『レムナント・ヴェイル ― 現象使いのマキナ ―』

第4章 アッシュバルト襲撃事件

右腕が、夢の中でも痛んでいた。

マキナは、白い薄殻が砕ける音を聞いていた。

ラウドの重機義肢がぶつかり、薄い殻が割れ、白い破片が鉄床の上に散る。砕けた光は雪のようで、けれど冷たくはない。熱い。腕の内側から血管を焼き、骨の奥へ針を刺してくるような熱だった。

その熱の向こうで、誰かが言う。

――危険、増大。

マキナは答えようとした。

知ってる、と。

だが、声が喉まで上がらない。

代わりに、エルシアの声が聞こえた。

負けたら、選ぶ側じゃなくなる。

目を開けた。

天井は雑魚寝部屋のものだった。

鉄の梁。煤けた板。裸灯の鈍い光。朝なのか夜なのか分かりにくい薄暗さ。アッシュバルトでは、空を見るまでは時間が分からない。地下と煙と鉄の音が、朝も夜も同じ色にしてしまう。

マキナはしばらく動かなかった。

右腕は胸の上に固定されている。肩から手首まで薄い金属板と硬い布で覆われ、指先だけが外に出ていた。指は動く。動くが、少し曲げるだけで手首の奥に細い痛みが走った。

昨日の痛みより、少し鈍い。

鈍くなっただけで、消えてはいない。

右手首には、ノルンの負荷計が戻されていた。三本の針のうち一本は、黒域と黄域の境で迷うように揺れている。眠っている間も、身体はまだ何かを処理し続けているらしい。

胸の奥に意識を向ける。

白銀の断片は、ある。

だが、声は遠かった。

いつもなら、起きた瞬間に何か言う。右腕の状態。睡眠不足。周囲の危険。発声不要。そんな、少しずれた警告が返ってくる。

今日は、しばらく沈黙していた。

「……おい」

小さく呼ぶ。

隣の寝台で誰かがうめき、寝返りを打った。

胸の奥で、ようやくかすかな声がした。

――覚醒確認。右上肢、負荷残留。

「遅い」

――応答遅延。ソウル残量、低下。

「まだ低いのか」

――回復中。急速行使、非推奨。

マキナは天井を見上げた。

「知ってる」

昨日、何度もそう言った。

知っていると言いながら、結局止まれなかった。

勝った。

セイルに勝ち、ラウドにも勝った。D級にもなった。

それなのに、右腕は動きにくく、胸の奥の声は遠い。勝つことは前へ進むことだと思っていた。けれど、前へ進むたびに、何かが背中から剥がれていく気がした。

マキナは上体を起こした。

雑魚寝部屋の候補者たちは、半分ほどがすでにいなかった。試合に出る者、仕事を探す者、治療に行く者。残っている者は、怪我をしているか、金がないか、あるいはその両方だった。

隣の寝台の男が片目を開ける。

「北の。腕、まだついてんのか」

「ついてます」

「ちっ。賭け外した」

「何に賭けたんですか」

「お前の腕が朝までに外れるかどうか」

マキナは少し考えた。

「外れたら、賭け金は誰が受け取るんですか」

男はしばらく黙り、それから毛布を頭までかぶった。

「変な返しすんな。頭痛くなる」

マキナは寝台を降りた。

床は冷たい。足裏に鉄の温度が移る。顔を洗う水桶の水は濁っていたが、眠気を落とすには十分だった。

右腕を濡らさないように気をつけながら顔を洗うと、桶の水面に自分の顔が揺れた。

少し青白い。

森を出た時より、確実に疲れている。

だが、目はまだ前を見ていた。

マキナは鉄札を首から下げる。

D級。

昨日までのD仮とは違う、小さく刻印が追加された札だった。重さはほとんど変わらない。けれど首に当たる感触だけが、少し違う気がした。

雑魚寝部屋を出る。

廊下には朝のアッシュバルトが流れていた。候補者たちの足音。工具箱を下げた整備員。担架を運ぶ補助員。壁の蒸気管がうなり、天井の灯りが不機嫌に瞬いている。

昨日と同じ朝。

だが、マキナには何かが欠けているように感じた。

青灰色の装甲。

皮肉な声。

震える右手。

エルシア=レイン。

マキナは、登録掲示板へ向かった。

掲示板の前には、もう人だかりができていた。今日の試合表、D級任務の募集、修理費の未払い一覧、負傷者の診療順、昇格者の名前。紙と金属板が何層にも貼られ、古い情報は煤と油で黒くなっている。

マキナは自分の番号を探した。

D級欄に、確かにある。

昨日の勝利は記録されていた。

次に、エルシアの名前を探す。

彼女はD級ではなかった。もっと上の候補者欄。演算装甲適性者。上位査定候補。

その欄に、名前がなかった。

マキナは見落としたのかと思い、もう一度探した。

ない。

昨日まで彼女の名前があった場所には、薄い金属板が上から貼られていた。

そこには短く、こう記されている。

内部推薦により登録移管。

マキナはその文字を、ゆっくり読み上げるように見た。

内部推薦。

登録移管。

隣にいた候補者が鼻を鳴らした。

「いいご身分だな。演算装甲持ちは早い」

「これは、いいことなんですか」

マキナが聞くと、候補者は肩をすくめた。

「内部推薦だろ。普通は喜ぶ。ここで腕飛ばしてるより、よっぽどましだ」

「本人が何も言わずに?」

「言う相手がいなきゃ言わねえだろ」

候補者は笑って去っていった。

マキナは掲示板から目を離せなかった。

昨日、エルシアは階段のそばにいた。

右手が震えていた。

冷却板の留め具が落ちていた。

ノルンはそれを見て、表情を変えた。

本人が望んで内部推薦を受けたのなら、あの部品はなぜ落ちていたのか。

なぜ何も言わなかったのか。

負けたら、選ぶ側じゃなくなる。

マキナは受付へ向かった。

受付には、細い眼鏡をかけた男が座っていた。昨日まで見た女ではない。書類をめくる手は速く、目はほとんど人を見ていない。

「エルシア=レインについて聞きたいんです」

男は書類から目を上げずに言った。

「等級」

「D級です」

「問い合わせ対象との関係」

マキナは少し詰まった。

関係。

同じ候補者。会話した相手。右手が震えていた少女。自分に危ないと言った人。

「知り合いです」

「親族または契約保証人ではない?」

「違います」

「なら開示できない」

「掲示板に内部推薦とありました。本当に本人が望んだんですか」

男の手が止まった。

ゆっくり顔を上げる。

「候補者エルシア=レインは、上位推薦により登録区分が移管された。本人意思確認済み。これ以上の情報は、同等級以下には開示できない」

「昨日、彼女の装甲部品が落ちていました」

「装備の破損は珍しくない」

「本人はいません」

「登録移管済みだからだ」

「でも」

「D級になったばかりの君が首を突っ込むことじゃない」

言葉は丁寧だった。

だが、鉄の扉のようだった。

マキナは拳を握りかけ、右腕の痛みに止められた。固定具の下で、細い痛みが跳ねる。

胸の奥の声が低く響く。

――交渉継続、効果低。

「分かってる」

受付の男が眉をひそめた。

「何か?」

「いいえ」

マキナは一歩下がった。

その時、男の机の端に一瞬だけ見えた記録板が目に入った。

エルシアの名前。

その横に、時刻。

昨日の午後、マキナがラウドと戦うより少し前の時刻だった。

マキナは目を細める。

昨日、ラウド戦の前、エルシアは階段のそばにいた。右手を隠して、マキナと話した。

内部推薦の処理時刻が、それより前。

胸の奥が冷えた。

男は記録板を伏せた。

「次の方」

後ろに並んでいた候補者がマキナの肩を押した。

「終わったならどけ」

マキナは受付を離れた。

廊下の音が遠くなる。

登録移管。

本人意思確認済み。

処理時刻。

冷却板の留め具。

全部が、うまく噛み合わない。

噛み合わないものを、誰かが無理やり噛み合わせたように見える。

診療室へ向かうと、扉は閉まっていた。

中からノルンの声がする。

「だから、その足で試合に出るなら、先に遺書を書けって言ってるの」

「ちょっと捻っただけだ!」

「捻った足が紫色になるなら、私の知ってる捻挫とは違う」

「明日なら」

「明日も駄目」

「明後日」

「出ていけ。次」

扉が開き、片足を引きずった候補者が出てきた。マキナを見るなり、固定された右腕へ視線を落とす。

「お前も怒られに来たのか」

「たぶん」

「がんばれ」

候補者はなぜか励まして去っていった。

マキナが中へ入ると、ノルンは机に向かったまま言った。

「右腕を見せるなら座りなさい。試合に出たいなら帰りなさい」

「エルシアのことです」

ノルンの手が止まった。

ほんの一瞬。

だが、マキナには分かった。

「掲示板で、内部推薦により登録移管になっていました」

「そう」

「受付は本人意思確認済みと言いました」

「そう」

「でも、処理時刻がおかしい」

ノルンが振り返った。

目が鋭い。

「見たの?」

「見えました」

「覗いたんじゃなく?」

「見えました」

「同じよ、そういう時は」

ノルンは立ち上がり、診療室の扉を閉めた。鍵まではかけない。ただ、外の音が少し遠くなる。

「どこまで見た」

「処理時刻が、昨日のラウド戦より前でした。でもその時、エルシアはまだ階段のそばにいました」

ノルンは唇を噛んだ。

それから、棚の上に置かれた青灰色の部品へ視線を向けた。昨日マキナが拾った冷却板の留め具だ。布に包まれているが、形は分かる。

「やっぱり」

「やっぱり?」

「独り言」

「ノルン」

「今のあんたが首を突っ込むことじゃない」

同じ言葉だった。

受付の男と同じ。

だが、声の温度は違った。

受付の男は、扉を閉めるために言った。

ノルンは、マキナを押し戻すために言っている。

「どうしてですか」

「右腕を見なさい」

「見ています」

「見てそれなら、目が悪い」

ノルンはマキナの固定具を軽く叩いた。痛みが走り、マキナは肩を揺らす。

「昨日、赤域を振り切った。薄殻だか壁だか知らないけど、あれをもう一度やったら腕が使えなくなるかもしれない。射出だって危ない。今走っても、誰かを助ける前に倒れる」

「でも、エルシアが」

「分かってる」

ノルンの声が低くなった。

「分かってるから止めてるの」

マキナは言葉を失った。

ノルンは苛立ったように髪をかき上げた。

「探すな、とは言わない。でも今走るな」

「走らないと、間に合わないかもしれない」

「走った先にいる連中は、あんたが試合で倒した候補者とは違う。勝って終わりにしてくれない」

「誰ですか」

ノルンは答えなかった。

答えないことで、知っていると分かった。

マキナは一歩近づく。

「ノルンは、何を知ってるんですか」

「知ってることを全部話せば、あんたはもっと走る」

「話さなくても走ります」

「最悪」

ノルンは椅子に座り、顔を覆った。

しばらく沈黙があった。

外では誰かが怒鳴り、工具箱が落ちる音がした。診療室の中だけ、空気が重い。

「エルシアの装甲は、冷却板なしで長く動かせない」

ノルンが言った。

「昨日の部品、やっぱり彼女のですか」

「断定はしない。でも、あの規格の演算装甲を使ってる候補者は少ない」

「内部推薦なら、装備を整えてから行くはずです」

「普通ならね」

「普通じゃないんですね」

ノルンは目を閉じた。

「この街の普通は、何度も上書きされる」

「それじゃ分かりません」

「分からないように言ってるの」

マキナは右手を握ろうとして、痛みでやめた。

「エルシアは言いました。負けたら、選ぶ側じゃなくなるって」

ノルンの目が揺れた。

「それを、今思い出したら止まれません」

「止まれないことを誇るな」

「誇ってません」

「なら怖がりなさい。ちゃんと」

マキナは息を吸った。

怖い。

その言葉は、胸の中にあった。

エルシアが消えたことも、受付の記録も、ノルンが何かを知っていることも。自分の右腕がまた壊れるかもしれないことも。

怖い。

けれど、怖いから動かないという形にはならなかった。

「怖いです」

マキナは言った。

「でも、知らないふりをする方が、もっと怖い」

ノルンはマキナを見た。

長い沈黙。

やがて、彼女は机の引き出しを開け、小さな包みを取り出した。

「これを持っていきなさい」

包みの中には、細い金属針が三本と、小さな薬瓶が入っていた。

「麻痺止めと痛覚抑制じゃない。逆。痛みを鈍らせない薬。腕が限界に近づいたら痛みが強くなる」

「嫌な薬ですね」

「いい薬よ。止まる理由をくれる」

「止まれるかは」

「そこは黙る」

ノルンはさらに、負荷計の留め具を調整した。

「赤域に入ったら、今度は音が鳴る」

「本当に?」

「耳元で鳴るって言ったでしょ」

「困ります」

「困りなさい」

ノルンはマキナの右腕を見た。

その目は怒っている。

けれど、怒りの下に、別のものがある。

「一人で行くな」

「誰に」

「記録が欲しいなら、セイル。道が欲しいなら、ラウド。噂が欲しいなら、バゼル」

マキナは目を見開いた。

「協力してくれるでしょうか」

「さあ。でも、あんたよりは街を知ってる」

「ノルンは?」

「私は行かない」

「なぜ」

「私が動くと、動いたことが残る」

その言い方が、妙に引っかかった。

「どういう意味ですか」

「まだ知らなくていい」

「またそれですか」

「便利なのよ、大人には」

ノルンは扉を開けた。

「行くなら、まず聞く。走るのは最後」

「はい」

「返事はいい。信用しないけど」

マキナは診療室を出ようとして、振り返った。

「ノルン」

「何」

「ありがとうございます」

「まだ礼を言う段階じゃない」

「でも」

「戻ってきたら聞く」

その言葉は、約束のようで、命令のようでもあった。

マキナは頷き、廊下へ出た。

最初に見つけたのは、セイル=オルファだった。

彼は登録所の奥にある古い記録閲覧台の前にいた。候補者用に開放されているのは、試合結果や等級表、任務掲示の写し程度だ。重要な記録は見られない。

だが、セイルはその開放記録の薄い隙間を読むように、何枚もの記録板を並べていた。

「来ると思った」

セイルは振り返らずに言った。

「なぜ」

「君は分からないことを放っておけない顔をしている」

「顔に出ますか」

「かなり」

マキナは隣に立った。

記録板には、名前と番号、等級、試合結果が並んでいる。マキナには読める部分と読めない部分が混じっていた。セイルの指先は、複数の記録板の時刻欄を行き来している。

「エルシアの記録を見ていますか」

「見られる範囲では」

「何か分かりましたか」

「記録は消せる。でも、消した跡は残る」

セイルは静かに言った。

「エルシア=レイン。昨日の午後、内部推薦により登録移管。本人意思確認済み。処理時刻は十四時二十三分」

「その時、彼女はまだ登録所にいました」

「だろうね。目撃記録がある」

「目撃記録?」

「候補者用の出入り記録は消されている。でも、診療室前の負傷者搬送記録に、彼女の装甲反応が引っかかっている。十四時四十一分」

マキナは息を呑んだ。

「処理の後に、まだいた」

「そう」

「おかしい」

「おかしい」

セイルは別の記録板を示した。

「彼女だけじゃない。ここ十日で、似た処理が六件ある。自主辞退が二件。内部推薦が三件。装備契約更新が一件。全員、身体適性の欄に何かある」

「身体適性」

「ナノマシン適合、旧文明遺物耐性、外文明装備高同期、混血反応。呼び方はいろいろ」

マキナは自分の胸に意識を向けた。

白銀の断片。

北方リムの血統。

外部装置なしの現象操作。

「戻った人は?」

「一人だけ。戻ってきた記録はある。でも、その後の試合記録がない。会話記録もない。次の月に自主辞退」

「会話記録まであるんですか」

「公式にはない」

セイルは少しだけ笑った。

「記録都市の人間は、公式ではない記録を信用する」

マキナはセイルを見た。

「どうして教えてくれるんですか」

「記録が消されるのは嫌いだ」

「それだけ?」

「それだけで十分」

セイルは記録板を閉じた。

「エルシアの装甲反応は、昨日の十五時前に登録区の西階段で途切れている。その後、工房区側の古い搬送路で似た反応が一度だけ出ている」

「搬送路」

「使われていないはずの地下輸送路」

マキナの胸が強く鳴った。

「そこへ行けば」

「何かはある」

「エルシアも?」

セイルは答えなかった。

その沈黙が、マキナの期待を少しだけ冷やした。

「君は、ラウドを連れて行くべきだ」

「なぜ」

「地下輸送路の入口は工房区にある。僕は位置までは絞れるが、道は分からない」

「ラウドなら知っている?」

「彼の腕は中古重機義肢。あの手の部品は、正規工房だけでなく地下の解体場にも流れる。彼なら入口を知っている可能性が高い」

「セイルも来ますか」

セイルは記録板を腰に戻した。

「僕は記録の消えた先を見たい」

それは、はいという意味らしかった。

ラウド=ガンザは、工房区の外れにいた。

登録所から工房区へ出ると、空気が変わる。地下闘技場の熱とは違う、生活の熱だった。炉の赤。蒸気の白。油で黒くなった床。鉄板を叩く音。子供たちが古い歯車を転がし、女たちが洗濯物ではなく煤けた布を水で叩き、男たちが義肢や工具を抱えて怒鳴っている。

ラウドは半分開いた作業小屋の中で、左腕の外殻を外されていた。

整備員が彼の重機義肢の内側を覗き込み、悪態をついている。

「お前、これ以上無茶したら本当に軸が死ぬぞ」

「昨日からそればっかりだな」

「昨日壊したからだろうが!」

ラウドはマキナに気づくと、露骨に嫌な顔をした。

「何しに来た」

「聞きたいことがある」

「俺は忙しい」

「エルシアが消えた」

ラウドの顔から、少しだけ苛立ちが消えた。

整備員も手を止める。

「演算装甲の女か」

「はい」

「内部推薦じゃねえのか」

「記録がおかしい」

セイルが横から言った。

「処理時刻と目撃時刻が合わない。工房区側の地下輸送路に装甲反応が残っている」

ラウドはセイルを睨んだ。

「何でお前もいる」

「記録が消されたから」

「意味分かんねえ」

「よく言われる」

マキナは少しだけセイルを見た。

自分以外にも、よく言われる人がいるらしい。

ラウドは舌打ちした。

「地下輸送路なんて、半分は塞がってる。残り半分は使っちゃいけねえことになってる」

「ことになってる?」

「実際には使ってる奴がいる。工房区の廃材運び、密造部品の搬送、税を払いたくねえ商人。それから、灰色の輸送車」

「灰色の輸送車」

ラウドは整備員を見た。

整備員は黙って、外へ出ていった。聞かなかったことにする、という態度だった。

「夜中に通る。音が静かすぎる車だ。普通の荷車じゃねえ。炉音も薄い。車輪も鳴らない。けど、重いものを運んでる」

「見たことがあるんですか」

「弟が見た」

ラウドの声が少し低くなった。

「下の二人は、夜に屑鉄拾いに行く。そこで見た。灰色の外套の連中が、担架みたいなのを運んでたって言ってた」

「担架」

マキナの右腕が痛んだ。

エルシアの装甲部品。

冷却板なしで長く動かせない身体。

「入口を知っていますか」

ラウドは黙った。

「教えてください」

「教えたら、お前は行くだろ」

「はい」

「右腕、それで?」

「はい」

「馬鹿か」

「よく言われます」

「知ってる。俺も言った」

ラウドは立ち上がろうとして、整備途中の左腕が鳴った。顔をしかめる。

「行くな。あの道は喧嘩の場所じゃねえ。道を知ってる奴でも迷う。知らねえ奴は戻れねえ」

「それでも行きます」

「だから馬鹿だって言ってんだ」

ラウドは歯を食いしばった。

「……お前、昨日俺の腕を壊さなかったな」

「はい」

「それで借りを作ったとか、思ってねえからな」

「思ってません」

「俺は思ってる」

マキナは黙った。

ラウドは整備台の横に置かれた重い外套を掴み、肩にかけた。

「案内だけだ。戦うつもりはねえ」

「でも腕が」

「右腕は動く。左は半分。十分だ」

「無理は」

「お前に言われたくねえ」

確かにそうだった。

セイルが記録板を確認する。

「入口は?」

「鉄屑市場の奥。昔の貨物昇降機跡。今は溶接板で塞がってることになってる」

「ことになっている」

「気に入ったか、その言い方」

「便利だ」

ラウドは舌打ちした。

三人が工房区を抜けようとした時、路地の角から声がした。

「おい、北の」

バゼル=オルクだった。

右肩の固定具はまだついているが、歩く分には問題なさそうだった。片手に串焼きのようなものを持っている。

「今度は何だ。怪我人三人で散歩か」

「エルシアを探しています」

マキナが答えると、バゼルの表情が少し変わった。

「演算装甲の?」

「はい」

「やめとけ」

即答だった。

ラウドが眉を上げる。

「知ってるのか」

「噂ならな」

バゼルは串焼きの肉を一口かじり、声を落とした。

「適性持ちが消える話は前からある。内部推薦、自主辞退、装備契約更新。言い方はその時で違う。だが戻らねえ奴がいる。戻っても、目が変わってる奴がいる」

「目?」

「見てるのに、見てねえ目だ」

バゼルは珍しく笑わなかった。

「調べようとした奴もいた。次の試合で潰された。偶然にしちゃ、相手が悪すぎた」

「誰がやってるんですか」

「知らねえよ。知ってたら言わねえ」

「どうして」

「死にたくねえから」

バゼルはマキナの固定された腕を見た。

「お前も、本当は行かねえ方がいい」

「でも、行きます」

「だろうな」

バゼルはため息をつき、串の残りを口に放り込んだ。

「鉄屑市場の奥へ行くなら、正面から行くな。昼でも見張りがいる。市場の裏に古い排水管がある。臭いが、近道だ」

ラウドが嫌そうな顔をした。

「あそこ通るのかよ」

「行きたいんだろ。臭いくらい我慢しろ」

「お前は来ねえのか」

「俺は怪我人だ」

ラウドが左腕を持ち上げる。

バゼルはそれを見て言った。

「お前は怪我人じゃなくて馬鹿だ」

「殴るぞ」

「その腕で? 整備士に怒られるぞ」

二人のやり取りは荒い。

だが、そこには昨日まで感じなかった距離の近さがあった。候補者たちは互いに敵でもあり、情報源でもあり、同じ街に試されている者でもある。

バゼルはマキナへ視線を戻した。

「北の。助けたいなら、怒るな」

マキナは意外に思った。

「バゼルがそれを言うんですか」

「俺が怒って勝てる顔に見えるか」

「少し」

「見る目ねえな」

バゼルは鼻を鳴らした。

「怒った奴は読みやすい。殴る場所も、走る方向も、捨てるものもな」

マキナは右腕を見た。

昨日、ラウドの腕を壊さなかった。

でも、今日エルシアの痕跡を見つけた時、自分が同じように止まれるかは分からなかった。

「覚えておきます」

「覚えるだけじゃ足りねえぞ」

「よく言われます」

「だろうな」

バゼルは軽く手を振り、路地の人混みに消えた。

鉄屑市場は、アッシュバルトの胃袋のような場所だった。

壊れた義肢、欠けた歯車、焦げた演算板、古い配管、裂けた装甲、用途不明の旧時代部品。使えなくなったものと、まだ使えると信じられているものが山のように積まれている。

匂いはひどい。

油、錆、焼けた布、酸、古い血、腐った水。

ラウドが先頭を歩き、マキナとセイルが続く。ラウドは人混みを乱暴に抜けていくが、市場の人間たちは文句を言わなかった。重機義肢の少年を知っているのだろう。あるいは、面倒を避けているだけかもしれない。

「こっちだ」

ラウドは市場の裏手へ回った。

そこには、背の低い鉄柵と、半分崩れた排水路があった。バゼルの言った排水管だ。黒い水が底を流れ、壁には油膜が虹色に光っている。

「本当にここを通るんですか」

マキナが聞くと、ラウドは振り返った。

「嫌なら帰れ」

「通ります」

「即答すんな。少しは嫌がれ」

「嫌です」

「遅え」

セイルは鼻元に布を巻いた。

「記録したくない匂いだ」

「記録しなくていいです」

マキナも布を巻き、排水管へ降りた。

中は狭かった。

ラウドの重機義肢が壁に擦れ、低い音を立てる。マキナは右腕を庇いながら進んだ。足元は滑る。黒い水は浅いが、何が混じっているのか分からない。天井の隙間から、市場の喧騒が遠く聞こえる。

胸の奥の声が、かすかに告げる。

――空気汚染。長時間滞在、非推奨。

「知ってる」

――右上肢保護、継続。

「それも知ってる」

――撤退経路、記録推奨。

「セイル、道を覚えていますか」

「覚えている」

セイルの声は布越しにくぐもっていた。

「ただ、この匂いを目印にはしたくない」

ラウドが鼻で笑った。

「アーカイブの坊ちゃんにはきついか」

「坊ちゃんではない」

「じゃあ何だ」

「記録者」

「もっと嫌だな」

狭い管の中で、短いやり取りが反響する。

少しだけ、緊張が薄れた。

だが、それは長く続かなかった。

排水管を抜けた先に、古い貨物昇降機跡があった。

天井は高く、円形の空洞が上へ伸びている。かつては大きな荷台が上下していたのだろう。今は鎖が切れ、壁には古い番号と警告文が残っている。床の中央には巨大な円形の鉄板があり、その一部が新しい溶接跡で塞がれていた。

使われていない場所にしては、新しい。

マキナは息を止めた。

壁の隅に、灰色の塗料がかすれている。

歯車と縦線。

初日に上位観覧室の男がつけていた徽章と同じ形。

胸の奥の声が反応する。

――既知徽章。鉄統局関連の可能性。

「ラウド」

「分かってる」

ラウドは声を低くした。

「普通の密輸じゃねえな」

セイルはしゃがみ込み、床の傷を見る。

「最近、重いものを通している」

「分かるのか」

「床の削れ方が新しい。ここだけ錆が剥がれている。それと、車輪跡が静かすぎる」

「静かすぎる車か」

マキナは呟いた。

バゼルの言葉。

灰色の輸送車。

マキナは円形の鉄板に近づいた。

その時、右手首の負荷計が小さく震えた。

戦闘ではない。

現象操作もしていない。

それでも、針がわずかに揺れる。

「どうした」

ラウドが聞いた。

「何かあります」

「何かって何だ」

マキナは答えられなかった。

胸の奥で、白銀の断片が微かに脈打つ。

――微弱波形。残留。外文明演算装備反応。

「演算装備」

セイルが顔を上げた。

「エルシアの装甲か」

「分かりません。でも、似ているかもしれない」

マキナは鉄板の端に視線を落とした。

そこに、小さな青灰色の欠片が挟まっていた。

昨日拾った冷却板の留め具より、さらに小さい。だが色は同じだった。

マキナは左手で拾い上げる。

指先に、冷たい感触。

そして、ほんのわずかに震えるような残響。

エルシアの右手。

隠すように手袋を戻した仕草。

痛いだけなら、まだ安い。

マキナの胸の奥で、何かが熱くなった。

ラウドが低く言う。

「当たりだな」

セイルは記録板を開いた。

「ここから先に、地下輸送路があるはずだ」

「開けられるか」

ラウドが円形の鉄板に手をかける。

だが、動かない。

重機義肢が唸る。鉄板は少し震えただけだった。

「固いな」

「壊すと音が出る」

セイルが言う。

「ならどうする」

マキナは鉄板に触れた。

右手は使えない。左手で、そっと。

鉄の下に、空洞がある。

音が違う。

中を風が通っている。遠くで機械が動いている。ごく小さな振動が、鉄板を通じて指先に伝わってくる。

マキナは力を使おうとして、右腕が痛んだ。

負荷計の針が黄へ揺れる。

まだ何もしていないのに。

ノルンの声が頭に響いた。

走るのは最後。

赤に入ったら止まれ。

痛みを止まる理由にしろ。

マキナは手を引いた。

「今は壊さない方がいい」

「じゃあ入口探しか」

ラウドが周囲を見回す。

セイルが壁の古い番号を指でなぞった。

「貨物昇降機には整備口があるはず。荷台が止まった時、人が入るための狭い通路」

「こっちだ」

ラウドは壁の端へ向かった。

そこには、錆びた小さな扉があった。上から廃材が立てかけられ、一見すると壁の一部にしか見えない。ラウドが廃材をどかし、右腕の指で扉の縁を掴む。

「音、出るぞ」

「待って」

セイルが記録板から細い金属片を取り出し、鍵穴に差し込んだ。

ラウドが眉をひそめる。

「お前、記録者じゃなかったのか」

「記録を閉じ込める鍵を開けることもある」

「便利な言い方だな」

小さな音がして、鍵が外れた。

扉が開く。

その向こうには、暗い階段が下へ続いていた。

空気が違う。

市場の腐った匂いではない。

もっと冷たく、乾いていて、金属と薬品の匂いがする。

マキナは喉を鳴らした。

胸の奥の声が、ゆっくり告げる。

――地下構造、確認。危険度、上昇。

「知ってる」

――撤退経路、確保推奨。

「セイル」

「記録している」

ラウドが先に降りようとした。

その時、下の暗闇から、低い機械音が聞こえた。

車輪の音ではない。

滑るような、ほとんど音のない駆動。

三人は動きを止めた。

階段の下、遠い通路を、灰色の光が横切る。

続いて、人の声。

面を通したようなくぐもった声だった。

「対象二名、安定。搬送準備完了」

別の声が答える。

「優先対象は別ルートだ。上位施設へ回せ」

マキナの指先が冷たくなった。

優先対象。

別ルート。

エルシア。

その名を呼びそうになった口を、ラウドの手が塞いだ。

重機義肢ではない。生身に近い肩口の、硬い手だった。

「声出すな」

ラウドが唇だけで言う。

セイルは記録板を抱え、壁に身を寄せている。

マキナは階段の下を見た。

灰色の装甲外套。

顔を覆う呼吸面。

腕に刻まれた歯車と縦線。

そして、担架のようなもの。

白い布で覆われた人影。

その指先が、かすかに動いた。

マキナの胸の奥で、白銀の断片が強く震える。

――捕獲装備。神経抑制波。危険。

声は遠い。

けれど、確かに警告していた。

ラウドの手が離れる。

「戻るぞ」

彼は小さく言った。

「今は無理だ。数が分からねえ」

マキナは動けなかった。

担架。

眠らされた候補者。

灰色の外套。

優先対象は別ルート。

エルシアは、ここにいないかもしれない。

でも、誰かはここにいる。

助けを待っているかどうかも分からないほど、静かにされている。

負荷計の針が、小さく震えた。

まだ黒域。

まだ動ける。

マキナは左手で、腰の短剣に触れた。

右腕は痛む。

胸の奥の声は遠い。

ノルンは一人で行くなと言った。

だから、一人ではない。

マキナはラウドとセイルを見た。

二人とも、暗闇の先を見ている。

怖い。

それでも、もう見なかったことにはできなかった。

階段の下で、灰色の外套の一人が言った。

「欠片は傷つけるな。生きたまま運べ」

その言葉は、鉄の階段より冷たかった。

欠片。

人を、そう呼んだ。

眠らされた候補者の指先が、白い布の下でかすかに動いている。誰かの手。誰かの身体。誰かの名前があるはずのもの。

それを、灰色の外套の者たちは、荷の状態を確かめるように見ていた。

マキナの喉の奥が熱くなる。

ラウドが低く言った。

「戻るぞ。今は数が分からねえ」

セイルも頷いた。

「この距離では記録が足りない。配置、人数、出口。全部不明だ」

分かっている。

二人の言葉は正しい。

右腕は固定されている。負荷計はまだ黒域にいるが、針は不安定に揺れている。胸の奥の声も遠い。ノルンは言った。走るのは最後。一人で行くな。赤域に入ったら止まれ。

分かっている。

それでも、灰色の外套が担架の横を通るたび、指先が震えた。

白い布の下にいるのはエルシアではないかもしれない。

でも、誰かだ。

誰かが、選ぶ側ではなくなっている。

マキナは短剣から手を離した。

ラウドが少し息を吐く。

その瞬間、階段の下で金属音がした。

灰色の外套の一人が、こちらを向いた。

呼吸面の奥で、赤い小さな光が灯る。

「熱源反応」

セイルが舌打ちした。

「見つかった」

ラウドがマキナの肩を掴んだ。

「下がれ!」

階段の下から、細い針のようなものが飛んできた。

ラウドが前へ出て、右の重機義肢を盾にする。針は鉄の外殻に刺さり、青白い火花を散らした。義肢の表面を、細い電流が走る。

「麻痺針だ!」

ラウドが歯を食いしばる。

「生身で食らうな!」

次の針が来る。

マキナは身を沈め、左へ避けた。右腕の固定具が壁に当たり、痛みが走る。負荷計の針が黄色の手前へ跳ねた。

まだ、力は使っていない。

ただ動いただけで、身体が悲鳴を上げる。

灰色の外套が三人、階段下に並んだ。手にしているのは槍に似た装備だが、刃ではない。先端に輪があり、そこから細い糸と針が射出される構造になっている。

捕獲用。

殺すためではなく、動けなくするための武器。

その事実が、かえって不気味だった。

「未登録侵入者三名」

一人が言った。

「一名、重機義肢。一名、記録装備。一名、北方登録者。白色反応候補」

マキナの背中が冷えた。

白色反応候補。

知られている。

少なくとも、見られている。

ラウドが低く唸る。

「お前、やっぱり目ぇ付けられてんじゃねえか」

「俺も、今そう思いました」

「呑気に返すな!」

灰色の外套が一斉に動いた。

ラウドが階段を駆け下りる。右の重機義肢を振り下ろし、先頭の一人を壁へ叩きつけようとする。だが、灰色の外套は正面から受けない。足元の小さな装置が光り、床に貼りつくように横へ滑った。

速いというより、滑らかだった。

戦うための動きではない。

捕らえるための動き。

ラウドの拳が床を砕く。火花と鉄粉が散る。灰色の外套の一人が側面から槍を突き出し、重機義肢の肘の隙間へ針を撃ち込んだ。

「ちっ!」

ラウドの左腕が一瞬、痙攣する。

整備途中の腕だ。反応が鈍い。

セイルが記録板を開き、短い金属片を投げた。金属片は床に刺さり、小さな音を立てる。灰色の外套の一人がそちらへ視線をずらした。

その隙に、マキナは走った。

右腕は使わない。

左手で短剣を持ち、担架へ向かう。

灰色の外套が振り返る。

「白色反応候補、接近」

その声に、何かがざらついた。

候補。

人ではなく、分類。

マキナは足を止めなかった。

針が飛ぶ。

身体が先に動いた。

床を蹴り、壁を掴み、浅く避ける。針は肩のすぐ横を通り、壁に刺さった。青白い波が広がり、空気が痺れる。皮膚の上を虫が這うような感覚。

胸の奥の声が響く。

――神経抑制波。接触回避。

「分かってる」

――射出、非推奨。右上肢負荷残留。

「左でやる」

――精度低下。

「それでも」

マキナは左手を前へ出した。

いつもより、光が集まるのが遅い。

右手ではないからか。

ソウルが低いからか。

それとも、胸の奥の声が遠いからか。

白い光は震えながら指先に集まり、細い束になった。

狙うのは人ではない。

担架を固定している拘束具。

射出。

白い線が走った。

担架の側面で火花が散り、鉄の拘束具が切れた。白い布の下の身体がわずかに揺れる。

灰色の外套が叫ぶ。

「対象搬送具、損傷。候補者捕獲を優先」

マキナへ二人が向かってくる。

ラウドが間に割って入った。

「こっち見ろ!」

重機義肢が横薙ぎに振られる。灰色の外套は後退したが、完全には避けきれない。一人の肩に当たり、壁へ叩きつけられる。だが倒れない。外套の内側に補助装甲が入っているらしい。

セイルが叫んだ。

「マキナ、左奥!」

左奥。

言われた瞬間、マキナは身をひねった。

灰色の外套が天井の管からぶら下がるように現れていた。槍の輪がこちらを向く。針ではない。細い糸が放たれる。銀色の糸が空中で広がり、網のように迫る。

避けきれない。

マキナは短剣を振るが、糸は絡みつくように刃を滑る。

胸の奥の声が警告する。

――拘束糸。現象伝導材混入。

「なら」

マキナは左手を床に向けた。

射出ではない。

床の振動を拾う。

足元を伝うラウドの踏み込み、灰色の外套の滑走、搬送機械の低い駆動音。それらを一瞬だけ束ね、糸の根元へ流す。

白い光が床を走った。

糸が弾ける。

完全には切れない。だが張力が乱れ、網がマキナの肩をかすめて壁へ絡みついた。右腕の固定具に少し触れただけで、腕全体に痺れが走る。

負荷計が鳴った。

鋭い音。

黒から黄へ。

耳元で直接針を鳴らされたような不快な音だった。

「うるさ」

――負荷上昇。行使停止推奨。

「まだ止まれない」

――右上肢、危険。

「左でやってる」

――全身負荷、連動。

そういうことか。

右腕を使わなくても、身体はひとつだ。

ソウルも、血も、神経も、都合よく分かれてはいない。

ラウドが灰色の外套二人を押し返している。だが、相手は殺しに来ない。距離を取り、針を撃ち、義肢の関節を狙う。ラウドの力を受けず、少しずつ動きを鈍らせていく。

セイルは記録板を盾のように使いながら後退していた。敵の歩幅と視線を読んでいるが、捕獲装備の数が多い。彼の頬に細い傷が走り、血が滲んでいる。

マキナは担架へ駆け寄った。

白い布をめくる。

そこにいたのは、エルシアではなかった。

若い男だった。候補者だろう。首元にD仮の鉄札がある。目は閉じられ、呼吸は浅い。手首と足首に薄い金属帯が巻かれている。皮膚の下に淡い緑の光がちらついていた。

ナノマシン適合者。

たぶん、そういうことなのだろう。

マキナは金属帯に短剣を差し込む。

硬い。

切れない。

灰色の外套の一人が言った。

「その対象に触れるな。保護対象だ」

「保護?」

マキナは顔を上げた。

「これが?」

「適性者の破損を防止している。無許可接触は損耗要因」

損耗。

その言葉で、何かが切れた。

「人だろ」

マキナの声は低かった。

「この人には、名前がある」

灰色の外套は答えない。

名前など、必要ないという沈黙だった。

マキナは左手を金属帯に当てた。

胸の奥の声が強く警告する。

――射出、非推奨。

「退いてくれない」

――ソウル残量、低下。

「まだ動ける」

――右上肢、危険域。

「まだ、助けてない」

白い光が左手に集まる。

さっきより荒い。

細く束ねる余裕がない。

マキナは歯を食いしばり、金属帯だけを狙った。

射出。

金属帯が弾けた。

同時に、負荷計が甲高く鳴る。

黄域の奥。

右腕の固定具の下で、血管が脈打つ。使っていないはずの右手の指先が勝手に震えた。

男の手首が自由になる。

マキナは足首の帯へ手を伸ばす。

その時、背中に衝撃が来た。

息が詰まる。

灰色の外套の一人が、槍の柄でマキナを殴ったのだ。刃ではない。殺すためではない。倒すための打撃。

マキナは床を転がった。

右腕を庇いきれず、固定具が鉄床にぶつかる。

視界が白く弾けた。

「マキナ!」

ラウドの声。

マキナは起き上がろうとした。

身体がうまく動かない。背中が痛い。右腕が熱い。胸の奥の声が遠い。

灰色の外套が近づいてくる。

「白色反応候補、捕獲優先へ変更」

その言葉に、ラウドが吠えた。

「勝手に決めてんじゃねえ!」

重機義肢が床を叩く。ラウドは正面の一人を弾き飛ばし、マキナの方へ来ようとする。だが、足元に銀糸が絡む。重機義肢の重量が仇になり、膝が落ちた。

セイルが糸の根元を指す。

「右の装置!」

ラウドが右腕を伸ばし、床に置かれた小さな発生器を潰した。糸が緩む。

だが、その間に別の二人が担架を動かし始めた。

奥の通路へ。

眠らされた候補者ごと。

マキナは立ち上がった。

ふらつく。

負荷計が鳴り続けている。

耳障りな音。

止まれと言う音。

ノルンの声。

止まる理由をくれる。

でも、その理由より、担架が遠ざかることの方が大きかった。

胸の奥の声が、弱く響く。

――行使停止、推奨。

「無理だ」

――ソウル残量、低下。危険。

「知ってる」

――マキナ生存、優先。

「今は、あの人たちもだ」

一瞬、声が止まった。

理解できなかったのかもしれない。

それとも、何かを考えたのかもしれない。

マキナは右腕を見た。

固定具。

負荷。

ノルンの制限。

そして、その奥にある白銀。

左手を前に出す。

撃つ。

一発目。

奥へ向かう灰色の外套の足元を撃つ。床が弾け、搬送台が傾く。担架が止まる。

二発目。

銀糸の発生器を撃つ。ラウドの足が自由になる。

三発目。

天井の管を撃つ。蒸気が噴き出し、灰色の外套の視界を奪う。

負荷計が赤へ跳ねた。

音が変わる。

鋭い警告音ではなく、耳の奥を削るような連続音。

右腕の固定具の隙間から、白銀の細い線が浮かび上がる。

ラウドが叫ぶ。

「もうやめろ!」

セイルも声を上げる。

「マキナ、ここで倒れたら全員終わる!」

分かっている。

だが、視界の奥で担架がまだ動いている。

灰色の外套が一人、眠らされた候補者の首元に装置を当てようとしていた。神経抑制を強めるつもりなのか、あるいは別の何かなのか。

その手つきが、道具を調整する手つきだった。

人に触れる手ではなかった。

マキナの中で、熱が広がる。

「やめろ」

白い光が、左手ではなく、身体の中心から漏れた。

胸の奥が熱い。

右腕の痛みが遠くなる。

それは危険な兆候だと、頭のどこかで分かっていた。

痛みが消えたのではない。

痛みを感じる余裕がなくなっている。

――実体化、非推奨。

声が遠く、細い。

「少しだけ」

――成功率、低。

「それでも」

――ソウル残量、不足。

「足りなくても」

――マキナ。

初めて、声が警告ではなく名前を呼んだ気がした。

マキナは足元に手をかざした。

床の振動。

蒸気の流れ。

搬送台の低い駆動音。

灰色の外套の呼吸面の音。

ラウドの重機義肢の唸り。

セイルの記録板が立てる小さな震え。

すべてが波だった。

すべてが、形になる手前のものだった。

マキナはそれを集める。

撃つのではなく、置く。

今度は薄殻ではない。

床から突き出す、白い杭。

複雑な形はいらない。

ただ、搬送台の進路を塞ぐ一本。

白い光が床に沈み、次の瞬間、半透明の質量が床から立ち上がった。

杭というより、歪んだ氷の柱だった。

搬送台がぶつかる。

白い柱は悲鳴のような音を立てて砕けたが、台は横転した。担架が床へ滑り、灰色の外套たちが体勢を崩す。

「今!」

ラウドが動いた。

重機義肢で灰色の外套を押しのけ、担架を掴む。セイルが拘束帯の留め具を探り、素早く外す。眠らされた候補者が床へ落ちそうになるのを、ラウドが肩で支えた。

助けた。

一人は。

その瞬間、マキナの足から力が抜けた。

胸の奥が、すっと冷えた。

白銀の脈動が遠ざかる。

音が消えていく。

いや、周囲の音はある。蒸気の噴き出す音。ラウドの怒鳴り声。セイルの呼吸。灰色の外套の足音。負荷計の赤い警告音。

けれど、胸の奥の声だけが消えていた。

「おい」

マキナは呼んだ。

返事はない。

「……聞こえてるだろ」

胸の奥は、空洞のように静かだった。

今まで、声はいつもそこにあった。

危険。逃走推奨。現象操作可能。負荷上昇。マキナ生存。

うるさいと思ったこともあった。

少しずれていると思ったこともあった。

けれど、それはいつも、自分の内側で鳴っていた。

今はない。

白銀の断片が消えたわけではない。あるはずだ。胸の奥に、その冷たい形は残っている。だが、脈動がない。答えがない。

マキナは膝をついた。

身体が重い。

右腕だけではない。

足も、背中も、肺も、全部が自分のものではないように遠い。

灰色の外套が近づいてくる。

「白色反応候補、活動低下」

「生体反応、不安定。拘束へ移行」

ラウドがマキナの前に立った。

「来るな!」

だが、彼も万全ではない。左腕は麻痺針を受け、動きが鈍い。右腕だけで前を塞ぐには、敵の数が多い。

セイルが記録板を構える。

「左から二、右から一。後方にもいる」

「分かっても、腕が足りねえ!」

灰色の外套の一人が床に装置を投げた。

小さな円盤。

そこから低い音が広がる。

ラウドの重機義肢が軋む。セイルが耳を押さえる。マキナの胃の奥が揺さぶられ、吐き気がこみ上げた。

音波攪乱具。

波を使うマキナにとって、最悪に近い装備だった。

波が乱れる。

床も、空気も、胸の奥も。

集められない。

形にできない。

そもそも、声が返らない。

灰色の外套がマキナへ拘束糸を向ける。

ラウドが動こうとするが、麻痺した左腕が遅れる。

セイルが金属片を投げるが、敵は読んで避けた。

糸が放たれる。

銀の網が、マキナへ落ちてくる。

その直前。

壁の蒸気管が破裂した。

白い蒸気が爆発のように吹き出し、銀糸を横へ叩き流す。灰色の外套たちが一斉に姿勢を崩した。

「伏せなさい!」

ノルンの声だった。

マキナは顔を上げる。

蒸気の向こうに、ノルン=ハザが立っていた。

白衣ではない。

短い外套の下に、工具と医療器具を詰めた帯を巻き、片手には見慣れない短銃、もう片方には赤い弁を握っている。診療室で見る彼女より、ずっと低く、硬い姿勢だった。

ただの登録医ではない。

その動きは、ここの構造を知っている人間のものだった。

ノルンは壁の制御盤へ工具を突き刺し、ひねった。古い搬送レールが悲鳴を上げ、床の一部がせり上がる。灰色の外套二人が分断された。

「ラウド、右の弁を潰して!」

「命令すんな!」

そう言いながら、ラウドは右腕で赤い弁を叩き潰した。さらに別の蒸気管が破裂し、通路が白く染まる。

「セイル、出口記録!」

「している!」

「マキナ、動くな!」

最後だけ、怒鳴り声だった。

マキナは動けなかった。

動く力がなかった。

ノルンは短銃を撃った。

弾は灰色の外套の胸ではなく、槍の根元に当たる。捕獲槍が火花を散らして停止した。続けて、彼女は腰の器具から細い針を投げる。針は別の外套の首元に刺さり、その人物は崩れるように膝をついた。

殺してはいない。

無力化している。

正確だった。

灰色の外套の一人が、蒸気の向こうで低く言った。

「ノルン=ハザ」

その名の呼び方が、奇妙だった。

登録医を呼ぶ声ではない。

逃げた者を見つけた時の声。

「まだ外縁で医者ごっこをしていたのか」

ノルンの表情は変わらなかった。

「ごっこで救える命もある。あんたたちの仕事よりは、まだましよ」

「回収対象への妨害は処罰対象だ」

「書類を持ってきなさい。読まずに燃やしてあげる」

灰色の外套が槍を構える。

ノルンは足元の制御盤を蹴った。

天井から古い鎖が落ちる。重い金属音。鎖は灰色の外套の足元に絡まり、動きを止めた。

ラウドがその隙に一人を壁へ叩きつける。セイルが拘束帯を外し終え、眠らされた候補者を通路脇へ引きずった。

ノルンはマキナの前に膝をついた。

「馬鹿」

第一声がそれだった。

マキナは笑おうとした。

うまくできなかった。

「……来て、くれたんですね」

「戻ってくるのが遅いからよ」

ノルンは負荷計を見る。

針は赤を振り切り、震えていた。

彼女の顔が一瞬、青くなる。

「最悪。ほんとに最悪」

「怒ってますか」

「怒る元気があるなら後で殴る。今は黙って息をしなさい」

ノルンは薬瓶を開け、マキナの首元に注射した。

冷たいものが血に入ってくる。

だが、すぐには楽にならない。

むしろ痛みが戻ってきた。

右腕。背中。肺。胸。

全部が一斉に叫び始める。

「痛い」

「生きてる証拠」

「嫌な証拠です」

「黙る」

ノルンはマキナの胸元に手を当てた。

「声は?」

マキナは一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。

それから、胸の奥を探る。

静か。

何も返ってこない。

「……聞こえません」

ノルンの手が止まった。

「完全に?」

「分かりません。いる感じはします。でも、返事がない」

「ソウル切れ。かなり深い」

ノルンは低く言った。

「何回使った」

マキナは数えようとした。

射出。

床。

拘束具。

発生器。

管。

金属帯。

白い杭。

「分かりません」

「最悪」

今日三回目くらいの最悪だった。

ノルンはマキナの固定具を確認し、応急用の黒い布を巻いた。布には細い銀線が縫い込まれていて、右腕の白銀反応を抑えるように冷たく締まる。

「立てる?」

「たぶん」

「たぶんは禁止」

「立てません」

「正直でよろしい」

その間にも、通路の奥では戦闘が続いていた。

しかし流れは変わっている。ノルンが制御した蒸気と搬送レール、ラウドの重機義肢、セイルの記録による誘導。三つが噛み合い、灰色の外套たちは奥へ後退し始めていた。

一人が叫ぶ。

「優先対象は搬送済み。残存対象の回収を中止。撤退」

優先対象。

マキナは反応した。

「エルシア……」

ノルンが唇を噛んだ。

「今は動くな」

「今の、エルシアのことですか」

「動くなと言った」

「ノルン」

「たぶん、そう」

その言葉は、刃のように入ってきた。

たぶん。

でも、ほとんど確信。

エルシアはここにいない。

もう別ルートで運ばれた。

マキナは立とうとした。

身体は動かなかった。

情けないほど、動かなかった。

床に手をつこうとしても、左腕に力が入らない。右腕は固定されたまま、ただ痛む。胸の奥に呼びかけても、声は返らない。

「行かなきゃ」

「行けない」

ノルンが言った。

「今のあんたは、一歩も行けない」

「でも」

「でもじゃない」

その声は厳しかった。

けれど、震えていた。

「今行っても、次に運ばれるのはあんたよ」

マキナは歯を食いしばった。

悔しい。

身体が動かないことが。

声が返らないことが。

エルシアがここにいないことが。

助けたいと思って、怒って、力を使って、それでも届かなかったことが。

灰色の外套たちは奥の通路へ退いていく。蒸気の向こうで、細い警告灯が赤く回っている。搬送台の一つは横転し、眠らされた候補者二人が床に残されていた。ラウドとセイルが彼らを引きずって、安全な位置へ移す。

助けた者はいる。

それは確かだった。

けれど。

エルシアはいない。

ノルンは壁の制御盤に手をかけた。

「この区画を閉じる。これ以上追えない」

「閉じたら、向こうに」

「向こうは別ルート。今このまま開けておけば、増援が来る」

「でも」

「選びなさい」

ノルンがマキナを見た。

「ここで残った二人を守るか、届かない相手を追うふりをして全員失うか」

マキナは息を呑んだ。

選ぶ。

また、その言葉。

エルシアは、選ぶ側じゃなくなると言った。

今、マキナも選ばなければならない。

救えなかった相手へ伸ばす手を、いったん下ろして、目の前の二人を守る。

それは正しいのか。

分からない。

でも、ここで意地を張れば、もっと失う。

マキナは唇を噛んだ。

「……閉じてください」

ノルンは頷いた。

制御盤を操作する。

重い鉄扉が、奥の通路で降り始めた。蒸気の向こう、灰色の外套の影が消えていく。

最後に、一人の声だけが聞こえた。

「白色反応候補、優先度を更新する」

鉄扉が閉じた。

音が、地下に沈んだ。

しばらく誰も話さなかった。

蒸気が薄れ、通路の全貌が見えてくる。

横転した搬送台。

折れた捕獲槍。

焼けた拘束糸。

床に散らばる白い実体化の破片。

その破片は、もう光を失い、ただの灰のように崩れていた。

マキナはそれを見た。

自分が作ったもの。

自分が壊したもの。

そして、自分が届かなかったもの。

ラウドが眠らされた候補者を背負って戻ってきた。左腕はほとんど動いていない。右腕だけで無理やり支えている。

「こいつらは生きてる」

セイルがもう一人の脈を取る。

「浅いけど呼吸がある。拘束帯を外せば戻る可能性が高い」

ノルンは頷いた。

「よし。撤収する。セイル、先導。ラウド、担げる?」

「誰に聞いてんだ」

「怪我人に」

「担げる」

「なら担いで。マキナは」

「俺も」

「運ばれる側」

マキナは反論しようとした。

だが、身体は正直だった。

立てない。

ラウドが片眉を上げる。

「俺が担ぐのか?」

「左腕、動かないでしょ。無理」

ノルンはマキナの腕を取り、肩を貸した。

小柄ではないが、ラウドほど力があるわけでもない。なのに、彼女の支え方は的確だった。どこを押さえれば痛みが少ないか、どこを支えれば倒れないか、よく知っている。

マキナはようやく立った。

足が震える。

視界が揺れる。

それでも、立った。

「ノルン」

「何」

「エルシアは」

「今は言わない」

「でも」

「今言ったら、あんたはまた無理をする」

「もう動けません」

「心だけ動いても困る」

マキナは黙った。

それは、反論できなかった。

地下輸送路を戻る道は、来た時より長かった。

排水管の匂いすら、ほとんど分からない。身体が疲れすぎて、嫌なものを嫌だと感じる力も弱くなっている。

セイルは何度も振り返り、追跡がないか確認していた。ラウドは眠らされた候補者を背負いながら、文句を言わずに歩いている。彼の重機義肢が壁を擦るたび、鈍い音がした。

途中、マキナは一度だけ胸の奥に呼びかけた。

「おい」

返事はない。

「怒ってるのか」

返事はない。

「……無理をしたから?」

返事はない。

胸の奥は静かだった。

その静けさが、痛みよりも怖かった。

登録所に戻る頃には、外は夜になっていた。

アッシュバルトの夜は暗くない。

炉の赤。警告灯の黄。蒸気灯の白。煙の中で光がにじみ、街全体が燃え残った鉄のように見える。人々は相変わらず歩き、怒鳴り、笑い、物を売り、修理し、争っていた。

地下で何があったかなど、知らない。

知らないまま、街は動く。

ノルンは眠らされた候補者たちを診療室へ運び込んだ。ラウドとセイルも手伝う。マキナは寝台に座らされ、動くなと三回言われた。

候補者の一人は、ナノマシン適合者だった。もう一人は旧文明遺物耐性の記録があるらしい。ノルンは手早く拘束帯を外し、薬を打ち、呼吸を安定させる。

マキナはそれを見ていた。

助けた。

少なくとも、この二人は。

けれど、胸の中に穴が空いていた。

ノルンが処置を終え、ようやくマキナの前に立った。

「説教は後」

「今じゃないんですか」

「今やると長くなる。あんたが途中で倒れる」

「もう倒れています」

「そういうことを言えるなら、まだ余計に腹が立つ」

ノルンは椅子を引き、マキナの右腕を確認した。

固定具を少し外すと、皮膚の下に白銀の線が細く浮かんでいた。第3章の時より薄いが、広い。手首から肘、肘から肩へ、ひびのように伸びている。

ノルンの顔が険しくなる。

「実体化までやったわね」

「……はい」

「何回」

「一回」

「射出は」

マキナは黙った。

ノルンの目がさらに細くなる。

「数えられないくらい?」

「そこまでは」

「十分最悪」

彼女は薬布を当て、銀線の上を覆った。

「ソウル切れ。神経過負荷。白銀反応の拡散。右腕だけじゃない。胸部にも反応がある」

「胸?」

「中の声が沈黙してるのと関係あるかもしれない」

マキナは胸元に触れた。

そこには何も見えない。

けれど、空洞のような静けさだけがある。

「戻りますか」

ノルンはすぐに答えなかった。

その沈黙が怖かった。

「分からない」

「分からない?」

「私はソウルの専門家じゃない。ルーメンでもない。あんたの中で起きてることを全部説明できるほど、偉くも賢くもない」

ノルンは少しだけ声を落とした。

「ただ、断片が消えたわけじゃない。反応はある。眠ってるのか、回復してるのか、返事できないだけなのかは分からない」

「俺が、使いすぎたから」

「そう」

はっきり言った。

慰めなかった。

マキナは、その方がよかった。

「助けたかったんです」

「分かってる」

「でも、エルシアはいませんでした」

「……分かってる」

「何人かは助けました。でも」

「でも、助けたかった子には届かなかった」

ノルンが言った。

マキナは頷いた。

喉の奥が痛い。

右腕より、その方が痛い気がした。

「力があれば、何とかなると思っていました」

「何とかなる時もある」

ノルンは薬布を巻きながら言った。

「でも、何とかならない時もある」

「今日みたいに」

「今日みたいに」

診療室の隅で、ラウドが壁にもたれていた。彼は左腕をだらりと下げ、右腕だけで腕組みをしている。セイルは椅子に座り、記録板に何かを書いていた。

二人とも、何も言わなかった。

責めない。

慰めもしない。

ただ、そこにいる。

それが少しだけありがたかった。

ノルンは包帯を結び終えると、マキナの額を軽く叩いた。

「怒るのは悪くない」

意外な言葉だった。

マキナは顔を上げる。

「悪くないんですか」

「悪くない。怒らなきゃ動けない時もある。あんたが怒ったから、あの二人はここにいる」

ノルンは眠る候補者たちを見た。

「でも、怒りだけで走ると、届かない場所で倒れる」

マキナは何も言えなかった。

ラウドが低く言った。

「助けたいなら、先に自分が倒れるな」

前半で言われたのとは違う。

今度は、実際に倒れた後の言葉だった。

「……はい」

「次やったら殴る」

「右腕で?」

「頭突きでもする」

セイルが記録板から目を上げる。

「頭突きは非効率だ。ラウドの額も損傷する」

「真面目に返すな」

少しだけ、空気が緩んだ。

本当に少しだけ。

その緩みがなければ、マキナは息ができなかったかもしれない。

ノルンは棚から水を取り、マキナに渡した。

「エルシアについて分かったことを言う」

マキナは水を飲む手を止めた。

「ただし、途中で立つな」

「立てません」

「ならいい」

ノルンは机の上に、地下輸送路で拾った小さな記録片を置いた。セイルが回収したものらしい。焦げた薄板に、いくつかの文字が残っている。

セイルが読む。

「優先対象。外文明演算装甲高同期。右腕神経過同期あり。搬送経路、北西補助線から内部直通へ変更」

マキナは言葉の意味をゆっくり飲み込んだ。

外文明演算装甲。

右腕神経過同期。

エルシアだ。

「内部直通」

「地下輸送路の本線じゃない」

ノルンが言った。

「別の細い線。登録区を通らず、外壁の下を抜ける。今から追っても無理」

「どこへ」

「内部区の手前に、いくつか中継施設がある。どこかまでは分からない」

マキナは拳を握ろうとした。

右手は動かない。

左手だけが、布を掴んだ。

「生きていますか」

ノルンは少しだけ目を伏せた。

「たぶん。欠片狩りは回収対象を殺さない。少なくとも、運ぶ時点では」

その言い方は、優しくなかった。

けれど、必要な線を引いていた。

まだ死んだとは限らない。

だが、安全でもない。

「欠片狩り」

マキナはその言葉を口にした。

地下で聞いた名前。

人を欠片と呼ぶ者たち。

セイルが言う。

「候補者間の噂ではそう呼ばれている。正式名ではない可能性が高い」

ノルンは低く言った。

「正式名なんて、どうでもいい。やってることが問題」

「ノルンは、知っていたんですね」

マキナが言うと、診療室が静かになった。

ラウドもセイルも、ノルンを見た。

ノルンはマキナの視線を受け止めた。

「少しはね」

「どうして」

「まだ全部は話さない」

「また」

「またよ」

ノルンの声は硬かった。

「でも、一つだけ言う。あんたを止めたかったのは、知られたくなかったからじゃない。あいつらが、あんたみたいな子をどう見るか知ってるから」

「どう見るんですか」

ノルンは、マキナの胸元を見た。

白銀の断片がある場所。

「人じゃなく、使い道として見る」

それだけで十分だった。

十分すぎるほどだった。

マキナは地下の灰色の外套を思い出す。

欠片。

対象。

損耗。

保護。

どれも、人の名前ではなかった。

「俺も、対象なんですね」

「少なくとも、今日で確実にそうなった」

ノルンは言った。

「白色反応候補。向こうはそう呼んだ」

マキナは目を閉じた。

胸の奥は静か。

いつもなら、危険増大と告げる声があるはずだった。

今はない。

それが、現実をさらに重くした。

「鉄統局も、知っていますか」

ノルンは答えなかった。

セイルが代わりに、記録板の文字を指でなぞった。

「地下装備に歯車と縦線の徽章があった。初日に上層観覧室で見た男の徽章と同じ。関連は強い」

ラウドが吐き捨てた。

「上の連中、何が推薦だ。人攫いじゃねえか」

「声を落として」

ノルンが言う。

「ここでも壁に耳はある」

その言葉に、全員が少し黙った。

アッシュバルトは鉄でできている。

だが、鉄は音をよく通す。

ノルンは小さく息を吐いた。

「今日はここまで。セイル、記録は分散して隠して。ラウド、腕を診る。マキナは寝る」

「寝られません」

「寝なさい」

「エルシアが」

「寝なきゃ、次に動く時死ぬ」

ノルンの声は、静かだった。

怒鳴るより重かった。

マキナは何も言えなくなった。

ラウドが椅子を蹴るように動かし、マキナの寝台の横に置いた。

「見張っててやる」

「ラウドが?」

「寝ねえと殴るためだ」

「だから頭突きでは」

「うるせえ」

セイルは記録板を閉じた。

「僕も少し残る。記録の整合を取る必要がある」

「それ、見張りですか」

「記録だ」

「便利な言い方ですね」

「君に言われたくない」

マキナは少しだけ笑った。

笑うと、胸が痛んだ。

ノルンが灯りを落とす。

診療室は半分暗くなった。壁の薬瓶が鈍く光り、眠らされた候補者たちの呼吸が静かに聞こえる。外では、まだアッシュバルトが鳴っている。鉄を打つ音。蒸気が抜ける音。誰かの笑い声。遠くの警鐘。

何事もなかったような夜。

マキナは寝台に横になった。

右腕は重い。

身体は空っぽのように疲れている。

胸の奥に意識を向ける。

「おい」

返事はない。

「……ごめん」

返事はない。

謝る相手が、そこにいるのかも分からない。

それでも、言わずにはいられなかった。

「使いすぎた」

静寂。

「でも、見捨てられなかった」

静寂。

「エルシアは、助けられなかった」

喉が詰まる。

「次は、届きたい」

胸の奥に、返事はなかった。

けれど、一瞬だけ。

本当に一瞬だけ、冷たい白銀がかすかに震えた気がした。

気のせいかもしれない。

疲れた身体が作った錯覚かもしれない。

マキナは目を開けた。

天井の裸灯が揺れている。

助けた者はいた。

けれど、助けたかった少女はいなかった。

力はあった。

怒りもあった。

それでも、届かなかった。

アッシュバルトの夜は、何事もなかったように鉄を打っている。

その音が、今は少しだけ怖かった。

それでもマキナは、その音から耳を塞がなかった。