アッシュバルトの外壁を越える時、マキナは一度だけ振り返った。
境界都市は、朝の煤煙の中に沈んでいた。
高い防壁。蒸気を吐く監視塔。荷車と傭兵と移民が行き交う門前の通り。地下闘技場の熱も、鉄屑市場の臭いも、診療室の薬品の匂いも、すべてがあの壁の内側にある。
そこに来た時、マキナはただ、テラ・フォージの中へ入りたかった。
カイ=ヴォルトの手がかりを探したかった。
外の世界を見たかった。
けれど、アッシュバルトで得たものは、それだけではなかった。
右腕の痛み。
仮傭兵証。
欠片狩り。
エルシアの不在。
白銀結晶体。
姉妹信号。
マキナは胸元に下げた金属板へ指を触れた。
仮傭兵証は、朝の冷気を吸って冷たくなっていた。外縁限定の印の横に、中枢入域許可を示す小さな刻印が追加されている。マキナにはその文字は読めない。だが、ノルンが読んでくれた。
限定入域。
医療監督者同行。
単独行動禁止。
指定区画外立入禁止。
現象操作記録提出義務。
監視刻印付き通行札の携行。
一つ一つが、鍵であり、鎖でもあった。
ノルンはその通行札を見た時、顔をしかめて言った。
「仮傭兵証だけじゃ足りなくなったら、今度は鈴付きの鎖ね」
マキナはその言葉を思い出しながら、首にかけた新しい通行札を見下ろした。
小さな黒鉄の輪だった。
腕輪ではなく、札でもなく、首元に留める細い金具。外見はただの通行証に見えるが、ノルンによれば、通過した門や区画の記録が残るらしい。
「外してもいいんですか」
そう聞いた時、ノルンは即答した。
「外した瞬間、門が閉まる」
「比喩ですか」
「半分」
「もう半分は」
「たぶん本当に閉まる」
その札が、今も喉元で小さく揺れている。
ラウドが隣を歩きながら、顔をしかめた。
「首元が気になるなら、引きちぎればいいだろ」
「それは駄目だと聞きました」
「聞かなくても分かれよ」
「ラウドならやりそうです」
「やらねえよ。俺は馬鹿じゃねえ」
ノルンが後ろから言った。
「そこは議論の余地がある」
「医者、聞こえてんぞ」
「聞かせてるの」
ラウドは舌打ちした。
彼の重機義肢は、昨日より少し整備されている。左腕の動きも戻りつつあるようだったが、まだ完全ではない。関節部に新しい補強板が入り、肘の近くには応急修理の焼け跡が残っていた。
「ラウドも、内部へ入るのは初めてですか」
マキナが聞くと、ラウドは少し黙った。
「中枢は初めてだ」
「内部区には?」
「工房搬入で外縁寄りの区画に入ったことはある。でも中枢は別だ。許可がいる。金がいる。身元がいる。推薦がいる。つまり、だいたい全部いる」
「今日は入れるんですね」
「お前のおかげみたいで腹立つけどな」
「俺も、ラウドが一緒だと安心します」
「そういうことを真顔で言うな。調子狂う」
マキナは少し笑った。
右腕はまだ軽い固定具に包まれている。大きな金属板は外れたが、手首から肘にかけて保護帯が巻かれ、負荷計もその上に固定されていた。白銀反応の痕跡は薄くなった。だが、消えたわけではない。
胸の奥に意識を向ける。
白銀の断片は、以前より近い時と遠い時がある。
沈黙から戻った。
けれど、元通りではない。
「聞こえるか」
マキナは小さく呼んだ。
少し遅れて、返事があった。
――聴取、可能。
「調子は」
間。
――定義、困難。
「まだ、それなんだな」
――応答精度、低下。内部記録、再構成中。
「姉妹信号のせいか」
沈黙。
それから、少しだけ強い声。
――探索、必要。
マキナは歩きながら、胸元の仮傭兵証を握った。
「分かってる」
ノルンが横目で見る。
「また声?」
「はい」
「何て?」
「探索が必要だと」
「何を?」
「まだ分かりません」
ノルンはため息をついた。
「最近、あんたも中の声も、分からないことを増やすのが得意ね」
「でも、前より返事は戻っています」
「戻ってるというより、変わってる」
マキナはノルンを見る。
「変わっている?」
「前はもっと単純だった。危険、逃げろ、使うな、使え。そんな感じ。でも今は、必要とか探索とか、妙に曖昧な言い方をする」
「悪いことですか」
「分からない」
「ノルンも分からないことを増やしています」
「腹立つ返しね」
それでも、ノルンは怒らなかった。
朝の鉄道式搬送車が、アッシュバルトから中枢へ向かっていた。
車体は黒く、窓は小さい。動力は蒸気と電磁駆動の混合らしく、床の下で低い振動が続いている。車内には、マキナ、ノルン、ラウドのほか、外縁任務局の職員が二人、荷物のように無口な警備兵が三人乗っていた。
ドランとミオはいない。
二人は外縁任務の報酬処理を終えると、それぞれ別の仕事へ戻った。ミオは別れ際に、マキナへ「次に壁を作る時はもっと早く言って」と言い、ドランは「中枢の酒場に行くなら、財布は三つに分けろ」と忠告してくれた。なぜ三つなのかは、まだ分からない。
セイルも同行していない。
だが、彼は出発前に小さな記録符を渡した。薄い金属片で、表面に細かな溝がある。
「中枢で記録端末を見る機会があったら、これを近くに置いて」
「何が起きるんですか」
「僕が後で少しだけ読める」
「それは許可されていますか」
「許可されていないことは多い」
「それは答えですか」
「答えだよ」
ノルンはその記録符を見て、「本当に便利な犯罪者」と言った。セイルは「閲覧補助具だ」と訂正した。たぶん、どちらも正しいのだろう。
搬送車の窓の外で、景色が変わっていく。
最初はアッシュバルトの外縁だった。煤けた工房、補修された防壁、屑鉄置き場、煙を吐く小炉。やがてそれらが減り、代わりに高く整えられた軌道塔や、巨大な支柱が見えてくる。
遠くに、赤い光があった。
最初は朝日かと思った。
だが違う。
それは炉の光だった。
地平の向こうに、いくつもの巨大炉が立ち上がっている。塔のように高く、都市の心臓のように赤く光っている。そこから何本もの蒸気管と搬送軌道が伸び、空中で交差し、鉄の血管のように都市へ流れ込んでいた。
マキナは窓に近づいた。
「……あれが」
ラウドも隣で黙っている。
いつもなら何か文句を言いそうなのに、今は何も言わなかった。
搬送車が長い防壁の下を抜ける。
検問が三つあった。
一つ目で仮傭兵証を確認され、二つ目で通行札に刻印が入る。三つ目では、マキナだけが別の測定枠を通された。薄い輪の中を歩くだけだったが、胸の奥が微かにざらついた。
――外部測定波。
「危険か」
――低出力。記録用。
記録用。
マキナは枠から出ると、グレイヴ=ノックスの顔を思い出した。
記録する者。
分類する者。
回収する者。
測定枠を抜けた先で、係員がマキナの首元の通行札に小さな印を押した。黒鉄の表面に、細い赤い線が一つ加わる。
「これも記録ですか」
マキナが聞くと、係員は無表情に答えた。
「入域確認です」
「どこまで見られるんですか」
「必要な範囲です」
必要。
その言葉は、最近よく聞く。
誰にとって必要なのかまでは、誰も言わない。
ノルンがマキナの肩を軽く押した。
「聞いても答えない相手よ」
「慣れてきました」
「慣れなくていい」
検問を抜けた先で、テラ・フォージ中枢が開けた。
マキナは息を呑んだ。
街が、動いていた。
アッシュバルトも動く街だった。だが、ここは違う。建物そのものが呼吸している。巨大な機械塔が雲へ向かって伸び、塔と塔の間を蒸気橋が横切る。頭上では貨物台車が鉄の軌道を走り、下では義肢を持つ人々が行き交う。
炉の赤。
蒸気の白。
鉄の黒。
火花の金。
それらが、巨大な一つの生き物のように重なっている。
街路は広く、石畳ではなく金属と耐熱材で覆われていた。歩道の端には細い溝が走り、そこを熱水か何かが流れている。通りの両側には義肢工房が並び、硝子窓の向こうで職人たちが腕や脚、脊椎補助具、視覚補助レンズを調整していた。
修理用の小型ドローンが、人の腰ほどの高さを滑るように飛んでいる。丸い胴体から細い腕が三本伸び、路上で立ち止まった老人の膝関節を器用に調整していた。老人は杖をついたまま、店の者と世間話をしている。膝から火花が少し散っても、誰も驚かない。
工房の軒先では、若い職人が子供の補助具を磨いていた。子供は膝から足首にかけて細い金属枠をつけていて、調整が終わると、その場でぴょんと跳ねた。金属枠が軽く鳴り、子供は笑って駆け出す。母親らしき女が慌てて追いかける。
別の店では、義肢の指だけが棚に並んでいた。
戦闘用の太い指。
精密作業用の細い指。
装飾を施された白銀色の指。
隣の食堂からは、焼けた穀物と肉の匂いが流れてくる。巨大炉から引いた熱を使っているのか、店先の鉄板は赤く光り、丸いパンのようなものが次々と焼かれていた。金属皿に煮込みを盛る音がして、油と香辛料の香りが、蒸気に混じって漂ってくる。
人々の身体にも、機械があった。
片腕だけ金属の者。
脚の関節に補助輪を持つ者。
背中に小さな炉を背負う労働者。
目の片方が赤い測定レンズの老人。
子供でさえ、細い補助具を膝につけて走っている。
けれど、不思議と痛々しくは見えなかった。
ここでは、それが日常なのだ。
身体を失ったから機械を付けるのではなく、機械とともに生きることが、最初から街の形になっている。
マキナは立ち止まった。
「これが、テラ・フォージ」
声が自然に漏れた。
胸の奥が熱くなる。
故郷で聞いた伝承。
外から来た人々の噂。
鉄と火の都。
機械を鍛え、身体を鍛え、世界の荒れ野に壁を立てる文明圏。
それが今、目の前にあった。
「すごい」
マキナは言った。
ただそれしか出てこなかった。
ラウドは隣で空を見上げていた。
「空気が違う」
その声は、感動とは少し違った。
マキナはラウドを見る。
「空気?」
「ああ」
ラウドは通りの向こうを見た。
清掃機械が路面を磨いている。排気は上層の管へ吸われ、歩道には煤がほとんど積もっていない。アッシュバルトの工房区のように、薬品の臭いが喉を焼くこともない。通りの水路には黒い油ではなく、透明に近い冷却水が流れている。
「弟たちが吸ってる空気と、全然違う」
マキナは何も言えなかった。
ラウドは笑わなかった。
怒鳴りもしなかった。
ただ、静かに街を見ていた。
その横顔を見て、マキナは初めて、この都市の美しさが誰かにとっては痛みでもあると分かった。
マキナには、それが未来に見えた。
ラウドには、閉じた門の内側に見えているのかもしれない。
ノルンが二人の背中を軽く押した。
「立ち止まらない。観光客みたいな顔をしてると、余計に見られる」
「観光客ではないんですか」
「仮傭兵。監視付き。中枢の通行札を首につけた、目立つお客様」
「悪い意味ですね」
「いい意味が混じる余地ある?」
ラウドが低く言った。
「目立つのはこいつだけじゃねえ。俺も外縁丸出しだ」
確かに、通りを行く何人かがラウドを見ていた。
中古の重機義肢。
外縁工房区の補修跡。
傷の多い外套。
中枢の整った義肢とは違う、荒く、実用だけで組まれた腕。
その視線に、ラウドは慣れているようだった。だが、慣れていることと、何も感じないことは違う。
店先にいた少年が、ラウドの腕を見て小さく言った。
「古い型だ」
その隣にいた父親らしき男が、少年の肩を押して黙らせる。
ラウドは何も言わなかった。
マキナは少年を責める気にはなれなかった。悪意というより、ただ見たままを言ったのだろう。だが、その言葉はラウドの腕の傷に触れたように感じた。
ノルンは声を低くした。
「二人とも、余計な喧嘩はしない。ここで問題を起こしたら、アッシュバルトに戻る前に拘束される」
「俺は喧嘩しねえよ」
ラウドが言う。
「売られたら?」
「値切る」
「買わないの」
「高かったら買わねえ」
ノルンは頭を押さえた。
「会話を成立させて」
中枢の傭兵管理局は、巨大炉の西側にあった。
建物は石ではなく、黒い金属と硝子でできている。入口の上には、鍛冶槌と歯車の紋章。アッシュバルトの登録所より清潔で、静かで、ずっと冷たい。
中に入ると、熱は消えた。
空調が効いている。
床は磨かれ、壁には整理された記録管が走っている。受付の職員たちは声を荒げず、書類は整然と積まれ、待っている傭兵たちでさえ、アッシュバルトの候補者たちより落ち着いて見えた。
その落ち着きが、かえって怖かった。
ここでは乱暴なことは見えない場所で処理される。
そんな印象があった。
受付で通行札を確認され、マキナたちは報告室へ通された。
そこに、グレイヴ=ノックスがいた。
濃紺の軍服。整えられた髪。表情の薄い目。
彼は旧観測施設で見た時と同じように、まっすぐ立っていた。
「到着を確認した」
マキナは胸の奥が固くなるのを感じた。
グレイヴの右手には、あの回収容器はなかった。
白銀結晶体の一部を収めた黒い容器。
あれが今どこにあるのか、マキナには分からない。
ノルンが先に口を開いた。
「O-17の報告確認でしょう」
「そうだ」
グレイヴは記録板を開いた。
「旧観測施設O-17は崩落。異常反応記録装置は回収不能。ただし、異常反応資料の一部を確保。任務参加者は全員帰還。負傷軽微。以上を正式報告とする」
「ずいぶん短い報告ね」
ノルンの声が冷たい。
「必要事項は満たしている」
「白銀結晶体という言葉がない」
「記録上の分類名は、異常反応資料だ」
「便利な分類」
「不確定物に暫定名を与えただけだ」
マキナはグレイヴを見る。
「姉妹信号のことも書いていないんですか」
グレイヴの視線がマキナへ向く。
「その言葉は、任務記録に必要ない」
「でも、俺の中の声は反応しました」
「主観だ」
「結晶体に触れた時、何かが残りました」
「検証不能」
「あなたは結晶体の一部を持ち帰りました」
空気が止まった。
ノルンが横で小さく息を吸う。
ラウドの重機義肢が低く鳴った。
グレイヴは表情を変えなかった。
「任務上確保した資料は、管理局の手順に従い処理される」
「どこへ行ったんですか」
「開示できない」
「鉄統局ですか」
その言葉を出した瞬間、ノルンがマキナの腕を掴んだ。
強くはない。
だが、止めるための手だった。
グレイヴの目が、わずかに細くなる。
「君は、聞きかじった言葉を不用意に使うべきではない」
「聞きかじりじゃありません」
「ならなおさらだ」
グレイヴは記録板を閉じた。
「君は任務を成功させた。余計な解釈は不要だ」
マキナは答えた。
「あれは成功だったんですか」
グレイヴはすぐには返さなかった。
「全員が帰還し、資料の一部を確保した。成功だ」
「施設は崩れました」
「損耗は想定内」
「機械獣は何かを守っていました」
「推測だ」
「俺の中には、信号が残りました」
「後日検査する」
マキナは口を閉じた。
後日検査。
その言葉の響きが嫌だった。
検査。
記録。
分類。
対象。
地下輸送路で聞いた言葉たちと、同じ場所へ繋がっている気がした。
ノルンが一歩前に出る。
「マキナの検査は私が行う」
「医療検査はそうだ。だが、現象操作に関わる記録は任務管理局の管轄でもある」
「この子を記録板みたいに扱わないで」
「登録者は仮傭兵だ。規定に従う義務がある」
「規定を盾にすれば、何でもできると思ってる?」
グレイヴはノルンを見た。
「規定があるから、都市は保たれる」
ノルンは返した。
「規定の隙間で消えた子たちを、私は見た」
一瞬、グレイヴの視線が変わった。
その変化は小さかった。
だが、マキナには分かった。
ノルンは踏み込んだ。
踏み込みすぎたのかもしれない。
グレイヴは声を低くした。
「ノルン=ハザ。あなたの立場も、無制限ではない」
「知ってるわよ。昔からね」
昔。
その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。
グレイヴはそれ以上言わなかった。
記録板を机に置き、事務的な声へ戻る。
「中枢滞在許可は二日。指定区画は傭兵管理局、医療管理棟、外縁任務資料室、第四工房通りまで。指定外区画への立ち入りは禁止。以上」
「短いですね」
マキナが言うと、グレイヴは見た。
「十分だ」
「何に?」
「用件を済ませるには」
用件。
誰の用件なのか。
マキナは聞かなかった。
ノルンが目だけで止めていたからだ。
報告室を出ると、ラウドが大きく息を吐いた。
「殴りてえ」
ノルンが即答する。
「駄目」
「まだ何もしてねえ」
「顔がしてた」
「顔まで禁止かよ」
「ここでは禁止」
マキナは報告室の扉を見る。
「グレイヴは、嘘をついていましたか」
ノルンは少し考えた。
「嘘は少ない」
「じゃあ」
「必要なことを言わないのが上手い」
ラウドが鼻を鳴らす。
「一番嫌なやつだな」
廊下を進む途中、マキナの胸の奥が急にざらついた。
足が止まる。
負荷計ではない。
痛みでもない。
内なる声が、強く震えた。
――既知構造。
マキナは息を止めた。
「何だ」
――不一致。
「どこが」
――下層。右方。危険。
廊下の右側には、黒い扉があった。
傭兵管理局の職員たちは、その扉の前を避けるように歩いている。扉の上には、歯車と縦線を組み合わせた徽章が小さく刻まれていた。
鉄統局。
マキナがそう思った瞬間、声が続いた。
――回避推奨。
「知ってるのか」
――記録、欠損。
「でも、反応してる」
――反応、否定不能。
ノルンがマキナの肩に手を置いた。
「見ない」
「でも」
「ここで立ち止まるな」
ラウドも扉を見る。
「何だよ、あそこ」
「見ない」
ノルンの声がさらに低くなる。
「二人とも、歩きなさい」
その時、扉が内側から開いた。
黒い制服の男が一人出てくる。腕章には同じ徽章。顔には薄い鉄片のような表情。彼はノルンを見た。
視線が止まる。
「……ハザ?」
ノルンの手が、一瞬だけ冷たくなった。
マキナの肩に置かれた指先から、その冷たさが伝わる。
彼女はすぐに手を離したが、遅かった。マキナには分かった。
今の声は、彼女の中のどこか深い場所を叩いた。
ノルンは平然とした顔で返した。
「登録医ノルン=ハザです。患者の通行中なので失礼」
男は目を細めた。
「外縁にいると聞いていたが」
「ええ。外縁にいます。今日は付き添い」
「戻る気は」
「ありません」
即答だった。
男の視線がマキナへ移る。
胸元の通行札。
仮傭兵証。
右腕の固定具。
負荷計。
そして、顔。
「その子が」
ノルンが言葉を遮った。
「患者です」
「名前は」
「医療情報です」
「傭兵登録情報でもある」
「今ここで確認する必要はありません」
廊下の空気が薄くなる。
マキナは動けなかった。
ラウドが一歩前に出ようとして、ノルンが手だけで制した。
男は少しだけ笑った。
「相変わらずだな」
「そちらは変わったようで何より」
「褒め言葉とは思えない」
「褒めてないので」
男の後ろから別の職員が呼んだ。
彼は視線を戻し、扉の向こうへ消えた。
扉が閉じる。
マキナは息を吐いた。
いつの間にか、息を止めていた。
「ノルン」
「歩く」
「今の人は」
「歩く」
それ以上、聞けなかった。
ノルンの横顔は、いつものように怒っているようで、少し違った。
怒りよりも古いもの。
痛みに近いものが見えた。
ラウドが低く言う。
「医者、顔色悪いぞ」
「中枢の空気が悪いだけ」
「さっき、空調効いてるって言ってたろ」
「比喩よ」
「便利だな、比喩」
ノルンは返さなかった。
いつもなら、嫌味の一つでも返したはずだった。
それがないことが、かえって大きかった。
管理局を出ると、外の光がまぶしかった。
中枢の街路は相変わらず美しい。
巨大炉の赤い光が、蒸気の雲を染めている。機械塔の上を貨物台車が走り、下層の工房からは火花が散る。街そのものは壮大で、まっすぐで、力に満ちている。
だが、さっきの黒い扉を見た後では、すべての鉄の下に別の通路があるように感じた。
ノルンはしばらく黙って歩いた。
ラウドも何も言わない。
マキナも聞かなかった。
その沈黙を破ったのは、広場の声だった。
前方に人だかりがある。
大きな掲示板の前で、数人が討論していた。片側には、白い腕章をつけた技師たち。もう片側には、鉄色の外套を着た男たち。周囲の市民や傭兵が足を止めて見ている。
掲示板には、大きな文字と図が並んでいる。マキナには読めないが、描かれた図から、四つの文明圏を示しているのだと分かった。西の浮遊都市。東の記録結晶。南の炉と機械塔。北の森と外縁。
白い腕章の女が声を上げていた。
「外文明技術をすべて敵視する時代は終わった。ヘイヴンの演算理論、アーカイブの記録結晶、ルーメン観測研究。それらを閉じれば、フォージは強くなるのではなく、古くなるだけです」
鉄色の外套の男が返す。
「協調という名の依存だ。鉄を持つ者が、なぜ空の都市や結晶崇拝者に頭を下げる必要がある。フォージはフォージの手で立つべきだ」
「立つことと、孤立することは違います」
「ルーメンとの対話など、夢物語だ。機械に都市の未来を委ねる気か」
「対話と服従を混同しないでください」
「混同しているのはそちらだ。ルーメンは人間ではない。永続性だの最適化だの、人とは違う価値観で動く存在だ。そこに都市の命運を預ける方が危うい」
白い腕章の女は一歩も引かなかった。
「だからこそ、対話と観測が必要なのです。理解できない相手を、分解し、部品として扱うことの方が危うい」
その言葉に、マキナの胸がわずかに震えた。
分解。
部品。
欠片。
鉄色の外套の男が声を張る。
「美しい言葉だ。だが、外縁では適性者失踪の噂が広がっている。外文明技術を持ち込んだ結果、管理不能な混乱が起きているのではないか。現象操作、演算装甲、記録結晶、ルーメン断片。そんなものを野放しにすれば、都市は内側から崩れる」
周囲がざわめく。
何人かが頷いた。
「管理は必要だ」と誰かが言う。
「外の連中を入れすぎたんだ」と別の声。
ラウドの肩がわずかに強ばる。
白い腕章の女は、そのざわめきの中で声を落とさなかった。
「適性者失踪の噂を、外文明のせいにするのは問題のすり替えです。消えているのは人です。誰かの子であり、誰かの同僚であり、名前のある市民です。それを『管理対象』という言葉で隠してはいけない」
鉄色の外套の男が笑った。
「理想論だ。都市防衛には、時に非公開の措置が必要になる。外縁で何が起きているか、ここで詳細を語れないこともある」
「詳細を語れない、という言葉で何人が消えるのですか」
「都市を守るためだ」
「誰の都市を?」
その一言で、広場が静かになった。
ラウドが小さく呟いた。
「いいこと言うな」
マキナは彼を見る。
ラウドの目は、討論している二人ではなく、広場の向こうを見ていた。清潔な通り。整った義肢。煤の少ない空気。安全な壁の内側。
「守るって言葉は便利だ」
ラウドは低く言った。
「誰を守るか言わなくても、強そうに聞こえる」
マキナは答えられなかった。
鉄色の外套の男が、再び声を上げる。
「フォージは鉄で築かれた。鉄は外から与えられたものではない。我々の炉、我々の腕、我々の犠牲で築いたものだ。そこに外文明の理屈を持ち込み、ルーメンと手を取り合えと言う。そんな甘さが、次の崩壊を招く」
白い腕章の女は静かに言った。
「崩壊を恐れるなら、なおさら閉じるべきではない。私たちはこれまで、世界が何度も終わりかけたことを知っている。ひとつの文明圏だけで、次を耐えられるほど世界は単純ではありません」
その時、白い腕章の女の視線がこちらに向いた。
まずノルンで止まる。
次に、ほんの少しだけ目を見開いた。
「ノルン……?」
ノルンは小さく舌打ちした。
「今日は知り合いに会う日じゃないのに」
女は人だかりを抜けて近づいてきた。
年齢はノルンと同じくらいか、少し上。短く切った赤銅色の髪に、薄い作業眼鏡。白い腕章には、工房連盟改革部会の印がある。手には工具ではなく、小さな記録端末を持っていた。
「本当にノルンなのね」
「リゼット」
ノルンの声は硬かった。
「久しぶり、でいいのかしら」
「よくない。今は忙しい」
「相変わらずね」
リゼットと呼ばれた女は、マキナとラウドを見る。
マキナの仮傭兵証、通行札、負荷計、右腕の固定具を順に見た。目が速い。セイルとは違う種類の観察眼だった。記録ではなく、構造を見る目。
「外縁任務帰りの仮傭兵。医療監督付き。負荷計はあなたの改造品。右腕に白銀反応の痕跡。中枢入域許可は出ているけど、指定区画は狭い。……ずいぶん厄介な子を連れているのね」
ノルンが低く言う。
「人を測定する癖、まだ治ってないの」
「あなたに言われたくないわ」
リゼットはマキナへ向き直った。
「私はリゼット=カーヴァ。中枢工房連盟の技師よ。改革派、と言った方が分かりやすいかしら」
「マキナです」
マキナは頭を下げた。
リゼットは少し驚いたように瞬きした。
「礼儀正しいのね」
ラウドが横から言った。
「最初はだいたいそう思う」
「後で変わるの?」
「面倒になる」
「そう」
リゼットは面白そうにマキナを見た。
「ノルンが連れている時点で、面倒なのは分かるわ」
「私は連れてきたんじゃない。巻き込まれたの」
「昔から、そう言いながら一番深くまで入っていく人だった」
ノルンの表情が消えた。
リゼットはそこで言葉を止めた。
少しだけ沈黙が落ちる。
広場の討論はまだ続いている。だが、マキナには二人の間の空気の方がずっと大きく感じた。
リゼットは声を落とした。
「ここでは話しにくいわ。あなたたち、時間は?」
ノルンは即答しない。
マキナを見る。
マキナは頷いた。
ノルンはため息をつく。
「短くなら」
「短く済む話なら、私も広場で済ませてる」
リゼットは歩き出した。
一行は、第四工房通りへ入った。
そこは観光客向けの整った通りではなく、実際に技師たちが働く場所だった。炉の熱が近く、壁には配管がむき出しで、床には小さな金属片が落ちている。だが外縁工房区のような乱雑さはない。すべてが整理され、掃除され、管理されていた。
店の奥では、義肢の神経接続部を調整している男がいた。腕を外した客が、平然と茶を飲んで待っている。その隣で、修理ドローンが外した腕の指を一本ずつ動かし、反応を確認していた。
別の工房では、子供用の補助具が壁に並んでいた。細く、軽く、磨かれている。ラウドはそこを通る時、少しだけ速度を落とした。
「弟さんたちに?」
マキナが聞くと、ラウドはすぐには答えなかった。
「下のやつは、膝が悪い。煤と薬品でな。外縁じゃ、中古の補助具でも高い」
「ここなら」
「ここなら、合うやつがあるんだろうな」
ラウドの声は平らだった。
けれど、その平らさが痛かった。
「でも、買えるかは別だ」
マキナは壁の補助具を見た。
綺麗だった。
その綺麗さが、誰にでも届くものではないと知ると、少しだけ違って見えた。
リゼットの工房は、通りの奥にあった。
狭いが、天井が高い。壁一面に義肢部品と記録端末、古い演算器、結晶片の標本が並んでいる。中央の作業台には、分解された小型ドローンと、半分だけ組まれた人工関節が置かれていた。
窓は小さい。
外から見れば、普通の工房に見えるだろう。
だが中に入ると、空気が少し違った。単なる義肢工房ではない。古い結晶片、外文明製らしき演算板、ルーメン文字に似た刻みのある金属片。中枢では扱いにくそうなものが、いくつも隠すように置かれている。
リゼットは扉を閉め、内側の音遮断装置を起動した。
低い振動が工房を包む。
ノルンが眉をひそめる。
「そこまで?」
「必要よ。あなたが戻ってきた。それに、白銀反応を持つ子がいる」
マキナは胸元に手を当てた。
「俺のことを知っているんですか」
「知っている、というより、知らされていないことが多すぎるのを知っている」
分かりにくい言い方だった。
ラウドが顔をしかめる。
「中枢の奴らは、皆そういう回りくどい話し方すんのか」
「直球で話すと記録に残った時に困るの」
「嫌な場所だな」
「ええ。嫌な場所よ」
リゼットは作業台の上に記録端末を置いた。
「O-17の件は、公式報告がもう回っている。異常反応資料の一部確保、施設崩落、任務成功。ずいぶん綺麗な報告」
ノルンが言う。
「綺麗すぎる」
「ええ。だから汚れた部分を探した」
リゼットは端末を操作した。
マキナには文字は読めない。だが、図や印は見える。O-17の識別番号。搬送経路のような線。黒く塗りつぶされた区画。
リゼットが説明する。
「O-17は、ただの観測施設じゃない。古い白銀系信号の観測点だった可能性がある。正式な記録は消されているけれど、補修資材の搬入と、観測端末の交換記録が残っていた」
「白銀系信号」
マキナが繰り返すと、胸の奥がかすかに震えた。
――関連語。
リゼットの目が光る。
「反応した?」
ノルンが即座に割って入る。
「質問を急がない」
「ごめんなさい。でも、重要なの」
「重要だから急ぐなって言ってるの」
リゼットは息を吐き、頷いた。
「鉄統局は、外文明技術やルーメン由来技術を軍事運用しようとしている。以前からね。でも最近、中心が変わった」
「中心?」
マキナは聞き返した。
「装置から、人間へ」
リゼットの声は静かだった。
その静けさが、かえって重い。
「現象操作装置は大きい。炉は固定される。演算装置は壊れる。整備も必要。使える場所も限られる」
彼女は作業台の上にあった小さな演算板を持ち上げた。
「でも、もし人間の身体に炉を持たせられれば、移動できる。戦場へ持ち出せる。命令を理解し、自分で判断し、壊れるまで戦える」
ラウドの顔が険しくなった。
「それ、人間じゃなくて兵器の説明だろ」
リゼットは頷いた。
「だから反対しているの」
ノルンは黙っている。
その沈黙が、肯定より重かった。
リゼットは端末に別の画面を出した。
文字列。
図。
人型の輪郭。
胸部に描かれた円形構造。
周囲に、ナノマシン、断片、同期、出力といった断片的な語が並ぶ。マキナには読めないが、ノルンとラウドの表情で危険なものだと分かった。
「内部資料で見た名称は、《人工現象炉計画》」
その言葉が、工房の空気を重くした。
マキナの胸の奥で、内なる声が乱れた。
――既知語。 ――不一致。 ――危険。
「知っているのか」
――記録、欠損。
「でも、危険なんだな」
――危険。
今回は、はっきり返ってきた。
ノルンは動かなかった。
だが、彼女の顔から血の気が引いていた。
「……まだ残ってたの」
その呟きは、とても小さかった。
リゼットがノルンを見る。
「やっぱり知っていたのね」
「知っていたものと同じとは限らない」
「でも、原型は知っている」
「今はその話じゃない」
ノルンの声は硬い。
いつもの怒りではない。
閉じた扉のような硬さだった。
マキナは口を開いた。
「人工現象炉って、何ですか」
リゼットはすぐには答えなかった。
言葉を選んでいる。
「現象操作を行うには、演算する器がいる。ヘイヴンならエーテル・フレーム。アーカイブなら結晶共鳴装置。ルーメンなら身体そのものが巨大な現象演算機関になる」
「人間は?」
「普通は、外部装置がいる」
マキナは自分の胸に手を当てた。
「俺は」
「だから異常なの」
リゼットは静かに言った。
「あなたは、外部装置なしで現象干渉している。ナノマシン適合。白銀反応。内在する断片。鉄統局から見れば、あなたは危険で、同時に欲しい」
欲しい。
その言葉に、マキナは地下輸送路の灰色外套を思い出した。
欠片。
対象。
白色反応候補。
リゼットは続ける。
「人工現象炉計画は、人間の身体を現象演算の炉にしようとする構想よ。ルーメン由来の断片、ナノマシン適合者、高同期者、外文明演算装備。それらを組み合わせて、人為的に現象使いを作る」
「作るって」
マキナの声が低くなる。
「人を、ですか」
「ええ」
「望んでいない人でも?」
リゼットは視線を伏せた。
「そこが、計画の一番腐っているところ」
ラウドが低く唸った。
「人を炉にするってことか」
「乱暴に言えば、そう」
「乱暴じゃなくても最悪だろ」
リゼットは否定しなかった。
ノルンは端末の画面を見つめていた。
その横顔を見て、マキナは思う。
ノルンは、これに近いものを知っている。
たぶん、昔。
中枢のどこかで。
でも、まだ聞けない。
聞いたら、彼女はまた扉を閉じる。
リゼットは画面を切り替えた。
「この計画に必要なのは、いくつかの適性。ナノマシン適合者。旧文明遺物耐性者。白銀反応者。外文明演算装備と神経同期しやすい者。そういう人間が、外縁や境界都市で集められている」
マキナの呼吸が浅くなる。
「エルシアは」
その名前を出すと、ノルンが目を伏せた。
リゼットは端末を操作する。
「外文明演算装甲高同期者。右腕神経過同期。冷却板欠損状態で搬送。性別、年齢、装備規格……名前は伏せられている」
マキナの手が震えた。
「それは」
「断定はできない」
リゼットは言った。
けれど、その声は苦かった。
「でも、条件は一致している」
胸の奥で声が響く。
――高同期個体。 ――神経過負荷。 ――生存可能性。
マキナは息を呑む。
「生きてるのか」
――可能性、高。
「エルシアか」
間。
――照合不能。 …… ――可能性、高。
マキナの中で、熱が広がった。
視界が少し狭くなる。
右腕の奥が痛む。
仮傭兵証が胸元で重くなる。
今すぐ行けば。
場所が分かるなら。
中枢地下。
鉄統局の研究棟。
そこにエルシアがいるなら。
マキナは一歩踏み出した。
ノルンの手が、彼の胸元の通行札を掴んだ。
「止まりなさい」
「でも」
「止まりなさい」
「エルシアが」
「分かってる」
ノルンの声は低かった。
「分かってるから言ってる」
「今なら」
「今走れば、君はただの成功例として回収される」
その言葉が、胸に刺さった。
成功例。
マキナは息を止めた。
ノルンは続ける。
「地下輸送路で、あんたは白色反応候補と呼ばれた。O-17で、あんたは姉妹信号に反応した。ここで怒って突っ込めば、向こうは喜ぶ。実験体が自分から炉の前まで来てくれるんだから」
マキナの拳が震えた。
左手だけで握る。
右手は固定具の中で痛む。
「でも、何もしないんですか」
「何もしないとは言ってない」
ノルンはマキナをまっすぐ見た。
「走らないと言ってるの」
工房の中が静まり返る。
ラウドも、リゼットも、何も言わない。
マキナは目を閉じた。
地下輸送路の夜。
怒りで撃った。
助けた者もいた。
でも、エルシアには届かなかった。
白銀の声は沈黙した。
旧観測施設では、使う前に言った。
小さく使った。
止まれた。
今ここで走れば、また同じになる。
いや、今度はもっと悪い。
自分も連れ去られる。
そうなれば、エルシアへ届くどころではない。
胸の奥で声が揺れた。
――マキナ生存、最優先。
間。
――対象エルシア、生存確認、優先候補。
マキナは目を開けた。
「お前も、迷ってるのか」
返事はすぐにはなかった。
――優先順位、再構成中。
マキナは息を吐いた。
「俺もだ」
ノルンの手はまだ通行札を掴んでいる。
マキナは、その手に自分の左手を重ねた。
「走りません」
ノルンの目が少しだけ揺れた。
「本当に?」
「今は」
「その付け足しが不安」
「でも、今は走りません」
ノルンはゆっくり手を離した。
ラウドが大きく息を吐く。
「よし。じゃあ今のうちに俺が走る」
ノルンとリゼットが同時に睨んだ。
ラウドは両手を上げる。
「冗談だよ。半分くらい」
「半分残すな」
マキナは少しだけ笑いそうになった。
笑えはしなかった。
でも、胸の熱が少しだけ形を変えた。
怒りは消えない。
消す必要もない。
ただ、走る足に変える前に、持ち方を変える。
リゼットが端末を閉じた。
「この記録、完全には渡せない。私も監査される。でも、断片なら」
彼女は小さな記録片を取り出した。
「中枢地下第七炉区。鉄統局医療研究棟に接続する古い搬送番号。それから、O-17の記録と重なる区域符号。これがあれば、セイルという子ならもっと辿れるかもしれない」
「なぜセイルを」
ノルンが聞くと、リゼットは小さく笑った。
「あなたが連れている子たちの中で、記録を読めるのは誰かと思って」
「会ってもいないのに?」
「あなたは昔から、自分にないものを持つ人間を近くに置く」
ノルンは嫌そうな顔をした。
「昔話禁止」
「はいはい」
その時だった。
工房の外で、足音が止まった。
一つではない。
複数。
ラウドが重機義肢を構える。
リゼットの顔が変わる。
「早い」
ノルンが低く言う。
「監査?」
「たぶん」
扉の外から声がした。
「中枢工房連盟監査班です。リゼット=カーヴァ技師、記録確認のため開扉を」
ラウドが小声で言う。
「開けるか?」
リゼットは端末を素早く収納し、記録片をマキナへ渡した。
「開けないと破られる」
ノルンは工房の奥を指した。
「裏は?」
「古い整備通路に繋がってる。けど、認証がいる」
「認証は?」
リゼットは薄く笑った。
「あなた、まだ覚えてる?」
ノルンは一瞬だけ目を細めた。
「嫌なことを言う」
扉が叩かれる。
今度は強く。
「開扉を」
マキナは記録片を握る。
ラウドが彼の前に出る。
「戦うか?」
マキナは首を振った。
「戦わない」
「言うようになったじゃねえか」
「でも、逃げます」
「それはいい」
ノルンは工房奥の壁にある古い制御盤を開けた。埃をかぶった端子が並んでいる。彼女は迷わず三つの端子を押し、一本の配線を引き抜き、別の穴へ差した。
壁の一部が低く鳴る。
リゼットが感心したように言った。
「まだ覚えてるのね」
「忘れたいことほど忘れないの」
壁が横へずれた。
狭い整備通路が現れる。
その瞬間、表の扉が開いた。
壊されたのではない。
外から認証されたのだ。
黒い制服の職員たちが入ってくる。
その先頭に、グレイヴ=ノックスがいた。
「リゼット=カーヴァ技師。未承認記録の閲覧疑いにより、確認を行う」
彼の視線がマキナへ向く。
「やはり、ここにいたか」
ノルンがマキナの背を押した。
「走る」
「でも」
「今のは走っていい場面!」
ラウドが笑った。
「よし、分かりやすい!」
マキナたちは整備通路へ飛び込んだ。
整備通路へ飛び込んだ瞬間、音が変わった。
工房の中にあった炉の低い唸りも、外の広場の声も、扉の向こうのグレイヴの冷たい声も、すべて厚い壁に遮られる。代わりに耳へ入ってきたのは、配管の中を走る蒸気の音、どこか遠くで回る歯車の軋み、足元の金属格子が鳴る乾いた響きだった。
狭い。
熱い。
そして暗い。
壁の片側には古い配線が束になって走り、もう片側には蒸気管がむき出しになっている。天井は低く、ラウドは少し首を縮めなければ通れなかった。床の格子の下には赤い光がちらついている。炉の熱が、下から息のように上がってくる。
ノルンが先頭を走る。
迷いがない。
「こっち!」
彼女は最初の分岐を右へ曲がった。
マキナはその背中を追う。右腕は固定具の中で鈍く痛み、胸元の通行札が走るたびに喉元で跳ねる。左手の中には、リゼットから受け取った小さな記録片がある。
落とせない。
握り潰してもいけない。
けれど、強く握らなければ、今にも手汗で滑り落ちそうだった。
背後でラウドの重機義肢が壁に当たり、鈍い音を立てた。
「狭すぎるだろ、ここ!」
「中枢の整備士は、あんたの腕を基準に通路を作ってない!」
ノルンが返す。
「それはそうだが!」
後ろから、扉の開く音が響いた。
足音。
複数。
グレイヴの声は聞こえない。だが、追跡者は来ている。
胸の奥で、白銀の断片が震えた。
――追跡、四名。
「四人」
マキナが言うと、ノルンが短く頷いた。
「距離は」
――後方、二十七歩相当。増速。
「近い」
「分かってる」
ノルンは左側の配管に手を伸ばし、古い弁をひねった。赤錆びた弁は一瞬動かなかったが、彼女が工具で叩くと、ようやく回った。
背後で蒸気が噴き出す。
白い霧が通路を満たし、追跡者たちの足音が乱れた。
ラウドが振り返る。
「足止めにはなるな」
「少しだけ」
「もっと派手にできねえのか」
「ここで派手にやると、私たちも蒸し焼き」
「地味でいい」
マキナは走りながら、ノルンの手元を見た。
古い制御盤。
使われていないはずの弁。
隠れた整備通路。
彼女は、その場所を知っている。
ただ知識としてではない。身体が覚えている。昔、何度も通った道を走るように。
「ノルン」
「後で」
「まだ何も聞いてません」
「聞く顔をしてた」
マキナは口を閉じた。
当たっていた。
二つ目の分岐に差しかかる。
ノルンは立ち止まりかけた。
ほんの一瞬。
その一瞬で、胸の奥の声が響いた。
――右方、遮断扉。左方、警備機械。
「右に扉、左に警備機械」
ノルンの目が鋭くなる。
「声?」
「はい」
「採用」
彼女は右へ曲がった。
だが、通路の先で低い音がした。
鉄が滑る音。
遮断扉が閉まり始めている。
「ちっ」
ノルンが走る速度を上げる。
「間に合うか」
ラウドが言う。
「俺が止める!」
彼は前へ出た。重機義肢を伸ばし、閉まりかけた扉の下へ腕を差し込む。金属同士が擦れ、火花が散った。扉は止まったが、ラウドの義肢が低く軋む。
「早く行け!」
マキナとノルンが身を低くして通り抜ける。
ラウドも続こうとした。
その時、背後の霧を割って、小さな影が飛び出した。
警備ドローンだった。
人の頭ほどの大きさ。丸い胴体に四本の細い脚と、針のような拘束アーム。目にあたる部分には青い光が灯っている。外縁で見た修理ドローンより、ずっと無機質で、鋭い。
それが、ラウドの背中へ飛ぶ。
「ラウド!」
マキナは左手を上げかけた。
撃てば落とせる。
射出なら、間に合う。
胸の奥の声が即座に返す。
――射出、可能。
負荷計の針がわずかに揺れる。
まだ黒域。
使える。
使えば、ラウドを守れる。
だが次の瞬間、別の声が続いた。
――白色反応、記録可能性。
マキナの手が止まる。
ここは中枢の整備通路だ。
壁も、天井も、床も、どこに記録装置があるか分からない。ここで現象操作を使えば、白色反応が残る。記録される。追跡対象が増える。マキナだけではなく、ノルンも、ラウドも、リゼットも危うくなる。
撃てば止められる。
でも、撃てば記録される。
記録されれば、次に追われるのは自分だけではない。
だから撃たない。
「ラウド、上!」
マキナは叫んだ。
ラウドは振り返らず、首だけをわずかに傾けた。警備ドローンの拘束アームが空を切る。ラウドは扉を支えたまま、重機義肢の肘を跳ね上げた。
肘の外殻がドローンを叩く。
ドローンは壁にぶつかり、青い火花を散らして落ちた。
「撃たなかったな!」
ラウドが歯を食いしばりながら言う。
「撃たない方がいいと思いました!」
「正解だ! でも次はもっと早く言え!」
「すみません!」
ノルンが扉の向こうから手を伸ばす。
「ラウド、腕を抜いて!」
「抜いたら閉まるだろ!」
「閉めるの!」
「先に言え!」
ラウドは腕を引き抜く。
遮断扉が落ちた。
重い鉄板が、追跡者と警備ドローンの残骸を向こう側へ隔てる。直後、扉の反対側から衝撃音が響いた。
追跡者が扉を叩いている。
だが、すぐには開かない。
ラウドは義肢を振った。関節部から煙が少し出ている。
「補修代、誰が出すんだ」
ノルンが走りながら答える。
「リゼットに請求しなさい」
「よし」
「本気にしないで」
「本気だ」
通路はさらに細くなった。
熱が上がる。
蒸気管の下をくぐり、古い点検足場を渡り、縦穴の横を通り抜ける。下を覗くと、はるか下方に赤い炉光が見えた。熱が顔を焼く。落ちれば、声を出す暇もないだろう。
ノルンは足場の途中で止まり、壁の小さな認証盤を開けた。
「ここで上に出る」
「出られるんですか」
マキナが聞くと、ノルンは古い端子に指を当てた。
「昔の保守用経路。今の管理系統からは半分忘れられてる」
「半分?」
「残り半分は覚えてる連中がいる」
「それは、悪い方ですか」
「たぶん」
「たぶんが多いですね」
「中枢では、確定している悪いことより、たぶん悪いことの方が多いの」
認証盤が赤く点滅した。
ノルンの顔が険しくなる。
「認証が変わってる」
「開かないんですか」
「開ける」
彼女は工具を取り出し、認証盤の横の板を剥がした。細い配線が露出する。ノルンは迷わず二本を切り、別の一本を繋いだ。
背後で遮断扉が鳴る。
追跡者が解除を始めている。
ラウドが後ろを睨む。
「早くしろ」
「急かすと失敗する」
「急がなくても失敗したら困る」
「黙って」
マキナの胸の奥で声が響いた。
――警備機械、接近。上方。
マキナは顔を上げた。
天井の軌道を、細長い警備機械が滑ってくる。蛇のような体に、三つの青い目。先端には拘束糸の射出口がある。
「上!」
ノルンが振り向く。
ラウドは足場の狭さで腕を振り回せない。
マキナは左手を上げかける。
まただ。
撃てば止められる。
でも、撃てば記録される。
胸の奥の声が、今度は先に言った。
――非現象手段、推奨。
「何かあるのか」
――右壁、蒸気弁。圧力上昇中。
マキナは右壁を見た。
小さな赤い弁。
手が届く距離ではない。
だが、足場に転がっている古いボルトがあった。
マキナはそれを拾い、弁へ投げた。
ボルトが当たる。
弁が半分だけ回り、蒸気が噴き出した。
白い熱が、天井の警備機械を横から叩く。機械は軌道を外れ、壁へぶつかった。拘束糸が空を切り、足場の下へ垂れる。
ラウドが低く笑った。
「今のは良かった」
「声が教えてくれました」
「中のやつも少しは使えるな」
胸の奥がかすかに震えた。
――評価、保留。
マキナは思わず短く笑った。
ノルンが認証盤を叩く。
「開いた!」
壁の一部が上へ滑る。
外の光が差し込んだ。
三人は通路を抜ける。
出た先は、第四工房通りの裏路地だった。
蒸気と油と焼けた金属の匂いが戻ってくる。表の通りでは、何事もなかったように工房が動いている。職人が客と話し、修理ドローンが路面を滑り、子供が補助具を鳴らして走っている。
誰も、今そこから逃げ出してきた三人を見ない。
いや、見ないふりをしている者もいた。
中枢では、それも生きる術なのかもしれなかった。
マキナは壁にもたれて息を整えた。
右腕が痛む。
だが、負荷計は黒域に近い。
能力は使わなかった。
撃てる場面はあった。
守るために使いたい瞬間もあった。
それでも、使わずに逃げた。
それが、妙に不思議だった。
戦えば勝てたかもしれない。
でも、勝つ必要はなかった。
ラウドが義肢を振りながら言う。
「今のは勝ったのか?」
ノルンが答える。
「捕まってないから十分」
マキナは握った記録片を見る。
小さな金属片。
そこにエルシアの手がかりがある。
人工現象炉計画の入口がある。
そして、おそらく、もっと遠い何かへ続く道もある。
ノルンは周囲を確認しながら言った。
「ここには長くいられない。リゼットは時間を稼ぐだろうけど、あの子も無茶はできない」
「次はどこへ」
マキナが聞くと、ノルンは少し考えた。
「一度、滞在区へ戻る。セイルに記録を送る。あの子なら、ここに書かれた番号を辿れる」
「中枢で動くのは危険では」
「危険よ」
「でも、やるんですね」
「やらないと、何も分からない」
マキナは頷いた。
走らない。
でも、止まらない。
胸の奥で、声がかすかに響く。
――選択、継続。
「そうだな」
ノルンが横目で見る。
「また声?」
「はい」
「何て?」
「続ける、と」
ノルンは小さく息を吐いた。
「中の声まで、あんたに似てきたら困るわ」
「困りますか」
「かなり」
ラウドが肩をすくめる。
「もう似てるだろ」
マキナは胸元の仮傭兵証を握った。
鉄の都は、憧れだけではできていない。
その下に、隠された通路がある。
消された記録がある。
人を炉にしようとする計画がある。
それでも、ここに来なければ見えなかった。
ここに来たから、エルシアが生きているかもしれないと分かった。
ここに来たから、怒りで走らない選択をした。
そしてまだ、カイの足跡は見つかっていない。
仮傭兵用の滞在区へ戻るまで、ノルンは一度も大通りを使わなかった。
裏の修理通路、工房の搬入口、清掃機械が通る細い側道。中枢の街は、表から見れば整然としている。だが、裏には無数の細い道があった。熱を逃がす道、部品を運ぶ道、汚れを流す道、人が目立たず移動する道。
ノルンはそれを知っている。
知らなければ、ここまで迷わず歩けない。
滞在区に着く頃には、マキナのシャツは汗で背中に張りついていた。中枢の空気はアッシュバルトより清潔だ。けれど、逃げた後の身体には、どこの空気も重かった。
滞在区の入口で通行札をかざすと、短い音が鳴る。
記録された。
また一つ。
マキナはその音が嫌いになり始めていた。
部屋に入ると、ノルンはすぐに扉を閉め、鍵をかけた。鍵をかけても、完全に安全になった気はしない。壁の中にも、床の下にも、何かが聞いているような気がする。
ラウドは椅子に腰を下ろし、義肢の肘を確認した。
「警備ドローン一匹でこれか。中枢の部品は硬いな」
「外縁の補修板が限界なのよ」
ノルンが言う。
「リゼットに請求する」
「本気で請求していいわよ。今回の件は、あの子にも責任がある」
「よし」
「ただし、請求書は私が書く。あんたが書くと喧嘩になる」
「字が読めねえし書けねえから問題ねえ」
「問題しかない」
マキナは左手の中の記録片を机に置いた。
薄い金属片。
表面の線が、部屋の灯りを受けて鈍く光る。
「これを、セイルに?」
「そう」
ノルンは鞄から折り畳み式の古い通信器を取り出した。外縁の部品を継ぎ接ぎしたような小型端末で、現在の中枢規格とは明らかに違う。表面には細かい傷があり、裏面には手書きの印がいくつも刻まれている。
「それ、前にも使っていましたね」
「昔の医療用通信器。今の規格には合わないけど、だから見落とされやすい」
「昔の?」
ノルンは端末を開きながら、少しだけ手を止めた。
「後で。少しだけなら話す」
マキナは頷いた。
今は記録が先だ。
ノルンは記録片の横に、セイルから預かった記録符を置いた。薄い金属符の溝が、淡く光り始める。まるで、眠っていた虫が目を覚ますように、細い線の中を青白い光が走った。
ラウドが身を乗り出す。
「それ、何してんだ?」
「記録の匂いを嗅がせてる」
ノルンが言った。
「分かるように説明しろ」
「私も全部は分からない。セイルに聞いて」
「聞いたらもっと分からなくなるだろ」
「たぶん」
通信器が低く鳴った。
画面に文字が浮かぶ。
マキナには読めない。
それが、また胸を少し重くする。
世界は文字で閉じられている。
読める者だけが扉を開け、読めない者は、誰かに鍵を借りるしかない。掲示板でも、仮傭兵証でも、任務記録でも、いつもそうだった。
ノルンが横目で見た。
「読みたい?」
「……はい」
「なら覚えなさい」
「今から?」
「今じゃなくても。生きてる限り、覚えられる」
ノルンは端末を操作しながら言った。
「読めないことを恥じる必要はない。でも、読めないままでいいと思う必要もない」
マキナは記録片を見つめた。
「はい」
ラウドが横で小さく言った。
「俺も覚えるか」
ノルンが目だけ向ける。
「本気?」
「悪いかよ」
「悪くない。むしろいい」
「普通に褒めるな。気持ち悪い」
「面倒ね、あなたたち」
通信器がもう一度鳴った。
ノルンの表情が変わる。
「繋がった」
画面に短い文字が走る。少し間を置いて、別の文字が返ってきた。
セイルだ。
ノルンが内容を読み上げる。
「記録片、受信。照合開始。中枢地下第七炉区、旧式搬送番号、鉄統局医療研究棟、外部閲覧不可。……やっぱりね」
ラウドが立ち上がりかける。
「場所、分かったのか」
「座る」
ノルンが言う。
「でも」
「座る」
ラウドは歯を食いしばり、座り直した。
マキナも動かなかった。
動きたい。
今すぐ行きたい。
だが、動かない。
胸の奥で、声が静かに言った。
――選択、維持。
「維持してる」
――肯定。
ノルンはさらに読み上げる。
「第七炉区は、現在は廃炉扱い。ただし通電記録あり。医療研究棟との搬送接続は二年前に閉鎖済み。閉鎖後の搬入記録、複数あり。承認印は不明。……不明じゃないでしょ、セイル」
端末にまた文字が走る。
ノルンの目が細くなる。
「歯車と縦線の非公式印に類似」
ラウドが低く言った。
「鉄統局か」
ノルンは頷かない。
否定もしない。
「続き。搬送対象記録、断片。外文明演算装甲高同期個体。右上肢神経過同期。冷却系欠損。生体維持処置中」
マキナの呼吸が止まる。
生体維持処置中。
生きている。
その言葉が、胸に刺さった。
希望のようで、鎖のようでもあった。
ノルンは読み続ける。
「処置目的。同期安定化。炉適性評価。……被験者名は削除」
マキナの視界が狭くなる。
炉適性評価。
人工現象炉計画。
人間の身体を現象演算の炉にする。
エルシアの震えていた右手が、頭の中に浮かんだ。
勝てば選べる、と言った声。
選ぶ側じゃなくなる、と言った目。
「エルシア……」
ラウドが机を殴りそうになって、直前で止めた。
「くそ」
ノルンは端末から目を離さない。
「名前は伏せられている。でも条件は一致する」
「映像は」
マキナは言った。
自分でも、声が震えているのが分かった。
「映像はないんですか」
ノルンはセイルからの返答を待った。
画面に文字が走る。
「断片映像あり。ただし破損」
「見せてください」
「マキナ」
「見せてください」
ノルンはしばらく黙っていた。
そして、画面をこちらへ向けた。
映像は粗かった。
色も欠けている。
灰色の廊下。
搬送台。
そこに載せられた人影。
顔は映らない。
布と装甲部品で隠れている。
だが、右腕だけが見えた。
青灰色の演算装甲。
冷却板の欠けた留め具。
細い神経接続線。
マキナは、その一瞬だけで分かった。
エルシアだ。
断定はできない。
記録上は名前もない。
顔も映らない。
それでも、分かった。
「生きてる」
マキナは呟いた。
胸の奥の声が響く。
――対象エルシア、生存可能性、高。
「助けに」
そこまで言って、マキナは止まった。
ノルンを見る。
ラウドを見る。
記録片を見る。
右腕の固定具を見る。
今すぐ走れば、どうなるか。
分かっている。
ノルンが何も言わない。
それが逆に、彼女の言葉を思い出させた。
怒りで走れば、ただの成功例として回収される。
マキナは左手を握った。
「……今は、行かない」
自分で言った。
声に出して言った。
そうしなければ、身体が勝手に動きそうだったからだ。
ノルンの表情が、ほんの少しだけ緩む。
「よし」
「よし、ですか」
「今はそれで十分」
胸の奥の声が続く。
――対象エルシア、生存可能性、保持。 ――救出、未実行。 ――情報収集、継続推奨。
マキナは目を閉じた。
内なる声も、救出を否定していない。
ただ、今ではないと言っている。
そのことが、少しだけ支えになった。
通信器がまた鳴った。
ノルンが画面を見て、眉を寄せる。
「セイルから追加。O-17、姉妹信号、鉄統局、人工現象炉計画の語句照合中。関連記録に、外縁通信の古いログが引っかかった」
「外縁通信?」
マキナが聞くと、ノルンは続きを読む。
「数日前、中枢外縁通信塔を経由して、ヴェイル特定区域への通行照会が行われている。照会者は匿名。記録上は削除済み。削除痕から復元」
ラウドが鼻を鳴らす。
「あいつ、本当に何やってんだ」
「便利な犯罪者」
ノルンが呟く。
マキナは身を乗り出した。
「誰の記録ですか」
ノルンは読み進める。
「同行者特徴。黒髪の青年。機械義肢なし。外部装置なしの現象操作履歴あり」
その最初の特徴だけで、マキナの胸が鳴った。
「次」
「白髪、または銀髪の女性型個体。高密度現象反応。外文明由来装備記録なし」
白銀の光が、記憶の中で揺れる。
セレスティア。
マキナは本人を知らない。
だが、カイの噂を聞くたびに、その名は影のように寄り添っていた。
「次」
ノルンは画面を追う。
「小型観測機体。登録外ルーメンの可能性。自律会話記録あり。名称記録は欠損」
イリス。
新しい観測者。
その名をマキナはまだ知らない。
だが、小型観測機体という言葉だけで、胸の奥の声がかすかに反応した。
――観測系。
「続けてください」
「重装備の少女。大型武装携行。生体反応は人間型。義肢反応なし」
ミラ。
それも、伝え聞いた特徴と重なる。
ノルンは一度、画面から目を上げた。
「名前は削除されてる。でも、セイルが削除痕から一音だけ復元してる」
マキナは息を止めた。
「何て」
短い沈黙。
ノルンが言う。
「カイ」
その音が、部屋の中で静かに落ちた。
カイ。
本当にいた。
いや、知っていたはずだ。噂もあった。伝承と現実が重なったから、ここまで来た。
それでも、記録として目の前に出ると、違う。
夢の中の星を、地図の上に見つけたような感覚だった。
マキナは言葉を失った。
北の森で聞いた伝承。
白銀のルーメンが反応した言葉。
カイ、セレスティア、ミラ。
そして観測者。
それらが、急に遠い物語ではなくなった。
数日前。
この中枢外縁通信塔を通って、彼らしき一行がヴェイルへ向かった。
今もどこかを歩いているかもしれない。
追える。
「どこへ」
声がかすれた。
ノルンは画面を見る。
「ヴェイル特定区域。南東外縁、旧観測線方面。区域名は欠損。座標だけ残ってる」
「旧観測線」
マキナの胸の奥が震えた。
――座標、照合。 ――姉妹信号、微弱関連。
「姉妹信号と関係がある」
ノルンが顔を上げる。
「声?」
「はい。微弱関連、と」
ラウドが立ち上がる。
「じゃあ次はそこか」
「待って」
ノルンが止める。
「記録はこれだけじゃない」
通信器に、さらに文字が流れる。
ノルンの顔が険しくなった。
「同じ区域に、鉄統局の未承認搬送記録もある。時刻はカイらしき一行の通行照会の後。搬送内容は非開示。承認印、非公式」
「エルシアと関係があるんですか」
「まだ分からない」
「でも、同じ方向に」
「可能性はある」
マキナは仮傭兵証を握った。
エルシア。
カイ。
姉妹信号。
鉄統局。
すべてが、南東外縁のヴェイルへ向かっている。
胸の奥の声が揺れる。
――探索、必要。
「分かってる」
――対象エルシア、生存可能性、保持。 ――カイ記録、関連可能性。 ――姉妹信号、微弱関連。 ――優先順位、再構成中。
マキナは目を閉じた。
また、声が迷っている。
いや、迷っているというより、選ぼうとしている。
自分と同じように。
「全部、繋がってるのかもしれない」
マキナは呟いた。
ノルンは否定しなかった。
ラウドも、珍しく何も言わなかった。
通信器が短く鳴る。
ノルンが画面を読む。
「セイルから。南東外縁、旧観測線周辺で機械獣反応増加。未処理任務あり。D級仮傭兵参加可。ただし監督官承認が必要」
「監督官」
マキナは嫌な予感がした。
ノルンも同じ顔をしている。
「グレイヴの承認がいる」
部屋が静かになった。
ラウドが言う。
「最悪だな」
「ええ、最悪」
ノルンは通信器を閉じかけ、手を止めた。
また文字が出た。
「セイルから。別方法あり。改革派工房連盟の技術調査名目なら、監督官承認を迂回できる可能性。ただし、リゼット=カーヴァ技師の署名が必要」
ラウドが天井を仰いだ。
「リゼット、今監査中じゃねえか」
「だから難しい」
「でも、不可能じゃない」
マキナが言うと、ノルンが見た。
「そういうところ、誰に似たのかしらね」
「分かりません」
「たぶん全員の悪いところを吸ってる」
その時、部屋の外で足音がした。
一つ。
重い足音ではない。
控えめなノック。
ノルンが身構える。
ラウドが扉の横へ移動した。
マキナは記録片を隠す。
「誰」
ノルンが聞く。
扉の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「リゼット。開けて。時間がない」
ノルンは一瞬だけ迷った。
それから扉を開けた。
リゼット=カーヴァは息を切らしていた。白い腕章は外され、作業外套の袖に油がついている。手には小さな鞄。
「監査は?」
ノルンが聞くと、リゼットは肩をすくめた。
「端末を三台見せた。全部、見られて困らないもの。向こうが飽きるまで時間を稼いだ」
「あなた、昔より悪くなった?」
「あなたに教わったのよ」
「私はそんなこと教えてない」
「黙ってやる方を教わった」
ノルンは顔をしかめた。
リゼットは部屋へ入り、扉を閉める。
「セイルという記録者から、妙な経路で連絡が来た」
「やっぱり」
「彼、危ないわね」
「知ってる」
「でも有能」
「それも知ってる」
リゼットは鞄から小さな署名板を取り出した。
「南東外縁の技術調査任務。旧観測線周辺の機械獣反応増加。工房連盟改革部会の名義で、外縁調査を申請できる。私は同行できないけれど、技術支援として申請を通せる」
マキナは顔を上げた。
「行けるんですか」
「通ればね」
「通すには」
「監督官の承認を避ける代わりに、医療監督者と工房連盟技師の署名が必要」
ノルンが腕を組む。
「私とあなた」
「そう」
「巻き込みに来たの?」
「もう巻き込まれてる」
二人はしばらく見つめ合った。
昔、同じ場所にいた人たちなのだと、マキナは思った。
言葉の間に、まだ見えない時間がある。
仲が良いのか、悪いのか。信じているのか、怒っているのか。どちらでもあるのかもしれない。
ノルンはため息をついた。
「署名したら、あなたも疑われる」
「今さら」
「本当に今さらね」
リゼットは苦笑した。
「私は鉄統局に反対している。でも、反対しているだけじゃ足りない。あの子たちがどこへ運ばれたのか、何をされているのか、外へ出る記録が必要なの」
「エルシアのことですか」
マキナが聞くと、リゼットは静かに頷いた。
「彼女一人だけじゃない。でも、彼女も含まれる」
マキナは記録片を握った。
「助けたいです」
「でしょうね」
「でも、今すぐ突入しません」
リゼットの目が少し柔らかくなった。
「ノルンが止めた?」
「はい」
「いい医者ね」
ノルンが顔を背ける。
「褒めてごまかさない」
「ごまかしてないわ」
リゼットは署名板を机に置いた。
「南東外縁へ出るなら、理由は三つある。機械獣反応の調査。旧観測線の異常信号確認。カイ=ヴォルトらしき一行の足跡」
その名前を、リゼットの口から聞くと、マキナの胸がもう一度強く鳴った。
「カイのことも」
「通信ログは見た。名前は消されていたけれど、消された名前ほど意味がある」
「カイは、そこにいると思いますか」
リゼットはすぐには答えなかった。
「いるかもしれない。もう移動しているかもしれない。でも、確かにそこを通った可能性が高い」
可能性。
ずっと、そればかりだ。
エルシアが生きている可能性。
カイが通った可能性。
姉妹信号と関係する可能性。
だが、可能性があるから歩ける。
完全な答えを待っていたら、きっと何も救えない。
ノルンは署名板を手に取った。
「私は署名する。でも条件がある」
リゼットが頷く。
「何?」
「マキナの現象操作記録は、医療記録として私が管理する。工房連盟にも、任務局にも、不要な詳細は出さない」
「分かった」
「ラウドの義肢補修部品を正式経費で出す」
「それも?」
ラウドが顔を上げる。
「出るのか」
ノルンが睨む。
「黙ってなさい。交渉中」
リゼットは笑った。
「出すわ。旧観測線なら前衛が要る」
ラウドは小さく拳を握った。
「よし」
「それから」
ノルンの声が少し低くなる。
「もし向こうで鉄統局の研究施設に繋がる入口を見つけても、勝手に突入しない」
リゼットはマキナを見た。
マキナは頷いた。
「しません」
ラウドも少し遅れて頷く。
「たぶんな」
ノルンが睨む。
「するな」
「しねえよ」
「たぶんを消しなさい」
「しねえ」
リゼットは署名板に指を置いた。
薄い光が走る。
ノルンも署名する。
申請が送られる。
数秒。
数十秒。
部屋の空気が待つ。
やがて、署名板が小さく鳴った。
リゼットが画面を確認する。
「仮承認。出発は明朝。南東外縁、旧観測線調査任務」
マキナは息を吐いた。
明朝。
道が開いた。
ノルンはすぐに言う。
「今夜は休む」
「でも準備が」
「休むのも準備」
「はい」
「今度は本当に寝る。声と相談して夜中に抜け出すのは禁止」
マキナは少しだけ目を逸らした。
「考えていません」
「今、一瞬考えた顔」
ラウドが笑う。
「分かりやすいな」
「ラウドも同じです」
「俺は顔に出ねえ」
ノルンとリゼットが同時に言った。
「出る」
ラウドは黙った。
リゼットは帰り際、マキナへ小さな部品を渡した。
薄い円盤状のものだった。
「これは?」
「通行札の記録遅延器。違法ではないわ。工房連盟の点検時に使う正規道具」
ノルンが横から言う。
「用途によっては限りなく違法」
「用途を間違えなければ正規」
「そういう言い方、昔より悪くなってる」
「あなたに教わったの」
ノルンはまた顔をしかめた。
リゼットは少しだけ笑い、扉へ向かった。
その手が扉に触れる直前、彼女は振り返った。
「マキナ」
「はい」
「カイ=ヴォルトを追うなら、彼を英雄としてだけ見ない方がいい」
マキナは言葉に詰まった。
「どういう意味ですか」
「英雄は、後から人がそう呼ぶものよ。本人はたいてい、もっと厄介なものを背負っている」
リゼットはノルンを見る。
「そういう人間を、私は何人か見た」
ノルンは答えなかった。
リゼットはそれ以上言わず、部屋を出ていった。
夜になっても、テラ・フォージ中枢は暗くならなかった。
窓の外では、巨大炉が赤く燃え続けている。蒸気橋の灯りが霧の中に浮かび、機械塔の上部では青い信号灯が点滅していた。街の音は昼より少し低くなるだけで、消えない。
マキナは滞在区の小さな窓から、その光を見ていた。
憧れていた鉄の都。
美しい。
それは本当だ。
この都市はすごい。
それも本当だ。
だが、その下に隠されたものも見た。
黒い扉。
消された記録。
人を炉にする計画。
エルシアの名前を伏せた生体維持処置。
グレイヴの冷たい目。
ノルンの過去に触れた男の声。
美しさと恐ろしさは、同じ都市の中にあった。
マキナは胸元の仮傭兵証を外し、手のひらに置いた。
首輪。
鍵。
今は、その両方を使うしかない。
胸の奥に意識を向ける。
「聞こえるか」
少し間を置いて、返事がある。
――聴取、可能。
「明日、南東外縁へ行く」
――座標、関連あり。
「姉妹信号と?」
――微弱関連。
「カイとも?」
沈黙。
――記録上、可能性あり。
「エルシアも、そこに繋がるかもしれない」
――対象エルシア、生存可能性、保持。
「助けたい」
――救出、未実行。
「分かってる」
――怒り、上昇。
マキナは少し驚いた。
「分かるのか」
沈黙。
――マキナ反応、記録済み。
「そうか」
自分の怒りも、記録されている。
だが、鉄統局に記録されるのとは違う。
胸の奥の声は、分類するために見ているのではない。
たぶん。
まだ、たぶんだ。
「怒ってる」
マキナは言った。
「でも、走らない」
――選択、確認。
「走らない。でも、止まらない」
少しだけ間があった。
それから、声が返る。
――継続、推奨。
マキナは小さく笑った。
「推奨か」
返事はない。
けれど、胸の奥の白銀は、弱く脈打っていた。
完全な沈黙ではない。
完全な答えでもない。
それでよかった。
翌朝へ向かう夜の中で、マキナは鉄の都の赤い光を見つめる。
炉の下には、隠された通路がある。
工房の奥には、消された記録がある。
英雄の名は、もう伝承の中だけにはなかった。
カイは、どこかへ向かっている。
エルシアは、生きているかもしれない。
姉妹信号は、まだ微かに胸の奥で揺れている。
今すぐ走り出したい怒りを、マキナは両手で押さえ込んだ。
走らない。
でも、止まらない。
次に向かう場所は決まっていた。