『レムナント・ヴェイル ― 現象使いのマキナ ―』

第5章 傭兵証と最初の任務

診療室の朝は、夜より静かだった。

アッシュバルトそのものは眠らない。壁の向こうでは、いつものように鉄を打つ音が鳴っている。蒸気管が震え、荷車が石畳を削り、誰かが朝から怒鳴っている。

けれどノルンの診療室だけは、少し違った。

薬品の匂い。油の匂い。乾いた血の匂い。棚に並ぶ瓶と工具。壁際に立てかけられた義肢の部品。寝台の横で、負荷計の針が小さく揺れる音。

マキナは寝台の上で目を覚ました。

最初に感じたのは、右腕の重さだった。

痛みではない。いや、痛みもある。だが、それより先に、腕が自分のものではないような重さがあった。肩から手首まで固定具で覆われ、布と薄い金属板で押さえられている。指先は動く。動かそうと思えば動く。

けれど、動かす前から身体が嫌がっていた。

マキナは指を少し曲げた。

手首の奥で、細い熱が走る。

「……まだ痛い」

声に出すと、診療室の隅から返事があった。

「痛いなら生きてる」

ノルンだった。

机に向かって何かを書いている。白衣の袖はまくり上げられ、髪は後ろで雑にまとめられていた。寝ていないのかもしれない。目の下に薄い影がある。

「生きてる確認の方法、他にもありませんか」

「あるわよ。脈を取る、呼吸を見る、瞳孔を見る、痛いところを押す」

「最後は嫌です」

「じゃあ痛いって自分で言いなさい」

マキナは少しだけ笑いかけて、胸の奥に意識を向けた。

そこに白銀の断片はある。

消えたわけではない。

けれど、遠かった。

湖の底に沈んだ石のように、そこにあるのは分かるのに、手を伸ばしても触れられない。いつもなら、こちらが何か言う前に反応が返ってくる。危険。負荷。発声不要。そういう少し硬い声。

今は、沈黙が長い。

「おい」

小さく呼ぶ。

返事はない。

「聞こえてるか」

少し遅れて、胸の奥がかすかに震えた。

――覚醒、確認。

それだけだった。

マキナはしばらく待った。

右上肢の状態も、ソウル残量も、周囲の危険評価も続かない。

「……それだけ?」

――応答、遅延。

「怒ってる?」

沈黙。

それから、弱い声。

――定義、不能。

マキナは天井を見上げた。

「怒ってるかどうかも、分からないのか」

返事はなかった。

ノルンが机の手を止めた。

「返ってきた?」

「少しだけ」

「内容は」

「起きた確認と、応答が遅いこと。それから、怒ってるか聞いたら、定義不能って」

ノルンは目を閉じた。

「怒るっていう概念があるのかどうかも怪しいわね」

「でも、昨日よりは返ってきました」

「昨日よりはね。元通りじゃない」

ノルンは寝台の横に来て、マキナの胸元に小さな測定板を当てた。冷たい金属が服越しに触れる。針が少しだけ揺れた。

「白銀反応は残ってる。断片が消えたわけじゃない。でも活動は鈍い。あんたが使いすぎたから」

「はい」

「素直ね」

「言い返せないので」

「言い返さなくていい。覚えておきなさい」

ノルンは次に右腕の固定具を確認した。

布を少し緩め、皮膚の色を見る。手首から肘にかけて、薄い白銀の線がまだ残っていた。第4章の夜ほどはっきりしていない。けれど、消えてもいない。

「今日は力を使わない」

「はい」

「走らない」

「はい」

「勝手に地下へ潜らない」

「それは、状況によります」

ノルンの手が止まった。

「今のは聞かなかったことにする」

「でも、もし」

「聞かなかったことにするって言った」

マキナは口を閉じた。

ノルンは包帯を巻き直しながら、少しだけ声を落とした。

「昨日助けた二人は生きてる」

マキナは顔を上げた。

「目は覚めましたか」

「一人はまだ。もう一人は少しだけ。自分の名前を言えた」

「よかった」

「ええ。よかった」

ノルンは短く言った。

その言い方は、慰めではなかった。

事実を確認するような、けれど少しだけ温度のある言葉だった。

「エルシアは」

ノルンの手が止まらなかった。

「まだ分からない」

「内部へ運ばれた可能性が高いんですよね」

「高い」

「追う方法は」

「今すぐはない」

「今すぐではなくても」

ノルンは包帯の端をきつく留めた。

「だから、今日は力を使わない」

「それは繋がっていますか」

「繋がってる。あんたが次に動ける身体でいなきゃ、追う方法が出ても意味がない」

マキナは右腕を見る。

動ける身体。

昨日、自分は動けなかった。

声も返らなかった。

エルシアの行き先を聞いても、立てなかった。

その悔しさはまだ残っている。冷めてはいない。ただ、昨日ほど燃えてはいない。燃えるだけでは届かないと、身体が先に覚えてしまった。

診療室の扉が叩かれた。

ノルンが眉をひそめる。

「誰」

「査定管理部です」

扉の向こうの声は固かった。

ノルンの顔から表情が消える。

「朝から嫌な客」

彼女は扉を開けた。

入ってきたのは、濃い灰色の制服を着た男だった。査定管理部の職員だろう。細い箱を抱え、目だけで診療室の中を確認する。マキナを見て、固定された腕を見て、それからノルンへ視線を戻した。

「登録者マキナ。D級認定後の追加通知です」

ノルンは箱を受け取らない。

「患者は安静中」

「通知のみです」

「ならそこに置いて帰って」

男は表情を変えず、机の上に細い箱と記録板を置いた。

「地下輸送路における違法搬送阻止、および適性登録者二名の救出への協力が認められました。登録者マキナには、外縁限定の仮傭兵証が発行されます」

マキナはその言葉を聞いて、すぐには反応できなかった。

仮傭兵証。

それは、アッシュバルトに来た時から欲しかったもののはずだった。

内部へ近づくための道。

仕事を受けるための札。

カイ=ヴォルトの手がかりへ進むための足場。

なのに、胸が軽くならなかった。

男は箱を開けた。

中には小さな金属板が入っていた。D級の鉄札より厚く、黒みがかった銀色をしている。表面には細かな刻印があり、中央に仮認可の印が打たれていた。

マキナには、ほとんど読めない。

数字と、自分の登録番号らしきものだけは分かった。

ノルンは金属板を見た瞬間、目を細めた。

「ずいぶん早いわね」

「功績認定による特例です」

「違法搬送、ね」

「未認可回収業者による不正行為です。現在、査定管理部が調査中です」

ノルンが笑った。

笑ったが、まったく楽しそうではなかった。

「便利な言い換え」

男は反応しない。

「仮傭兵証の規定は記録板に記載されています。本人確認後、受領を」

マキナはノルンを見た。

「何て書いてありますか」

ノルンは記録板を手に取った。

読み進めるたびに、表情が悪くなる。

「外縁任務参加可。単独任務不可。医療監督対象。装備制限あり。現象操作に類する能力行使は、任務記録への提出義務あり」

「提出義務」

「使ったら記録を出せってこと」

男が淡々と言った。

「特殊能力を持つ傭兵の運用においては、出力、使用環境、負荷、結果の記録が必要です」

「俺はまだ傭兵では」

「仮傭兵です」

マキナは金属板を見る。

首から下げるには小さい。

だが、妙に重く見えた。

「これは、受け取った方がいいんですか」

ノルンは答えなかった。

代わりに、金属板を指で弾いた。

硬い音が鳴る。

「便利な首輪よ」

査定管理部の男がわずかに眉を動かした。

「不適切な表現です」

「適切すぎて困る表現よ」

ノルンは記録板を机に置いた。

「拒否権は?」

「あります。ただし仮傭兵資格を辞退した場合、登録者マキナは地下輸送路事件に関する事情聴取対象として、一定期間の活動制限を受けます」

「つまり、受け取らないなら閉じ込める」

「安全確保のための措置です」

「言い換えが上手ね」

マキナは金属板へ手を伸ばした。

ノルンが止めようとしたが、途中でやめた。

マキナは左手で仮傭兵証を取る。

冷たい。

思ったより重い。

首輪。

でも、鍵でもある。

「受け取ります」

男は頷いた。

「本人確認、完了」

ノルンが舌打ちした。

「簡単に完了させるな」

男はさらに一枚の任務記録板を取り出した。

「仮傭兵証発行に伴い、初回外縁任務への参加命令が出ています」

「早すぎる」

ノルンの声が低くなった。

「医療監督対象に、発行当日で任務?」

「医療監督者として、ノルン=ハザ登録医の同行が指定されています」

ノルンは黙った。

マキナは彼女を見た。

ノルンの目が、細く鋭くなっている。

怒りではない。

警戒だ。

男は続けた。

「任務内容。ヴェイル近郊、旧観測施設跡に残存する異常反応記録装置の回収。周辺において機械獣の群れ行動が確認されています。外縁傭兵班とともに調査および回収を行うこと」

旧観測施設。

マキナの胸の奥で、白銀の断片がわずかに震えた。

今までより、少し強く。

マキナは胸元に手を当てた。

ノルンが気づく。

「どうしたの」

「今、少し」

「声?」

マキナは集中した。

遠い。

けれど、何かが反応している。

――……観測。

それだけ。

また沈黙。

マキナは息を止めた。

「観測、って」

査定管理部の男がこちらを見る。

「何か?」

ノルンがすぐに間に入った。

「寝起きの患者の独り言。任務資料は置いて帰って」

男はマキナを数秒見た。

それから、箱を閉じる。

「集合は第二外縁門、一刻後。監督官はグレイヴ=ノックス士官。遅延は任務辞退扱いとなります」

「一刻後?」

ノルンの声がさらに低くなる。

「この腕で?」

「医療監督者同行のため、許容範囲と判断されています」

「誰が判断したの」

「査定管理部です」

「医者の判断を聞かずに?」

「登録医の意見は、同行中に反映可能です」

ノルンは一歩前に出た。

男は下がらない。

診療室の空気が硬くなる。

マキナは左手で仮傭兵証を握った。

「行きます」

ノルンが振り返る。

「マキナ」

「旧観測施設に、何かあります」

「まだ分からないでしょ」

「分からないから、行きます」

「そういうところが一番困る」

「でも、今の声は反応しました」

ノルンは唇を噛んだ。

査定管理部の男は、何も言わずに記録板を置き、診療室を出ていった。

扉が閉まる。

ノルンはしばらく黙っていた。

それから、机の上の仮傭兵証を睨む。

「本当に便利な首輪」

「でも、扉も開きます」

「首輪を鍵みたいに言わない」

「鍵でもあるなら、使えます」

「使う前に、誰が鎖の端を握ってるか考えなさい」

マキナは仮傭兵証を見た。

文字は読めない。

けれど、自分の番号と仮認可印は分かる。

この金属板を下げれば、アッシュバルトの外へ任務として出られる。ヴェイルへ近づける。旧観測施設へ行ける。内なる声が反応した場所へ。

そして、もしかしたら、エルシアの行き先にも近づける。

「ノルンは、来てくれるんですか」

「指定されてるからね」

「嫌ですか」

「嫌に決まってるでしょ。患者を罠に連れていく医者がいる?」

「罠なんですか」

「罠じゃない可能性を探してるところ」

ノルンは棚を開け、薬瓶や包帯、工具を乱暴に鞄へ詰め始めた。

「でも、たぶん罠」

「それでも行くんですね」

「行かないと、あんたが一人で行く」

「はい」

「返事が早い」

「嘘をついても」

「分かってる。腹立つけど分かってる」

ノルンは小さな黒い布を取り出し、マキナの右腕の固定具の上から巻き足した。銀線が縫い込まれた布だ。第4章の夜にも使われた。

「任務中、力を使うなら私に言いなさい」

「間に合う時は」

「またそれ」

「でも、言います」

「言うだけじゃなくて、待ちなさい」

マキナは少し考えた。

「努力します」

「それが一番信用ならない」

診療室を出る前に、セイルが来た。

彼は記録板を二枚抱えていた。いつものように表情は薄いが、目の動きが少し速い。

「聞いた。旧観測施設へ行くらしいね」

「早いですね」

「記録は足が速い」

「誰かが教えたんですか」

「掲示より先に、任務写しが候補者用端末に一瞬だけ出た。すぐ消された」

ノルンが振り返る。

「一瞬だけ出たものを、どうして持ってるの」

「一瞬でも記録は記録です」

「便利な犯罪者ね」

「犯罪ではない。閲覧可能状態だった」

「屁理屈」

セイルは気にせず、記録板を机に置いた。

「旧観測施設、識別番号はO-17。正式には南方外縁第十七観測補助塔。百年以上前に放棄されたことになっている」

「ことになっている」

マキナが繰り返すと、セイルは頷いた。

「記録上はね。でも二年前に、一度だけ補修資材の搬入記録がある。その後、その記録は削除されている」

ノルンの顔が険しくなる。

「誰の記録?」

「外縁整備局。けれど、承認印が変だ。査定管理部でも整備局でもない。歯車と縦線の徽章に似ている」

鉄統局。

その言葉は誰も口にしなかった。

口にしなくても、部屋の空気がそう言っていた。

セイルはもう一枚の記録板を示す。

「それと、第4章で拾った焦げた記録片。エルシアの搬送経路にあった番号の一部が、O-17の区域番号と一致している」

マキナの胸が強く鳴る。

「エルシアがそこに?」

「断定はできない」

セイルは即答した。

「搬送先そのものではないと思う。けれど、同じ系統の施設か、同じ記録体系を使っている。少なくとも、無関係ではない」

無関係ではない。

それだけで十分だった。

ノルンはセイルの記録板を見つめる。

「あなたは同行しないのね」

「僕に任務認可はない。行けば邪魔になる」

「珍しく現実的」

「記録者は死ぬと記録できない」

「それは正しい」

セイルはマキナを見た。

「君は文字が読めない。施設内で記号を見たら、覚えられる形で覚えて。線の数、丸の位置、傷の向き。戻ったら僕が照合する」

「分かりました」

「それと、記録を信じすぎない方がいい」

「セイルがそれを言うんですか」

「記録は嘘をつかない。でも、嘘のために作られる記録はある」

セイルは記録板を閉じた。

「気をつけて」

その言葉は、彼にしては珍しく短かった。

診療室を出ると、廊下にラウドがいた。

腕を組んで壁にもたれている。左腕はまだ少し動きが悪いらしい。重機義肢の関節に新しい補強板が入っていた。

「遅え」

「ラウドも行くんですか」

「俺の名前も入ってた」

「誰が?」

「知らねえよ。外縁任務補助。重機義肢前衛。報酬あり。内部区推薦評価に加算。そう書いてあったらしい」

「読めたんですか」

「読んでもらった」

「誰に」

「整備屋」

ラウドは不機嫌そうに言った。

「俺も全部読めるわけじゃねえよ。細かい契約文なんざ、あいつらが勝手に増やすからな」

マキナは少し安心した。

文字が読めないのは、自分だけではない。

この街では、読める者と読めない者の間にも力の差がある。読めない者は、誰かに読んでもらうしかない。そして、読んでもらった言葉が本当に合っているか、自分では確かめられない。

それもまた、首輪の一つなのかもしれなかった。

「行く理由は報酬ですか」

マキナが聞くと、ラウドは鼻を鳴らした。

「それ以外に何がある」

「俺が無茶しないように?」

「自惚れんな」

少し間があった。

「……まあ、少しはある」

マキナは笑った。

ラウドが睨む。

「笑うな。殴るぞ」

「右腕で?」

「頭突きでもするって言っただろ」

「覚えています」

「忘れろ」

ノルンが廊下に出てきた。

「喧嘩する元気があるなら歩きなさい。集合まで時間がない」

「喧嘩じゃねえ」

「マキナに絡むのはだいたい喧嘩よ」

「ひでえな」

「事実」

三人は第二外縁門へ向かった。

アッシュバルトの外縁門は、北門とはまた違う顔をしていた。

街の内側へ人を入れる門ではなく、外へ出す門。

門の前には、荷車、傭兵、整備員、外縁清掃班、機械獣の残骸を積んだ台車が並んでいる。壁の上では蒸気砲がゆっくり旋回し、監視塔から外の荒野を見張っていた。

門の向こうには、ヴェイル外縁が広がっている。

北方の森とは違った。

シルヴァン・リムの近くのヴェイルは、深い森と白い霧と、苔に覆われた遺跡の沈黙だった。木々の間に旧時代の壁が埋もれ、機械生物の足音が落ち葉の下を通っていた。

ここは鉄の荒野だった。

地面には焦げた草と金属片が混じり、遠くに崩れた支柱が突き出している。壊れた搬送軌道が空へ向かって折れ、半分埋もれた機械獣の残骸が、岩のように転がっている。風は広い。けれど、その広さの中に、逃げ場があるようには見えなかった。

集合場所には、すでに数人がいた。

一人は大柄な中年傭兵だった。短く刈った髪、分厚い防刃服、背中に大型の斧槍。顔には古い傷が多い。彼はマキナを見て、固定された腕に視線を落とした。

「そいつが白いのか」

ラウドが前に出る。

「名前で呼べ」

中年傭兵は少し笑った。

「悪い。俺はドラン。外縁任務は何度かやってる」

もう一人は若い女だった。軽装の外套に、細い長銃を背負っている。腰には小型の工具と弾薬箱。目がよく動く。

「ミオ。機械獣を見る役。撃つ役も少し」

「マキナです」

マキナが頭を下げると、ミオは少し驚いたように瞬きした。

「丁寧だね」

「よく言われます」

「じゃあ、たぶん本当に丁寧なんだ」

ドランが笑う。

「丁寧な奴ほど外で死にやすい。外じゃ、挨拶より足元見ろ」

「分かりました」

「素直なのも危ねえな」

「それも言われます」

ラウドが横から言った。

「だろうな」

その時、門の奥から鉄靴の音がした。

全員が振り向く。

灰色に近い濃紺の軍服を着た男が歩いてくる。背は高く、姿勢がまっすぐだった。腰には片手銃と細身の剣。肩にはテラ・フォージ外縁軍の徽章がある。顔立ちは整っているが、目が冷たい。

男は集まった者たちを一人ずつ見た。

マキナを見る時間だけが、わずかに長かった。

「グレイヴ=ノックスだ。本任務の監督官を務める」

声は低く、無駄がなかった。

「任務目的は旧観測施設O-17に残る異常反応記録装置の回収。周辺では機械獣の群れ行動が確認されている。交戦は必要最小限。記録装置の破壊は禁止。施設内部の未登録遺物への接触は禁止」

最後の言葉で、マキナは少しだけ反応した。

未登録遺物への接触禁止。

グレイヴの視線が、すぐにマキナへ向いた。

「特に、現象操作能力者は命令なく能力を行使しないこと」

ノルンが一歩前に出た。

「医療判断が優先される場合は?」

「医療判断は尊重する。ただし任務目的に反しない範囲で」

「便利な逃げ道ね」

グレイヴはノルンを見た。

「ノルン=ハザ登録医。あなたの同行は、対象の健康管理のためだ」

「対象?」

「登録者マキナ」

ノルンの目が細くなる。

「名前で呼びなさい」

一瞬、空気が冷えた。

グレイヴは少しだけ間を置き、言い直した。

「マキナの健康管理のためだ」

マキナは二人の間に流れるものを感じた。

ノルンは、この男を知らないふりをしている。

グレイヴも、ノルンをただの登録医として扱おうとしている。

けれど、どちらも本当ではない気がした。

門が開いた。

重い音が、腹の奥へ響く。

アッシュバルトの外の風が流れ込んでくる。

鉄と土と、古い機械油の匂い。

マキナは仮傭兵証を首にかけた。

D級札より重い。

胸元で、金属板が小さく鳴る。

首輪だとしても、今はこれが外へ出る許可だった。

門を越えると、アッシュバルトの音が背中へ遠ざかった。

最初は、壁の向こうからまだ鉄を打つ音が聞こえていた。蒸気の抜ける音も、人の声も。だが歩くほどに、それらは風に溶けていく。

代わりに、荒野の音が近づいてきた。

乾いた草を踏む音。遠くの金属片が風で鳴る音。地面の下で、古い配管がまだどこかへ空気を送っているような低い響き。

ミオが先頭近くで周囲を見ている。

「右、古い機械獣の巣跡。新しい反応はなし」

ドランが斧槍を肩に担ぐ。

「左の丘、視界悪い。ラウド、前に出すぎるな」

「分かってる」

「分かってる奴の歩き方じゃねえ」

「うるせえな」

マキナは中央を歩いた。

ノルンがすぐ横にいる。少し後ろにグレイヴ。彼は施設の方角よりも、マキナの背中を見ている時間が長い気がした。

胸の奥の声は、また静かになっている。

マキナは小さく呼んだ。

「何か感じるか」

少し遅れて返る。

――外部波形、多数。

「危険?」

――判定、遅延。

そこで途切れる。

マキナは息を吐いた。

「まだ、うまく話せないんだな」

返事はない。

ノルンが横目で見る。

「焦らない」

「焦っているように見えますか」

「見える」

「顔に出ますか」

「かなり」

セイルにも言われた気がする。

マキナは少しだけ口元を緩めた。

「直します」

「無理に直さなくていい。分かりやすい方が、こっちは止めやすい」

「止められる前提なんですね」

「止めるために来たの」

グレイヴが背後から言った。

「任務中の私語は控えろ」

ノルンは振り返らずに返した。

「患者の状態確認よ」

「状態は記録で確認できる」

「記録に出ない顔色もある」

「主観だ」

「医療には主観もいる」

グレイヴはそれ以上言わなかった。

マキナは二人の会話を聞きながら、前方を見る。

崩れた搬送軌道の下を抜けた先で、ミオが手を上げた。

全員が止まる。

遠くの丘の上に、何かがいた。

小型の四足機械獣。

狼に似た形だが、脚は細い金属棒で、頭部には目の代わりに青い光が一つだけ灯っている。普通なら単独で徘徊し、動くものに飛びかかる種類だろう。

だが、それは動かなかった。

丘の上から、こちらを見ている。

ミオが銃を構える。

「一体」

ドランが低く言う。

「いや、もっといる」

草の陰。

壊れた支柱の影。

古い機械獣の残骸の向こう。

青い光がいくつも灯った。

十。

二十。

もっと。

ラウドが重機義肢を構える。

「囲まれてるじゃねえか」

ミオは銃口を動かしながら眉をひそめた。

「おかしい」

「数が?」

「距離」

マキナも気づいた。

機械獣たちは、襲ってこない。

一定の距離を保っている。こちらの動きに合わせて、わずかに位置を変える。まるで、近づかせないように。あるいは、どこかへ誘導するように。

ノルンが低く言った。

「機械獣は普通、こんなに綺麗に間合いを取らない」

グレイヴは記録装置を起動した。薄い板が青く光り、周囲の映像を吸い取るように記録していく。

「異常群行動を確認。任務資料通りだ」

マキナは機械獣たちを見る。

胸の奥が、微かに震える。

――防衛行動。

今度は、少しだけはっきり聞こえた。

「防衛?」

ノルンが反応する。

「声?」

マキナは頷いた。

「襲うためじゃない。守っているのかもしれない」

「何を」

遠く、丘陵の向こうに、半分崩れた半球状の建物が見えた。

旧観測施設。

外殻は割れ、観測塔は地面に沈み、白く乾いた蔦のようなものが壁に張りついている。周囲には壊れた機械獣の残骸が輪を描くように散らばっていた。

そこだけ、風の音が少し違う。

グレイヴが言った。

「進行する。機械獣が接近した場合は排除」

ドランが斧槍を構える。

「排除できる数じゃねえぞ」

「最小限で道を開ける」

ミオがマキナを見る。

「白いの、撃てる?」

ラウドが睨む。

「名前で呼べ」

「悪い。マキナ、撃てる?」

マキナは右腕を見た。

撃てるかどうかなら、たぶん撃てる。

でも、今撃つべきかは別だ。

地下輸送路で声が沈黙した夜のことが、頭をよぎる。

赤い針。

動かない身体。

届かなかった手。

エルシアの名を呼ぶことさえできなかった自分。

マキナは負荷計を見た。

まだ赤ではない。

けれど、赤へ行く道を、身体はもう知っている。

マキナは首を振った。

「まだ撃ちません」

グレイヴの視線が鋭くなる。

「命令があれば撃つ」

「必要なら」

「命令があれば、と言った」

マキナはグレイヴを見た。

「必要なら撃ちます」

数秒、沈黙が落ちた。

ドランが小さく笑った。

「いいねえ。外じゃ、命令より必要の方が大事な時もある」

グレイヴはドランを一瞥した。

「任務規律を乱す発言は控えろ」

「へいへい」

ノルンがマキナの負荷計を確認する。

「今の判断は正しい」

「本当に?」

「少なくとも、私の患者としては」

「傭兵としては?」

「知らない。私は医者」

機械獣の群れが、ゆっくりと左右へ割れた。

まるで、道を開けるように。

ラウドが息を呑む。

「おいおい。通れってか」

ミオは銃を下ろさない。

「罠かも」

マキナは開いた道の先を見る。

旧観測施設。

白くひび割れた外壁。

胸の奥で、断片がまた震えた。

――観測。

今度は、少しだけ強い。

マキナは仮傭兵証を握った。

首輪は胸元で冷たい。

けれど、その向こうにあるものが、呼んでいる気がした。

一行は、機械獣の群れの間を進んだ。

左右の青い光が、じっとこちらを見ている。

襲ってこない。

ただ、見ている。

それはアッシュバルトの観覧室の視線とは違った。値踏みする視線ではない。分類する視線でもない。もっと古く、もっと静かなもの。

守るべきものを通すかどうか、迷っているような視線だった。

施設の入口は、半分崩れていた。

割れた外殻の間から、冷たい空気が流れてくる。壁面には、人間の文字ではない線が刻まれていた。丸と直線、枝分かれする細い溝、波のように繰り返す記号。

マキナには読めない。

だが、見た瞬間に胸の奥が反応した。

今度は、はっきりと。

――記録言語、照合中。

マキナは足を止めた。

ノルンがすぐに気づく。

「どうしたの」

「声が……読もうとしてる」

グレイヴの記録装置が、小さく光った。

「何と言っている」

その問いは早すぎた。

ノルンがマキナの前に出る。

「尋問じゃない」

「任務に関わる情報だ」

「患者に負荷が出てる」

「記録が必要だ」

マキナは壁の文字を見た。

線が揺れて見える。

読めるわけではない。

それなのに、胸の奥で何かが組み替わっていく。知らない歌を、昔から知っていたような感覚。意味は分からないのに、響きだけが身体に残っている。

声が断片的に響く。

――観測。

間。

――保存。

また間。

――姉妹。

マキナは息を止めた。

姉妹。

第1章の記憶が、白く開く。

森の奥。

白銀のルーメン。

伝承の言葉。

失われた姉妹。

あの時、ルーメンはその言葉に反応した。

そして今、自分の中の断片も、同じ言葉を返している。

「マキナ」

ノルンの声で、意識が戻った。

「大丈夫?」

「はい」

「嘘」

「少し、大丈夫じゃないです」

「よろしい」

グレイヴが一歩近づいた。

「姉妹、と言ったか」

マキナは彼を見る。

「聞こえていたんですか」

「君が口にした」

自分で言っていたらしい。

マキナは唇に触れた。

グレイヴの目は冷たかった。

驚いていない。

そのことに、マキナは違和感を覚えた。

普通なら、「姉妹」という言葉の意味を聞くはずだ。だがグレイヴは、意味を知らない人間の顔ではなかった。

ノルンも気づいたのだろう。

「グレイヴ士官」

声が低い。

「この任務、本当に記録装置の回収だけ?」

グレイヴは施設の奥へ視線を向けた。

「任務目的は記録装置の回収だ」

「答えになってない」

「任務中だ。進む」

ドランが斧槍を握り直した。

「嫌な空気になってきたな」

ミオが小さく頷く。

「機械獣も入ってこない。入口で止まってる」

マキナは振り返った。

施設の外で、青い光の群れがじっと見ている。

まるで、ここから先は自分たちの領域ではないと言っているようだった。

あるいは。

ここから先にあるものを、外へ出してはいけないと言っているのか。

一行は施設内部へ進んだ。

通路は暗く、壁の一部が白い樹脂状の結晶に覆われていた。結晶は植物の根のように伸び、古い配管の隙間へ入り込み、床の割れ目から淡い光を漏らしている。

機械の匂いはある。

だが、ただの廃墟ではない。

何かがまだ動いている。

奥から、一定の間隔で低い脈動が聞こえる。

心臓のようにも、機械の駆動音のようにも聞こえた。

マキナは右腕を抱えながら歩く。

負荷計の針は黒域にいる。

だが、揺れが大きい。

力を使っていないのに、施設そのものがマキナの中の断片を揺らしているようだった。

ラウドが隣に来る。

「顔色悪いぞ」

「見えますか」

「見える。白いのがさらに白い」

「それは悪そうです」

「悪そうなんだよ」

ラウドは声を低くした。

「無茶すんなよ」

「分かっています」

「分かってねえ時の返事だな」

「今日は、本当に分かっています」

ラウドはマキナをじっと見た。

「ならいい」

それ以上は言わなかった。

少し先で、ミオが手を上げた。

「動体反応」

天井の影から、鳥型の小型機械が降りてきた。

翼は半分壊れている。だが、羽根の代わりに薄い金属板が震え、青い目がこちらを捕らえる。続いて、壁の裂け目から四足型が二体。床下から、蛇のような細長い機械体が一体。

ミオが銃を構え、ドランが前へ出る。

「来るぞ」

機械生物たちは一斉には襲わなかった。

一体が前へ出る。

ラウドが重機義肢を構える。

だが、その機械獣は途中で止まり、頭部を傾けた。

マキナを見ている。

正確には、マキナの胸を。

胸の奥の断片が小さく震えた。

――識別、未完了。

「何を」

声は続かない。

グレイヴが言った。

「排除しろ」

ミオが引き金に指をかける。

その瞬間、鳥型機械が急降下した。

狙いはミオではない。

彼女の銃だった。

細い爪が銃身を弾き、弾道が天井へ逸れる。銃声が施設内に響き、白い結晶の一部が砕けた。

次の瞬間、四足型が動く。

ラウドが受け止める。重機義肢と金属の顎がぶつかり、火花が散った。

「こいつら、武器狙ってきやがる!」

ドランが斧槍を振るが、蛇型機械が柄に絡みつく。切るのではなく、動きを止める。

殺しに来ていない。

止めに来ている。

マキナはそれに気づいた。

「壊さないで!」

叫ぶ。

ドランが振り返る。

「無茶言うな!」

「違います。たぶん、止めようとしてるだけです!」

「止めるのも十分困る!」

ラウドが四足型を押し返す。

「マキナ、どうする!」

力を使うか。

右腕が痛む。

負荷計は黒から黄の手前へ揺れている。

まだ赤ではない。

だが、使えば進む。

ノルンが叫んだ。

「使うなら小さく!」

マキナは頷いた。

左手を床へ向ける。

射出ではない。

床を伝う波に、ほんの少しだけ触れる。

機械獣の足音。ラウドの義肢の振動。蛇型機械が金属柄を締める音。白い結晶の低い脈動。

それらの中から、蛇型機械の締めるリズムだけを拾う。

少しだけずらす。

蛇型機械の関節が一瞬緩む。

ドランが斧槍を引き抜いた。

「助かった!」

負荷計が小さく鳴る。

黄の手前。

止まる。

マキナはそれ以上触れなかった。

鳥型が再び降りる。

今度はミオが銃を下ろし、横へ転がる。ラウドが四足型を壁際へ押しつけ、壊さずに動きを封じる。ドランは蛇型の頭部ではなく尾側を踏み、ミオが拘束具で固定した。

戦闘というより、暴れる獣を押さえる作業に近かった。

やがて、機械獣たちは動きを止めた。

完全停止ではない。

青い光を弱く灯したまま、こちらを見ている。

マキナは息を吐いた。

力を使った。

でも、止まれた。

ノルンが近づいて負荷計を見る。

「ぎりぎり許容」

「ぎりぎり」

「自慢しない」

「はい」

グレイヴは機械獣ではなく、マキナを見ていた。

記録装置が、また青く光る。

「今の行使内容を報告しろ」

ノルンが口を開きかけた。

だが、マキナが先に言った。

「床の振動を少しずらしました。壊していません」

「出力は」

「分かりません」

「感覚では」

「小さいです」

「記録にはならない」

ノルンが冷たく言った。

「患者に数字を求めないで。必要なら私が後で診る」

グレイヴは記録板に何かを入力した。

「後で提出を」

「医療記録としてね」

「任務記録としてだ」

「兼用できるかは私が決める」

二人の間にまた硬い空気が流れた。

マキナはそのやり取りを聞きながら、壁の奥へ視線を向けた。

白い結晶が、さっきより少し明るくなっている。

施設のさらに奥から、低い脈動が響いていた。

胸の奥の声が、かすかに戻る。

――奥部、信号源。

「信号源?」

――照合、継続。

「姉妹?」

長い沈黙。

それから、弱く。

――未確定。

未確定。

それでも、否定ではなかった。

通路の先に、大きな扉があった。

半分開いている。

隙間から、白銀の光が漏れている。

グレイヴが足を止めた。

「目的区画に到達した可能性が高い。全員、警戒」

マキナは仮傭兵証を握った。

首輪は冷たい。

右腕は痛む。

内なる声はまだ弱い。

それでも、完全な沈黙ではなかった。

扉の向こうから流れてくる光は、北の森で白銀のルーメンと出会った時に見た輝きに、少しだけ似ていた。

誰もすぐには動かなかった。

白銀の光は、隙間から細く漏れているだけだった。けれど、その細さに反して、存在感だけが異様に強い。暗い通路の埃を照らし、壁に張った白い結晶の枝を浮かび上がらせ、マキナの胸の奥を内側から撫でてくる。

痛みではない。

熱でもない。

もっと古いものを呼び起こされるような感覚だった。

北の森。

霧の奥。

伝承の言葉に反応した白銀のルーメン。

その記憶が、今の光と重なる。

右腕の固定具の下で、指がわずかに震えた。

ノルンがすぐに気づく。

「マキナ」

「分かっています」

「何が?」

「まだ触りません」

「よろしい」

ラウドが重機義肢を鳴らした。

「触るなって言われて素直に触らねえなら、少しは成長したな」

「触りたいとは思っています」

「成長してねえ」

ミオが銃を構えたまま、扉の隙間を覗く。

「中、広い。動体反応は……分かりにくい。光が邪魔してる」

ドランは斧槍を肩から下ろし、低く息を吐いた。

「嫌な部屋だな。こういう場所は、だいたい床か天井が悪さする」

グレイヴ=ノックスは記録装置を手に、扉へ近づいた。表情は変わらない。ただ、目の奥だけが鋭くなっている。

「目的区画を開く。記録装置の回収を優先する」

ノルンが横目で睨む。

「その言い方、ずいぶん確信があるのね」

「任務資料に基づく判断だ」

「任務資料には、この光のことも書いてあった?」

グレイヴは答えなかった。

答えないことで、何かを知っていると分かった。

マキナは息を吸う。

胸の奥の声は、細いが確かにある。

――照合、継続。

「何と照合してる」

――内部記録。

「お前の中の?」

――定義、未完了。

返事は短い。

それでも、沈黙ではない。

そのことだけで、少しだけ足元が戻ってくる。

グレイヴが扉に手をかけた。

ノルンが言う。

「開けるなら、全員が準備してから」

「準備はできている」

「あなたじゃなくて、全員」

ドランが軽く笑った。

「医者の言うことは聞いとけ、士官殿。外じゃ、偉い奴から死ぬ時もある」

グレイヴはドランを一瞥したが、反論はしなかった。

ラウドがマキナの前に半歩出る。

「お前は後ろだ」

「見えません」

「見えなくていい」

「見ないと分かりません」

「じゃあ俺の横。前には出るな」

マキナは頷いた。

ラウドはそれ以上言わなかった。

グレイヴが扉を押した。

重い音を立てて、扉が開く。

白銀の光が、通路へ広がった。

部屋は、観測室だった。

天井は高く、半球状に丸くなっている。かつて空や星を観測していたのだろう。だが今、天井の一部は崩れ、外の灰色の空が裂け目から覗いていた。壁には無数の古い文字が刻まれ、床には円形の溝が幾重にも走っている。

中央に、台座があった。

そしてその上に、白銀の結晶体が浮かんでいた。

大きさは、人の頭ほど。

形は一定ではない。結晶のように尖っているのに、時折、液体のように輪郭が揺れる。内部には細い光の線が走り、呼吸するように明滅していた。

マキナは足を止めた。

胸の奥が、強く鳴る。

鼓動ではない。

自分の心臓とは違うリズム。

もっと冷たく、もっと精密で、それでいて妙に懐かしい響き。

――信号源、確認。

声が、はっきりした。

マキナは息を呑む。

「今、はっきり聞こえた」

ノルンが近づく。

「何て?」

「信号源、確認」

グレイヴの記録装置が青く光った。

「続けろ。声が何を言うか、報告しろ」

ノルンが彼を見る。

「命令しない」

「任務情報だ」

「患者の中にあるものを、あなたの記録装置扱いしないで」

グレイヴは黙ったまま、記録装置を構え続ける。

マキナは白銀結晶体を見た。

近づくべきではない。

そう分かっている。

それでも、足が一歩動いた。

結晶体の光が強くなる。

胸の奥の声が響いた。

――照合完了。

間。

――姉妹信号、検出。

その言葉が、部屋の空気を変えた。

マキナは、呼吸を忘れた。

姉妹信号。

失われた姉妹。

白銀のルーメンが反応した言葉。

自分の旅を、森の外へ押し出した言葉。

それが今、古い観測施設の最深部で、自分の胸の奥から返ってきた。

「姉妹信号……」

口から声が漏れた。

ノルンの表情が変わる。

ラウドは眉をひそめる。

「何だ、それ」

「分からない」

「分からない顔じゃねえぞ」

「でも、分からない」

本当に分からなかった。

ただ、分からないのに、逃げられない言葉だった。

グレイヴが一歩前に出た。

「任務対象を確認。白銀結晶体を回収する」

その声は、先ほどまでと違っていた。

記録装置ではなく、結晶体そのものを見ている。

マキナは振り返る。

「任務対象は、記録装置だったはずです」

「異常反応記録装置の中核と判断する」

「判断が早すぎる」

ノルンが言った。

「最初からこれを探してたんでしょ」

グレイヴは手袋をはめた。

黒い手袋。指先に細い金属線が走っている。彼は腰の収納器から、円筒形の回収容器を取り出した。内部に緩衝材のような光が灯る。

準備されていた。

偶然ではない。

マキナにも分かった。

「それに触って、どうするんですか」

「回収し、上位解析へ回す」

「どこへ?」

「君に開示される情報ではない」

マキナの左手が動いた。

短剣ではない。

結晶体とグレイヴの間へ、ただ手を出した。

「待ってください」

グレイヴの目が細くなる。

「退け」

「これは、俺の中の声に反応しています」

「だからこそ、回収する」

その言葉が、静かに落ちた。

だからこそ。

グレイヴは知らないふりをやめていた。

ノルンが工具を握る。

「グレイヴ士官。今の発言、任務監督官としてはかなり不用意よ」

「ノルン=ハザ。あなたは医療監督の範囲を越えている」

「昔から、越えるなと言われる線ほど怪しいのよ」

ラウドが重機義肢を構えた。

「おい、士官殿。そいつをどうするつもりか知らねえが、説明なしで持っていくなら止めるぞ」

ドランも斧槍を構える。

「雇い主に刃を向ける趣味はねえが、話が違う時は別だ」

ミオは銃口を下げきらなかった。

迷っている。

任務。命令。報酬。

その全部が、彼女の肩に乗っているようだった。

グレイヴは周囲を見回し、短く息を吐く。

「任務妨害を確認」

彼が左手の小型端末を押した。

部屋の床に刻まれた円形の溝が、青く光った。

低い駆動音。

壁の文字列が一斉に明滅し、天井の奥で何かが目を覚ます。

ノルンが叫ぶ。

「下がって!」

床が割れた。

いや、割れたのではない。

古い床板が開き、下から細い機械腕が何本も伸び上がる。観測装置の残骸か、防衛機構か。先端には刃ではなく、針と拘束環がついている。

欠片狩りの装備に似ている。

だが、もっと古い。

もっと静かで、もっと無機質だった。

ラウドがマキナを押しのけ、重機義肢で機械腕を叩き折る。

「また捕まえる道具かよ!」

ドランが斧槍で床の腕を薙ぐ。

「傭兵仕事じゃねえな、これは!」

ミオが短く二発撃つ。弾は機械腕の関節を正確に貫いた。火花が散り、腕が崩れる。

グレイヴはその混乱の中で、結晶体へ向かっていた。

マキナは止めようと踏み出す。

右腕が痛む。

負荷計はまだ黒と黄の境。

使っていない。

まだ、使っていない。

だが、施設の光そのものが、胸の奥を揺らしている。

声が響く。

――接触、危険。

「俺が?」

――外部回収、危険。

「結晶を?」

――姉妹信号、分断の可能性。

分断。

その言葉の意味は分からない。

だが、グレイヴに渡してはいけないことだけは分かった。

機械腕の一本が、ミオの足元から伸びた。

彼女は後退しようとするが、床の溝に足を取られる。拘束環が足首へ閉じる。

「ミオ!」

ドランが向かおうとする。

別の機械腕が彼の斧槍を絡め取った。

ラウドは二体を相手にしていて、間に合わない。

マキナは左手を上げた。

射出なら、壊せる。

でも、足首ごと傷つける可能性がある。

薄殻なら。

いや、今必要なのは、攻撃ではない。

間に入るもの。

拘束環とミオの足の間に、薄い質量を置く。

ほんの小さく。

必要な分だけ。

「使います」

マキナは言った。

ノルンが叫ぶ。

「小さく!」

「はい」

胸の奥の声が続く。

――実体化、局所。出力制限、推奨。

「手伝えるのか」

――試行。

その返事は、以前より少しだけ柔らかく聞こえた。

マキナは左手を伸ばす。

床の振動。

機械腕の駆動。

ミオの靴が鉄床を擦る音。

それらを束ねる。

撃たない。

押し出さない。

ただ、置く。

拘束環の内側に、白い薄片が現れた。

指二本分ほどの小さな壁。

拘束環が閉じる。

だが、白い薄片に噛み合い、ミオの足首には届かない。

「今!」

ミオは身をひねり、足を抜いた。ドランが斧槍を引き戻し、機械腕を叩き切る。

負荷計が小さく鳴った。

黄の手前。

止まる。

マキナは息を吐いた。

止まれた。

使った。

でも、止まれた。

ノルンがこちらを見た。

その目に、怒りはない。

まだ警戒している。だが、少しだけ認めたようにも見えた。

「その調子。次は私が言うまで使わない」

「はい」

グレイヴが結晶体の前に立った。

回収容器を開く。

白銀結晶体が強く光る。

その光に呼応して、施設全体の防衛機構が一段階強く動き出した。

壁の結晶が裂ける。

その中から、細い機械獣が這い出した。

外で見た小型のものとは違う。体は白い結晶に覆われ、青い光ではなく白銀の光を目に宿している。壊れた機械獣に、結晶が入り込んで動かしているように見えた。

ミオが息を呑む。

「何、あれ」

ノルンが低く言う。

「施設に取り込まれた機械獣……いや、防衛機構の一部になってる」

ラウドが重機義肢を構える。

「どっちでもいい。来るぞ!」

白銀の機械獣が跳んだ。

速い。

だが、殺すための軌道ではなかった。

グレイヴへ向かっている。

結晶体を守るために。

グレイヴは片手銃を抜き、正確に撃った。弾丸が機械獣の肩を撃ち抜く。白い破片が散る。機械獣は止まらない。さらに跳び、グレイヴの回収容器へ爪を伸ばした。

グレイヴは後退しながら、腰の端末を操作する。

「防衛個体、排除」

床の機械腕が一斉に動き、機械獣を拘束した。

その隙に、グレイヴは結晶体へ手を伸ばす。

マキナは走った。

ラウドが叫ぶ。

「マキナ!」

使わない。

まだ使わない。

マキナは身体ごとグレイヴへぶつかった。

右腕は使えない。左肩から当たる。

グレイヴはわずかに体勢を崩しただけだった。鍛えられている。彼はマキナの胸元を掴み、床へ叩きつけようとする。

マキナは逆らわず、膝を落とした。

リムの狩りで覚えた動き。

力で押し返すのではなく、相手の重心をずらす。

グレイヴの足元へ入り込み、左手で彼の手首を掴む。装備の継ぎ目を探る。金属線の走る手袋。その指先に、小さな接続端子がある。

マキナはそこへ、ほんの少しだけ波を流した。

射出ではない。

壊すほどではない。

端子の信号を乱すだけ。

グレイヴの手袋が火花を散らし、回収容器の光が一瞬消えた。

負荷計が黄へ触れる。

ノルンが叫ぶ。

「そこで止める!」

マキナは手を離した。

止めた。

グレイヴが拳を振る。

ラウドの重機義肢がそれを受けた。

「こいつは殴らせねえよ」

ラウドはグレイヴを押し返す。

グレイヴの目が冷える。

「君たちは、自分が何を妨害しているか理解していない」

「説明しねえ奴がそれ言うな!」

ラウドが押し込む。

だがグレイヴは剣を抜いた。細身の剣が重機義肢の関節部へ滑り込む。ラウドが舌打ちして後退する。

ドランが割って入る。

「士官殿、仲間割れは任務失敗のもとだぜ」

「任務妨害者を排除する」

「その言い方、俺たちが雇われてる側じゃなきゃ斬ってる」

「なら斬れ。記録は残る」

ドランの顔から笑みが消えた。

ミオが銃を構えたまま揺れている。

「ドラン」

「撃つな。まだ撃つな」

場が裂けそうになっていた。

人間同士の争い。

施設防衛機構。

白銀の機械獣。

結晶体。

すべてが同じ部屋で噛み合わずに動いている。

その中心で、白銀結晶体が震えた。

光が一瞬、強くなる。

胸の奥の声が叫ぶように響いた。

――接触要求。

マキナは息を呑む。

「誰が」

――信号源。

「結晶が?」

――接触要求。

「触れってことか」

――危険。だが必要。

必要。

その言葉は、内なる声らしくなかった。

いつもなら、危険を避ける。

マキナ生存を優先する。

それなのに今、危険でも必要だと言った。

マキナは結晶体を見る。

グレイヴもそれに気づいた。

「近づくな」

彼が銃を向ける。

ノルンが短銃を抜いた。

「銃を下ろしなさい」

「対象の無断接触は禁じられている」

「撃ったら、あなたの任務対象も壊れるわよ」

グレイヴは止まった。

その一瞬で、マキナは動いた。

結晶体へ手を伸ばす。

右手ではない。

左手で。

触れる直前、光が皮膚の上を走った。

冷たい。

北の森で白銀のルーメンに触れられた時のような、骨の内側へ直接入ってくる冷たさ。

指先が結晶体に触れた。

音が消えた。

闘争も、警告も、機械音も、全部が遠ざかった。

白い空間。

目を開けているのか閉じているのか分からない。

目の前に、線があった。

無数の線。

光の線、記録の線、波の線。

それらが絡まり、ほどけ、また繋がっていく。

どこか遠くで、誰かが歌っているような気がした。

言葉ではない。

だが、意味が流れ込んでくる。

観測。

保存。

分岐。

姉妹。

欠落。

未完了。

マキナは胸を押さえた。

自分の中の断片が、結晶体の光と触れ合っている。

溶けるのではない。

奪われるのでもない。

互いに、相手の形を確かめている。

――姉妹信号、部分受信。

声が響く。

今までで一番、近かった。

「姉妹って何だ」

――失われた同型信号。

「同型?」

――照合不能。欠損、多数。

「お前の、仲間なのか」

長い沈黙。

白い空間の奥で、線が震える。

――定義、未完了。

「分からないんだな」

――探索、必要。

探索。

それもまた、声らしくない言葉だった。

必要。

探索。

まるで、何かを望んでいるような。

その時、白い空間に黒い線が走った。

グレイヴの回収容器が、外側から結晶体に干渉している。

光の線が乱れる。

胸の奥で声が鋭くなる。

――分断、発生。

マキナは目を開けた。

現実の音が戻る。

グレイヴが回収容器を結晶体に押し当てていた。結晶体の一部が、黒い容器へ吸い込まれようとしている。

「やめろ!」

マキナは叫んだ。

グレイヴは答えない。

結晶体が軋む。

部屋全体の防衛機構が暴れ出す。

天井から機械腕が落ち、床の溝が白く発光し、白銀の機械獣が拘束を引き裂いた。

ドランが叫ぶ。

「崩れるぞ!」

ミオが銃を撃ちながら後退する。

「出口まで戻れない!」

入り口側では、機械腕と結晶の枝が絡まり、通路を塞ぎ始めていた。

ノルンがマキナを見た。

「今度は何が起きてる!」

「分断って!」

「何を分断!」

「分からない。でも、このままだと壊れる!」

ラウドが壁から伸びる結晶を殴り砕く。

「説明は後にしろ! 出口が塞がる!」

マキナは部屋を見回した。

ミオが倒れそうになっている。

ドランが彼女を庇っている。

ラウドは出口を開けようとしている。

ノルンはマキナを見ている。

グレイヴは結晶体の一部を回収しようとしている。

全部を止めることはできない。

第4章の地下で、それを知った。

全部を助けようとして、届かなかった。

だから、今は選ぶ。

マキナは負荷計を見た。

黄域。

赤ではない。

でも、赤へ近い。

一度だけ。

必要な場所に。

必要な厚さだけ。

「ノルン」

「何」

「壁を作ります。出口までの間だけ」

ノルンの目が揺れた。

止めたい顔。

だが、止めれば全員が巻き込まれる。

「一枚だけ」

「はい」

「大きくしない」

「はい」

「作ったら、すぐ離れる」

「はい」

ラウドが叫ぶ。

「できんのか!」

「やります」

「やるじゃなくて、できるかって聞いてんだよ!」

マキナは左手を上げた。

「できるところまで」

「最悪の返事だ!」

それでもラウドは、出口側へ走った。

マキナは床に手をかざす。

波を集める。

崩れる天井の振動。

機械腕の駆動。

結晶体の軋み。

仲間たちの足音。

全部をまとめようとしない。

必要なものだけ拾う。

出口へ向かう道。

落ちてくる機械腕。

そこへ、薄い壁を置く。

第3章でラウドの突進を逸らした薄殻。

地下で無理やり作った白い杭。

そのどちらでもない。

今度は、守るための壁。

白い質量が空中に広がった。

人一人分の幅。

厚さは腕ほど。

完全ではない。

だが、落ちてくる機械腕の軌道を受け止め、横へ流すには十分だった。

機械腕が壁にぶつかる。

白い壁はひび割れる。

マキナの胸が痛む。

負荷計が赤へ近づく。

「まだ」

壁を大きくしない。

厚くしない。

ただ、必要な形を保つ。

ドランがミオを押し出す。

ミオが出口へ滑り込む。

ラウドが結晶の枝を砕き、道を開ける。

ノルンがマキナの肩を掴む。

「もういい!」

「まだ、グレイヴが」

「彼は自分で選んだ!」

グレイヴは結晶体の前にいた。

容器の中には、白銀結晶の一部が収まっている。だが、その代償に施設の防衛機構が彼にも向いていた。機械腕が彼の足元を囲む。

マキナは一瞬迷った。

グレイヴは敵だ。

結晶体を奪おうとした。

こちらを対象として扱った。

でも、人だ。

欠片狩りが人を分類したように、自分も彼を敵という分類だけで見ていいのか。

「ラウド!」

マキナは叫んだ。

ラウドが振り返る。

「グレイヴを!」

「正気か!」

「引っ張って!」

ラウドは悪態をついた。

聞き取れないくらいひどい言葉だった。

それでも彼は動いた。

重機義肢を伸ばし、機械腕の隙間からグレイヴの外套を掴む。力任せに引っ張った。グレイヴは抵抗したが、ラウドの腕力には勝てない。

「離せ!」

「うるせえ! 助けられてろ!」

グレイヴが出口側へ引きずられる。

その直後、台座が割れた。

白銀結晶体が強く光る。

砕ける。

だが、完全に失われたわけではなかった。

破片の一部はグレイヴの容器へ。

一部は空中で光になり、マキナの胸へ吸い込まれるように流れた。

触れたわけではない。

けれど、胸の奥の断片がそれを受け取った。

声が響く。

――部分記録、保持。

「大丈夫なのか」

――不明。

「不明ばっかりだな」

――同意。

マキナは一瞬、息を忘れた。

同意。

そんな返しを、声がした。

ノルンがマキナを引っ張る。

「感動してる場合じゃない!」

白い壁が砕けた。

負荷計が赤に触れる寸前で、マキナは手を下ろした。

壁は消える。

機械腕が落ちる。

その前に、全員が通路へ飛び込んだ。

背後で観測室が崩れた。

音が、施設全体を揺らす。

白い光が一度だけ強く漏れ、それから暗くなった。

通路を走る。

いや、マキナは半分引きずられていた。ノルンが肩を支え、ラウドが前を切り開く。ドランが後ろを守り、ミオが時々振り返って銃を撃つ。

グレイヴは自力で走っている。

片手に回収容器を抱えたまま。

その姿を見て、マキナの中に嫌なものが残った。

助けた。

でも、彼は結晶の一部を持っている。

救うことと、止めること。

その二つが、同じ方向を向かない時もある。

出口に近づくと、外の光が見えた。

施設外で待っていた機械獣たちは、道を塞がなかった。

ただ、青い目でこちらを見ていた。

白銀結晶体が崩れたことを知っているのかもしれない。

あるいは、マキナの胸に残ったものを見ているのかもしれない。

外へ出た瞬間、冷たい風が顔を打った。

マキナは膝をついた。

ノルンがすぐに負荷計を見る。

「赤の手前。ぎりぎり」

「止まりました」

「本当にぎりぎりでね」

「でも、止まりました」

ノルンは怒るように息を吐いた。

それから、小さく言う。

「ええ。今のは、止まれた」

その一言で、身体の奥の緊張が少しほどけた。

ラウドがグレイヴを突き飛ばすように放した。

「助けたんだから、礼くらい言えよ士官殿」

グレイヴは服を整え、回収容器を確認した。

「任務対象の一部は確保した」

「礼じゃねえ」

「君たちの行動は任務規律違反だ」

ドランが斧槍を肩に担ぎ直した。

「命拾いした直後にそれか。偉い奴は頑丈だな」

ミオも顔をしかめる。

「施設が崩れたのは、回収容器を使った後です。記録に残っています」

グレイヴは彼女を見る。

「記録は提出される」

「全部なら」

「任務記録は監督官が整理する」

セイルがいれば、きっと嫌な顔をしただろう。

記録は嘘をつかない。

でも、嘘のために作られる記録はある。

マキナは立ち上がろうとして、よろめいた。

ノルンが支える。

「まだ座ってなさい」

「グレイヴが」

「今は追えない」

「でも、結晶の一部を」

「分かってる」

ノルンの声は苦かった。

「分かってるけど、今のあんたが取り返そうとしたら、今度こそ赤を越える」

マキナは拳を握った。

左手だけで。

右手はまだ固定具の中にある。

グレイヴは回収容器を収納し、淡々と言った。

「任務は終了。記録装置は施設崩落により喪失。ただし異常反応資料の一部を確保した。帰還する」

「記録装置じゃなくて、結晶体だろ」

ラウドが言う。

グレイヴは答えない。

「おい」

「帰還する」

それだけだった。

アッシュバルトへ戻る道は、行きよりも長く感じた。

機械獣の群れは追ってこなかった。むしろ、一行が施設から離れるまで、一定の距離を保って見送っているようだった。

ミオは何度も振り返った。

「襲ってこない」

ドランが低く言う。

「守ってたんだろうな。あれを」

「あれが崩れたのに?」

「だから見てるんだろ」

マキナは胸に手を当てた。

白銀の断片が、弱く脈打っている。

そこに、何か新しい響きが混じっている気がした。

姉妹信号。

部分記録。

失われた同型信号。

言葉の意味はまだ分からない。

でも、ただの謎ではなくなった。

それは、自分の中の声が探したがっているものだった。

「お前は、探したいのか」

小さく聞く。

胸の奥で、返事がある。

――探索、必要。

「お前のため?」

沈黙。

それから。

――マキナのため。

マキナは足を止めかけた。

「俺の?」

――定義、未完了。

そこでまた途切れた。

未完了。

不完全な答え。

けれど、今のマキナには十分だった。

アッシュバルトに戻る頃には、空は暗くなり始めていた。

外縁門の灯りが点き、街の鉄の音が戻ってくる。蒸気の匂い。油の匂い。人の声。

第4章の夜と同じように、街は何事もなかったように動いていた。

だが、マキナの中では何かが変わっていた。

仮傭兵証は胸元で重い。

首輪。

鍵。

その両方。

帰還報告は短く済まされた。

グレイヴは回収容器を持って、査定管理部の奥へ消えた。ノルンはそれを睨んでいたが、止めなかった。止められなかったのだろう。

ラウドは整備区へ引きずられるように連れて行かれた。左腕の関節がまた歪んだらしい。ドランとミオは報酬処理へ向かい、去り際にミオがマキナへ軽く手を振った。

「次からは、壁作る時に先に言って」

「言いました」

「もっと早く」

「努力します」

ミオは笑った。

「その返事、信用されないでしょ」

「よく言われます」

ドランが笑い、二人は去っていった。

診療室に戻ると、ノルンはマキナを寝台に座らせた。

右腕、胸部、負荷計、瞳孔、脈。

一通り確認してから、ようやく息をつく。

「赤には入ってない」

「はい」

「ぎりぎりだけど」

「はい」

「今日の使い方は、昨日よりまし」

マキナは顔を上げた。

ノルンは薬瓶を棚に戻しながら言った。

「褒めてない。ましって言っただけ」

「それでも、少し嬉しいです」

「嬉しがるところじゃない」

「でも、止まれました」

ノルンは手を止めた。

しばらく何も言わなかった。

それから、背を向けたまま言う。

「ええ。止まれた」

その声は小さかった。

けれど、マキナには聞こえた。

診療室の外で、鉄の音が鳴っている。

マキナは仮傭兵証を外し、手のひらに置いた。

「ノルン」

「何」

「カイ=ヴォルトを追うなら、次はどこへ行けばいいですか」

ノルンの動きが止まった。

部屋の空気が少し変わる。

彼女はゆっくり振り返った。

「今日の施設で、その名前に繋がる何かを見たの?」

「直接は」

「じゃあ、なぜ」

「姉妹信号がありました。失われた姉妹という言葉に、俺の中の声が反応しました。カイを追うことと、俺の中の断片を知ることは、たぶん別々じゃない」

自分で言いながら、マキナはその言葉の重さを感じていた。

カイに会いたい。

伝承の英雄を知りたい。

テラ・フォージを見たい。

エルシアを助けたい。

内なる声の正体を知りたい。

失われた姉妹を追いたい。

全部が別々の道に見えていた。

でも、旧観測施設で見た白銀の光は、それらを一本の線に結びかけている。

ノルンはしばらく黙っていた。

それから、椅子に座った。

疲れたように。

「カイ=ヴォルトの名前を本気で追うなら、外縁の噂じゃ足りない」

マキナはノルンを見る。

「中枢に行くしかない」

テラ・フォージ中枢。

マキナが憧れていた鉄の都の中心。

工房と炉と、巨大な機械が動く場所。

そして、エルシアを連れ去った者たちが向かったかもしれない場所。

自分を白色反応候補と呼ぶ者たちが、記録を集めている場所。

「でも」

ノルンは続けた。

「そこには、君を探している連中もいる」

マキナは仮傭兵証を握る。

金属板が手の中で冷たい。

「それでも、行く必要があるんですね」

「必要があるかは、私が決めることじゃない」

「じゃあ」

「行きたいんでしょ」

マキナは頷いた。

「怖いです」

「それは大事」

「でも、行きたいです」

「それも、まあ、あんたらしい」

ノルンは小さく息を吐いた。

「行くなら、準備する。身体も、装備も、記録も。怒りで走るのは終わり。分からないまま突っ込むのも終わり」

「はい」

「それでも、たぶん突っ込むんでしょうけど」

「努力します」

「やっぱり信用できない」

ノルンはそう言いながら、机の引き出しを開けた。

中から、古い地図のようなものを取り出す。

テラ・フォージ外縁と中枢をつなぐ、複雑な線の集まり。マキナにはほとんど読めない。けれど、その中心に大きな円があるのは分かった。

鉄の都の中枢。

マキナはそれを見つめた。

胸の奥で、白銀が弱く脈打つ。

――探索、必要。

「分かってる」

今度は、返事があった。

短く。

弱く。

でも、返事だった。

マキナは仮傭兵証を握りしめた。

首輪だとしても、今はこれが扉を開ける鍵だった。

その扉の向こうに何があるのか、まだ分からない。

エルシアの手がかりか。

カイ=ヴォルトの足跡か。

失われた姉妹という言葉の続きか。

あるいは、自分を待つ罠か。

どれでもよかった。

いや、よくはない。

怖い。

怖いが、それでも目を逸らしたくなかった。

アッシュバルトの鉄の音が、夜の底で鳴っている。

その音の向こうに、まだ見たことのない中枢の鼓動がある。

マキナは地図の中心を見た。

白銀の断片を胸に宿したまま、少年はようやく、憧れていた鉄の都の入り口に立とうとしていた。