費は自腹。欠損部位の義肢化は別料金。支払い不能なら労役。質問は?」

「多い」

「質問が多いの?」

「いや、情報が多い」

「慣れなさい」

ノルンはマキナの装備を見た。

「短弓、骨刃、南方製の短剣。軽装。外骨格なし。銃器なし。義肢なし。補助炉なし」

「はい」

「戦闘経験は?」

「森での狩りと、機械生物との交戦が少し」

「対人戦は?」

「訓練程度」

「能力は?」

マキナは一瞬、黙った。

胸の奥で声が鳴る。

――申告注意。能力露見危険。

ノルンの目が細くなった。

「今、迷ったね」

「……珍しい体質があります」

「具体的に」

「リムのナノマシン継承による回復力」

「それは珍しいけど、北方ならあり得る。ほかには?」

マキナは言葉を探した。

現象操作。

そう言えばどうなる。 ルーメン断片。 そう言えばもっと悪い。

だが、完全に隠せるのか。

査定戦で使わなければいい。 そう考えた瞬間、胸の奥が反応した。

――危険状況下、不使用保証不能。

それは正しい。

マキナは嘘が得意ではない。 正確には、嘘をつくと後で整合性を保つのが面倒になるので嫌いだった。

「波に干渉できます」

ノルンの手が止まった。

「波?」

「音とか、振動とか。たぶん熱も少し。まだ詳しくは分かりません」

「現象系?」

周囲の数人がこちらを見た。

マキナはその反応で、自分がかなり危険な言葉を出したことを悟った。

ノルンは声を少し低くした。

「外部装置は?」

「ありません」

「義肢でも、炉でも、演算具でもなく?」

「はい」

「生身で?」

「……はい」

地下の空気が、ほんの少し変わった。

ガルドが椅子の上で笑う。

「はっ。北の小僧が現象使いだとよ」

別の男が言う。

「嘘だろ。客寄せか?」

「それとも頭の病気か」

笑いが起きる。

ノルンは笑わなかった。

「実演できる?」

「ここで?」

「小さく。壁に穴を開けない程度に」

マキナは右手を見た。

撃つことはできる。 ただし、威力を抑えるのはまだ難しい。

「弱くなら」

――行使非推奨。注目増加。

「必要だ」

――ソウル消費、軽微設定推奨。

「分かってる」

ノルンが眉を寄せる。

「誰と話してるの?」

「自分と」

「そういう答え、ここでは長生きしないわよ」

「覚えておきます」

マキナは受付横に置かれていた廃材の金属板を指差した。

「あれを使っても?」

ノルンは少し考え、頷いた。

「いい。ただし壊しすぎたら弁償」

「弁償は困る」

マキナは金属板の前に立った。

地下の視線が集まる。

嫌な感覚だった。

森で機械生物に囲まれた時とは違う。あの時は生きるか死ぬかだった。今は、人間たちが値踏みしている。失敗すれば笑われる。成功しても、別の危険が増える。

胸の奥に意識を向ける。

波を探す。

地下空間には音が満ちていた。

蒸気管の振動。 人々の呼吸。 靴底が床を擦る音。 遠くの訓練場から響く打撃音。 ノルンの端末が発する小さな駆動音。

それらを、束ねすぎない。

細く、短く。 手のひらの前だけに。

胸の奥が熱を持つ。

――射出形態、低出力。

マキナは息を吐き、指先を金属板へ向けた。

白い光が、一瞬だけ走った。

音は小さかった。

乾いた破裂音。

金属板の表面に、指二本分ほどの丸い凹みができた。中央は黒く焦げ、周囲がわずかに歪んでいる。

地下が静まり返った。

ガルドの笑いも止まっていた。

マキナは手を下ろす。 腕の奥が少し痺れたが、倒れるほどではない。

ノルンが金属板へ近づき、凹みを指でなぞった。

「熱と衝撃。質量弾じゃない。弾体なし。外部装置反応なし」

彼女は振り返った。

「本当に生身でやったの?」

「たぶん」

「たぶん?」

「俺にも全部は分かってない」

ノルンはしばらくマキナを見ていた。

その目は、門番や傭兵たちのものとは違った。 値踏みではある。だが、商品を見る目ではない。 壊れそうな機械を見つけた時の整備士の目。あるいは、危険な症例を前にした医者の目だった。

「マキナ」

「はい」

「その力、あまり人前で見せない方がいい」

「今、見せろって言いましたよね」

「確認は必要だった。でも、必要以上に見せるべきじゃない」

「なぜ?」

ノルンは端末に何かを入力した。

「この街には、珍しいものを拾って売る連中がいる。珍しい人間も同じよ」

胸の奥が、冷たく反応した。

――警戒対象、増加。

マキナは地下の人々を見た。

数人はもう興味を隠していなかった。 笑いではない。 金になるものを見る目。

ノルンは声を通常の大きさに戻した。

「登録は受理する。初期等級は最低のD未満、仮登録。明日の予備査定に出てもらう」

「D未満?」

「新人以下ってこと」

「細かいですね」

「死なせないためよ。建前上はね」

ノルンは薄い鉄札を渡してきた。そこには番号と、読めない文字が刻まれている。

「これを首から下げて。なくしたら再発行料。今夜は登録者用の雑魚寝部屋を使える。盗難は自己責任。喧嘩はしない。変な誘いには乗らない。特に、外で待ってる親切そうな奴にはついていかない」

「門番にも似たようなことを言われました」

「じゃあ二回聞いたから覚えたわね」

「はい」

ノルンは少しだけ表情を緩めた。

「北の森から来たんでしょ」

「はい」

「この街は、森より分かりやすく危ない。だから逆に油断する。気をつけなさい」

「森より危ないんですか?」

「危なさの種類が違う。森は食べるために襲う。この街は、理由をつけて襲う」

マキナはその言葉を覚えておくことにした。

登録所の奥から、鐘が鳴った。

低く、重い音。

待機所にいた候補者たちが動き出す。

ノルンが言う。

「今日はもう試合はない。今の鐘は最終査定の終了。見ていく?」

「見られるんですか?」

「登録者ならね。上位者の戦いを見ておくといい。明日、自分がどこにいるか分かるから」

マキナは頷いた。

胸が高鳴る。

恐怖ではない。 期待でもない。 その中間。

ノルンに案内され、奥の扉へ向かう。

扉の向こうから、熱気が漏れていた。

観客の声。 金属が軋む音。 何か重いものが床を打つ音。

マキナは鉄札を握った。

胸の奥の声が囁く。

――危険環境。

「知ってる」

――観測価値、高。

マキナは少し笑った。

「だろ?」

重い扉が開く。

その向こうに、円形の闘技場があった。

地下に掘られた巨大な空間。周囲には観覧席。中央には傷だらけの鉄床。天井から吊られた照明が白く光り、熱と煙の中で揺れている。

その中央で、二人の候補者が向かい合っていた。

一人は、全身に薄い演算装甲をまとった少女。 もう一人は、両腕に巨大な外骨格をつけた男。

観客が叫ぶ。

鐘が鳴る。

少女の足元に、青白い演算線が走った。

男の外骨格が唸りを上げる。

次の瞬間、二人が激突した。

衝撃が、観覧席まで震わせた。

マキナは息を呑む。

これが、アッシュバルト。

これが、外の世界。

胸の奥で、白銀の断片が静かに脈打っていた。


-- TODO:修正箇所。つなぎを自然に。

衝撃が、観覧席まで震わせた。

マキナは思わず手すりを掴んだ。

鉄で組まれた観覧席が、低く唸る。足元から響いてくる振動は、森で聞く獣の足音とも、機械生物の駆動音とも違っていた。

もっと人間のものだった。

怒号。 歓声。 賭け金を叫ぶ声。 誰かの名前を呼ぶ声。 負けろと罵る声。 立てと叫ぶ声。

それらが一つになって、地下闘技場全体を揺らしている。

中央の鉄床では、演算装甲をまとった少女と、巨大な外骨格の男がぶつかり合っていた。

少女は小柄だった。マキナと同じくらいか、少し年上に見える。薄い青灰色の装甲が腕と脚、背中を覆っており、その表面を細かな光の線が走っている。顔の半分には透明な演算板がかかり、右目だけが青白く光っていた。

対する男は、彼女の倍ほども大きく見えた。両腕に装着した外骨格が異様に太い。肩から肘、肘から拳まで、鉄の塊をそのまま腕にしたような形だ。背中の圧力炉が赤く燃え、踏み込むたびに床が軋む。

男が拳を振り下ろす。

少女は避けない。

足元に青い演算線が走った。

拳が落ちる直前、彼女の身体が横へ滑った。跳んだのではない。足を動かしたようにも見えない。空間そのものに押し出されたように、半歩分だけ位置がずれた。

拳が鉄床を砕く。

破片が飛び散る。

少女は、その破片を利用した。

手首をひねる。 演算装甲の線が光る。 宙に浮いた鉄片が、一瞬だけ軌道を変えた。

鉄片が男の顔面へ向かって跳ねる。

男は首を振って避けたが、頬に浅い傷が走った。

観客が沸いた。

「今の、何だ」

マキナは小さく呟いた。

胸の奥で声が答える。

――局所慣性制御。外部演算補助あり。精度、高。

「慣性制御……」

ノルンが隣で腕を組んだ。

「ヘイヴン式の簡易演算装甲ね。正規品じゃない。たぶん払い下げか、闇市の改造品」

「西方の?」

「そう。あの子、エルシア=レイン。最近来た候補者。初期登録からまだ十日だけど、もうC級目前」

「強いんですか」

「強い。けど、装甲頼りが過ぎる」

「頼れるものがあるなら、頼るのは合理的じゃないですか」

ノルンはマキナを横目で見た。

「頼っている間はね。壊れた時に、自分も一緒に壊れるなら、それは依存」

マキナは闘技場へ視線を戻した。

エルシアと呼ばれた少女は、確かに強かった。

男の大振りな攻撃をぎりぎりでかわし、地面、壁、破片、音、熱気、そのすべてを計算に入れているように動く。外骨格の出力では男が圧倒している。だが当たらない。

少女の動きは、まるで答えを先に知っているようだった。

男が吠える。

「ちょこまかと!」

両腕の外骨格が開いた。

中から、赤く熱された杭のようなものが突き出る。

ノルンが目を細めた。

「まずいね」

「何がですか」

「出力を上げすぎてる」

男が床を殴った。

今度は直接の攻撃ではなかった。

床を通して、衝撃が広がる。

エルシアの足元が跳ねた。演算線が乱れる。ほんの一瞬、彼女の身体が宙に浮く。

男はその瞬間を待っていた。

巨大な腕が横薙ぎに振られる。

避けられない。

マキナはそう思った。

だが、エルシアの右目が強く光った。

空中で彼女の身体が反転する。

ありえない角度だった。

振るわれた外骨格の腕を、彼女は足裏で踏んだ。衝撃を逃がすように身体を流し、男の肩へ駆け上がる。

次の瞬間、彼女の掌が男の背中の圧力炉に触れた。

「停止」

少女の声は、歓声の中でも不思議とよく聞こえた。

青い演算線が圧力炉へ流れ込む。

炉の赤い光が、一瞬で落ちた。

外骨格が沈黙する。

男の両腕が重みに耐えきれず、床へ落ちる。身体ごと前のめりになり、鉄床に膝をついた。

鐘が鳴った。

観客が爆発した。

「勝者、エルシア=レイン!」

声が響く。

エルシアは男の肩から降り、何事もなかったように距離を取った。観客に手を振るでもなく、勝利を誇るでもない。演算板の光が消え、彼女の表情が見えた。

疲れている。

マキナはそう思った。

強い。 圧倒的に強い。 けれど、あの少女の顔は勝った人間の顔には見えなかった。

ノルンが小さく息を吐く。

「また無茶してる」

「知り合いですか」

「登録医としてはね。あの子、いつか演算装甲に神経を焼かれる」

「神経を?」

「ヘイヴンの装備は、使う人間に優しくない。特に払い下げ品はね」

マキナはエルシアの背中を見た。

少女は係員に何かを言われ、無言で退場口へ向かっている。足取りは真っ直ぐだが、右手がわずかに震えていた。

胸の奥で声がする。

――対象、神経負荷大。外部装置過同期。

「やっぱり、壊れそうなのか」

――継続使用、危険。

「本人は分かってるのかな」

――不明。

「ノルン」

「何」

「ここで勝ち上がる人は、みんな何かを壊しながら戦うんですか」

ノルンはすぐには答えなかった。

闘技場では、係員たちが鉄床の破片を片づけ、次の試合の準備をしている。観客席では賭け金の受け渡しが始まり、勝った者は笑い、負けた者は怒鳴っていた。

「みんなじゃない」

ノルンは言った。

「でも、多い。壊れても戦う奴、壊れてることに気づかない奴、壊れた方が強くなれると思ってる奴。ここはそういう連中が集まりやすい」

「傭兵候補査定戦なのに」

「傭兵は綺麗な仕事じゃない。アッシュバルトでは特にね。街の外へ出る。ヴェイル外縁を歩く。隊商を守る。機械生物を狩る。時には人間を相手にする。強さを見るには、壊れ方も見る必要がある」

マキナは黙った。

「怖くなった?」

ノルンが聞く。

「少し」

「なら正常」

「でも、見たい」

「それも正常とは言いづらいわね」

ノルンは肩をすくめた。

「今日はもう寝なさい。明日の予備査定、あんたの番は午前二組目」

「相手は?」

「まだ未定。登録者の中から体格と装備と申告能力で調整される」

「俺の場合は?」

「北方出身、軽装、対人経験少、現象系の疑いあり。普通なら様子見で弱い相手を当てる」

「普通なら?」

ノルンは闘技場の上部を見た。

そこには、ガラスの張られた観覧室がいくつか並んでいた。一般席とは違い、静かで暗い。中にいる人影はよく見えない。

「この街では、珍しいものには早めに圧をかける連中がいる」

「圧」

「潰れるか、価値があるかを見るのよ」

マキナは上部観覧室を見た。

誰かに見られている気がした。

胸の奥が微かに冷える。

――監視可能性、高。

「誰が?」

――不明。複数。

「……だよな」

ノルンが眉を寄せる。

「本当に、自分とだけ話してる?」

「今は、そういうことにしておいてください」

「便利な言い方ね」

「ノルンの真似です」

「生意気」

言葉ほど怒ってはいなかった。

ノルンは踵を返した。

「雑魚寝部屋はこっち。荷物は抱いて寝なさい。靴も脱がない方がいい」

「靴を履いたまま寝るんですか」

「盗まれて裸足で予備査定に出たいなら脱げば?」

「履いて寝ます」

「よろしい」

マキナは最後にもう一度、闘技場を見た。

鉄床の傷。 観客席の熱。 上部観覧室の暗い窓。 退場していくエルシアの背中。

外の世界は広い。

そして、思っていたよりもずっと速く人を試す。

       ◇

雑魚寝部屋は、登録所の地下二層にあった。

部屋と呼ぶには広すぎ、宿と呼ぶには荒すぎた。鉄骨の柱が何本も立ち、床には薄い敷布が区画ごとに並べられている。壁際には荷物棚があるが、鍵はない。天井の蒸気管から時々水滴が落ち、誰かが悪態をついた。

マキナはノルンに言われた通り、荷物を抱えて壁際に座った。

寝るにはまだ早い。 周囲がうるさい。

笑い声。 いびき。 咳。 武器を磨く音。 硬貨を数える音。 小声で交わされる取引。 誰かの泣き声。

リムの夜とは違う。

森の夜は暗い。 暗いからこそ、どこに何がいるかを考える。 けれどアッシュバルトの夜は、光が残っている。管の隙間から漏れる赤い炉光、廊下の照明、誰かの煙草の火。それなのに、森よりも暗いものが近くにいる気がした。

マキナは荷袋から古い金属片を取り出した。

刻まれた読めない文字を指でなぞる。

胸の奥で声がする。

――睡眠推奨。明日、戦闘予定。

「分かってる」

――睡眠不足、反応速度低下。

「分かってる」

――では、睡眠を開始。

「命令形か」

――提案。

「今のは命令だった」

返答はなかった。

マキナは少し笑い、金属片をしまった。

目を閉じる。

だが、眠れない。

エルシアの動きが頭に残っていた。

局所慣性制御。 演算装甲。 神経負荷。 過同期。

自分の現象操作とは違う。 彼女は外部装置で現象を動かす。マキナは、自分の中の何かを通して現象に触れる。

どちらが危険なのか。

たぶん、どちらも危険だ。

「お前は、俺を壊すのか?」

小さく呟いた。

周囲の騒音に紛れて、誰にも聞こえない。

胸の奥の声は、しばらく沈黙した。

そして、答えた。

――目的、マキナ生存。

「生存だけ?」

――優先項目、マキナ生存。

「それ以外は?」

――未定義。

未定義。

その言葉が、なぜか寂しく聞こえた。

「俺は、生きるだけじゃ足りない」

返事はない。

「見たいんだ。知りたい。どうしてお前が俺の中にいるのか。白銀のルーメンが何だったのか。カイ=ヴォルトが本当にどんな人間なのか。テラ・フォージがどんな場所なのか」

――目的、多数。危険、増大。

「そうだな」

――危険増大にもかかわらず、行動継続。

「うん」

――理由、既出。見たい。

マキナは目を開けた。

天井の蒸気管から、水滴が落ちる。

「覚えてたのか」

――記録済み。

「記録じゃなくて、理解は?」

長い沈黙。

――理解、未達。

マキナは少しだけ笑った。

「なら、一緒に見ればいい」

胸の奥が、微かに脈打った。

返事ではない。 けれど、完全な無反応でもなかった。

マキナは荷物を抱え直し、壁に背を預けた。

今度は少しだけ眠れそうだった。

       ◇

翌朝、鐘の音で目が覚めた。

正確には、鐘の音と、誰かの怒鳴り声と、足元を踏まれた痛みで目が覚めた。

「起きろ、新人ども! 予備査定だ!」

登録所の係員が扉の前で叫んでいる。

部屋の中が一斉に動き出した。

武器を探す者。 靴を履く者。 水を飲む者。 まだ寝ている者を蹴る者。 昨夜の賭けで揉めている者。

マキナは荷物を確認した。 盗まれていない。

靴も履いている。

「ノルンの言う通りだったな」

――睡眠時間、不足。

「それもノルンに言われた」

――戦闘効率低下。

「朝から厳しい」

――事実。

顔を洗う場所は混んでいた。水は冷たく、金属の味がした。マキナは最低限だけ身支度を整え、鉄札を首にかける。

受付前には、予備査定の参加者が集められていた。

十数人。

年齢も装備もばらばらだった。

その中に、昨日のガルドもいた。彼は壁にもたれ、腕を組んでこちらを見ている。どうやら予備査定には出ないらしい。上位者か、単に見物なのか。

ノルンが名簿を持って現れた。

「これから予備査定を行う。目的は殺し合いじゃない。能力、判断、戦闘継続力を見る。降参は有効。相手が降参した後の追撃は禁止。武器破壊は許可。四肢破壊は状況による。頭部への致命打は禁止。質問は?」

一人が手を上げた。

「勝てば上がれるのか?」

「内容による。勝っても駄目な奴は駄目。負けても拾う価値があれば上げる」

別の者が聞く。

「賭けは?」

「登録者本人の賭けは禁止。外野は勝手にやる」

「治療費は?」

「自腹。死んだら不要」

場が笑う。

マキナは笑えなかった。

ノルンは名簿を見る。

「第一組。ロウゼン、対、ヒルダ」

二人が前へ出る。

係員に案内され、闘技場へ向かった。

マキナは待機所から観戦することになった。

第一組は短かった。

ロウゼンという痩せた男は二本の短剣を使った。動きは速い。だが、相手のヒルダは義足の女で、踏み込みが異様に鋭かった。

開始十秒で距離が詰まる。 二十秒で短剣が一本弾かれる。 三十秒でロウゼンが壁に叩きつけられる。 四十秒で降参。

鐘が鳴った。

ノルンは淡々と記録する。

「ヒルダ、D仮。ロウゼン、再査定」

ロウゼンは担架で運ばれていったが、意識はあった。

マキナは自分の手を握った。

次だ。

ノルンが名簿を見る。

「第二組。マキナ」

心臓が跳ねた。

「対、バゼル=オルク」

前に出てきたのは、背の高い男だった。

年齢は二十代半ば。筋肉質だが、ガルドほど巨大ではない。両腕に簡易外骨格を装着し、腰には金属製の棍。顔には薄い笑みがある。

その笑みを見て、マキナは思った。

嫌な相手だ。

バゼルは近づき、上からマキナを見下ろした。

「北の現象使いってのは、お前か」

「たぶん」

「たぶん?」

「まだ自分でも分類が確定してない」

バゼルは一瞬きょとんとして、それから笑った。

「面白いこと言うな。壊しがいがありそうだ」

「壊される予定はない」

「予定はな」

ノルンが二人の間に入った。

「予備査定。武器は申告内。バゼル、出力制限を守りなさい」

「分かってるよ、先生」

「私は先生じゃない」

「似たようなもんだ」

ノルンは無視してマキナを見た。

「マキナ。現象操作の出力は抑えなさい。相手を殺すような威力を出したら、理由に関係なく止める」

「分かりました」

「あと、無理に使わなくていい。まず動きを見る」

「はい」

胸の奥で声がする。

――相手筋力、高。外骨格補助あり。近接戦、不利。

「分かってる」

――距離維持、推奨。

「弓は?」

――地下闘技場、反射面多。観客保護壁あり。使用可能。ただし接近時危険。

「じゃあ、まず距離」

――同意。

同意。

その言葉に、少しだけ安心する。

闘技場へ入る。

昨日は観覧席から見下ろしていた場所に、今度は自分が立っている。

鉄床は近くで見ると、想像以上に傷だらけだった。焼け跡、斬撃跡、へこみ、血の染み。天井の照明が白く、眩しい。観客席にはすでに人が集まり始めていた。

「北の小僧だ!」

「昨日の白い光のやつか?」

「相手バゼルかよ。終わったな」

「賭けるなら何秒もつかだな」

声が降ってくる。

マキナは息を吸った。

森なら、こんなに見られながら戦うことはない。 獲物は静けさの中にいる。 敵意は風や枝の揺れに隠れている。

ここでは違う。

敵意も好奇心も、全部むき出しだ。

バゼルが棍を肩に担いだ。

「降参するなら早めにしろよ。北の坊や」

「坊やって呼ばれるほど小さくない」

「じゃあ、北の珍獣」

「それも違う」

「違うかどうかは、殴ってから決める」

開始位置につく。

ノルンが外から見ている。 ガルドが観客席で笑っている。 上部観覧室の暗い窓も見える。

誰かがいる。

見ている。

胸の奥が冷たくなる。

――監視継続。

「今は目の前」

――同意。

鐘が鳴った。

バゼルが動いた。

速い。

見た目よりずっと速かった。

両腕の外骨格が唸り、踏み込みと同時に棍が横薙ぎに振られる。マキナは後ろへ跳んだ。棍の先端が鼻先をかすめ、風圧で髪が揺れる。

一撃目を避けた。

だが、二撃目がすぐに来る。

バゼルは重い武器を持っているのに、振り回されていない。外骨格の補助で、棍の軌道を無理やり変えている。

マキナは身を低くしてかわし、横へ転がった。

観客が笑う。

「逃げ足はあるぞ!」

「森の兎か!」

マキナは気にしない。

距離を取る。

短弓を抜く。

矢を番える。

バゼルの膝関節、外骨格の接続部を狙う。

放つ。

矢はまっすぐ飛んだ。

だが、バゼルは棍で弾いた。

「軽い軽い!」

二本目。

今度は肩の圧力管。

弾かれる。

三本目。

足元。

バゼルは避けずに踏み潰した。

「弓じゃ止まらねえよ!」

バゼルが突進してくる。

マキナは弓を捨てずに横へ走った。鉄床の傷を避け、足場を探す。森と違って、ここには根も石もない。だが、傷やへこみはある。滑りやすい場所も、引っかかる場所もある。

観察しろ。

リムの狩りで何度も言われたことだ。

獣を見るな。 獣が踏む地面を見ろ。 牙を見るな。 牙が届く距離を見ろ。

バゼルの足音を聞く。

重い。 右足を踏み込む時、わずかに床が強く鳴る。 外骨格の補助が右腕寄り。 攻撃の始点は右肩。 左側への切り返しがわずかに遅い。

マキナは呼吸を整えた。

胸の奥の声が重なる。

――右腕外骨格、出力偏重。左後方、回避成功率高。

「同じこと考えてた」

――一致確認。

バゼルが棍を振り下ろす。

マキナは左後方へ逃げた。

棍が床を叩き、火花が散る。

その瞬間、マキナは前へ出た。

バゼルの懐。

骨刃を抜く。

狙いは外骨格の肘接続部。

刃が入る。

だが浅い。

硬い。

バゼルが笑った。

「惜しいな」

肘が跳ねる。

外骨格の補助を受けた肘打ちが、マキナの肩に入った。

視界が白く弾けた。

身体が飛ぶ。

鉄床を転がり、背中を打った。

息が詰まる。

観客が沸く。

痛い。

肩が痺れている。 鎖骨は折れていない。たぶん。 右腕は動く。 肺に空気が入らない。

――損傷軽微。戦闘継続可能。

「軽微……?」

声が出ない。

バゼルがゆっくり近づいてくる。

「悪くない。けど、軽いな。弓も刃も、身体も」

マキナは立ち上がろうとした。

膝が滑る。

「現象使いなんだろ? 出せよ、昨日の白いやつ」

バゼルは棍を肩に担いだ。

「出さなきゃ終わるぞ」

マキナは呼吸を戻す。

現象操作。

使えば、勝てるかもしれない。 少なくとも、距離を取れる。

だが、ノルンは必要以上に見せるなと言った。 胸の声も、能力露見を警告している。 この街には、珍しい人間を拾って売る連中がいる。

使わずに勝てるか。

バゼルが踏み込む。

無理だ。

マキナはそう判断した。

だが、強く撃てば危険だ。 昨日の金属板程度の低出力では止まらない。 機械生物を吹き飛ばした時の出力なら、バゼルの骨を砕くかもしれない。

では、どう使う。

波を束ねる。 撃つのではなく、ずらす。

衝撃にするのではなく、足場へ流す。

「……できるか?」

――低出力、局所干渉。実行可能。ただし精度不足。

「手伝え」

沈黙。

――補助、実行。

バゼルの棍が振り下ろされる。

マキナは右手を床へ向けた。

白い光は、ほとんど見えないほど薄かった。

手のひらから床へ、細い震えが落ちる。

床の表面を伝わっていた観客の声、バゼルの足音、自分の心音、そのわずかな振動を束ねる。撃ち出さない。爆ぜさせない。ただ、バゼルの踏み込む足元へ集める。

バゼルの右足が床に着いた瞬間、鉄床が小さく跳ねた。

本当に小さな跳ねだった。

だが、外骨格で増幅された踏み込みには、それで十分だった。

バゼルの重心がずれる。

棍の軌道が、わずかに外れる。

マキナの肩を砕くはずだった一撃が、横の床を打った。

マキナはその隙に踏み込む。

骨刃ではない。

短剣でもない。

自分の額を、バゼルの顎へ叩き込んだ。

「がっ――!」

バゼルの頭が跳ね上がる。

マキナの額にも痛みが走る。 だが止まらない。

左手でバゼルの外骨格の圧力管を掴む。右手を添える。

胸の奥が熱くなる。

――射出形態、極小。接触伝達。

「壊すな。止めるだけ」

――調整。

白い光が、指先で瞬いた。

破裂音。

圧力管が弾けた。

蒸気が噴き出し、バゼルの右腕外骨格が沈黙する。

バゼルが怒鳴る。

「てめえ!」

左腕が来る。

マキナは避けきれない。

拳が脇腹に入った。

息が止まる。

だが、右腕の出力を失ったバゼルの一撃は、さっきほど重くなかった。

マキナは踏みとどまる。

左腕外骨格の関節部へ、短剣を突き立てる。

刃は浅い。

だが、そこへもう一度、白い光を流す。

――低出力。

「分かってる!」

二度目の破裂。

左腕の補助機構が火花を散らした。

バゼルの両腕が重く落ちる。

観客席から声が消えた。

マキナは後ろへ跳んだ。息が荒い。脇腹が痛い。額も痛い。右手が痺れる。胸の奥が冷え始めている。

ソウルが減っている。

それが感覚で分かった。

バゼルは膝をつきかけたが、倒れなかった。

外骨格が死んでも、本人はまだ動ける。

彼は棍を捨て、低く笑った。

「いいじゃねえか」

その目は、さっきより危なかった。

「やっぱり珍獣だ」

バゼルが素手で突っ込んでくる。

外骨格なしでも速い。

マキナは身構えた。

だが、胸の奥の声が鋭く響く。

――残量低下。現象行使、非推奨。

「使わない」

――肉体戦、不利。

「知ってる」

――勝率低下。

「それも知ってる」

バゼルの拳が来る。

マキナは避ける。 避けきれず、頬をかすめる。 次の拳。 身を沈める。 腹への膝。 腕で受ける。痛い。

森の訓練を思い出す。

リオウの声。

相手を見るな。 相手の呼吸を見ろ。 強いやつほど、勝てると思った瞬間に雑になる。

バゼルは怒っている。

外骨格を壊された。 観客の前で崩された。 早く終わらせたい。

呼吸が荒い。 右拳の前に肩が動く。 左足の踏み込みが深い。

マキナは下がった。

一歩。 二歩。

バゼルが追う。

「逃げるな!」

「逃げてるんじゃない」

マキナは背中で、鉄床のへこみを感じた。

昨日の試合で、男の外骨格が砕いた場所だ。 床がわずかに低い。 足を取られやすい。

マキナはそこを越えた。

バゼルは気づかず踏み込んだ。

右足がへこみに落ちる。

一瞬、身体が沈む。

マキナはその瞬間を待っていた。

前へ出る。

バゼルの胸元へ潜り込み、肩で押す。リムの狩りで、大型獣の重心を崩す時の動き。力では勝てない。だから、相手が崩れる方向へ少しだけ足す。

バゼルの身体が傾く。

マキナは足を払った。

巨体が倒れる。

鉄床に背中を打つ音が響いた。

マキナはすぐに短剣を抜き、バゼルの喉元ではなく、首の横、降参を促す位置に添えた。

動けば傷がつく。 だが、死にはしない。

バゼルは荒い息を吐いていた。

観客席が静まり返る。

ノルンの声が響いた。

「そこまで」

鐘が鳴った。

少し遅れて、歓声が爆発した。

「勝者、マキナ!」

その声を聞いた瞬間、マキナの膝から力が抜けそうになった。

だが、倒れなかった。

倒れたら格好悪いと思ったからではない。

倒れたら、胸の奥の声がまた何か言いそうだったからだ。

――戦闘終了。損傷、中程度。ソウル残量、低下。

「分かってる」

――勝利。

マキナは瞬きした。

その一言だけ、少し違って聞こえた。

「……ああ」

バゼルが床に寝たまま、笑った。

「くそ。負けた」

「大丈夫か」

「勝ったやつがそれ聞くな。腹立つ」

「でも、外骨格壊した」

「修理費は請求する」

マキナは固まった。

「いくら?」

バゼルは少し黙り、それからまた笑った。

「冗談だよ。半分は」

「半分……」

ノルンが入ってきた。

「立てる?」

「はい」

「嘘。顔が白い」

「立てます」

「それは立ちたいって意味でしょ」

ノルンはマキナの腕を掴み、脈を取った。次に目を覗き込む。

「現象操作、何回使った」

「三回。いや、床に一回、接触で二回」

「それでこれ?」

「これ、とは」

「顔色。呼吸。手の震え」

マキナは右手を見た。

確かに震えていた。

ノルンは低い声で言った。

「控室へ。すぐ」

「査定結果は?」

「後で言う。今は診察」

その言い方には逆らえなかった。

観客の声を背に、マキナは闘技場を出る。

その途中で、上部観覧室を見上げた。

暗いガラスの向こうに、人影があった。

一人ではない。

そのうちの一人が、ゆっくりと顔をこちらへ向けた気がした。

胸の奥で、声がした。

――監視対象、確定。

「誰だ」

――不明。敵性可能性、上昇。

マキナは何も言わず、視線を外した。

       ◇

診療室は、登録所の地下にしては妙に静かだった。

壁には薬品棚と工具棚が並んでいる。机の上には包帯、縫合針、小型の切断器具、義肢調整用の部品、血のついた布。医療室なのか工房なのか、やはり判別しにくい。

ノルンはマキナを椅子に座らせ、手際よく診察を始めた。

「脇腹」

「打たれました」

「見れば分かる。服を上げて」

マキナが従うと、ノルンは眉を寄せた。

「青くなってる。肋骨は……ひびまではいってないか。北方の回復力って便利ね」

「便利です」

「便利だからって壊していいわけじゃない」

「イサラにも似たようなことを言われました」

「賢い人ね」

ノルンは湿布のようなものを貼り、次に右手を取った。

「痺れは?」

「あります」

「痛みは?」

「骨の奥が軋む感じ」

「最悪の表現」

「正確です」

「なお悪い」

ノルンは右手首に小さな測定器を巻いた。針が震え、古い表示板に数値が出る。ノルンはそれを見て、ますます顔をしかめた。

「何ですか」

「変な数値」

「具体的には」

「身体疲労と神経負荷が一致してない。筋肉の損傷は軽い。骨も問題ない。でも、神経系と代謝が変な落ち方をしてる」

「ソウルが減ったから?」

ノルンの手が止まった。

「今、何て言った?」

マキナは失敗したと思った。

胸の奥が即座に反応する。

――情報開示、過剰。

「……そういう感覚があるんです」

ノルンは椅子を引き寄せ、正面に座った。

「マキナ。私は登録医として、あんたの身体を診てる。傭兵候補として危険なら止める義務がある。だから聞く」

「はい」

「あんたの現象操作は、何を消費してる?」

マキナは黙った。

嘘をつくべきか。 誤魔化すべきか。 分からないと言うべきか。

だが、ノルンの目はごまかしを嫌う目だった。

「たぶん、ソウルです」

「ルーメン活動エネルギーの?」

「知ってるんですか」

「言葉だけはね。普通の人間が日常会話で出すものじゃない」

「俺も普通ではないので」

「自覚はあるのね」

ノルンは深く息を吐いた。

「外部装置なし。生身の現象干渉。消費はソウル。北方ナノマシン継承体。回復力あり。十六歳。しかも本人は仕組みを完全に理解していない」

「まとめると、危険そうですね」

「危険そうじゃなくて危険」

ノルンの声は硬かった。

「今日の戦い、最後まで白い射出を撃たなかったのは正しい。でも接触で外骨格を止めた時、右手の神経に負荷が集中してる。あれを何度もやれば、手が動かなくなるかもしれない」

マキナは右手を握った。

少し遅れて指が閉じる。

「治りますか」

「今はね。あんたの回復力なら、たぶん数時間で戻る。でも、治ることと、傷がなかったことは違う」

「またそれ系の話ですか」

「それ系の話を聞かない奴から壊れるの」

ノルンは薬を棚から取り出し、マキナに渡した。

「飲みなさい。神経鎮静と代謝補助。北方体質に合うか分からないから半量」

「毒では?」

「毒ならもっと高い瓶に入れる」

「合理的ですね」

「そういうところ、直した方がいい」

マキナは薬を飲んだ。苦い。舌が痺れる。

ノルンは記録板に何かを書き込んでいた。

「査定結果」

マキナは顔を上げた。

「D仮。予備査定は通過」

「勝ったからですか」

「それもある。でも評価したのは、現象操作を無闇に撃たなかったこと。相手の装備を止めたこと。地形を見たこと。最後、喉を刺さなかったこと」

「刺したら駄目でしょう」

「勝ちに焦る奴は刺す」

「そうなんですか」

「そうなの」

ノルンは記録板を閉じた。

「ただし、次から相手はもっと厄介になる。あんたの力はもう見られた。対策される」

「はい」

「それと、登録情報を少しぼかしておく」

「ぼかす?」

「生体現象使いなんて書いたら、面倒な連中が寄ってくる。公式には“北方出身、波動干渉系の疑いあり、低出力確認”にする」

「それで隠せますか」

「完全には無理。でも時間は稼げる」

「なぜそこまでしてくれるんですか」

ノルンは少しだけ黙った。

「壊れそうなものを見ると、直したくなるのよ」

「俺は物じゃない」

「だから面倒なの」

その時、診療室の扉が叩かれた。

ノルンの表情が変わる。

「誰」

扉の向こうから、男の声がした。

「査定管理部です。上位観覧室から照会依頼。登録者マキナの詳細記録を確認したい」

ノルンはマキナを見た。

声を出すな、という目だった。

マキナは頷く。

胸の奥が冷える。

――警戒。

ノルンは扉へ向かったが、開けなかった。

「診察中。後にして」

「管理部権限です」

「医療優先権限。負傷者の診察中に入るなら、署名を残して」

扉の向こうが沈黙する。

「……後ほど改めます」

足音が遠ざかる。

ノルンはしばらく扉を見つめていた。

それから小さく舌打ちした。

「早い」

「何がですか」

「目を付けられた」

「上位観覧室の人たちに?」

「たぶんね」

「誰なんですか」

ノルンは答えなかった。

代わりに、診療室の小窓から外を見た。

地下なので外は見えない。見えるのは、通路を歩く人の影だけだ。

「アッシュバルトには、いくつか表に出ない部署がある。移民管理、傭兵管理、遺物回収、外縁防衛。その中でも、あまり関わらない方がいい連中がいる」

「名前は?」

ノルンは低く言った。

「鉄統局」

胸の奥で、声が微かに震えた。

それは警告だったのか。 あるいは、聞き覚えのない言葉への反応だったのか。

――未知組織。危険推定。

マキナは右手を握った。

「俺は、まだ何もしてません」

「したわよ」

ノルンはマキナを見た。

「この街で、“珍しい”と証明した」

       ◇

その頃、登録所の上位観覧室では、二人の男が沈黙していた。

一人は、査定管理官の制服を着た中年男。額に汗を浮かべ、手元の記録板を何度も確認している。

もう一人は、灰色の長衣を着た痩せた男だった。

長衣の胸元には、歯車と縦線を組み合わせた小さな徽章がある。テラ・フォージの一般市民なら、それを見ても何の部署かは分からない。分かる者は、見なかったふりをする。

灰色の男は、闘技場の記録映像を再生していた。

マキナが床へ手を向ける場面。 バゼルの足元がわずかに跳ねる場面。 外骨格の圧力管が白い光で破裂する場面。

映像が止まる。

灰色の男は、指先で画面を叩いた。

「外部装置反応は」

査定管理官が答える。

「検出されていません。登録時の検査でも、義肢、補助炉、演算具、結晶共鳴具の所持はなし」

「北方ナノマシン継承体か」

「本人申告では、シルヴァン・リム出身」

「年齢」

「十六」

「現象出力」

「低出力です。少なくとも査定中は。ただ、昨日の登録時にも白色干渉を確認しています」

灰色の男は映像を巻き戻した。

マキナの右手。 白い光。 金属板の凹み。

「低出力でこれか」

「まだ未熟な候補者です。制御も不安定。登録医ノルン=ハザが医療観察を――」

「ノルンは余計なことをする」

査定管理官は口を閉じた。

灰色の男は記録を見続ける。

「生体現象使い」

その言葉は、部屋の温度を下げるようだった。

査定管理官が小さく咳をする。

「正式分類にはまだ早いかと」

「正式分類など後でいい。重要なのは、外部装置なしで現象干渉を行った事実だ」

「ルーメン適合の可能性は?」

「ある」

灰色の男の目が細くなる。

「むしろ、それ以外に説明がつかない」

「鉄統局へ報告を?」

「一次報告を上げる。ただし、捕獲はまだ早い」

査定管理官が目を見開いた。

「捕獲、ですか」

灰色の男は、ようやく彼を見た。

「言葉に怯えるな。保護と言えば満足か」

「いえ……」

「今は観察する。誰と接触するか、何を探しているか、能力の上限はどこか。特に、白色干渉の由来」

映像の中で、マキナが勝利後に上位観覧室を見上げている。

その目は、まっすぐこちらを見ているようだった。

灰色の男は薄く笑った。

「感知もあるか」

「どうします」

「欠片狩りに回す」

査定管理官の顔色が変わった。

「あの部隊を、街中で?」

「監視だけだ」

「彼らの監視は、監視で済まないことが多い」

「なら、済ませるよう命じろ」

灰色の男は映像を消した。

「対象名、マキナ。北方出身。十六歳。外部装置なしの波動干渉を確認。ルーメン適合、または未登録断片融合の可能性あり」

彼は立ち上がった。

「優先度を上げる」

査定管理官は深く頭を下げた。

灰色の男は観覧室を出る直前、もう一度だけ闘技場を見下ろした。

そこにはもう、マキナの姿はなかった。

ただ、鉄床の上に、白い光が走ったあとの焦げ跡だけが残っていた。

「第八紀の保留は、厄介なものを残したな」

そう呟いて、男は暗い通路へ消えた。

       ◇

診療室を出た時、マキナの右手の震えは少し収まっていた。

ノルンは薬と包帯を渡し、今日はもう余計なことをするなと三回言った。 マキナは三回とも頷いた。 そのうち一回は、少しだけ本気で守ろうと思った。

登録所の廊下には、予備査定を終えた候補者たちが行き交っていた。

勝って笑う者。 負けて黙る者。 怪我を押さえる者。 次の相手の情報を探る者。 賭けの結果に怒る者。

バゼルは壁際で外骨格を外されていた。整備士らしい男に怒鳴られながら、マキナを見ると片手を上げた。

「おい、北の」

マキナは立ち止まる。

「修理費、半分って言ったけどな」

「やっぱり払うのか」

「冗談だ」

「どっちだ」

バゼルは笑った。

「次やる時は、外骨格なしでやろうぜ」

「もうやりたくない」

「そう言うな。面白かった」

「俺は痛かった」

「戦いなんてそんなもんだ」

マキナは少し考えた。

「バゼル」

「あ?」

「ありがとう」

バゼルは露骨に嫌そうな顔をした。

「何でだよ」

「対人戦の経験になった」

「負かした相手に礼を言うな。調子狂う」

そう言って、バゼルは顔を背けた。

アッシュバルトの人間は、やはり口は悪いが、完全に悪い人間ばかりではない。

マキナはそう思った。

――判断、早計。

「分かってる」

――対象バゼル、敵性低下。ただし警戒継続。

「はいはい」

――返答形式、不誠実。

「細かいな」

登録所の出口へ向かう途中、マキナは闘技場の入口に立つエルシアを見つけた。

昨日の演算装甲の少女だ。

彼女は壁にもたれ、腕を組んでいた。今日は装甲を着けていない。薄い上着の下から、首筋に貼られた神経接続用の小さな端子が見える。

エルシアはマキナを見ると、静かに言った。

「あなた、現象使い?」

その声は冷たくも熱くもなかった。

ただ、確認する声だった。

「分類はまだ未定」

マキナは答えた。

「未定?」

「俺にもよく分かってない」

「分からない力で戦ったの?」

「そうなる」

「危ないね」

「エルシアも、危なそうに見えた」

彼女の眉がわずかに動く。

「見てたの?」

「昨日の試合。強かった。でも、右手が震えてた」

エルシアは右手を隠すように袖を引いた。

「余計な観察」

「ごめん」

「謝るくらいなら言わなければいいのに」

「それは難しい」

「変な人」

エルシアは壁から背を離した。

「あなた、次も勝つつもり?」

「そのつもり」

「何のために?」

マキナは少し詰まった。

テラ・フォージ内部へ行くため。 カイ=ヴォルトの手がかりを探すため。 自分の中の白銀を知るため。

どれも正しい。

だが、初対面の相手にすべて話す気にはなれなかった。

「見たいものがある」

「それだけ?」

「今のところは」

エルシアはしばらくマキナを見ていた。

「それだけで戦えるなら、羨ましい」

そう言って、彼女は歩き出した。

マキナはその背中に声をかける。

「エルシアは?」

彼女が振り返る。

「何のために戦ってる?」

エルシアは答えなかった。

代わりに、演算板をつけていない右目が、ほんの少しだけ揺れた。

「勝てば、選べるから」

それだけ言って、彼女は去っていった。

マキナはその言葉を胸の中で繰り返した。

勝てば、選べる。

それはきっと、この街の多くの人間が信じている言葉だ。 あるいは、信じるしかない言葉だ。

胸の奥で声がする。

――選択権獲得のための戦闘。合理性あり。

「お前はそう見るのか」

――他解釈、不足。

「俺もまだ分からない」

登録所の外へ出ると、アッシュバルトの空は煤で薄く曇っていた。

夕方にはまだ早い。 それでも街の上には赤黒い光が滲んでいる。炉の光なのか、煙に濁った太陽なのか分からなかった。

マキナは首に下げた鉄札を握った。

D仮。

それは小さな身分だった。 だが、ゼロではない。

昨日まで、彼はただの北方から来た少年だった。 今日からは、アッシュバルトの傭兵候補だ。

ほんの少しだけ、街に足場ができた。

だが同時に、見えない何かが近づいてきている気配もあった。

上位観覧室の暗い窓。 診療室の扉越しの声。 ノルンが言った鉄統局。 珍しい人間を拾って売る連中。

マキナは空を見上げた。

森の空とは違う。 枝葉に切り取られていない代わりに、煙と鉄骨に区切られている。

広いのか、狭いのか分からない空だった。

胸の奥が静かに脈打つ。

――行動方針、確認。

「まずは勝ち上がる」

――危険。

「分かってる」

――代替案。

「あるのか?」

少し沈黙。

――情報不足。

マキナは笑った。

「なら、同じだ」

彼は通りへ歩き出した。

鉄と油の匂い。 人の声。 歯車の音。 どこかで鳴る警鐘。

そのすべてが、もう昨日より少しだけ近く感じた。

アッシュバルトは、彼を歓迎してはいない。

だが、拒んでもいない。

この街はただ、試している。

お前はここで何になるのか、と。

マキナは首の鉄札を握ったまま、雑踏の中へ進んだ。

白銀の断片を胸に宿したまま。

まだ名もない声と共に。