『レムナント・ヴェイル ― 現象使いのマキナ ―』

第3章 査定戦の怪物たち

朝のアッシュバルトは、夜よりも騒がしかった。

空はまだ煤けた灰色で、太陽の輪郭さえ煙の向こうに滲んでいる。それでも街はとっくに目を覚ましていた。工房区の方角から鉄を打つ音が聞こえる。蒸気管が鳴り、荷車の車輪が石畳を噛み、誰かの怒鳴り声が路地から路地へ跳ねていく。

マキナは登録者用の雑魚寝部屋で目を覚ました。

固い寝台だった。

いや、寝台と呼ぶより、鉄の枠に薄い布を張っただけのものだった。寝返りを打つたびに背中の骨が文句を言い、隣の候補者が寝言で誰かを罵り、そのさらに向こうでは誰かが靴を履いたまま壁にもたれて眠っている。

森の寝床とは、まるで違った。

シルヴァン・リムの寝床には、湿った土の匂いと樹皮の冷たさがあった。夜には虫の声があり、遠くで小さな獣が落ち葉を踏む音があった。

ここには、油の匂いがある。

鉄粉と汗と、古い血の匂いがある。

マキナは上体を起こし、右手を握った。

指は動いた。

だが、握る途中で、薬指と小指の付け根に細い痛みが走る。

昨日、バゼル=オルクの外骨格を止めた時の感覚が、まだ残っていた。金属の中を走る圧力。歪んだ振動。自分の指先から白いものが流れ込み、管の内側で弾けた瞬間の抵抗。

あれは、撃つのとは違った。

もっと近く、もっと危うい。

自分の手を、機械の中へ差し込んだような感覚だった。

胸の奥で、白銀の断片がかすかに脈打つ。

――右上肢末梢神経、負荷残留。

声は、眠りの底から浮かぶ泡のように響いた。

「知ってる」

マキナは小さく答えた。

隣の候補者が寝返りを打ち、「うるせえ」と呟いた。

マキナは口を閉じる。

――発声不要。内部対話、推奨。

「それを先に言ってくれ」

――指摘、記録。

少しだけ、胸の奥が静かになった。

マキナは寝台から降りた。足裏が冷たい鉄床に触れる。雑魚寝部屋の端に置かれた水桶で顔を洗うと、茶色く濁った水面に自分の顔が揺れた。

森を出た時より、少し痩せて見える。

けれど目は、まだ濁っていなかった。

布で顔を拭き、短弓と骨刃、南方製の短剣を確かめる。昨日の戦いで傷んだ弓弦は、昨夜のうちに張り直した。矢は少ない。買い足すには金がいる。金を得るには、仕事がいる。仕事を得るには、査定で等級を上げる必要がある。

順番は、分かりやすい。

分かりやすいものほど、途中に罠がある。

ノルンが昨日言っていた。

この街は、理由をつけて襲う。

マキナは鉄札を首から下げた。

D仮。

まだ、街の中で名前を持ったわけではない。ただ、試されることを許されたというだけの札だった。

登録所の廊下に出ると、すでに候補者たちが動き始めていた。壁には煤で黒ずんだ配管が走り、天井の裸灯が不規則に瞬いている。床には靴跡と油染みが残り、ところどころに新しい血の跡が薄く拭き取られていた。

「北の」

声をかけられて振り返る。

壁際に、バゼル=オルクがいた。

昨日マキナが止めた右腕の簡易外骨格は外され、肩から包帯と固定具が見えている。左手には金属製の杯。中身は湯気の立つ黒い飲み物らしい。

「起きてたのか」

「起きました」

「見りゃ分かる」

バゼルは鼻で笑い、右肩を少し動かして顔をしかめた。

「お前のせいで修理費が飛んだ」

「すみません」

「謝るな。余計腹立つ」

「じゃあ、どうすれば」

「普通は笑うか、言い返すか、逃げる」

マキナは少し考えた。

「修理費の半分なら、いつか払います」

バゼルは数秒黙ってから、妙な顔をした。

「……お前、ほんと調子狂うな」

「よく言われます」

「誰に」

「リオウに」

「誰だよ」

「故郷の友達です」

バゼルは肩をすくめた。呆れたようにも、少しだけ笑ったようにも見えた。

「今日も出るのか」

「はい。D級になるには、もう一つ査定が必要だと聞きました」

「必要っていうか、向こうが見たいんだよ」

「向こう?」

バゼルは杯を口元へ運びかけて、やめた。

視線だけで天井を指す。

登録所の上。

観覧室。

鉄と硝子の向こうにいる、見えない誰か。

「この街で戦うってのは、殴り合うだけじゃねえ。見られるってことだ。誰が使えるか、誰が壊れやすいか、誰が売れるか、誰が厄介か。上の連中は、そういうのを見る」

マキナは昨日の暗い窓を思い出した。

上位観覧室。

灰色の気配。

胸の奥の声が低く響く。

――監視可能性、継続。

「……そうですね」

「お前は見られてるぞ、北の」

「バゼルも?」

「俺はもう見られ飽きた。壊れた外骨格まで見られてる」

バゼルは苦い顔で杯を飲み干した。

「まあ、今日死ぬなよ。俺に勝った奴が次で潰されたら、俺が弱く見える」

「死なないようにします」

「それも変な返事だな」

バゼルは廊下の奥へ歩いていった。歩幅は少し乱れている。だが、昨日の敗北で折れたようには見えなかった。

アッシュバルトの人間は、負けても立っている。

そのことを、マキナはまた一つ記録した。

診療室の扉は半分開いていた。

中から薬品の匂いと、焼けた金属の匂いが混じって流れてくる。

「入っていいですか」

「入っていい時は返事がある。返事がない時は、入ってきた奴を怒鳴る」

ノルンの声がした。

「つまり?」

「さっさと入りなさい」

マキナは中へ入った。

診療室は相変わらず狭い。壁際には薬瓶、巻布、工具、義肢の部品、細い導線、針のついた計器が乱雑に並んでいる。ベッドの上には、昨日とは別の候補者が横たわっていた。左足の義足を外され、ノルンが膝の接続部を工具で締め直している。

「次からは、跳ぶ前に膝の固定を見ろって言ったでしょ」

「見たよ」

「見て壊したならもっと悪い」

候補者は呻いた。

ノルンは最後に義足の側面を叩き、候補者を追い出した。

「次」

「俺ですか」

「そう。昨日、外骨格を止めて右手を痺れさせた北の珍品」

「珍品ではありません」

「じゃあ、珍しい危険物」

「それも少し違います」

「うるさい。座る」

マキナは椅子に座った。

ノルンは右手を取ると、指先を押し、手首の内側に薄い金属板を当てた。板の表面に小さな針があり、微かに震えている。

「痛む?」

「少し」

「どこ」

「薬指と小指の付け根。あと、手首の奥」

「奥って言い方は嫌いじゃない。患者の説明としては最悪だけど」

ノルンは細い針をマキナの手首近くに当てた。刺したわけではない。だが、皮膚の下を何かが撫でるような感覚がした。

胸の奥の声が反応する。

――外部測定波。低出力。危険度、低。

「それ、何を見てるんですか」

「まともな答えを期待しないで。あんたの身体、まともな測り方が通じない」

ノルンは針の揺れを見ながら言った。

「神経反応、代謝、熱、皮膚下の微細発光、それから外部装置なしで妙な波を出した後に残る歪み。分かるものだけ拾ってる」

「ソウルは?」

ノルンの手が一瞬止まった。

マキナはしまったと思った。

ノルンは目を細める。

「その言葉、どこで覚えたの」

「……感覚です」

「感覚でそんな単語が出る人間、私はあまり診たくない」

「すみません」

「謝るところじゃない。隠すなら最後まで隠しなさい」

ノルンはため息をついた。

それから、机の引き出しを開け、小さな腕輪を取り出した。灰色の金属でできた、幅の狭い輪。表面には三本の針があり、赤、黄、黒の刻みがついている。装飾はない。道具というより、警告のための拘束具のようだった。

「つけて」

マキナは受け取り、右手首に通した。

少し冷たい。

腕輪は自動で締まり、皮膚に密着した。

針の一本がかすかに揺れ、黒から黄の手前で止まる。

「これは?」

「壊れかけを知らせる針」

「ソウル残量計ですか」

「そんな便利なものがあったら、私は今ごろもっと金持ちよ」

ノルンは椅子の背にもたれた。

「これはソウルそのものを測ってるわけじゃない。あんたが力を使った後に出る身体側の反応を見てるだけ。神経の焼け、代謝の跳ね、局所発熱、白銀反応。そういうものの寄せ集め」

「つまり、危なくなったら針が動く」

「危なくなってから動く」

「遅いですね」

「そう。だから本当は戦わせたくない」

ノルンの声は低かった。

マキナは腕輪を見る。

針は静かに揺れている。

「でも、出るんでしょう」

「はい」

「理由は?」

「テラ・フォージ内部に行きたいからです。あと、カイ=ヴォルトの手がかりを探すために」

「その名前、昨日も出したわね」

「知っていますか」

ノルンは答えなかった。

机の上の工具を一本取り、また置く。

「知ってる人間は多い。正しく知ってる人間は少ない。アッシュバルトでその名前を出す時は、相手を選びなさい」

「なぜですか」

「伝承は売れる。英雄の名前はもっと売れる。あんたみたいな北の子供がその名前を追ってるなんて話は、酒場なら笑い話、悪い連中なら値札になる」

マキナは黙った。

カイ=ヴォルト。

伝承の中の名前。

森ではその名を口にすると、少しだけ空気が変わった。敬意、懐かしさ、警戒。人によって違ったが、少なくとも誰かが値段をつけるものではなかった。

外では違う。

名前すら、売られる。

ノルンは腕輪の針を指で弾いた。

「今日の条件」

「条件?」

「赤に入ったら棄権。右手での連続発動は禁止。昨日みたいな接触停止は、今日は一回まで。射出も連発しない。何か新しいことをやろうとしたら、まず逃げる」

「最後が難しいです」

「難しくない。足を後ろに出すだけ」

「戦闘中だと、判断が」

「じゃあ判断しなくていい。針が赤に入ったら逃げる。考えるな」

マキナは腕輪を見た。

赤い刻みは、小さい。

だが、その小ささが逆に怖かった。

「勝たないと、先へ進めないんですよね」

「勝ち方も見られる」

ノルンが言った。

「ここは闘技場だけど、殺し合いの穴じゃない。少なくとも表向きはね。評価されるのは、勝敗だけじゃない。相手を殺さず止めたか。自分の装備を理解しているか。逃げる判断ができるか。護衛や任務で使えるか。そういうのも見る」

「なら、壊さずに勝った方がいい」

「できるならね」

ノルンは少しだけ目を細めた。

「でも覚えておきなさい。壊さずに勝とうとして、自分が壊れる馬鹿もいる」

「俺のことですか」

「今のところ、候補筆頭」

「気をつけます」

「信用しない。だから針をつけた」

その言い方に、マキナは少しだけ笑いそうになった。

ノルンはそれに気づいたのか、眉をひそめる。

「笑うところじゃない」

「はい」

「今笑ったでしょ」

「少し」

「正直でよろしい。出ていきなさい。次の組み合わせが出る」

マキナは立ち上がった。

扉へ向かう途中、ノルンが背中に声を投げた。

「マキナ」

名前を呼ばれて、足が止まる。

「勝ってると思わないこと」

マキナは振り返った。

ノルンは机の上の記録板に目を落としたまま言った。

「あんたの身体は、強いんじゃない。壊れたところを、その場しのぎで繋いでるだけ。昨日の勝ちを、身体が許してくれたと思うな」

言葉は、診療室の薬品臭よりも苦かった。

マキナは右手を軽く握る。

まだ、痛む。

「分かりました」

「分かってない顔」

「分かろうとしています」

ノルンは小さく息を吐いた。

「それなら、まだまし」

廊下に戻ると、登録所全体が昨日より熱を持っているように感じた。

掲示板の前に人だかりができている。候補者たちが紙を見上げ、自分の名前を探して叫び、舌打ちし、笑っている。

「三番床、ガルドだとよ」

「相手、かわいそうに」

「ラウドも出るぞ。昨日、整備区で腕を換えてた」

「またかよ。あいつ、腕を壊すたびに強くなってねえか」

「借金も増えてるけどな」

「おい、声落とせ」

名前が飛び交う。

マキナは掲示板に近づいた。

文字はまだ全部読めない。だが数字と記号は少し覚えた。登録番号を探し、鉄札と照らし合わせる。

第二床、第三試合。

相手の名前は読めなかった。

「読めねえのか」

横から声がした。

見上げると、ガルドが立っていた。

昨日、登録所で絡んできた大柄な男だ。肩幅が壁のように広く、片目の下に古い傷がある。今日は両腕に補助外骨格を装着していた。昨日よりも威圧感がある。

「一部だけ」

マキナが答えると、ガルドは鼻で笑った。

「北の森じゃ、字は木の皮にでも生えてんのか」

「歌で覚えることが多いです」

「ますます分からねえ」

ガルドは掲示板を顎で指した。

「お前の相手は、セイル=オルファ。アーカイブ崩れだ」

「アーカイブ」

「東の記録好きどもだよ。こっちの癖を覚えて、次にどこを踏むか読んでくる。地味で嫌な奴だ」

「強いですか」

「強いっていうか、気持ち悪い。殴る前に避ける場所へ先回りしてる感じだ」

ガルドは少し楽しそうだった。

「まあ、お前みたいな変な奴にはちょうどいいかもな」

「ありがとうございます」

「褒めてねえ」

「でも、情報です」

ガルドの眉が動いた。

「……お前、ほんとに喧嘩売ってんのか素なのか分かんねえな」

「素です」

「最悪だ」

ガルドはそう言って去っていった。

その背中を見送りながら、マキナは掲示板をもう一度見る。

セイル=オルファ。

アーカイブ崩れ。

記録し、予測する相手。

胸の奥で声が響く。

――対人予測型。危険。

「戦う前から?」

――情報不足。ただし、未知戦術への警戒推奨。

「分かった」

その時、待機所の奥がざわついた。

人の輪が割れる。

そこから、一人の少年が歩いてきた。

マキナと同じくらいの年齢に見えた。少し背が高く、肩幅もある。髪は煤でくすんだ赤茶色。頬に細かな火傷跡があり、目つきは鋭い。

目を引いたのは、両腕だった。

肩から先が、重機義肢になっている。

バゼルの簡易外骨格とは違う。身体の外に被せる補助装備ではない。腕そのものが、鉄と関節と圧縮機構でできている。肘には太い回転軸があり、前腕部は作業用の打撃杭のように厚い。指は人間の手より大きく、一本一本が工具のようだった。

候補者たちが道を開ける。

「ラウドだ」

誰かが呟いた。

「今日は両腕、新型か」

「新型じゃねえよ。屑山の掘り出し物だ」

「どっちでも当たりたくねえ」

ラウド=ガンザ。

その名前を、マキナは記録した。

ラウドは掲示板の前に立ち、目を細める。

それから、マキナを見た。

視線がぶつかる。

ラウドは数歩近づいてきた。重機義肢が動くたび、低い駆動音が鳴る。油と焼けた鉄の匂いがした。

「お前か」

「何がですか」

「昨日、バゼルの腕を止めた北のやつ」

「はい。マキナです」

「名乗れとは言ってねえ」

「でも、名前を知らないと不便です」

ラウドは眉間に皺を寄せた。

「変な奴だな」

「最近よく言われます」

「北の連中はみんなそうなのか」

「たぶん、人によります」

ラウドはマキナの右手首を見た。

ノルンの腕輪。負荷針。

「医者の首輪か」

「腕輪です」

「同じだ。壊れ物扱いされてんだろ」

「そうみたいです」

「じゃあ、闘技場に出るなよ。壊れ物が割れたら、掃除が面倒だ」

周囲の数人が笑った。

マキナはラウドの両腕を見る。

「その腕は、重いですか」

笑いが止まった。

ラウドの目が細くなる。

「何だと」

「重そうだと思って」

「見りゃ分かるだろ」

「はい。でも、動かす時に身体のどこが一番痛むのかは、見ただけだと分からない」

ラウドは一瞬、言葉を失った。

それから、低く笑った。

「お前、喧嘩の売り方が変だな」

「売ってません」

「なら買わせるな」

ラウドは重機義肢の指を鳴らした。金属同士が噛み合う音が、廊下に響く。

「俺はラウド=ガンザ。工房区の端から来た。内部区へ上がる。邪魔する奴は潰す」

「俺はテラ・フォージ内部へ行きたい」

「なら、同じだな」

「同じ?」

「上がりたいんだろ」

ラウドの声には、鋭いものがあった。

「だったら、誰かを踏むしかねえ。ここはそういう場所だ」

マキナは答えられなかった。

ラウドは鼻を鳴らして背を向ける。

「当たったら潰す。北の白いの」

「白いの?」

「変な光を出すんだろ」

「なるべく出さないようにします」

「出せよ。出して、俺に負けろ」

ラウドは待機所の奥へ去っていった。

マキナはその背中を見つめる。

重機義肢の音が遠ざかる。

踏むしかない。

その言葉が、耳に残った。

森では、獣を狩る時、踏むという言葉は使わなかった。追う、待つ、仕留める、祈る。そういう言葉だった。

ここでは、人が人の上へ行くために、人を踏む。

胸の奥の声が告げる。

――心理的動揺、検出。

「少しだけ」

――戦闘判断への影響、懸念。

「記録しておく」

――記録、推奨。

マキナは息を吐いた。

「記録するだけじゃ、足りないこともある」

声は答えなかった。

昼前、第二床に呼ばれた。

地下闘技場の熱は、昨日よりも濃かった。

観覧席は登録者や見物人で埋まり、鉄の手すりには汗と油が付着している。上層の暗い窓は今日も閉ざされ、その向こうに誰かがいるのかどうかは分からない。

中央の鉄床は複数に分けられていた。第一床では義足の女が槍使いと戦い、第三床ではガルドが相手を壁際まで押し込んでいる。打撃の音が重なり、審判役の鐘が短く鳴るたび、歓声が跳ねた。

マキナは第二床の端に立った。

腕輪の針は黒域。

少し揺れているが、まだ問題はない。

向かい側に、セイル=オルファが立っていた。

年齢は二十歳前後。細身で、表情が薄い。短く切られた黒髪に、片耳だけ透明な結晶片を吊るしている。衣服はアーカイブ風の長い外套を短く切り詰めたようなもの。手には短い杖。腰には薄い記録板が数枚吊られていた。

派手な装備ではない。

だが、視線が嫌だった。

マキナの顔ではなく、肩、肘、膝、足首、弓、呼吸、重心を順番に見ている。

森の獣も観察する。

だが、セイルの目は獣ではなかった。

紙に書くように、マキナを読んでいる。

審判役が二人の間に立つ。

「第二床第三試合。マキナ、D仮。セイル=オルファ、D級。殺傷禁止。降参、場外、戦闘不能、または審判判断で終了」

セイルが小さく頭を下げた。

「よろしく」

「よろしくお願いします」

マキナも返す。

セイルは少しだけ笑った。

「丁寧だね。記録と違う」

「俺の記録を見たんですか」

「昨日の試合は、多くの人が見ていた」

セイルは腰の記録板に指を触れた。

「右手、接触、外骨格停止。足場干渉。弓は牽制。本命は近距離」

マキナの背中に、冷たいものが走る。

昨日の戦いが、もう誰かの中で形になっている。

鐘が鳴った。

セイルは動かなかった。

マキナもすぐには踏み込まない。

相手の足元を見る。軽い。重心は後ろ。杖は飾りではないが、打撃用ではなさそうだ。記録板が揺れている。風はない。つまり、内部で何かが動いている。

マキナは短弓を構えた。

矢を放つ。

セイルは放たれる前に半歩ずれていた。

矢は外套の端をかすめ、鉄床に跳ねる。

観客がざわつく。

セイルは穏やかに言った。

「肩が先に動く」

マキナは二射目を構える。

今度は肩を動かさず、手首で微調整する。

放つ。

セイルはまた避けた。

「視線が先」

三射目。

今度は視線を外して撃つ。

セイルは杖で矢を払った。

「呼吸が先」

マキナは息を止めた。

胸の奥の声が響く。

――呼吸停止、非推奨。

「少しだけ」

セイルが前に出る。

速くはない。

だが、マキナが退く場所に、すでに杖の先が置かれていた。

足首に衝撃。

マキナは体勢を崩し、すぐに骨刃を抜く。右へ逃げる。そこにも杖が来る。左へ踏み込む。セイルの膝が先に入り、マキナの進路を塞ぐ。

読まれている。

動きだけではない。

迷いまで、先に置かれている。

マキナは床を蹴り、距離を取った。

歓声が増す。

「撃てよ、北の!」

「昨日の白いやつ出せ!」

「読まれてんぞ!」

白いやつ。

マキナは右手を開きかけた。

腕輪の針が、かすかに黄へ振れる。

ノルンの声が頭に蘇る。

赤に入ったら棄権。右手での連続発動は禁止。射出も連発しない。

セイルが言う。

「撃つなら、右手」

マキナの指が止まる。

セイルは続けた。

「撃つ前に、胸が少し沈む。右肩が遅れる。視線は着弾点じゃなく、逃げ道を見る。君は相手を殺したくないから、中心を狙わない」

マキナは息を吸った。

この人は、強い。

強さの形が違う。

森の獣は、獲物の弱さを嗅ぐ。バゼルは力で押した。ラウドは重さで潰すのだろう。

セイルは、記録で奪う。

こちらが動く前に、動く理由を奪ってくる。

――射出成功率、低下。

「分かってる」

――接近戦、予測される可能性、高。

「それも分かってる」

――代替案、未確定。

マキナは床を見る。

鉄床。

昨日、バゼルと戦った床とは違うが、同じ地下闘技場の鉄だ。観客席の振動が伝わっている。ガルドが第三床で誰かを叩きつける音。第一床で槍が弾かれる音。観客の足踏み。歓声。怒号。鐘の余韻。

セイルは、マキナを見ている。

マキナの肩。視線。呼吸。足運び。

なら。

マキナは弓を下ろした。

セイルの眉がわずかに動く。

マキナは右へ踏み込む。

セイルが先に動く。

そこへ、マキナは行かなかった。

踏み込んだ足で、床を強く叩く。

音が響く。

ただの足音。

セイルの記録板が小さく震えた。

マキナは次に左へ動く。だが、その前に弓の先で床を叩く。さらに、骨刃の柄で鉄床を打つ。

三つの音。

三つの振動。

観客席の揺れと混じる。

セイルの目が細くなる。

「何を」

マキナは答えない。

肩を動かす。視線を逃がす。呼吸をわざと乱す。

撃つ前兆を作る。

だが、撃たない。

セイルが半歩ずれる。

そこへも行かない。

マキナは床に手を触れた。

ほんの少しだけ、波を流す。

撃つのではない。

押すのでもない。

混ぜる。

鉄床を伝う振動の中に、自分の足音と、観客の叫びと、隣の試合の衝撃を混ぜる。セイルが読んでいるリズムを、ほんの少しだけ濁らせる。

腕輪の針が黄へ触れた。

まだ赤ではない。

セイルが踏み込む。

その足元で、鉄床が小さく鳴った。

大きな変化ではない。滑らせるほどでも、跳ね上げるほどでもない。

ただ、足裏に伝わるはずの硬さが、一瞬だけ遅れた。

セイルの重心がずれる。

マキナはその瞬間を逃さなかった。

骨刃を逆手に持ち、前へ出る。

セイルは杖を上げる。間に合う。読まれている。

けれど、マキナは刃を振らなかった。

肩から体当たりする。

セイルの薄い身体が揺れ、杖が外れる。

マキナは骨刃の刃ではなく、柄をセイルの首横に添えた。

審判の鐘が鳴る。

「そこまで。勝者、マキナ」

歓声が上がった。

マキナはゆっくり息を吐いた。

右手を見る。

震えはない。

腕輪の針は黄色域の手前で揺れている。

まだ、大丈夫。

セイルは首横を押さえ、少し笑った。

「記録を汚された」

「すみません」

「謝ることじゃない。いい手だった」

セイルは記録板を一枚外し、表面を見た。そこには細かな光の線が走っていたが、一部が乱れている。

「君は、撃つよりずっと嫌なこともできるんだね」

その言葉に、マキナは少し困った。

「褒めていますか」

「半分」

「残り半分は?」

「警戒」

セイルはそう言って、鉄床を降りた。

マキナも降りようとして、観覧席の上層を見上げた。

暗い窓。

そこに誰かがいるかは分からない。

だが、見られている気がした。

昨日よりも、はっきりと。

胸の奥の声が響く。

――監視可能性、高。

「知ってる」

――戦闘記録、増加。

マキナは腕輪を握った。

記録される。

測られる。

勝つたびに、先へ進む。

勝つたびに、自分の形が誰かの手元に残る。

それは、森にはなかった怖さだった。

試合後、マキナは診療室へ戻るようノルンに言われた。

言われたというより、廊下の途中で首根っこを掴まれた。

「黄色」

ノルンは腕輪を見るなり言った。

「赤ではありません」

「黄色を誇るな。黄色は注意。注意は、馬鹿が聞き流すための飾りじゃない」

「聞いています」

「聞いてるなら診療室へ歩く」

マキナは逆らわなかった。

診療室では、ノルンが右手と腕輪の針を確認した。大きな損傷はないらしい。ノルンは不満そうに、それでも少しだけ安堵したように鼻を鳴らした。

「撃たなかったのは良かった」

「撃ったら読まれそうだったので」

「理由は何でもいい。消費が少なかったなら結果はまし」

「勝ち方も見られると言いました」

「あんた、変なところだけ素直ね」

ノルンは記録板に何かを書き込む。

マキナは診療室の隅で、別の机に置かれた部品に気づいた。

薄い青灰色の装甲片。

透明な演算板。

エルシアの装備に似ていた。

「それ、エルシアのですか」

ノルンの手が止まった。

「見るなと言う前に見たわね」

「はい」

「正直でよろしい。腹立つけど」

ノルンは装甲片を布で覆った。

「冷却板の交換。あの子の装甲、無理してる」

「装甲が?」

「装甲も。本人も」

マキナは昨日見たエルシアの右手を思い出す。

震えていた。

本人は隠していた。

「止めないんですか」

「止めて止まる子に見える?」

「見えません」

「でしょうね」

ノルンは記録板を閉じた。

「エルシアは、勝てば選べると思ってる。ああいう子は、負けることより、選べなくなることを怖がる」

「選べなくなる」

「この街じゃ、よくあることよ」

その言葉は、妙に重かった。

診療室を出ると、廊下の空気が先ほどより冷たく感じた。

闘技場の歓声は続いている。誰かが勝ち、誰かが負けている。査定板に名前が書き換えられ、札の色が変わり、誰かが上へ進み、誰かが姿を消す。

姿を消す。

マキナはその言葉を、自分がどこから拾ったのか分からなかった。

待機所に戻る途中、細い階段のそばでエルシアを見つけた。

彼女は壁にもたれ、右手の手袋を外していた。手首から指先まで、薄い青白い線が皮膚の下に走っている。演算装甲の接続痕だろう。小さく震えている。

エルシアはマキナに気づくと、すぐに手袋を戻した。

「何」

「また震えてる」

「観察しすぎ」

「癖です」

「嫌な癖」

エルシアは壁から背を離した。

昨日と同じ、小柄な身体。薄い青灰色の装甲。けれど近くで見ると、装甲の縁には細かな傷が多い。新品ではない。何度も直して、何度も使っているものだった。

「勝ったんだって?」

「はい。セイルという人に」

「嫌な相手」

「知ってるんですか」

「一度やった。ずっと見てくるから気持ち悪い」

「エルシアも見られるのは嫌ですか」

「好きな人いる?」

「いないと思います」

「なら聞かないで」

エルシアは少しだけ笑った。笑ったというより、口元を動かしただけだった。

マキナは彼女の右手を見る。

「戦うと、痛いのか」

エルシアの目が細くなった。

「痛いだけなら、まだ安い」

「安い?」

「痛いのは自分のものだから。払えば済む」

「他にも払うものがあるんですか」

エルシアは答えなかった。

遠くで鐘が鳴る。

観客が沸く。

エルシアはその音を聞きながら言った。

「勝てば選べるって言ったでしょ」

「はい」

「負けたら、選ぶ側じゃなくなる」

「誰に選ばれるんですか」

エルシアはマキナを見た。

その視線は、昨日よりも少し冷たかった。あるいは、怖がっていたのかもしれない。

「知らない方が長生きするよ。北の現象使い」

「長生きだけが目的なら、森を出ていません」

エルシアは一瞬だけ黙った。

それから、呆れたように息を吐いた。

「ほんと、危ないね。あなた」

「よく言われます」

「言われたら直しなよ」

「努力します」

「それ、直さない人の言い方」

エルシアは階段を下りていった。

その背中を見送る。

勝てば選べる。

負けたら、選ぶ側じゃなくなる。

アッシュバルトの言葉は、短いのに重い。

マキナは右手首の腕輪を見た。

針は黒域に戻りつつある。

だが、完全には戻っていなかった。

午後の試合表が張り出されると、待機所の空気が変わった。

ざわめきが、熱に変わる。

「ラウド出るぞ」

「相手は?」

「北の白いの」

誰かが言った。

視線が一斉にマキナへ集まった。

マキナは掲示板を見る。

読めない文字の中に、自分の登録番号があった。

そして、その向かいに、ラウド=ガンザの名。

胸の奥で声が響く。

――強敵。重機義肢。近接戦危険。

マキナは、先ほど見たラウドの両腕を思い出した。

鉄と油と、生活の重さを背負った腕。

踏むしかない、と言った少年。

右手首の腕輪に触れる。

ノルンの条件。

赤に入ったら棄権。 右手での連続発動は禁止。 接触停止は一回まで。 射出を連発しない。

「分かってる」

――勝率、低下。

「それも分かってる」

――撤退選択肢、存在。

マキナは闘技場へ続く扉を見た。

その向こうで、鉄を打つような歓声が鳴っている。

「でも、見たい」

――理由、不明瞭。

「ラウドの戦い方も。俺の力がどこまでできるのかも。この街が、何を見ているのかも」

胸の奥が、かすかに沈黙した。

それから、声が告げる。

――観測価値、高。

マキナは少し笑った。

「だろ?」

扉が開く。

地下闘技場の熱が、廊下へ流れ込んできた。

鉄の梁が震え、吊り下げられた照明が小さく揺れている。観覧席の人々は、次の試合が始まる前から声を上げていた。誰かがラウドの名を叫び、誰かが「北の白いのに賭ける」と笑い、別の誰かが「腕一本くらい飛ぶぞ」と騒いでいる。

マキナは第二床の入口に立った。

右手首の腕輪は冷たい。

針は黒域に戻っている。だが、完全に眠っているわけではなかった。細い針先が、わずかに震えている。まるで、これから起きることを先に知っているようだった。

ノルンは入口の横に立っていた。

白衣の袖をまくり、片手に記録板、もう片方の手に小さな工具を持っている。医者なのか整備士なのか、やはりよく分からない格好だった。

「確認」

ノルンが言った。

「赤に入ったら棄権」

「はい」

「右手での連続発動は禁止」

「はい」

「接触停止は一回まで」

「はい」

「射出の連発は禁止」

「はい」

「新しいことを思いついたら、まずやめる」

マキナは少し黙った。

ノルンの目が細くなる。

「そこで黙るな」

「やめられるかどうか、状況によります」

「最悪の返事」

「でも、嘘をつくよりは」

「今は嘘をついてほしかった」

ノルンは深く息を吐いた。

それから、少しだけ声を落とす。

「ラウドの腕は、昨日のバゼルの外骨格とは違う。外から被せてる補助装備じゃない。あれは身体そのもの。止めようとして神経接続まで焼いたら、あの子は二度と腕を動かせなくなる」

マキナは第二床の向こうを見た。

ラウド=ガンザが、すでに鉄床の中央に立っている。

両腕の重機義肢は、近くで見るとさらに大きかった。肩口から太い金属の束が伸び、肘の回転軸には古い工房印が刻まれている。前腕部は戦闘用というより、岩を砕き、鉄材を押し曲げるための作業機械に近い。指先には人間の爪ではなく、摩耗した工具のような爪があった。

あれを止める。

壊さずに。

マキナは自分の右手を見る。

「撃てば、壊れますか」

ノルンは即答しなかった。

その沈黙が、答えだった。

「撃ち方による。でも、あんたはまだ撃ち方を選べるほど器用じゃない」

「なら、撃たない方がいい」

「勝つ気ある?」

「あります」

「その返事が一番怖い」

ノルンはマキナの腕輪に指を当てた。

「いい? マキナ。勝つことと、壊さないことと、生き残ること。三つ全部を拾おうとすると、たいていどれか落とす」

「三つ拾えたら?」

「奇跡」

「じゃあ、狙います」

ノルンは額を押さえた。

「ほんと、北の森は子供に何を教えてるの」

「狩りと、歌と、危ないものには近づくなという教えです」

「最後を守りなさいよ」

マキナは少しだけ笑った。

その時、胸の奥で声が響く。

――重機義肢。推定出力、バゼル個体の二・七倍以上。

「分かりやすいですね」

――直撃時、骨折および内臓損傷の可能性。

「分かりにくくしてほしかった」

――警告目的。

「ありがとう」

ノルンが怪訝そうに見た。

「また中の声?」

「はい」

「何て?」

「当たると危ないと」

「それは私でも言える」

「じゃあ、二人が同じ意見です」

「多数決で逃げなさい」

マキナは首を振った。

ノルンは何か言いかけたが、審判役の声がそれを遮った。

「第二床、次戦。マキナ、D仮。ラウド=ガンザ、D級。殺傷禁止。義肢炉心への意図的破壊は禁止。頭部、喉、心臓部への致命打は禁止。降参、場外、戦闘不能、または審判判断で終了」

観覧席が一段と沸いた。

「ラウド! 潰せ!」

「北の、今度も白いやつ見せろ!」

「義肢を壊すなよ、修理代が泣くぞ!」

ラウドは観客に向かって中指を立てた。重機義肢の指なので、それだけで鉄の板が立ち上がったように見える。

それからマキナを見た。

「逃げなかったな」

「逃げる理由はあります」

「じゃあ逃げろよ」

「逃げない理由もあります」

ラウドは鼻で笑った。

「面倒な奴」

「よく言われます」

「だろうな」

二人は鉄床の中央へ進む。

床には古い傷が無数に刻まれていた。刃物の線。外骨格の爪痕。焦げた跡。何か重いものが叩きつけられて凹んだ跡。

ここで、何人もの候補者が勝った。

何人もの候補者が負けた。

何人かは、もうここに戻ってこないのかもしれない。

マキナは足裏で鉄床の感触を確かめる。

硬い。

だが、完全に静かではない。地下闘技場全体の振動が、床を通じて微かに流れている。観客の足踏み、遠くの試合の衝撃、蒸気管のうなり、ラウドの重機義肢の駆動音。

波はある。

どこにでもある。

あとは、自分がどこまで触れられるか。

審判役が片手を上げた。

「始め」

鐘が鳴った。

ラウドが踏み込んだ。

速い。

重い。

その二つが同時に来る。

マキナは横へ跳んだ。さっきまで自分がいた場所を、ラウドの右腕が通過する。空気が押し出され、頬が叩かれた。鉄床に拳が落ちる。轟音。床が沈み、細かな鉄片が跳ねる。

当たれば、終わる。

そう思う前に、次が来た。

ラウドは拳を引き抜く動きのまま、左腕を横薙ぎに振った。人間の腕ならあり得ない角度。重機義肢の回転軸が唸り、巨大な前腕が鉄の棍棒のように迫る。

マキナは身を低くして潜った。

髪の先がかすめる。

頭上を通り過ぎた腕が、背後の鉄柱に当たった。鈍い音。柱が震え、観覧席から歓声が上がる。

「逃げ足はいいな!」

ラウドが叫んだ。

「森で覚えました」

「森の逃げ方で、工房の腕から逃げ切れるかよ!」

ラウドは続けて踏み込む。

マキナは短弓を構え、矢を放った。

狙いは肩の接続部。

矢は重機義肢の外殻に弾かれた。

火花が散るだけ。

二射目。

肘の回転軸。

弾かれる。

三射目。

足元。

ラウドは避けない。矢が靴の横に刺さっても、そのまま前へ来る。

バゼルとは違う。

外骨格の弱点を突いて止める戦いではない。ラウドの腕は、身体だ。装備ではなく、彼自身の一部になっている。

マキナは後退する。

ラウドは逃がさない。

右腕を床へ打ち込み、その反動で身体を前へ飛ばす。重機義肢を重りではなく、跳躍の支点として使っている。荒い。だが、身体に染み込んだ使い方だった。

胸の奥の声が響く。

――射出形態、推奨。対象、右肩補助機構。

「壊れる」

――戦闘継続時、マキナ損傷確率上昇。

「それでも」

ラウドの拳が来る。

マキナは骨刃を抜き、受けずに流そうとした。

無理だった。

刃が触れた瞬間、腕ごと弾かれる。肩に衝撃。身体が浮く。マキナは床を転がり、息が詰まった。

観客が叫ぶ。

「いいぞラウド!」

「潰せ!」

「立て、北の!」

マキナは片膝をつく。

脇腹が痛む。

昨日の打撲が、今になって火を吹いたようだった。

腕輪を見る。

針は黄域の入口。

まだ赤ではない。

ラウドは歩いてくる。

「お前、変な力がなきゃ普通だな」

「普通です」

「普通の奴は、そんな顔で立たねえ」

マキナは立ち上がった。

右手が少し震えている。

だが、まだ動く。

「ラウドは、何のために内部区へ行きたいんですか」

ラウドの足が止まった。

「試合中に聞くことか」

「気になったので」

「馬鹿か、お前」

「よく言われます」

ラウドは奥歯を噛んだ。

「弟が三人いる」

その声は、観客の怒号に少しだけ沈んだ。

「下の工房区じゃ、肺をやられる。炉の煤と薬品の蒸気で、十になる前に咳が止まらなくなる奴もいる。内部区に入れりゃ、少しはましな空気がある。学校もある。医者もいる」

ラウドは両腕を持ち上げた。

「この腕は親父の借金で買った。俺が上がれば返せる。俺が勝てば、あいつらも上へ行ける」

マキナは息を呑んだ。

ラウドは笑った。

怒ったような笑いだった。

「満足か、北の」

「はい」

「じゃあ、倒れろ」

ラウドが来た。

今度は先ほどよりも速かった。

言葉で止まる相手ではない。

むしろ、言葉にしたことで、ラウドの重さは増した。

マキナは後ろへ下がる。

一歩。

二歩。

背中に、冷たいものが触れた。

鉄床の端。

その向こうには補助員と候補者たちがいる。もしここでラウドの突進を避ければ、彼の重機義肢は場外の柵か人にぶつかる。審判が止めるかもしれない。だが、間に合わないかもしれない。

撃つ。

右肩の補助機構を撃てば、止められる。

ただし、壊れる。

ラウドの腕が。

彼の内部区への道が。

弟たちの空気が。

マキナの右手に白い光が集まりかけた。

腕輪の針が黄へ跳ねる。

――射出推奨。

胸の奥の声。

「違う」

――対象損傷を許容しない場合、回避推奨。

「避けたら、後ろに行く」

――代替案、演算中。

ラウドが迫る。

鉄の腕が、床を削りながら突進してくる。

マキナは右手を前へ出した。

撃つのではない。

押すのでもない。

置く。

どこに。

ラウドと自分の間。

ほんの一瞬でいい。

ほんの少し、角度を変えられればいい。

――質量化、成功率低。

「低くてもやる」

――負荷、推定赤域到達。

「少しだけでいい」

――形状指定、不完全。

「壁じゃなくていい」

マキナは息を吸った。

森で見た葉脈を思い出す。

蜘蛛の巣を思い出す。

雨を受ける大きな葉の薄さを思い出す。

硬くなくていい。

厚くなくていい。

ただ、力の向きを変えるための薄い殻。

白い光が、右手の前で震えた。

いつもの射出とは違う。

光は前へ飛ばなかった。空中に留まり、薄く広がった。紙よりも薄く、氷よりも脆そうな、半透明の白い膜。

観客の声が一瞬、遠くなった。

ラウドの重機義肢が、その薄い殻にぶつかった。

砕ける。

同時に、重い音が曲がった。

ラウドの突進は止まらない。止まるほど強い壁ではない。だが、拳の角度がわずかに逸れた。右腕がマキナの肩をかすめ、背後の柵ではなく鉄床の端を砕く。

衝撃で、マキナの身体が横へ弾かれる。

右腕に熱が走った。

血管の内側から白い火が流れるような痛み。

腕輪の針が赤へ跳ねた。

ノルンの叫びが聞こえた。

「マキナ!」

ラウドも体勢を崩していた。

重機義肢の重さが、自分自身を引っ張っている。右腕が逸れたことで、踏み込みの軸が外れ、膝が落ちる。鉄床に片膝をつく。

一瞬。

ほんの一瞬だけ、彼の左腕の制御レバーが開いた。

マキナは動いた。

右手は使わない。

左手で短剣を抜き、ラウドの左腕の外側へ滑り込む。刃で切るのではなく、柄で安全弁を叩く。続けて膝で義肢の内側を押さえ、肩の根元ではなく外部ロックだけを外す。

重機義肢が唸りを上げ、左腕の出力が落ちる。

ラウドが歯を食いしばる。

「てめえ!」

右腕が振り上がる。

だが、その動きは遅れた。

マキナは骨刃をラウドの首ではなく、重機義肢の喉元に相当する制御管の手前へ添えた。

そこを刺せば、腕は止まる。

だが刺さない。

ただ、止める位置に置く。

ラウドも分かったのだろう。

動きが止まった。

審判の鐘が鳴った。

「そこまで。勝者、マキナ」

一瞬、闘技場が静かになった。

それから、爆発したように歓声が上がった。

「今の何だ!」

「壁か?」

「白い板が出たぞ!」

「ラウドの突進を逸らしやがった!」

「北の、やるじゃねえか!」

マキナはラウドから離れようとした。

足が震えた。

右腕が、熱い。

いや、熱いのに冷たい。

皮膚の下を、白銀の細い線が走っている。血管のように、ひびのように。手首の腕輪は赤域に張り付いたまま、細かく震えていた。

胸の奥の声が遠い。

――負荷……過大。右上肢……損傷。ソウル……低下。

「分かってる」

声に答えたつもりだった。

だが、声は口から出ていなかったかもしれない。

ラウドが片膝をついたまま、マキナを見上げていた。

悔しさと、怒りと、別の何かが混じった顔だった。

「何で刺さなかった」

マキナは息を整えようとした。

うまく吸えない。

「腕を壊したら、困ると思って」

「試合中に、相手の事情考えてんじゃねえよ」

「でも、聞いたので」

ラウドは口を開き、閉じた。

それから、うつむいて小さく笑った。

「ほんと、馬鹿だな。お前」

「よく言われます」

「知ってる」

ラウドは立ち上がろうとした。

その前に、整備員が駆け寄って重機義肢を確認する。左腕の出力は落ちているが、炉心も神経接続も生きているらしい。整備員が頷くと、ラウドは露骨に息を吐いた。

その顔を見て、マキナも少しだけ安心した。

その直後、右腕の痛みが強くなった。

視界が揺れる。

鉄床が遠ざかる。

あ、と思った時には、膝が落ちていた。

観客の声が水の中のように濁る。

ノルンが駆け込んでくる。

「この馬鹿!」

第一声がそれだった。

マキナは答えようとした。

だが、声にならなかった。

ノルンの手が右腕を掴む。痛みで視界が白くなる。

「赤に入ったら棄権って言ったでしょ!」

「……勝った後、でした」

「屁理屈を言う元気があるなら黙って」

ノルンは腕輪を外し、別の器具を巻きつけた。冷たい薬液が皮膚に染みる。白銀の線が、少しだけ薄くなる。

ラウドが近くに立っていた。

「医者」

「何」

「こいつ、死ぬのか」

「死なせない」

「そうか」

ラウドは少し黙り、それからマキナを見た。

「次は潰す」

マキナはかすかに笑った。

「次は、避けます」

「避けるな」

「じゃあ、また考えます」

「腹立つな、お前」

ラウドは背を向けた。

その背中は、負けた少年のものではあった。だが、折れた者の背中ではなかった。

マキナはそれを見て、安心した。

そこで意識が途切れた。

目を覚ました時、天井は診療室のものだった。

煤けた白い板。吊るされた裸灯。壁際の薬瓶と工具。鼻の奥に薬品の匂い。

右腕は固定されていた。

肩から手首まで、硬い布と薄い金属板で押さえられている。指先は動く。だが、動かすと腕の内側で細い針が跳ねるような痛みが走った。

ノルンが横にいた。

椅子に座り、腕を組み、こちらを見下ろしている。

その顔は、怒っていた。

とても怒っていた。

「起きた?」

「はい」

「じゃあ説教する」

「今ですか」

「今。逃げられないから」

マキナは身体を起こそうとした。

ノルンが額を押さえて戻した。

「動くな」

「はい」

「赤に入ったら棄権って言った」

「入りました」

「入った後も動いた」

「勝てそうだったので」

「最悪」

ノルンは机の上から、外した腕輪を持ち上げた。針はまだ赤の近くで止まっている。

「これ、壊れかけを知らせる針って言ったでしょ」

「はい」

「壊れてから知らせる針じゃない」

「でも、鳴らなかったです」

「次から鳴るようにする。耳元で」

「それは困ります」

「困りなさい」

ノルンは腕輪を机に叩きつけた。

金属音が診療室に響く。

「これで分かったでしょ。あんたは戦うたびに強くなってるんじゃない。壊れる順番を、後ろへ押し込んでるだけ」

その言葉は、痛みよりも深く入ってきた。

マキナは右腕を見る。

固定具の隙間から、皮膚が見える。白銀の線は消えている。だが、そこにあったことを身体が覚えていた。

「さっきのは、何ですか」

ノルンが聞いた。

「壁、みたいなものです」

「みたいなもの」

「撃たずに、置こうとしました」

「置く?」

「波を束ねて、そこに留めて、形にする感じです。薄い殻みたいな」

ノルンは黙った。

記録板に何かを書こうとして、やめる。

「それ、今後は簡単にやらないで」

「危険ですか」

「質問が遅い」

「すみません」

「危険。かなり危険。あんたの身体の中で、熱と質量と圧力の帳尻を無理やり合わせてる。少なくとも、私の目にはそう見えた。普通の人間なら腕が裂ける」

「俺は裂けてません」

「血管は裂けかけた。ナノマシンが塞いだ。ルーメン断片が演算を肩代わりした。たぶんね」

ルーメン断片。

ノルンがその言葉を言った瞬間、マキナの胸の奥が小さく反応した。

ノルンも気づいたらしい。

「今のは推測。記録には書かない」

「なぜ」

「書いたら、あんたが売れるから」

マキナは黙った。

ノルンは顔をしかめる。

「いい? 今日から制限を増やす。射出は一試合二回まで。接触停止は一回。さっきの壁みたいなやつは、一日一回まで。赤に入ったら即棄権。破ったら、私が査定登録を止める」

「止められるんですか」

「完全には無理。でも治療拒否はできる」

「それは困ります」

「困りなさい。二回目」

マキナは少し息を吐いた。

右腕が痛む。

けれど、胸の奥には別の感覚もあった。

さっき、確かにできた。

撃つのではなく、置く。

波を形にして、質量を持たせる。

一瞬だけだった。

砕けた。

不完全だった。

それでも、ラウドの腕を壊さずに済んだ。

「ノルン」

「何」

「勝ちました」

ノルンの目が細くなった。

「その顔で言う?」

「でも、勝ちました。ラウドの腕も壊していません」

「自分の腕は壊しかけた」

「三つ全部は拾えませんでした」

ノルンは一瞬だけ、言葉を失った。

それから、深く深くため息をついた。

「……本当に、面倒な子」

「よく言われます」

「知ってる。何度も聞いた」

ノルンは椅子から立ち上がり、薬瓶を棚へ戻した。

「でも、あんたが今日やったことは評価される」

「評価?」

「ラウドの突進を正面から受けず、逸らした。義肢炉心を壊さず、安全弁と外部ロックだけ止めた。相手を殺さず、自分も死ななかった。査定としては悪くない」

「なら、D級ですか」

「たぶんね」

マキナは少しだけ胸が軽くなるのを感じた。

D級。

D仮ではなく。

この街で、ほんの少しだけ足場ができる。

「ただし」

ノルンの声で、その軽さはすぐ重くなった。

「上も同じものを見た」

上。

観覧室。

暗い窓。

マキナは天井を見た。

「また記録ですか」

「ええ。試合映像、負荷測定、出力分類。さっき、査定管理部から追加照会が来た」

「出したんですか」

「出さないと怪しまれる。出しすぎると捕まる」

「難しいですね」

「難しいの。だから患者は余計なことをしないでほしい」

ノルンは机の上から一枚の薄い記録板を持ち上げた。

「提出したのは、表向きの診断だけ。右腕の過負荷、波動干渉系の疑い、実体化は未確定。ソウルという単語も、ルーメン断片も書いてない」

「ありがとうございます」

「感謝するなら、次は赤に入る前に止まりなさい」

「努力します」

「その返事、信用しない」

ノルンは扉の方へ視線を向けた。

廊下では、誰かが慌ただしく走る音がしている。担架を運ぶ音。候補者の呻き声。遠くの鐘。

アッシュバルトの一日は、誰かが倒れても止まらない。

「少し寝てなさい」

「次の試合は?」

「今日は終わり」

「でも」

「終わり」

ノルンの声には、反論を許さない硬さがあった。

「D級昇格の判定は出る。あんたは寝てても進む。動かなくていい」

「動かないと、落ち着かないです」

「それは病気」

「治りますか」

「本人に治す気があれば」

マキナは黙った。

ノルンは諦めたように首を振った。

「まあ、寝台から落ちなければいい」

ノルンが診療室を出ていく。

マキナは一人になった。

右腕の痛み。

腕輪の赤い針。

ラウドの言葉。

弟が三人いる。

エルシアの声。

負けたら、選ぶ側じゃなくなる。

セイルの記録。

君は、撃つよりずっと嫌なこともできるんだね。

言葉が、闘技場の音と混ざって胸の中を回る。

マキナは目を閉じた。

胸の奥の声は、まだ少し遠い。

――戦闘終了。損傷、中。ソウル残量、低下。

「勝利」

マキナは呟いた。

少し間があった。

――勝利。

声が返した。

昨日と同じ言葉。

けれど、今日のそれは、どこか迷っているように聞こえた。

「お前も、迷うのか」

――不明。

「不明なら、一緒だ」

――理解、未達。

「それも一緒だ」

胸の奥で、白銀が小さく脈打った。

返事ではなかった。

だが、完全な沈黙でもなかった。

しばらくして、マキナは寝台を抜け出した。

ノルンがいれば怒鳴っただろう。だが、じっとしていると右腕の痛みばかりが大きくなる。診療室の扉を少し開け、廊下を覗く。

誰もいない。

いや、いないわけではない。人はいる。候補者、補助員、整備士、査定管理部の職員。だが、マキナを止めるノルンはいなかった。

マキナはそっと廊下へ出た。

右腕は固定されている。短弓は持っていない。骨刃と短剣だけ腰にある。歩くたびに脇腹が痛むが、耐えられないほどではない。

待機所へ向かう途中、階段の下でラウドを見つけた。

彼は床に座り込み、整備員に左腕を開かれていた。重機義肢の外殻が外され、中の歯車と導線がむき出しになっている。整備員が何か文句を言い、ラウドがさらに大きな声で言い返している。

「だから炉心は無事だって言ってんだろ!」

「無事でも軸が曲がってる! お前の腕は毎回こうだ!」

「勝ったら直せた!」

「負けただろ!」

ラウドは言葉に詰まった。

マキナに気づくと、整備員が舌打ちした。

「ほら、勝った方が来たぞ。修理代でも払ってもらえ」

「いらねえよ!」

ラウドは怒鳴った。

マキナは近づいた。

「腕、大丈夫ですか」

「大丈夫に見えるか」

「見えません」

「なら聞くな」

「でも、炉心は無事だと」

「聞いてたのかよ」

「聞こえました」

ラウドは不機嫌そうに顔を背けた。

整備員が小声で「変な会話だな」と呟いた。

マキナはラウドの左腕を見る。

外部ロックの部品が歪んでいる。だが、深い部分は傷ついていないように見えた。

「よかった」

ラウドが睨む。

「何が」

「腕が残って」

「お前な」

ラウドは一度、言葉を飲み込んだ。

それから低く言う。

「試合で相手の腕の心配すんな。舐められてる気がする」

「舐めてはいません」

「だったら何だ」

「ラウドは、上に行きたい理由があると言ったので」

「だから?」

「それを俺が壊すのは、違うと思った」

ラウドは黙った。

整備員も黙った。

遠くの歓声だけが聞こえる。

ラウドはやがて、舌打ちした。

「そういうの、負けた方が惨めになるって分かんねえのか」

「分かりませんでした」

「だろうな」

ラウドは天井を見上げた。

「でも、腕が残ったのは助かった」

声は小さかった。

観客の声に紛れれば消えるくらいの声だった。

マキナは聞こえたが、聞こえなかったふりをした。

「次は、俺が勝つ」

ラウドが言った。

「はい」

「はいじゃねえ。悔しがれ」

「次は負けないようにします」

「それでいい」

ラウドは少しだけ口元を歪めた。

それは笑みだったのかもしれない。

「あと、お前の白い壁。あれ、気持ち悪い」

「俺も少しそう思いました」

「自分で言うな」

整備員がラウドの腕を叩いた。

「動かすな。今度壊したら、本当に屑山送りだ」

「うるせえ」

マキナは軽く頭を下げ、その場を離れた。

待機所には、まだ熱が残っていた。

試合を終えた者、これから出る者、負けて座り込む者、勝って笑う者。人の匂い、鉄の匂い、夢の焦げる匂い。

掲示板の前には新しい紙が貼られていた。

D級昇格者。

マキナは文字が読めない。

だが、自分の登録番号を見つけた。

鉄札の番号と同じ。

その横に、Dの記号。

仮ではない。

D級。

胸の奥が少しだけ熱くなった。

アッシュバルトでの足場。

ほんの小さな、一枚の板。

その板に乗るために、右腕が軋んでいる。

「おめでとう」

横から声がした。

エルシアかと思った。

違った。

セイル=オルファだった。

彼は記録板を片手に、壁にもたれて立っていた。先ほどの試合の疲れはほとんど見えない。ただ、首横に薄い痣ができている。

「D級」

「ありがとうございます」

「これで小任務を受けられる。外縁清掃、荷運び護衛、機械獣の残骸回収。死ににくい順に人気がある」

「死にやすいものも?」

「報酬が高い」

セイルは淡々と言った。

「それと、推薦待ちの名簿にも入る」

「推薦」

「上が君を欲しがれば、呼ばれる」

マキナは上層の観覧室を思い出した。

「それは、いいことですか」

セイルは少し笑った。

「誰が呼ぶかによる」

「セイルは呼ばれたことが?」

「一度。断った」

「断れるんですか」

「形式上は」

「実際は?」

セイルは記録板を閉じた。

「断った後、しばらく仕事が減った」

アッシュバルトの秩序。

荒いが無法ではない。

だが、秩序の形は、誰かの手で握られている。

セイルは声を落とした。

「最近、適性持ちがよく呼ばれる」

「適性持ち?」

「ナノマシン適合者。旧文明遺物に触れても壊れない者。外文明の装備と相性がいい者。珍しい身体の者」

マキナの背中に冷たいものが走る。

珍しい身体。

ノルンの言葉。

珍しい人間も売られる。

「呼ばれた人は、戻るんですか」

「戻る者もいる。戻らない者もいる。戻った者が、同じとは限らない」

「どういう意味ですか」

セイルは答えなかった。

代わりに、視線を少し動かした。

通路の向こうに、灰色の制服を着た査定管理部の職員が二人立っていた。彼らはこちらを見ているようで、見ていないふりをしている。

セイルは普通の声に戻した。

「君の記録は、面白い」

「それは褒めていますか」

「今回は警告」

そう言って、セイルは去っていった。

マキナはその背中を見送る。

胸の奥の声が響く。

――警戒対象、増加。

「多いな」

――環境危険度、上昇。

「アッシュバルトは、ずっとそうなんだろうな」

返事はなかった。

マキナはエルシアを探した。

待機所にはいない。

冷却区画にもいない。

診療室前にもいない。

彼女が壁にもたれていた細い階段のそばにも、姿はなかった。

代わりに、床に小さな部品が落ちていた。

薄い青灰色の金属片。

演算装甲の冷却板の留め具のようだった。片側が焦げ、もう片側に透明な線が走っている。

マキナは拾い上げた。

指先に、わずかな熱が残っている。

誰かが最近まで使っていたもの。

マキナは周囲を見回す。

「エルシア?」

返事はない。

階段の上では候補者が笑い、下では整備員が怒鳴っている。誰も気にしていない。エルシアがここにいないことも、床に部品が落ちていることも、この街にとっては大したことではないようだった。

マキナは部品を握った。

右腕が痛む。

その痛みで、ノルンの言葉を思い出す。

今日は終わり。

動かなくていい。

でも。

「何してるの」

背後から声がした。

振り返ると、ノルンが立っていた。

表情が険しい。

マキナは手の中の部品を見せた。

「これ、エルシアのものですか」

ノルンの顔色が変わった。

ほんの一瞬。

だが、マキナには分かった。

ノルンはすぐに部品を奪い取った。

「どこにあった」

「階段の下です」

「誰か見た?」

「いません」

「エルシアは?」

「探しました。でも」

ノルンは舌打ちした。

それから、周囲を見回す。査定管理部の職員たちがいる。候補者たちがいる。壁には記録管が走っている。

ここでは、大きな声を出せない。

ノルンは低く言った。

「マキナ。今日はもう部屋に戻りなさい」

「でも」

「戻りなさい」

「エルシアは」

「私が確認する」

「俺も」

「右腕を見なさい」

マキナは言葉を止めた。

固定された右腕。

赤域まで跳ねた負荷針。

まだ戻らないソウル。

動きたい。

探したい。

問いただしたい。

だが、身体がそれについてくるとは限らない。

ノルンの目は厳しかった。

怒っている。

それ以上に、怖がっているようにも見えた。

「今のあんたが走っても、誰かを助ける前に倒れる」

「……分かっています」

「分かってるなら戻る」

マキナは部品を見る。

ノルンの手の中で、青灰色の小さな金属片が鈍く光っている。

エルシアの右手。

震えていた。

負けたら、選ぶ側じゃなくなる。

その言葉が、耳の奥で繰り返される。

「ノルン」

「何」

「戻ったら、教えてくれますか」

ノルンは答えなかった。

マキナは続けた。

「何か分かったら」

ノルンは少しの間、黙っていた。

それから、視線を逸らしたまま言った。

「教えられることなら」

それは、約束ではなかった。

でも、完全な拒絶でもなかった。

マキナは頷いた。

登録者用の雑魚寝部屋へ戻る道は、朝より長く感じた。

D級になった。

勝った。

セイルに勝ち、ラウドに勝った。

射出だけではない使い方も分かった。波を留め、薄い殻として置くことができた。壊さずに止める道もあると知った。

だが、右腕は痛む。

胸の奥の声は遠い。

エルシアはいない。

アッシュバルトの闘技場は、勝者を拍手で送り出す。敗者を笑い、次の試合を待つ。掲示板には名前が並び、札の色が変わる。

けれど、その名前がいつ消えるのか。

消えた時、誰が気づくのか。

マキナは雑魚寝部屋の寝台に腰を下ろした。

右手首に戻された腕輪を見る。

針は黄色と黒の境目で、まだ迷うように震えていた。

胸の奥で、白銀の声がかすかに響く。

――危険、増大。

「知ってる」

マキナは小さく答えた。

――行動制限、推奨。

「それも、知ってる」

窓のない部屋の向こうから、闘技場の歓声が遠く聞こえる。

勝てば、先へ進める。

そう思っていた。

けれどこの街では、勝った者ほど見られる。測られる。選ばれる。どこかへ振り分けられる。

マキナは固定された右腕を見た。

壊さずに勝ったはずだった。

それでも、何かが壊れ始めている気がした。

胸の奥の白銀が、かすかに脈打つ。

その鼓動を聞きながら、マキナは目を閉じた。

足を止める理由は、増えていた。

それでもまだ、進む理由の方が消えていなかった。