『レムナント・ヴェイル ― 現象使いのマキナ ―』

第10章 現象使いのマキナ

布が、白く鳴っていた。

風に叩かれているのではない。外から押し寄せる光が、厚い防塵布の繊維を震わせている。布の隙間に縫い込まれた銀線が、白銀の亀裂に反応し、細く、甲高い音を立てていた。

音は、夜の中に浮いていた。

金属を削る音。通信機の雑音。誰かが荷箱を閉じる音。負傷者の息遣い。遠くで、機械生物の脚が乾いた地面を踏む音。

それらすべての奥で、ヴェイルが起き上がっている。

マキナは寝台の縁に座っていた。

立っているわけではない。ノルンに許されたのは、座るところまでだった。右腕は肩から手首まで固定され、黒い布と銀線入りの圧迫帯に包まれている。負荷計は新しいものに替えられていたが、針はずっと黄域の端で震えていた。

動かしていないのに、震える。

それが、今の身体の答えだった。

「立つな」

ノルンが言った。

「まだ何もしてません」

「立つ前の顔をしてる」

「顔で分かるんですか」

「分かるわよ。ここまで何回見たと思ってるの」

ノルンは医療鞄の中身を確認していた。薬瓶、巻布、測定板、冷却薬筒、銀線布。いつもより数が多い。彼女の手つきは速いが、乱暴ではなかった。ただ、余裕がない。

マキナは左手で寝台の縁を掴んだ。

布の向こうが白い。

夜のはずなのに、そこだけ朝のように明るい。だが森の朝とは違う。湿った樹皮の匂いも、焚き火の灰の匂いもない。鉄粉と薬品と、焼けた冷却液の匂い。その奥に、何かが焦げる前の、乾いた白い匂いがあった。

胸の奥に意識を向ける。

「エイル」

少し遅れて、声が返った。

――聴取、可能。

返事がある。

それだけで、呼吸が少しだけ楽になる。

「外、見えるか」

――視覚共有、限定。 ――白銀反応、拡大。 ――恐怖、継続。

「俺も怖い」

そう答えると、胸の奥の白い声は沈黙した。

否定も訂正もなかった。

前なら、恐怖は行動判断を鈍らせる要因として処理されたかもしれない。今は違う。エイルは恐怖を、ただ恐怖として置いている。マキナの中にあるそれと、少しだけ重なっている。

「始めるわよ」

ミラの声がした。

仮設の作戦卓は、医療テントと整備テントの間に置かれていた。折り畳み式の金属板を二つ並べただけの簡単なものだ。上には地図、古い施設図、リゼットが送ってきた解析図、セイルの符号付き記録片、ミラの測定機が散らばっている。

カイは片膝をついて義肢の接続部を締めていた。右腕はもう取り付けられているが、動かすたびに細い軋みが混じる。ミラがそれを聞くたびに顔をしかめる。

ラウドはテントの入口近くに立っていた。重機義肢の外装には応急補強が重ねられ、肩部には新しい焼け跡がある。彼は腕を組もうとして、関節が引っかかったらしく、舌打ちしてやめた。

エルシアは簡易搬送台に乗せられていた。上体を少し起こされ、胸から肩にかけて医療布を巻かれている。青灰色の演算装甲はない。だが、寝台脇の小さな箱には、外された装甲残骸の一部が収められている。彼女の目は白銀の光を映していたが、どこか遠くへ戻ってしまっているわけではなかった。

セレスティアは作戦卓のそばに立っている。白銀の髪が、外の亀裂の光を受けて淡く揺れていた。イリスはその隣で、じっと布の外を見ていた。何かを目で追っているというより、光の揺れや音の違いを、一つずつ聞き分けているようだった。

通信機が鳴った。

雑音の向こうから、セイルの声が届く。

『こっちは聞こえてる。線は三割くらい死んでるけど、まだ使える』

リゼットの声が、別の線から割り込んだ。

『三割じゃない。四割。途中の中継塔が一つ、勝手に別の方向を向いた』

「中継塔って勝手に向くものなの?」

ミラが聞く。

『普通は向かない。今は普通じゃない』

「最悪ね」

『同感』

通信機の横で、測定板の針が跳ねた。

リゼットが続ける。

『ガルムは旧観測施設の最深部に到達した。こっちで拾えた起動ログは断片的だけど、接続値が跳ねてる。黒い容器はもう保存容器じゃない。断片を接続端子として使ってる』

「炉心じゃないのか」

カイが義肢の接続を確かめながら言った。

ノルンが低く答えた。

「炉心が問題なんじゃない。あれは炉心じゃない。無理やり意味を押し込まれた接続端子よ」

その言い方に、マキナは顔を上げた。

ノルンは地図を見ていた。視線は紙の上にあるのに、まるでずっと前に見たものを思い出しているような顔だった。

「抑制機構の残滓に、フォージ製の制御系を噛ませてる。そこへ白銀断片を接続する。断片そのものが力を出すんじゃない。断片に、あの場所の意味を読ませて、無理やり法則の側へ手を伸ばしてる」

「法則?」

ラウドが眉をひそめた。

「もっと分かる言い方しろ」

リゼットが通信越しに答える。

『局所空間の上書き。重力、距離、物質状態、エネルギーの流れ。範囲はまだ限定的。でも、広がってる』

「このままだと?」

マキナが聞いた。

通信機の雑音が少し強くなった。

セイルの声が、かすかに遅れて返る。

『ヴェイル周辺一帯が、まともな空間じゃなくなる。道が道じゃなくなる。物が物のまま残る保証もない』

「人は?」

ノルンが聞いた。

通信の向こうが一瞬だけ黙った。

『保証できない』

その短さが、いちばん重かった。

外で、何か大きなものが動いた。

地面がかすかに震える。テントの吊り具が鳴り、薬瓶の中の液体が小さく揺れた。ラウドが外を見る。カイも顔を上げる。

白い霧の向こうに、影がいくつも動いていた。

機械生物。

だが、昨日までのように散発的ではない。低い駆動音が、同じ拍で重なっている。鳥型の影が空を横切り、獣型の影が地上を走る。壊れた機械の残骸を継ぎ合わせたような不格好なものまで、施設の方角へ吸い寄せられていた。

同じ方向を向いている。

同じ意志を持っているように。

「防衛群化してる」

ミラが測定機を見た。

「個体制御じゃない。施設側からまとめて命令が出てる」

イリスが小さく言った。

「怒っている音ではありません」

皆が一瞬、彼女を見た。

イリスは布の外を見たまま続ける。

「怖がっている音です。でも、怖がっているまま、同じ方へ歩かされています」

マキナの胸の奥が、かすかに冷えた。

機械生物が怖がる。

その言葉は、理屈としてはおかしい。機械に恐怖があるのか。あるとしたら、それは誰の恐怖なのか。

だが、今のヴェイルでは、そういう問いがただの言葉遊びでは済まなくなっていた。

ノルンが作戦卓を指で叩いた。

「止めるなら、広がる前に縛るしかない」

「縛る?」

マキナが聞く。

ノルンはマキナを見た。

その目に、答えを押しつける色はなかった。むしろ、押しつけまいとしているように見えた。

「広がる波を制御できないまま、法則だけを上書きしてる。だから危険なの。強いからじゃない。広がり続けるから危険」

「一点に戻せばいい、ということですか」

セレスティアが言った。

「可能性の話よ。今の時点で、誰かを最後の鍵みたいに扱う気はない」

ノルンはそこで、はっきりマキナを見た。

「特にあんた」

「まだ何も言ってません」

「言う前の顔をしてる」

「今日は顔でいろいろ分かる日ですね」

「分かりやすいのよ、あんたは」

マキナは少しだけ口を閉じた。

分かりやすい。

ラウドにも、ノルンにも、最近よく言われる。自分ではそう思っていなかった。むしろ、自分は考えてから動く方だと思っていた。

だが、考えていることがそのまま顔に出るなら、あまり意味はないのかもしれない。

カイが義肢を握った。指が動く。軋む音はまだあるが、動きは戻っていた。

「分担を決めよう」

その声で、空気が切り替わった。

ラウドがセレスティアを見た。

「その前に一つ聞く。あんた、白銀の観測者なんだろ。あの炉に入ってる断片と同じ系統なら、そっちの力でどうにかできねえのか」

空気が、少しだけ止まった。

マキナはセレスティアを見た。

セレスティアはすぐには答えなかった。 外の白銀亀裂を見て、それから作戦卓の上に置かれた旧施設図へ視線を落とした。

「できません」

「できない?」

ラウドが眉をひそめる。

「できない、というより、してはいけません」

セレスティアは静かに言った。

「私が炉心の断片へ直接干渉すれば、抑制機構の残滓はそれをリセット起動の信号として扱う可能性があります」

「リセットって」

ラウドの声が低くなった。

「この場所を消すってことか」

「この場所だけでは済みません」

セレスティアの声は揺れなかった。 だからこそ、その内容だけが重かった。

「ヴェイル周辺、最悪の場合はテラ・フォージ全域に、抑制機構の活性化が広がります」

誰もすぐには言葉を返さなかった。

ミラが測定機の上に指を置いたまま、短く息を吐く。

「だから、セレスティアは力ずくで触れない。触った瞬間、炉を止めるどころか、終わらせる側の信号になる」

「それだけではありません」

セレスティアは続けた。

「炉に接続されている断片は、マキナの中のエイルと近いものです。私の波長は、あの子にとって救いではなく、切除や統合として認識されるかもしれません」

マキナの胸の奥が、わずかに冷えた。

白銀分離実験の時の、あの白い空間。 エイルの恐怖。 自分の心臓が止まった感覚。

ノルンの視線が鋭くなる。

「同じことを、今度は炉心側で起こすかもしれないってことね」

「はい」

セレスティアは小さく頷いた。

「そして、あちらはマキナの身体の中にはいません。止めるための心拍も、呼び戻す声も、すぐそばにはない」

マキナは息を呑んだ。

エイルが胸の奥で微かに震える。

――同系反応。 ――恐怖、想起。

「分かってる」

マキナは内側で答えた。

セレスティアはマキナを見た。

「私は、もう理解する前に触れて、相手の選択を奪うことはしません」

それは謝罪ではなかった。

だが、逃げでもなかった。

ミラが頷いた。

「だから、セレスティアは観測だけ。場の歪みを読む。境界を見る。直接制御はしない」

「で、実際に切るのは?」

ラウドが聞く。

ミラは炉心切断具のケースを叩いた。

「私たちの手でやる」

カイはそこで、作戦卓の地図に指を置いた。

「そのために中へ入る。正面の旧搬入口は防衛群が集まってる。前に来た時の退避経路がまだ残っていれば、北側の崩落斜面から中層に入れる」

「前にって、あんたたちが撤退した時のか?」

ラウドが聞く。

「ああ。崩れたと思ってたが、外側からなら使える可能性がある」

ミラが測定機を地図に重ねた。

「可能性ね」

「確実な道があるなら、そっちを使う」

「そういう返し、嫌いじゃないけど嫌」

ミラは小さくため息をつき、視線を地図へ戻した。

「私は測定機でセレスティアとイリスの反応を拾う。あと、炉心切断具を持つ。中に入ったら、制御線と物理接続の場所を探す」

セレスティアが頷く。

「私は場の歪みを観測します。炉心には触れません」

その言葉を聞いて、ノルンがわずかに視線を上げた。

「その約束、途中で変えないで」

ノルンが言う。

セレスティアは、その視線を受け止めた。

「はい」

セレスティアは素直に頷いた。

その素直さが、少しだけ不思議だった。白銀の観測者。世界の終わりを見てきた存在。それが、ノルンの言葉に小さく頷いている。

マキナは、そこに少しだけ安心した。

万能ではない者たちが、互いを止めている。

イリスが手を上げた。

「私は、色を見ます」

ミラが顔を向ける。

「無理はしない」

「無理の定義を確認します」

「難しい顔をし始めたら戻る」

「顔」

イリスは少し考えた。

「眉間の収縮ですか」

「だいたい合ってる」

カイが言い、ミラに睨まれた。

ラウドが腕を鳴らす。

「俺は前でいいんだろ」

「前衛だ」

カイが答える。

「ただし突っ込みすぎるな」

「俺に言うのか、それ」

「言う」

「信用ねえな」

ノルンが短く言った。

「実績」

ラウドは何か言い返そうとして、エルシアの搬送台を見た。

言葉を飲む。

「……エルシアは俺が運ぶ。敵が来たら、俺が止める」

エルシアが静かに顔を上げた。

「私は、運ばれるだけですか」

「そういう意味じゃねえ」

「なら、私の見る場所を守ってください」

ラウドは頭を掻き、少し視線を逸らした。

「……分かった。あんたの位置は俺が守る。あんたは見る。これでいいか」

エルシアは少しだけ頷いた。

「はい」

マキナはそのやりとりを見ていた。

エルシアはまだ弱っている。腕に繋がる管も、胸の布も、顔色の悪さも隠せない。それでも、彼女は自分の扱われ方を選ぼうとしている。

助けられるだけではない。

置かれるだけでもない。

その姿が、胸の奥に残った。

「マキナ」

カイに呼ばれて、マキナは顔を上げた。

「お前は俺とラウドの後ろ。前には出るな」

「でも」

「でも、じゃない。お前は前衛じゃない」

言葉は強くなかった。

だが、迷いがなかった。

カイは続ける。

「俺について来るな」

その言葉は、テントの外での会話の時にも聞いた。

俺を追うな。

今は、その続きだった。

「施設の中でも、俺の背中を見るな。俺がどこへ行くかじゃなくて、お前がどこで止まるかを見ろ」

マキナは、カイの義肢を見た。

軋みがある。接続部の処置痕も新しい。伝承の中の英雄なら、そんなものは見えなかっただろう。だが、目の前のカイは壊れかけた腕で、戻るために進もうとしている。

追うな。

その言葉は、突き放すためではなく、場所を渡すためにあるのだと、今なら少し分かった。

「分かりました」

マキナは答えた。

本当に分かったかどうかは、自信がない。

胸の奥で、エイルが震えた。

――恐怖、継続。 ――逃走、合理的。

「うん」

マキナは内側で答えた。

「逃げる道も見る。でも、今は行く」

――生存率、不安定。

「知ってる」

――損耗、予測。

「それも知ってる」

少し間があった。

――観測、希望。

マキナは息を吸った。

「俺も」

声に出ていた。

ノルンがこちらを見る。

「何が、俺も?」

「……逃げ道を見ます」

「今の間は何」

「たぶん、説明すると長くなります」

「じゃあ後で聞く。生きて戻ったら」

その言い方に、マキナは少しだけ笑いそうになった。

生きて戻ったら。

それは脅しではなく、約束の形に聞こえた。

      ◇

外へ出ると、白銀の亀裂はさらに太くなっていた。

夜空に走る亀裂というより、空そのものが白く裂け、その裂け目から別の明るさが滲み出しているようだった。星は見えない。雲もない。ただ、白い傷が空にあり、そこから降りる光がヴェイルの霧を照らしている。

機械生物の群れは、施設方面へ向かっていた。

個々の輪郭は霧に溶けている。だが、駆動音が揃っている。脚の動きが揃っている。低い音が地面を伝い、マキナの足裏に触れた。

身体が、行くなと言っている。

右腕は重い。胸の奥は熱い。頭の裏側が細く痛む。負荷計を見ると、針は黄域の端でまだ震えていた。

ノルンがその針を見た。

「今から一つだけ言う」

「たぶん、一つじゃ済まないと思います」

「黙って聞く」

「はい」

「赤に入ったら止める。倒れる前に止める。あんたが嫌がっても止める。カイが止めなくても、セレスティアが迷っても、私は止める」

「はい」

「返事が軽い」

「重くすると、動けなくなりそうなので」

ノルンは一瞬黙った。

それから、マキナの左肩を軽く叩いた。

「怖いなら怖いまま歩きなさい。怖くなくなったら、それは危ない」

マキナは頷いた。

「はい」

ラウドがエルシアの搬送台を押し始める。台は簡易的な浮上補助具をつけていたが、完全には浮かない。荒れた地面では揺れが出る。そのたびにエルシアの顔がわずかに強張った。

「揺れるか」

ラウドが聞く。

「少し」

「少しって顔じゃねえな」

「かなりです」

「最初からそう言え」

「かなり揺れます」

「分かった。遅くする」

ラウドは歩幅を落とした。

その背中を見ながら、マキナは少しだけ意外に思った。ラウドは怒鳴る。乱暴に見える。だが、今の手つきは慎重だった。重機義肢で押すのではなく、左腕を添えて、揺れを殺している。

カイが先頭へ出る。

「正面は避ける。北側の崩落斜面へ回る」

「道はあるの?」

ミラが聞く。

「前に来た時はあった」

「前に来た時は、ね」

「今なければ戻る」

「戻る判断は早くして」

「ああ」

そのやりとりに、マキナは耳を傾けた。

戻る。

その言葉が、前よりも弱く聞こえない。

戻るのは負けではない。もう一度進むための動きでもある。カイがそう言ったからではなく、ここにいる皆の足取りがそう示していた。

霧の中へ入る。

すぐに、音の距離が変わった。

後ろのキャンプの声が遠ざかる。だが、遠ざかったというより、布を一枚ずつ重ねられていくように薄くなる。代わりに、前方の施設から来る音が近くなる。機械生物の駆動音。白銀亀裂の低い響き。時々、空間そのものが擦れるような音。

足元の砂が白く光っている。

白銀結晶の粉だった。

マキナは踏まないように足をずらしたが、全部を避けるのは無理だった。靴底が粉を踏むたび、かすかな熱が足裏へ上がる。

――残留反応。

エイルが言った。

「危険か」

――低濃度。 ――長時間接触、非推奨。

「分かった」

「声?」

ノルンが聞く。

「白銀結晶の粉です。長く触れない方がいい」

「全員、足元を見て」

ノルンが即座に言う。

ミラが測定機を下げた。

「白銀濃度、上がってる。昨日よりかなり濃い」

セレスティアが霧の奥を見た。

「施設が、周囲の意味を吸い上げています」

「意味って何だよ」

ラウドが言う。

セレスティアは少し考えた。

「そこにあるものが、そこにある理由です」

「もっと分からねえ」

ミラが測定機を見たまま言った。

「道が道でいるための条件を、施設側が勝手に持っていってるってこと。だから、普通に歩ける保証がない」

カイが短く言った。

「後で聞け。今は足場を見る」

「はいはい」

ラウドが返した瞬間、霧の奥で影が跳ねた。

鳥型の機械生物が、上から落ちてきた。

翼は左右で形が違っていた。片方は薄い金属膜、片方は骨格だけのような旧部品。頭部には観測レンズが三つあり、そのうち二つは割れている。だが、割れたレンズの奥から白い光が漏れていた。

「伏せろ」

カイの声。

マキナが反応するより早く、カイの義肢が動いた。

派手な光はない。腕を大きく振ったわけでもない。ただ、鳥型が落ちてくる軌道の少し横に、短く踏み込んだ。義肢の手が、翼の付け根を叩く。鳥型の軌道がわずかに逸れ、ラウドの前へ落ちる。

ラウドが重機義肢を振り下ろした。

金属が潰れる音。

鳥型は地面に叩きつけられ、脚をばたつかせたまま動きを止めた。

「一体だけじゃない」

セレスティアが言う。

霧の向こうで、複数の影が動いた。

獣型が二体。低く走ってくる。背中に余計な脚がついている。かつて別の個体だった部品が、無理やり継ぎ足されているようだった。その継ぎ目から白銀の粉がこぼれる。

ラウドが前へ出る。

「エルシアを下げろ」

「下げるほど道が広くない」

ノルンが言う。

「なら俺が前に出る」

「前に出すぎるなって言われたばっかりでしょ」

「これは出る場面だろ」

一体目が跳ぶ。

ラウドは真正面から受けた。重機義肢の肘が軋む。肩部の補強板がきしみ、火花が散る。それでも、彼は踏み止まった。

「前に出るって言っただろ」

ラウドの足元の砂が削れる。

獣型の顎が義肢に噛みつく。金属の歯が補強板を削り、白い火花を散らした。

「お前らは後ろを見ろ。俺は前を見る」

二体目が横から抜けようとした。

マキナの右腕が動きかけた。

撃てる。

低出力なら、止められる。質量片を脚に当てれば、転ばせられる。

負荷計が視界の端に入った。

黄域の端。

ノルンの声が頭の中に残る。

赤に入ったら止める。 倒れる前に止める。

マキナは右腕を下ろした。

代わりに左手で短弓を引いた。身体が重い。狙いがぶれる。だが、森で覚えた動きはまだ残っている。

狙うのは胴体ではない。

前脚の関節。

矢が飛ぶ。

一瞬遅れて、獣型の脚に当たった。完全には止まらない。だが、踏み込みがずれた。

「ミラ!」

カイが叫ぶ。

ミラはすでに動いていた。腰の工具帯から細い杭状の部品を抜き、地面へ投げる。杭は獣型の足元で開き、小さな電磁網を作った。獣型の脚が絡み、動きが止まる。

カイの義肢が短く打つ。

観測レンズが砕けた。

「撃たなかったな」

カイが言った。

マキナは息を整えながら答える。

「撃ちたかったです」

「それでいい」

「撃たなかったのに?」

「撃ちたいと思わない奴より、撃ちたいのに止める奴の方が信用できる時がある」

その言葉は、褒められているようで、少し怖かった。

撃ちたい。

止める。

その間に、自分の意志がある。

マキナは負荷計を見た。針は揺れたが、黄域の端から動いていない。

ノルンがそれを見て、短く息を吐いた。

「今のは、いい判断」

「珍しいですね」

「褒めてない。記録」

「褒めているように聞こえました」

「褒め言葉に変換しない」

マキナは少しだけ笑った。

笑った瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。

エイルが言う。

――発声時、胸部負荷、微増。

「笑うなってことか」

――非推奨。

「難しいな」

――理解、不能。

霧の奥で、さらに駆動音が重なった。

だが、カイは真正面へは向かわなかった。右手を上げて、全員を止める。

「こっちじゃない。群れが厚すぎる。北側へ回る」

「見えるんですか」

マキナが聞く。

「見えるというより、嫌な場所が分かる」

「嫌な場所」

「昔、進んで失敗した場所だ」

カイは短く言った。

その背中を、マキナは見そうになった。

だが、すぐに視線を外す。

背中ではなく、足元を見る。

霧の流れ。白銀粉の濃い場所。機械生物が避けている地面。崩れた支柱の角度。

自分がどこで止まるか。

カイの言葉を、身体の中で繰り返した。

      ◇

北側の崩落斜面は、道と呼べるものではなかった。

旧観測施設の外壁が半分ほど崩れ、巨大な板状の構造材が斜めに地面へ突き刺さっている。その隙間を、古い搬送路らしき空洞が覗いていた。白い霧はそこから吐き出されている。息をしているように、濃くなり、薄くなり、また濃くなる。

施設は、以前見た時より大きく感じた。

いや、実際に大きくなっているのかもしれない。

外壁の高さが一定ではない。見上げる角度によって、壁の上端が近づいたり遠ざかったりする。折れた観測塔は空へ伸びているのに、その影は地面ではなく、壁の内側へ落ちていた。

「距離が合ってない」

マキナは呟いた。

セレスティアが頷く。

「施設が変わったのではありません」

彼女は白銀の亀裂を見上げた。

「変わるという結果を、先に押しつけられています」

ラウドが眉をひそめる。

「結局どういう意味だ」

ミラが答えた。

「近く見えても遠い。遠く見えても足元が抜ける。そういうこと」

「最初からそう言え」

「言ったら怖がるでしょ」

「もう怖えよ」

イリスが斜面の前で立ち止まった。

彼女は白い霧へ手を伸ばし、すぐに引っ込める。手の先に、淡い光が残った。

「怖い色です」

「危険?」

ミラが聞く。

「危険です。でも、泣いている色もあります」

マキナはイリスを見た。

「泣いている?」

イリスは首を傾げる。

「音ではありません。色です。けれど、近いです」

エイルが胸の奥で震えた。

――同系反応、微弱。 ――接続先、深部。

「ガルムの断片か」

――分類、未完了。 ――痛覚類似、検出。

痛い。

その言葉を聞いた瞬間、マキナはエルシアを見た。

彼女は搬送台の上で、霧の奥を見ていた。顔色は悪い。だが、その目は逃げていない。

「エルシア」

「はい」

「無理だったら言ってください」

「それは、こちらの台詞です」

「俺は」

「マキナの方が、負荷計の針が悪いです」

「見えるんですか」

「ノルンが何度も見ているので」

ノルンが横から言った。

「見なくても悪いわよ」

「二人とも、俺の状態を共有しすぎでは」

「共有しないと死ぬ患者だから」

マキナは返事に困った。

エルシアは少しだけ笑ったように見えた。

それだけで、搬送台の周りの空気がわずかに軽くなった。

カイが崩落斜面へ足をかける。

「俺が先に行く。足場を確認する。ラウドは搬送台を持ち上げる準備。ミラ、補助具を」

「もう出してる」

ミラは小型の固定具を斜面へ打ち込み始めていた。打ち込むたびに、金属音が遅れて返る。音が壁に当たっているのではない。どこか別の場所で、同じ音が遅れて起きているようだった。

セレスティアが目を細める。

「音の返りがずれています。ここから先は、声の距離も信用しないでください」

「じゃあ、どうする」

ラウドが聞く。

「見える相手にだけ、短く伝える」

カイが答えた。

「長い説明は置いていく」

「説明が長い奴、多いからな」

ラウドが言うと、ノルンが即座に返した。

「誰を見て言ったの」

「全員」

「雑」

マキナは左手で崩れた構造材に触れた。

冷たい。

だが、その奥でかすかな振動がある。施設が眠っているのではない。目を閉じたまま、身体の中だけを動かしているような気配。

胸の奥で、エイルが静かに言う。

――接続深度、上昇。 ――マキナ、呼吸、乱れ。

「分かってる」

――停止、選択可能。

「うん」

――逃走、合理的。

「それも分かってる」

マキナは白い霧の奥を見た。

怖い。

本当に怖い。

ここから先へ進めば、また身体が壊れるかもしれない。エイルも消えるかもしれない。エルシアも「あの時」に戻るかもしれない。カイも、セレスティアも、ミラも、ラウドも、ノルンも、誰も完全ではない。

それでも、施設の奥に何かがいる。

泣いている色。

痛覚類似。

接続端子として使われている断片。

「行く」

マキナは言った。

誰に向けたのかは、自分でも分からなかった。

      ◇

施設の中は、白く暗かった。

光があるのに、暗い。

壁の亀裂から白銀の光が漏れている。天井の割れ目にも、床の継ぎ目にも、細い白が走っている。それなのに、奥は見えない。光は周囲を照らすのではなく、そこにあるものの輪郭だけを奪っているようだった。

水滴が上へ昇っていた。

天井から落ちるのではない。床の亀裂から浮き、ゆっくりと上へ向かう。だが、途中で黒い粒になって砕け、また床へ落ちる。落ちた粒は水ではなく、砂のように転がった。

ラウドがそれを踏みかけ、足を止めた。

「これ、踏んでいいのか」

ミラが測定機を向ける。

「触らない方がいい。物質状態が変わりかけてる」

「水が砂になるってことか」

「今はね。次は分からない」

「最悪だな」

「今日、それ何回目?」

「数えてねえ」

マキナは壁に触れないように進んだ。

足音が遅れて返ってくる。

自分が一歩踏む。音がしない。二歩目を踏む頃に、一歩目の音が後ろから聞こえる。ラウドの重い足音は、さらに遅れて、別の廊下から響く。エルシアの搬送台の補助機の音は、時々先に聞こえた。

距離が崩れている。

時間も少しずれているのかもしれない。

マキナは息を整えようとした。

胸が重い。

負荷計を見る。針はまだ黄域。だが、さっきよりも震えが大きい。

ノルンが横に来る。

「痛む?」

「痛むというより、重いです」

「胸?」

「はい」

ノルンは小さな測定板をマキナの胸元へ当てた。針が揺れる。

「白銀反応が周囲と共鳴してる。力を使ってないのに、身体が勝手に拾ってる」

「どうすれば」

「深呼吸。あと、余計なことを考えない」

「難しいです」

「知ってる」

ノルンは測定板をしまった。

「今は歩く。考えるのは後。息だけ整えなさい」

その言い方は、カイに少し似ていた。

いや、似ているのではない。ここにいる人たちは皆、違う言葉で同じことを言っているのかもしれない。

今は歩く。

戻る場所を残す。

使わない判断をする。

怖いまま進む。

マキナは左手を握った。

前方で、カイが止まった。

「階段がない」

そこにあるはずの階段は、途中で折れていた。いや、物理的には折れていない。段は続いている。だが、三段目から先が、上ではなく横へ伸びている。横へ伸びた段は壁の中へ入り、その先が天井から出ていた。

ラウドが顔をしかめる。

「ふざけてんのか」

セレスティアが静かに言う。

「接続深度が変わっています。高さではなく、近づき方が段になっている」

「分からん」

「上ると、奥へ近づく。奥へ進むと、下へ落ちる可能性があります」

「分かった。分からんけど分かった」

ミラが施設図を開いた。

「図面、もう役に立たない。古い構造と現在の接続がずれてる」

通信機が雑音を吐いた。

セイルの声がかすかに届く。

『……こっちでも……座標が……戻ってる。進行方向が、同じ部屋に……』

「セイル、聞こえない」

ミラが通信機を叩く。

リゼットの声が割れる。

『通信線が曲がってる。物理的にじゃなくて、接続先が……くそ、これ、同じ番号の部屋が三つある』

「どれが正しい」

カイが聞く。

『分からない。外からだと全部正しいように見える』

通信が切れた。

ノルンが舌打ちした。

「外部支援は当てにしすぎない方がいいわね」

「最初からそのつもりだ」

カイは階段を見た。

「進むなら選ぶ必要がある」

「間違えたら?」

マキナが聞く。

「戻れるなら戻る。戻れないなら、そこからまた選ぶ」

それは正しい。

だが、今の施設では、戻ることすら簡単ではない。

廊下の奥から、機械生物の駆動音が聞こえた。近い。だが、どこから来るのか分からない。前か、後ろか、上か、壁の中か。

エルシアが小さく息を吸った。

「ここで、使います」

ノルンが即座に振り返る。

「駄目」

「まだ何を使うか言っていません」

「言わなくても分かる」

「なら、必要性も分かるはずです」

エルシアの声は弱かった。

だが、震えてはいなかった。

ノルンは搬送台の横に膝をついた。

「エルシア。予測層は、身体だけじゃなくて、記憶にも触る。分かってる?」

「はい」

「一瞬でも戻るかもしれない」

「はい」

「今のあなたは、戦う状態じゃない」

「戦いません」

エルシアはノルンを見た。

「道を選びます」

その言葉に、マキナは胸の奥が少し熱くなるのを感じた。

道を選ぶ。

使われるのではなく、使う。

エルシアは、演算装甲残骸の入った箱へ視線を落とした。

「私は、もうあれに動かされるだけじゃありません」

ミラが箱を開けた。

中には、青灰色の小さな演算板と、切断された冷却線、焦げた制御片が収められていた。かつてエルシアの身体を覆っていたものの残骸。彼女を奪ったものの一部。

ミラはそれを手に取り、顔をしかめた。

「本当に一度だけ。こっちで出力を絞る。ノルン、心拍を見て」

「言われなくても」

ノルンは測定板をエルシアの胸元へ当てる。細い針が揺れた。

ラウドは周囲を睨んだ。

「敵が来たら?」

「俺とお前で止める」

カイが言った。

「任せろ、と言いたいとこだが、この場所は嫌だな」

「嫌な場所で止めるのが仕事だ」

「言い方が英雄っぽくねえ」

「やめろ。怒られる」

ミラが即座に言った。

「もう怒ってる」

マキナはエルシアのそばへ近づいた。

ノルンが目だけで止める。

「近づきすぎない」

「声が届く距離にいます」

「声?」

エルシアがマキナを見た。

その目に、白銀の亀裂の光が映っている。

「前に、言っていました。あの時、胸の奥から俺の声が聞こえた気がしたって」

「はい」

「今回も、戻れなくなりそうなら呼びます」

エルシアは少しだけ瞬きをした。

「命令ではなく?」

「命令はできません」

「では、何ですか」

マキナは少し考えた。

「戻ってこい、です」

「それは命令では?」

「……そうかもしれません」

エルシアの口元が、かすかに動いた。

「では、戻る理由として聞きます」

その言い方が、なぜか胸に残った。

ミラが演算板を仮接続具に差し込む。青灰色の光が一瞬だけ灯った。すぐにノルンが冷却薬筒を繋ぐ。細い管が、エルシアの腕の近くで震えた。

「始めるわよ」

ミラが言う。

エルシアは目を閉じた。

次の瞬間、彼女の呼吸が浅くなった。

演算板の光が強くなる。青灰色の線が、彼女のこめかみ近くで淡く走った。かつて装甲が身体を支配していた時の光に似ていた。

マキナの喉が乾く。

エルシアの指が、布を掴んだ。

「エルシア」

マキナは呼んだ。

反応はない。

ノルンの測定板の針が跳ねる。

「出力、上げすぎ」

「上げてない。向こうが引いてる」

ミラが歯を食いしばる。

「施設側の波形が、予測層に噛みついてる」

エルシアの目が開いた。

だが、焦点が合っていない。

彼女は廊下を見ていない。マキナも、ノルンも見ていない。もっと別のものを見ている。地下施設の暗い部屋か。演算装甲の内側か。知らない命令が身体を動かした時の、あの場所か。

「エルシア」

マキナはもう一度呼んだ。

彼女の唇が動く。

「……違う」

声が細い。

「そこじゃ、ない」

「エルシア、戻ってこい」

マキナは一歩近づいた。

ノルンが止めようとしたが、カイが手で制した。

マキナは続ける。

「そっちじゃない」

エルシアの瞳が、わずかに揺れた。

青灰色の光の中で、彼女の呼吸が一瞬止まる。

「マキナ」

「いる」

「声が」

「いる。ここにいる」

エルシアの指が、布から離れた。

焦点が戻る。

完全ではない。まだ半分はどこかを見ている。それでも、彼女の目がマキナを捉えた。

「見えます」

ノルンがすぐに言う。

「長く喋らないで。必要なことだけ」

エルシアは息を吸った。

「道は、まっすぐではありません」

彼女は壊れた階段を見る。

いや、階段の向こうを見ている。

「道は三つあります。でも、正解が三つあるわけではありません。同じ場所へ戻る道が二つ。下へ落ちる道が一つ」

「正しい道は?」

カイが聞く。

「戻る道の一つです」

ラウドが顔をしかめる。

「戻るのが正解なのかよ」

「はい。階段ではなく、戻ってくる場所です。そこが、上に繋がっています」

エルシアの声が震える。

ノルンの針がまた跳ねた。

「もう切る」

「待って」

「待たない」

「一つだけ」

エルシアは胸を押さえた。

「白い脈が、全部戻ってくる場所があります。そこが炉の喉です」

マキナの胸の奥で、エイルが強く震えた。

――収束点、反応。 ――深部接続、確認。

「炉の喉」

マキナは呟いた。

エルシアが小さく頷く。

「そこへ行けば、ガルムがいます」

ミラが演算板を引き抜いた。

青灰色の光が消える。

エルシアの身体が崩れるように沈んだ。ノルンがすぐに支え、冷却薬を流す。ラウドが搬送台を押さえる。マキナは手を伸ばしかけて、止めた。

エルシアは目を閉じていた。

だが、呼吸はある。

「エルシア」

マキナが呼ぶと、彼女は薄く目を開けた。

「戻りました」

「はい」

「道は」

「分かりました」

「なら、よかったです」

その声はとても小さかった。

けれど、そこには彼女の意思があった。

ノルンが唇を噛み、乱暴に医療布を直した。

「よくない。全然よくない。次はない」

「はい」

「返事だけは素直ね、本当に」

ミラは施設図に新しい線を引いた。直線ではなく、折れた階段、壁の奥、天井から戻る通路をつなぐような歪んだ線だった。

セレスティアがその線を見て頷く。

「確かに、そこへ戻っています」

「見えるの?」

マキナが聞く。

「今、見えるようになりました。エルシアが、道を観測可能な形にしたのです」

イリスが白い霧を見た。

「泣いている色が、濃くなりました」

ラウドが重機義肢を鳴らす。

「じゃあ、行く場所は決まったな」

カイは壊れた階段の前に立った。

「ここから先は、もっと戻りにくくなる」

誰もすぐには答えなかった。

施設の奥で、低い音がした。

炉の音ではない。機械生物の音でもない。もっと深い場所で、何かが息を吸ったような音。

マキナは負荷計を見た。

黄域。

まだ赤ではない。

胸の奥で、エイルが言う。

――進行、危険。 ――停止、選択可能。 ――でも。

マキナは目を閉じた。

「でも?」

少し間があった。

――観測、継続を希望。

マキナは息を吸った。

白い霧が肺に入る。鉄粉と薬品と、白銀の焦げる匂い。その奥に、森の朝の湿り気に似たものが、まだ少しだけ残っている気がした。

「俺も」

マキナは目を開けた。

壊れた階段は、上へも下へも続いていない。

けれど、行くべき場所は決まった。

カイの背中ではなく、エルシアが見つけた白い脈の戻る場所を見る。

そこが炉の喉。

ガルムがいる場所。

そして、広がり続けるものを止めるための、最初の一点だった。


階段は、階段の形をしていなかった。

段はあった。足を乗せる場所もある。崩れた縁には古い滑り止めの刻みが残り、壁際には手すりだったものが折れて垂れている。けれど、上へ続いているはずの段は途中で横へ曲がり、横へ曲がったはずの段は天井から逆さに生えていた。

マキナは最初の段に足を置き、すぐに体重を戻した。

足裏に、妙な沈み方があった。

土や砂を踏んだ時の沈みではない。自分の重さが、少し遅れて床に伝わるような感覚だった。

「待って」

ノルンが後ろから言った。

マキナは足を下ろした。

「まだ踏んでません」

「踏む前の顔だった」

「最近、そればかりです」

「便利だから使ってるの」

ノルンは腰の鞄から細い金属針を取り出し、段の上に投げた。針は三段目に当たり、跳ねた。跳ねたはずだった。だが音は横の壁から聞こえた。

ラウドが顔をしかめる。

「本当に嫌な場所だな」

カイは膝をつき、段の縁を義肢の指で軽く叩いた。金属音はすぐには返らない。数秒遅れて、頭上から同じ音が落ちてきた。

「エルシアの言った道で合ってる」

「どうして分かるんですか」

マキナが聞くと、カイは段の奥を見たまま答えた。

「嫌な感じが、前に来た時と似てる」

「それは判断材料になりますか」

「なる時もある」

ミラが横で測定機を見ながら言った。

「嫌な感じで済ませないで。座標ずれ、かなり大きい。三段目から先は高度じゃなくて接続深度が変わる。間違って踏むと、上じゃなくて施設の別層に落ちる」

「落ちるなら、まだ分かりやすい」

ラウドが言った。

「ここだと落ちたのに戻るとかありそうだ」

「あるかもね」

「否定しろよ」

「嘘は嫌いなの」

ラウドは舌打ちした。

エルシアは搬送台の上で目を閉じていた。さっき予測層を使った反動で、唇の色が薄い。だが呼吸は乱れていない。ノルンが何度も確かめていたから、マキナにも分かった。

彼女が見つけた道。

白い脈が戻る場所。

炉の喉。

その言葉が、施設の奥から響いてくる低い音と重なっていた。

「進む」

カイが言った。

「俺が先。足場が残るところだけ踏め。音は信用するな。見たものも半分だけ信用しろ」

「半分?」

マキナが聞く。

「全部信じると騙される。全部疑うと動けない」

カイは一段目に足を乗せた。義肢の指が壁に触れ、身体の重心を確かめる。二段目。三段目。その瞬間、カイの姿が少しだけ横へずれた。

本当に横へ動いたのではない。

視界が、カイの位置を決められなくなった。

「カイ」

ミラの声が低くなる。

「聞こえてる」

カイの返事は、前からではなく、少し後ろから聞こえた。

マキナは息を止めた。

カイは振り返らない。

「右の壁を見ろ。壁に白い線がある。そこから目を離すな」

マキナは壁を見た。

確かに、白銀の細い線が走っている。血管のように壁の中を這い、階段の先へ続いていた。光は弱い。だが、他の亀裂と違って一定の間隔で脈打っている。

エイルが胸の奥で震えた。

――収束方向、一致。 ――進行可能。 ――危険、継続。

「分かった」

マキナは左手で壁に触れないよう、拳を握ったまま一段目へ足を乗せた。

世界が、一瞬だけ斜めになる。

胃の中が浮く。足は段を踏んでいるのに、身体は横に落ちているような感覚があった。視界の端で、エルシアの搬送台が遠くなり、次の瞬間にはすぐ隣に戻る。

ラウドが搬送台を支えながら呻いた。

「気持ち悪いな、これ」

「吐かないでください」

エルシアが目を閉じたまま言う。

「吐かねえよ」

「声が少し怪しいです」

「言うな」

ノルンが搬送台の横で冷却管を押さえている。揺れるたびにエルシアの身体を支え、同時にマキナの負荷計にも目を向ける。どうやって両方見ているのか、マキナには分からなかった。

ミラはセレスティアとイリスの間を歩いていた。片手には測定機、もう片方の手には炉心切断具のケース。セレスティアは白い線を見ている。イリスは違うところを見ていた。壁でも、段でもなく、空気の奥にある何かを。

「色が濃くなっています」

イリスが言った。

「泣いている色?」

マキナが聞く。

イリスは頷いた。

「それと、怒っている色。混ざっています。混ざっているけれど、同じではありません」

「誰の色だ」

ラウドが聞く。

「分かりません」

イリスは少し首を傾げた。

「でも、炉の色ではありません。炉にされたものの色です」

その言葉に、エルシアの指がわずかに動いた。

マキナは、それを見た。

炉にされたもの。

人でも、ルーメンでも、断片でも、機械でもない。使う側が名前をつけ、用途を決め、そこに押し込めたもの。

胸の奥で、エイルが沈黙している。

「エイル」

呼んでも、すぐには返らなかった。

白い線の脈動が強くなる。

階段が終わった。

終わったというより、段が床へ溶け込んだ。そこは広い通路だった。壁は円形に近く、古い配線管が何本も走っている。ところどころにフォージ製の新しい補修材がはめ込まれていた。

旧い骨に、新しい金属を無理やり継ぎ足したような場所だった。

「補助制御室が近い」

ミラが測定機を見た。

「どうして分かる」

ラウドが聞く。

「この線、全部そこへ集まってる。古い施設図だと中継制御室。リゼットの差分図だと、後から名前が消されてる」

「名前が消されてる場所に、いいものがあった試しがねえな」

「同感」

カイが前へ出た。

通路の先に、扉があった。

扉と呼ぶには大きすぎた。円形の隔壁。表面には古い観測施設の刻印と、後から貼られたフォージ製の制御板が混じっている。制御板には黒い線が何本も走り、一部は白銀の亀裂に侵食されていた。

ノルンの足が止まった。

ほんの一瞬だった。

だが、マキナには分かった。

初めて見るものへの驚きではなかった。見覚えを押し殺す顔だった。

「ノルン?」

呼ぶと、ノルンはすぐに表情を戻した。

「開けるわよ」

「開け方が分かるんですか」

「分からないなら壊す」

「それはラウドのやり方では」

「医者も必要なら壊すの」

ミラが制御板へ近づく。

「待って。通電してる。雑に触ると焼ける」

「雑に触らないわよ」

ノルンは制御板の下に手を伸ばし、古い蓋を外した。中には、細い管と導線が絡み合っていた。ノルンはそのうちの一本に触れかけ、途中で止める。

「違う」

小さく言った。

「こっちじゃない」

彼女は隣の管へ手を伸ばした。

ミラが横から見て、眉をひそめる。

「その線、生体信号系じゃない?」

「そう」

「隔壁の開閉に、生体信号系?」

「開けるためじゃない。開けた人間を読むため」

ノルンは短く答えた。

「悪趣味ね」

「昔からよ」

その言葉は、吐き捨てるほど強くはなかった。

ただ、冷たかった。

ノルンは鞄から小さな絶縁布を取り出し、導線に巻いた。次に細い工具を差し込み、奥の接続をひとつ外す。

隔壁の中央に、白い線が走った。

重い音を立てて、扉が開く。

中から、冷たい空気が流れてきた。

薬品の匂いではない。

金属と、古い紙と、焦げた絶縁材の匂い。

マキナはその匂いを吸った瞬間、アッシュバルトの診療室を思い出した。薬瓶と工具。義肢の部品。患者の血。ノルンがずっと隠していた何か。

補助制御室は、死んだ部屋のようだった。

壁一面に制御図が貼られている。紙ではない。薄い金属板に刻まれた回路図、古い発光表示、消えかけた文字。床には折れた椅子が転がり、机の上には灰になった記録片が積もっている。

だが中央の制御盤だけは生きていた。

黒い箱型の制御装置が、旧観測施設の壁へ直接食い込んでいる。そこから伸びる管が、床の下、壁の奥、さらに深部へ続いていた。管の一部には、白銀の光が脈のように走っている。

ノルンは部屋に入るなり、制御図の前で止まった。

顔から血の気が引いたように見えた。

「これ……」

ミラが隣に立つ。

「読める?」

ノルンは答えなかった。

指先だけが動いた。制御図の線を追う。安全弁の印。接続順。補助流路。生体側入力。遮断手順。旧い文字と新しい記号が混ざっているはずなのに、彼女は迷わなかった。

「この安全弁、使わないで」

ノルンが言った。

「安全弁だろ?」

ラウドが言う。

「名前だけ」

ノルンは制御盤の一部を指差す。

「ここを開くと、負荷は炉側じゃなくて生体側へ逃げる。接続端子にされたものが先に焼ける」

マキナは胸の奥が冷たくなるのを感じた。

「接続端子」

「今は、ガルムが持っていった断片」

ミラが低く言う。

「昔は?」

その問いは、部屋の空気を変えた。

誰もすぐには喋らなかった。

ノルンは制御図を見たまま、口を開いた。

「似たもの」

「似たもの?」

「白銀断片じゃない。完全なルーメンでもない。人間でも、機械でもない。そういうものを、都合のいい名前で呼んでた」

「ノルン」

ミラの声が少し柔らかくなる。

「どうして分かるの」

ノルンは、長く黙らなかった。

それでも、答えるまでの一拍は、ひどく長かった。

「昔、似たものを止めなかったから」

それだけだった。

マキナは、もっと聞きたかった。

何を見たのか。 何を止めなかったのか。 なぜ今、医者としてここにいるのか。 ガルムが彼女を知っていた理由は何なのか。

けれど、ノルンはそれ以上言わなかった。

言わないまま、制御盤の前へ進んだ。

「ミラ、右の制御箱を開けて。黒い封止材がある。切らないで剥がす。セレスティア、白銀反応が強くなったら教えて。イリス、怖い色がこっちへ来たら言いなさい。ラウド、入口。カイ、奥の扉。マキナは座る」

「座る?」

「座る」

ノルンの声は、医者の声だった。

「ここで処置する。歩きながらじゃ無理」

「まだ歩けます」

「歩けるのと、次に力を使って戻ってこられるのは別」

マキナは反論しようとした。

だが、ノルンの顔を見て、口を閉じた。

彼女は過去を話していない。

けれど、今ここで逃げていない。

それは、言葉よりもはっきりしていた。

マキナは壁際に腰を下ろした。

床は冷たかった。薄い振動が背中から胸へ伝わってくる。施設全体が、巨大な身体の中のようだった。どこか深い場所で、白い脈が集まっている。

ノルンはマキナの負荷計を確認した。

針は黄域の中ほどまで上がっていた。

「いつの間に」

マキナが呟く。

「歩いてるだけで上がってる。周囲の白銀反応に引っ張られてる」

ノルンは冷却薬筒を取り出した。

「痛い?」

「どれがですか」

「全部」

「全部なら、少し」

「少しで済む顔じゃない」

「顔で分かるんですね」

「しつこい」

ノルンはマキナの首元と右腕の固定具の間へ冷却布を差し込んだ。冷たさが皮膚に触れ、次の瞬間、奥の熱が浮き上がる。痛みが少しだけ形を変えた。

「今から、負荷の跳ねを数秒だけ遅らせる処置をする」

「数秒」

「そう。数秒」

「それだけですか」

「それだけ」

ノルンは嘘をつかなかった。

「死なない保証はない」

マキナは彼女を見た。

ノルンは視線を逸らさなかった。

「でも、死なせないために私はいる」

その言葉は、大丈夫、とは違った。

安心させる言葉ではなかった。 けれど、マキナはそれを聞いて、少しだけ息がしやすくなった。

「分かりました」

「分かってない顔」

「分かろうとしています」

「それなら、まだまし」

前にも似たやりとりをした気がする。

アッシュバルトの診療室。 負荷計。 壊れかけを知らせる針。 首輪のような仮傭兵証。 あの時、マキナはカイを追っていた。エルシアを探していた。分からないまま走ろうとしていた。

今も分からない。

でも、ひとりではなかった。

ノルンは処置を終えると、次にエルシアの搬送台へ向かった。

エルシアは目を閉じていたが、眠ってはいない。

「聞こえています」

「なら聞いて。次は使わせない」

ノルンが言う。

「はい」

「はい、じゃない。使いたそうな顔をしない」

「顔で」

「あなたも言わない」

エルシアは少しだけ口元を緩めた。

「私は、もう使いました」

「そう。だから次は休む」

「でも、道が変わったら」

「その時は別の道を探す。あなたをもう一度装置に戻すつもりはない」

エルシアの指が、医療布の上で止まった。

マキナはそれを見ていた。

装置に戻すつもりはない。

その言葉は、エルシアだけに向けられたものではない気がした。

エイルが、胸の奥で微かに震える。

――装置。 ――否定、記録。

「うん」

マキナは内側で答えた。

「記録しておけ」

――記録。

ノルンは補助制御盤へ戻った。

ミラは制御箱を開き、内部の黒い封止材を慎重に剥がしていた。セレスティアは壁の白銀脈を見ている。イリスは部屋の隅にある古い椅子をじっと見ていた。

「イリス?」

マキナが呼ぶと、イリスは振り返った。

「ここに、座っていた人がいます」

「見えるのか」

「見える、ではありません。残っています」

「怖い色?」

イリスは少し考える。

「怖いです。でも、怖がっていた人の色ではありません。怖がることをやめた人の色です」

ノルンの手が一瞬止まった。

すぐに動き出したが、マキナは見逃さなかった。

この部屋には、過去が残っている。

ノルンの過去かもしれない。 違う誰かの過去かもしれない。 どちらにせよ、ここで何かが行われた。

誰かが、何かを接続端子と呼んだ。

誰かが、安全弁という名前で、別のものを焼いた。

ノルンはそれを、今、手で切り替えている。

「ここを落とす」

ノルンが言った。

「落としたら?」

ミラが聞く。

「マキナとエルシアへの引き込みが少し弱まる。炉側の吸い上げが不安定になる」

「深部に気づかれる?」

「もう気づかれてる」

その瞬間、補助制御室の奥の扉が鳴った。

叩かれたのではない。

向こう側から、圧力がかかった。

白銀の線が扉に走る。円形の隔壁が内側から膨らむように歪んだ。ラウドが前に出る。カイが義肢を構えた。

機械生物の駆動音ではない。

声だった。

金属板を通して、低く歪んだ声が届く。

『そこまで来たか』

マキナは息を止めた。

聞き覚えのある声。

ガルム=オルデン。

通信ではない。扉の向こうの施設そのものが声を通しているようだった。壁の白銀脈が、言葉に合わせて光る。

ノルンの目が細くなる。

「ガルム」

『ハザ登録医。まだ、子供の身体を盾にしているのか』

ラウドが唸った。

「開けろ。殴る」

「待て」

カイが止める。

ガルムの声は続いた。

『それとも、今度こそ救うつもりか。あなたがかつて、炉の前で目を逸らしたものを』

ノルンは何も言わなかった。

マキナは、彼女の横顔を見た。

その言葉で、ノルンの横顔がわずかに硬くなった。

過去のどこかに触れたのだと、マキナにも分かった。

だが、ノルンは手を止めなかった。

制御盤の中の接続を一つ外す。白銀脈の光が一瞬乱れた。マキナの胸の圧迫が、ほんの少し弱まる。

ガルムの声が低くなる。

『余計なことを』

「あなたにとってはね。こっちは患者を生かすためにやってるの」

ノルンはもう一つの導線を切り替えた。

補助制御室全体が揺れた。

遠くで、巨大な何かが唸る。

セイルの通信が戻った。

『今の、何をした? 炉側の補助流路が一つ落ちた。外から読める範囲が増えた』

リゼットの声も続く。

『いいわ、そのまま。閉じた制御が少し開いた。こっちで噛める』

ノルンは短く言った。

「やれるならやって」

『言われなくても』

通信の向こうで、リゼットの声が少しだけ笑ったように聞こえた。

奥の扉が開き始めた。

カイがマキナを見た。

「立てるか」

「立てます」

ノルンが横から言った。

「立つだけ。立ったら私を見る」

「歩けます」

「歩くなら一歩ずつ。勝手に前へ出ない」

「進めます」

ノルンは眉をひそめた。

「分かった。条件を出す」

マキナは黙って頷いた。

「倒れてからじゃ遅い。置いていくつもりはないから、倒れる前に言いなさい」

マキナは頷いた。

「はい」

「信用はしてない」

「はい」

「返事だけはいい」

ノルンはマキナの負荷計をもう一度確認した。

「黄域。赤に近い。これ以上、勝手に拾わせないようにして。エイルにも言いなさい」

「エイルに?」

「一緒にいるんでしょ。なら、あんただけじゃなくて、その子にも言って」

マキナは胸に手を当てた。

「聞こえたか」

少しだけ遅れて、声が返る。

――聴取、可能。 ――負荷抑制、試行。

「頼む」

――了解。

頼む。

それに対して、エイルは了解と言った。

以前なら、ただの命令として処理されただけかもしれない。 けれど今は、エイルが自分の意思で応えてくれたように感じた。

マキナは立ち上がった。

右腕は重い。胸も熱い。だが、さっきより足元が分かる。

奥の扉の向こうから、白い光が漏れていた。

      ◇

そこは、広すぎる空洞だった。

旧観測施設の地下に、こんな空間があるとは思えなかった。天井は見えない。壁は円形に湾曲し、古い観測柱が何本も立っている。柱は上へ伸びる途中で折れ、折れた先が白銀の亀裂と接続されていた。

中央に、人工現象炉があった。

炉と呼ぶには、あまりにも歪だった。

巨大な火室も、赤い炎もない。テラ・フォージの巨大炉のような熱の心臓ではなかった。そこにあるのは、旧観測施設の中心柱と、抑制機構残滓らしき白い構造体と、フォージ製の黒い制御装置が、互いに食い込み合った塊だった。

金属の管。 白銀の枝。 黒い固定具。 古い観測レンズ。 新しい制御箱。 割れた結晶。 脈動する光。

それらが一本の柱に無理やり束ねられ、深部へ向かって根を下ろしている。

柱の中ほどに、黒い容器が開いていた。

南東外縁の旧観測線、あの地下施設で見た、ガルムが持ち去った容器。

その蓋は完全に開き、中から白銀の光が溢れている。光は液体ではなく、呼吸のように膨らみ、縮み、固定具に押さえつけられていた。

マキナの胸の奥が、強く震えた。

エイルの声が乱れる。

――同系反応。 ――接続、近接。 ――痛覚類似、増大。 ――離脱、推奨。

マキナは足を止めた。

痛い。

その白い光は、綺麗ではなかった。

セレスティアの白銀とは違う。イリスの柔らかい光とも違う。エイルが胸の奥で震える時の光にも似ているが、もっと押しつぶされている。形を与えられる前に、用途だけを押し込められたような光だった。

イリスがミラの袖を掴んだ。

「泣いています」

ミラは何か言おうとして、言葉を飲んだ。

ガルムは、炉の前に立っていた。

灰色の制服は破れ、肩には血が滲んでいる。顔にも傷がある。片腕は補助具で固定され、立っているだけでも苦しそうだった。

それでも、敗けた者には見えなかった。

彼の目は、炉を見ていた。

そして、マキナたちを見た。

「遅かったな」

声は生身の喉から出ているはずなのに、施設の壁からも同時に聞こえた。

ラウドが前に出ようとした。

カイが腕で制す。

「ガルム」

カイが言った。

「止めろ。もう制御できてない」

ガルムは少しだけ笑った。

「制御という言葉を、ずいぶん軽く使う」

「このまま広がれば、周辺一帯が崩れる」

「崩れるものは、もとから維持できていない」

「人がいる」

「いつもいる」

ガルムはカイを見た。

「あなたたちが世界を終わらせなかった時も、人はいた。あなたたちは救ったのではない。崩壊を保留しただけだ」

カイは黙った。

それはキャンプの夜、カイ自身が言ったことに近かった。

俺は世界を救ったわけじゃない。 終わらせるのを、いったん止めただけだ。

ガルムは続ける。

「保留された世界は、また迷う。西は選別を捨てきれず、東は記録を手放せず、北は森の歌に閉じ、南は炉を恐れながら炉を求める。誰も決めない。誰も背負わない。あなたたちは、時間を作っただけだ」

「時間があれば、選べる」

セレスティアが言った。

ガルムは彼女へ視線を向けた。

「選ぶ前に死ぬ者もいる。選べないまま使われる者もいる。選択を尊ぶという言葉は、選ぶ余裕のある者のものだ」

その言葉に、エルシアの指が搬送台の布を掴んだ。

マキナはそれを見た。

選べないまま使われる者。

エルシア。 欠片狩りに運ばれた人たち。 白銀断片。 そして、自分。

ガルムの視線が、マキナへ移った。

「マキナ」

名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が硬くなる。

「君は、自分でここまで来たと思っているのか」

マキナは答えようとした。

だが、言葉が出なかった。

ガルムはゆっくりと炉の横を歩いた。足元の管が白く光る。彼の動きに合わせて、人工現象炉の脈動が少しだけ速くなる。

「北の森で白銀に触れた。足は勝手に進んだのだろう」

マキナの指先が冷たくなる。

「カイ=ヴォルトを追った。伝承に憧れたと思っていたのだろう。だが君の中の断片は、セレスティアにも、観測者にも、姉妹にも反応していた」

胸の奥で、エイルが震えた。

「エルシアを救った。君は優しさだと思いたいのかもしれない。だが、彼女に埋め込まれた技術と君の断片は、同じ線に繋がっていた。君は引かれただけではないのか」

「違う」

マキナは言った。

声は、自分でも驚くほど小さかった。

ガルムは表情を変えない。

「なら、その断片に名を与えたことは?」

マキナの呼吸が止まった。

「君が選んだのか。それとも、断片が自己保存のために、君に名前を与えさせたのか」

白い空洞の音が遠くなる。

足元の床が、少し沈んだように感じた。

ヴェイルで白銀のルーメンへ近づいた時。

論理は拒否していた。 足は進んだ。 口は言葉を発した。

森を出た時。

カイに会えば分かると思った。 本当にそう思った。 けれど、胸の奥の断片はずっと南を向いていたのではないか。

エルシアを探した時。

負けたら、選ぶ側じゃなくなる。 その言葉が残っていた。 でも、白銀反応に引かれたから走っただけではないのか。

エイル。

名前をつけた。 切り離したくないと思った。 けれど、それも自分の意思ではなく、断片に残るための言葉だったのではないか。

「お前は自由な少年ではない」

ガルムの声が、施設全体から響いた。

「第八紀が保留した答えだ。使われるために生まれた現象だ」

マキナの視界が白く揺れた。

負荷計の針が跳ねる。

ノルンが何か言った気がした。

ミラの声も聞こえた。

カイが一歩動いた。

だが、どれも遠かった。

マキナは、自分の右腕を見た。

固定具に包まれた腕。 何度も壊れかけ、ナノマシンで繋がれ、白銀反応に焼かれた腕。

自分の身体。

本当に、自分のものなのか。

胸の奥で、エイルが呼んでいる。

――マキナ。 ――マキナ。

声が遠くなる。

白い空洞が、足元から消えた。

      ◇

白い場所にいた。

以前にも見た場所だった。

床も空もない。ただ白い。霧ではない。光でもない。何もないのに、眩しくはなかった。音もない。けれど、心臓の音だけが少し遅れて聞こえる。

マキナは立っていた。

右腕の固定具はない。痛みもない。負荷計もない。だが、身体が軽いわけではなかった。むしろ、自分の輪郭が少し曖昧だった。

白い場所の向こうに、誰かがいた。

少女のようにも見える。 光の塊のようにも見える。 顔はない。 髪も、手足も、はっきりしない。

それでも、マキナには分かった。

「エイル」

白い輪郭が震えた。

――呼称、確認。 ――マキナ。

声は、前よりも近かった。

同時に、とても弱かった。

マキナは歩こうとして、足を止めた。

「お前は、俺をここへ連れてきたのか」

――緊急退避。 ――外部言語刺激により、マキナ認知、崩壊傾向。 ――保護、試行。

「保護」

――はい。

その返事が、少しだけ人間の言葉に近く聞こえた。

マキナは白い輪郭を見た。

「ガルムの言ったことは、正しいのか」

沈黙。

その沈黙で、胸が冷えた。

「間違ってるって、言えないのか」

――一部、否定不能。

白い輪郭の端が、波のように揺れた。

――ヴェイル接触時、私の反応あり。 ――カイ=ヴォルト探索時、同系反応への誘導あり。 ――エルシア救出時、姉妹信号への反応あり。 ――命名時、自己保持反応あり。

マキナは拳を握った。

「じゃあ、俺は」

――ただし。

エイルの声が、少し強くなった。

――全行動の決定権、私にありません。 ――マキナの拒否、複数回確認。 ――マキナの選択、複数回確認。 ――私の推奨と異なる行動、継続。

「それは、俺が自由だったということか」

――定義、不能。

白い輪郭が、少し縮んだように見えた。

――自由、未学習。 ――選択、記録あり。

自由は分からない。 でも、選択は記録している。

その言い方が、エイルらしかった。

マキナは少しだけ息を吐いた。

「お前は、ガルムの断片と同じなのか」

――同系反応、あり。 ――由来、近接。 ――完全一致、否定。 ――マキナとの融合により、変質。

「変質」

――はい。 ――私は、接続端子ではありません。 ――ただし、接続可能。 ――統合されれば、炉の安定化に寄与する可能性。 ――分離されれば、マキナの生存率、上昇可能性。

あの分離実験の最中、深く沈んだ白い空間で、エイルは似たことを言った。

自分は負荷。 異常。 生存阻害要因。 分離すれば、マキナの生存率が上がる。

あの時、マキナは切り捨てたくないと言った。

必要だからではない。 もう自分の中にいる存在だから。

今も、その答えでいいのか。

それも、エイルに言わされていたのではないか。

マキナは、自分の胸に手を当てた。

ここには、負荷がある。 声がある。 恐怖がある。 希望がある。

「エイル」

――はい。

「お前は、どうしたい」

白い輪郭が止まった。

まるで、その問いだけが、この白い場所に存在していなかったように。

長い沈黙があった。

外の音は聞こえない。 カイも、ノルンも、エルシアも、誰もいない。 ガルムの声も届かない。

マキナとエイルだけがいた。

「俺が切り離したくないとか、守りたいとか、そういう話じゃない」

マキナは続けた。

「お前が、どうしたい」

エイルの輪郭が揺れた。

――私、は。

そこで言葉が止まる。

硬い声が崩れ、白い場所に小さな震えが広がった。

――消去、恐怖。 ――統合、恐怖。 ――接続、恐怖。 ――分離、恐怖。

「うん」

――マキナ損耗、恐怖。 ――マキナ停止、恐怖。

「うん」

――未知、恐怖。

「俺も怖い」

白い輪郭が、ゆっくりと近づいた。

顔はない。

それでも、マキナを見ている気がした。

――それでも。

声が、少しだけ変わった。

警告でも、推奨でも、記録でもない。

細く、拙く、けれど確かに、何かを望む声だった。

「マキナ」

初めて、エイルが名前を呼んだ。

記録の呼称ではなく。

誰かを呼ぶ声で。

「私は、あなたと見たい」

白い場所が、静かになった。

マキナはしばらく何も言えなかった。

あなたと見たい。

世界を。 外を。 森を。 鉄の都市を。 アッシュバルトの油の匂いを。 テラ・フォージの赤い炉を。 白い霧を。 エルシアの目を。 ノルンの怒った顔を。 ラウドの義肢を。 カイの壊れた腕を。 セレスティアの沈黙を。 イリスが言う色を。 ミラのため息を。

まだ見ていないものを。

マキナは、自分が泣きそうなのかどうか分からなかった。

涙は出なかった。

ただ、胸の奥が痛かった。

痛いのに、少し温かかった。

「俺も見たい」

マキナは言った。

「お前に見せたい、じゃない。俺も見たい。お前と」

白い輪郭が、かすかに震えた。

――観測、希望。

「うん」

――生存、希望。

「うん」

――共存、希望。

マキナは頷いた。

「じゃあ、戻る」

――危険、継続。

「知ってる」

――ガルム主張、一部否定不能。

「それも知ってる」

――マキナ、未定義。

「それでいい」

マキナは白い場所の向こうを見た。

「まだ何者でもないなら、これから決める」

白い輪郭が、少しだけ近づいた。

手の形のようなものが、マキナの胸に触れた。

痛みが戻る。

負荷計の締めつけ。 右腕の重さ。 喉の乾き。 白銀反応の熱。 遠くで誰かが呼ぶ声。

全部が戻ってくる。

それでも、マキナは目を逸らさなかった。

      ◇

最初に聞こえたのは、ノルンの声だった。

「マキナ!」

怒鳴っていた。

次に、ミラの声。

「心拍戻ってる。まだ乱れてるけど、戻ってる」

カイの声が近い。

「マキナ、聞こえるか」

マキナは目を開けた。

白い空洞が戻ってくる。人工現象炉。中心柱。黒い容器。白銀の脈動。ガルム。皆の顔。

膝が床についていた。

いつの間にか倒れかけていたらしい。カイが肩を支えていた。ノルンが左手首を掴み、脈を取っている。ミラが測定機をこちらに向けていた。

負荷計の針は赤の手前で震えている。

「戻ったか」

カイが聞いた。

「はい」

声が掠れていた。

ノルンが目を吊り上げる。

「はい、じゃない。今、何が起きた」

「エイルと話してました」

「今ここで?」

「たぶん」

「最悪」

ノルンはそう言いながら、冷却薬筒を一本差し替えた。

「意識落ちる前に言いなさいって言ったでしょ」

「落ちるとは思わなくて」

「落ちる前の人間は大体そう言う」

マキナは返事に困った。 カイも少しだけ苦い顔をしていた。たぶん、身に覚えがある顔だった。

ミラが測定機を見ながら言った。

「白銀反応、さっきと違う。暴走じゃない。安定でもないけど……合わせてる?」

セレスティアが静かに頷いた。

「境界が、先ほどより明瞭です。分離ではありません。重なったまま、互いを見ています」

「分かりやすく」

ラウドが言う。

セレスティアは少し考えた。

「マキナとエイルが、同じ方向を見ています」

「それなら分かる」

イリスがマキナを見た。

「声が変わりました」

「俺の?」

「はい。あなたの中の声も」

マキナは胸に手を当てた。

「エイル」

すぐに返事があった。

――聴取、可能。

前より少し細い。 だが、遠くはない。

ガルムがこちらを見ていた。

その表情は、怒りではなかった。

失望でもない。

ただ、理解できないものを見ている目だった。

「戻ったところで、何が変わる」

ガルムが言った。

「君の身体は限界だ。断片は不安定だ。炉はもう起動段階に入っている。選択などと言っている時間はない」

「時間がないなら、なおさらです」

マキナはカイの支えを借りて立ち上がった。

足が震える。

だが、立てた。

ノルンがすぐ横で言う。

「立てるだけ。忘れないで」

「はい」

「返事だけで済ませない」

「分かっています」

「分かってない顔」

マキナは少しだけ笑った。

ノルンが本気で怒りそうな顔をしたので、すぐにやめた。

マキナはガルムを見た。

「俺がここまで来た理由に、エイルの反応が混じっていたことは否定できません」

ガルムの目が細くなる。

「なら」

「でも、それだけじゃない」

マキナは右腕を少しだけ持ち上げた。

重い。

痛い。

それでも、自分の腕だった。

「俺は、止まることもあった。間違えたこともあった。走りすぎて怒られたことも、止められたこともあった。エイルが危ないと言っても、そっちを選んだことがある。無視したことも、頼ったこともある」

胸の奥で、エイルが微かに震える。

――記録、あり。

「記録があるそうです」

ミラが小さく息を吐いた。

「そこで報告するんだ」

ラウドが少しだけ笑った気配がした。

ガルムは笑わなかった。

「違う行動をした記録がある。それだけで、自由だと言うのか?」

「自由かどうかは、まだ分かりません」

マキナは正直に言った。

「俺は、その言葉をちゃんと知らない。エイルも知らない。でも、選んだことはあります」

ガルムの背後で、人工現象炉が脈打った。

白銀の光が強くなる。

壁の亀裂が広がり、空洞の天井から黒い粒が落ちてくる。粒は落ちる途中で白い水滴になり、また消えた。

時間がない。

それは本当だった。

ガルムの言葉の全部が間違いではない。

世界はまだ救われていない。 保留された世界は、また壊れるかもしれない。 選べないまま使われる人はいる。 マキナの中には、人ではないものがいる。

それでも。

「俺は、使われるために生まれたんじゃない」

マキナは言った。

声は大きくなかった。

けれど、空洞の中でまっすぐ響いた。

「こいつも、使われるために残ったんじゃない」

胸の奥で、エイルが震える。

――共存、希望。

「まだ何者でもないなら、これから決める」

ガルムの表情が初めて歪んだ。

「その曖昧さで、次の崩壊を止められると思うのか」

「分かりません」

マキナは答えた。

「でも、分からないからって、誰かを炉にしていい理由にはならない」

その瞬間、人工現象炉が大きく脈打った。

白銀の光が黒い容器から溢れ、中心柱へ走る。床の管が一斉に輝き、空洞全体が低く唸った。

ガルムが片手を上げる。

「なら、見せてみろ」

彼の声に、施設の深部が応じた。

防衛群の駆動音が、遠くから押し寄せてくる。

上層か、下層か、壁の中か分からない。足音が重なり、羽音が混じり、何かが床を削る音が空洞の奥から膨れ上がっていく。人工現象炉の白い脈動が速くなり、黒い容器の中の断片が震えた。

ミラが炉心切断具のケースを開ける。

カイが義肢を構えた。

ラウドがエルシアの搬送台の前に立つ。

セレスティアが白銀の光へ視線を向ける。

イリスが小さく息を吸う。

ノルンがマキナの横に立ち、負荷計を見た。

「マキナ」

「はい」

「今の処置で稼げるのは、ほんの少し」

「はい」

「大丈夫とは言わない」

「知ってます」

ノルンは一瞬だけ言葉を詰まらせた。

それから、低く言った。

「でも、戻す」

マキナは頷いた。

「戻ってきます」

エイルが胸の奥で言った。

――観測、継続。 ――マキナ、生存、希望。 ――共に。

マキナは白い脈を見る。

広がり続けるもの。 逃げ場を失った痛み。 炉にされた断片。 ガルムの諦めきれない確信。 世界を保留した後に残った歪み。

そのすべてが、人工現象炉の中心へ集まり、また外へ広がろうとしている。

まだ撃たない。

まだ固めない。

まず、見る。

カイの背中ではなく。

ガルムの言葉でもなく。

エイルと同じ方向を。

マキナは右腕をゆっくり上げた。

痛みが走る。

負荷計の針が赤の縁に触れる。

ノルンが息を呑む。

それでも、マキナは腕を下ろさなかった。

「エイル」

――はい。

「見るぞ」

――はい。

白銀の脈が、世界の奥で震えた。

マキナは右腕を上げたまま、まだ撃たなかった。

撃つ、という感覚が遠かった。

これまでは、波を掴む時、いつも外へ向けていた。機械生物へ。壁へ。敵の足元へ。迫ってくる歪みへ。波を集め、熱にし、衝撃にし、質量に変え、形として叩きつける。

けれど今、目の前にあるものは敵一体ではなかった。

人工現象炉の中心柱。 黒い容器。 白銀の断片。 床を走る管。 壁を這う亀裂。 天井へ伸びる観測柱。 施設の外へ広がる白い霧。 その先で、同じ拍で動く防衛群。

すべてが一つの脈に繋がっていた。

撃てば、どこかを壊せるかもしれない。 けれど壊した場所から、もっと大きく広がる気がした。

――波形、複数。 ――拡散方向、未確定。 ――中心、変動。

エイルの声が胸の奥で響く。

前よりも近い。

だが、その近さが痛い。声が聞こえるたび、胸の内側を白い線でなぞられているようだった。

「中心が変わってる?」

――固定された中心ではありません。 ――炉、接続点を移動。 ――施設全体を、炉として使用。

マキナは息を呑んだ。

中央にある柱だけが炉なのではない。

施設そのものが炉になりかけている。

足元の床が脈打つ。白い線が一斉に光り、空洞の奥から防衛群の駆動音が近づいてきた。壁の亀裂から、鳥型の機械生物が這い出る。天井の影から、脚の多い獣型が落ちる。壊れた観測機械の残骸が組み上がり、手足の足りない兵士のように立ち上がる。

だが、それらはすぐには襲いかかってこなかった。

空洞の中央へ向かった。

「何だよ」

ラウドが低く言う。

機械生物たちは黒い容器を囲むように集まった。壊れた脚が床を掻き、折れた翼が震え、割れた観測レンズの奥で白い光が灯る。

個体ではない。

群れでもない。

何かが、それらを一つの意味へ引き寄せていた。

セレスティアが息を呑む。

「防衛群の意味が、束ねられています」

「意味って、さっきのあれか」

ラウドが言う。

「そこにあるものが、そこにある理由」

「はい」

セレスティアは黒い容器を見た。

「守る、という理由だけに変えられています」

機械生物たちの外殻が崩れた。

破壊されたのではない。

ほどけて、組み替わっていく。

脚が脚ではなくなり、翼が翼ではなくなり、頭部の観測レンズが胸の奥へ沈んでいく。白銀の線がそれらを縫い合わせた。白い蔦のような光が残骸の間を走り、別々の部品を一つの身体へ変えていく。

やがて、それは立ち上がった。

獣に似ていた。

だが獣ではなかった。

前脚は重機の腕で、後脚は細い搬送軌道を束ねたものだった。背には折れた翼と観測柱の破片が重なり、頭部には割れたレンズがいくつも並んでいる。輪郭は常にずれていた。獣型にも、鳥型にも、人型にも見え、そのどれでもなかった。

全身を白銀の光が覆っていた。

ルーメンのように美しい。

けれど、違う。

その光には、意思の形がなかった。

ただ、怖がりながら守れと命じられている。

イリスが小さく言った。

「泣いている守り方です」

マキナの胸の奥で、エイルが強く震えた。

――同系反応、増大。 ――恐怖。 ――拘束。 ――防衛、強制。 ――炉、拒否。

「炉の番犬ってわけか」

ラウドが重機義肢を構えた。

ガルムは否定しなかった。

「番犬ではない。炉心を守るため、周辺資源を最適化した防衛形態だ」

「言い方が気に入らねえ」

ラウドが一歩前へ出る。

「つまり、ぶっ倒せば通れるってことだろ」

「倒せるならな」

ガルムが言った。

白銀の守護体が動いた。

速かった。

巨体に見合わない速度で、床を蹴った。前脚が振り下ろされる。ラウドが真正面から受けた。

金属が潰れる音がした。

重機義肢の関節が悲鳴を上げる。補強板が火花を散らし、ラウドの足元の床が割れた。それでも、ラウドは下がらなかった。

「重っ……!」

「下がれ!」

カイが叫ぶ。

「下がったら後ろが潰れるだろうが!」

ラウドが歯を食いしばる。

「前に出るって言ったんだよ!」

カイが横へ回り込んだ。

派手な動きではなかった。義肢の出力も万全ではない。それでも、踏み込みは正確だった。守護体の後脚が床を掴む直前、カイの義肢が関節部を叩く。

後脚がずれる。

ラウドにかかっていた重さが、一瞬だけ抜けた。

「マキナ!」

カイの声。

マキナは右腕を向けた。

白い質量片を撃つ。

低出力。

それでも、今の身体には十分すぎる負荷だった。

質量片は守護体の胸へ当たった。白銀の外殻が砕け、割れた観測レンズが飛び散る。

通った。

そう思った瞬間、砕けた破片が止まった。

床に落ちる前に、白い線が伸びる。破片が逆向きに引き戻され、砕いたはずの胸が塞がっていく。さらに周囲の残骸まで吸い寄せ、守護体は先ほどより大きくなった。

「壊しても戻るぞ!」

ラウドが叫ぶ。

「戻ってるんじゃない」

カイが低く言った。

「戻されてる」

マキナは息を呑んだ。

戻されている。

その言葉が、胸の奥に沈む。

壊れた機械生物たちが、自分の形へ戻っているのではない。炉心の防衛命令が、それらに同じ形を押しつけている。守れ。塞げ。止めろ。その意味だけで、別々だったものを一つに縫い直している。

ミラが炉心切断具のケースを抱え、黒い容器へ走ろうとした。

守護体の頭部が一斉にそちらを向いた。

「ミラ!」

カイが叫ぶより早く、守護体の右前脚が伸びた。

狙いはミラだ。

白銀の爪が、空間を裂くように走る。

カイが踏み込む。

義肢の肩部から異音がした。それでも止まらない。カイは守護体の爪を正面から受けず、横から叩いた。軌道をずらす。爪がミラの肩をかすめ、炉心切断具のケースを弾いた。

ケースが床を滑る。

ミラが転びかける。

ラウドが守護体の脚に食らいつくように押さえた。

「こっち向け、でかいの!」

守護体は向かなかった。

白銀の線が、ラウドの重機義肢を縛る。義肢の外装が軋み、補強板が白く焼ける。

「くそっ、腕が持っていかれる!」

「その腕で引くな! 関節が飛ぶ!」

ミラが叫ぶ。

「飛ぶ前に終わらせりゃいいだろ!」

「そういう問題じゃない!」

セレスティアが一歩前に出かけた。

白銀の髪が、守護体の光に反応する。

ノルンが鋭く言った。

「触れないで」

セレスティアの足が止まった。

「分かっています」

声は静かだった。

だが、その静けさの中に力があった。

セレスティアは手を伸ばさない。白銀の光を炉心へ向けない。ただ、守護体の輪郭を見る。守護体と炉心を繋ぐ白い線。その揺れ。縫い直される瞬間。どこから命令が流れ、どこで恐怖が増幅しているのか。

「再構成の中心は、胸ではありません」

「じゃあどこ!」

ミラが床を転がったケースを拾い上げながら叫ぶ。

「中心ではなく、戻ろうとする場所です」

セレスティアの言葉に、ラウドが顔をしかめた。

「また分からねえやつだ!」

エルシアが、搬送台の上で目を開いた。

顔色は悪い。

それでも、視線は守護体を追っている。

「壊す場所ではありません」

声は細い。

だが、マキナにははっきり聞こえた。

「戻される瞬間です。右前脚、肩の奥。そこだけ、一拍遅れます」

ノルンが振り返る。

「エルシア」

「一度だけです」

エルシアはそう言った。

「見るだけなら、できます」

青灰色の装甲残骸が、小さく鳴った。

演算装甲ではない。

もう、彼女を支配する鎧ではない。

箱の中に残された予測層の一部が、彼女の指先の震えに応じて淡く光る。エルシアは目を閉じない。見ている。自分の意思で、あの時自分を縛った技術を使っている。

「次、来ます」

守護体が床を蹴った。

右前脚が伸びる。

再び、ミラへ。

「ラウド、右!」

「分かってる!」

ラウドが身体を捻る。重機義肢を伸ばす。だが、白銀の線が義肢を縛っているせいで、動きが遅い。

マキナは右腕を動かした。

撃つのではない。

守護体の脚へではない。

カイがずらした爪の先、その爪が元の軌道へ戻されようとする白い線へ向ける。

「エイル」

――危険。 ――右上肢、限界接近。 ――停止、推奨。

「分かってる」

――防衛線、再構成。 ――固定、可能性、低。

「低くてもいい」

マキナは息を吸った。

「戻される場所を、止める」

白い質量片が生まれた。

弾ではない。

杭でもない。

細い留め具のような形だった。森で骨と蔓を組み合わせて罠を固定する時の、あの小さな楔に似ていた。

それが、守護体の爪を動かしている白い線へ刺さる。

音はなかった。

だが、守護体の動きが止まった。

一瞬だけ。

本当に一瞬だけ。

「今!」

エルシアが叫んだ。

ラウドが動いた。

守護体の右前脚を、真正面から掴む。重機義肢の指が外殻に食い込み、白銀の光が義肢を焼く。ラウドは叫ばなかった。歯を食いしばり、足を踏み込む。

「カイ!」

「見えてる!」

カイが低く滑り込む。

義肢の拳が、守護体の肩の奥を叩いた。そこは装甲でも関節でもない。白銀の線が何度も集まり、ほどけ、また結び直されている場所だった。

一撃。

守護体の輪郭が揺らぐ。

マキナは二本目の留め具を作った。

負荷計が跳ねる。

黄域を越えかける。

ノルンの声が飛ぶ。

「マキナ、そこまで!」

「まだ赤じゃありません」

「赤に入ってからじゃ遅いって言ってるの!」

「あと一つです」

「その返事が嫌い!」

三本目。

白い留め具が、守護体の胸から背へ走る再構成線を縫い止めた。

守護体が吼えた。

声ではない。複数の駆動音と、割れた観測レンズの振動と、白銀の亀裂が擦れる音が重なったものだった。空洞全体が震え、天井から白い砂が降る。

イリスが両手を胸の前で握った。

「痛いです」

「イリス、下がって」

ミラが言う。

「下がります。でも、言います」

イリスは守護体を見上げた。

「あなたたちは、一つになりたいわけではありません」

守護体の白銀が乱れた。

「守りたいのではなく、守らされています」

セレスティアが続ける。

「あなたを炉の壁として見ません」

その言葉で、黒い容器の中の断片が震えた。

守護体の身体を縫っていた白い線が、わずかに緩む。

ミラが床を蹴った。

ケースを拾い、切断具を抜く。肩から血が滲んでいる。だが、手は止まらない。

「道、開けて!」

ラウドが守護体の脚を押さえ込む。

「開けてるだろうが!」

「もっと!」

「要求が雑!」

カイが守護体の内側へ踏み込んだ。

「マキナ、胸じゃない。背中側だ。あいつの形を引っ張ってる線がある」

マキナは見た。

カイの指す場所。

守護体の背に、折れた翼と観測柱の破片が重なっている。その奥で、白い線が黒い容器へ向かって伸びていた。

あれが、守れという意味を流し込んでいる。

あれが、別々だったものを一つに戻している。

「壊すんじゃない」

マキナは呟いた。

「勝手に一つにされるのを、止める」

エイルが応じる。

――同意。 ――固定、支援。 ――共に。

「共に、確定」

マキナは右手を握った。

四本目の留め具が生まれた。

今度は白い線へ刺さるのではなく、その線の周囲に輪を作った。逃げ道を塞ぐためではない。流れ込む命令を、一度そこで止めるための輪。

守護体の背が裂けた。

機械生物たちの部品が、ばらばらに落ち始める。

翼。 脚。 観測レンズ。 搬送軌道の破片。 獣型の顎。 鳥型の骨格。

それらは床へ落ちた。

もう、戻らなかった。

白銀の守護体は崩れた。

破壊されたのではない。

一つにされていたものが、一つでいられなくなった。

ラウドが最後の前脚を押し倒す。カイが残った白い管を叩き折る。ミラがその隙間を抜け、黒い容器へ走った。

ガルムが初めて一歩動いた。

「まだだ」

彼は焼けた手を制御卓へ押しつけた。

「防衛権限、再接続」

床の白い線が、もう一度伸びようとする。

だが、伸びなかった。

マキナの留め具が、白い線の途中で震えていた。細い。頼りない。すぐに壊れそうだった。

それでも、今だけは持っている。

「再構成、止まっています!」

エルシアが言った。

だが、すぐに彼女の表情が変わった。

「違います。止まっているんじゃない」

「何が」

マキナが聞く。

エルシアは黒い容器から伸びる白い枝を見ていた。演算装甲の残骸が、彼女の指先で微かに鳴る。

「守護体が崩れたから、外へ逃がしていた力が戻っています。枝が、炉心だけで脈を打ち始めています」

通信機からリゼットの声が割れた。

『見えてる。防衛形態が落ちたせいで、外側への出力が脈になってる。常時固定じゃない。周期がある』

「周期?」

ミラが黒い容器の下へ滑り込む。

『三拍。枝が広がって、物理線が見えて、また抱え込む。二拍目だけ切れる。三拍目を止めないと、切った線まで戻される』

エルシアが頷いた。

「三拍です」

白い枝が、黒い容器の底で膨らんだ。

一拍。

床の管へ光が広がる。

二拍。

白い枝の間に、黒い物理線が一瞬だけ見えた。

三拍。

白い枝が戻る。黒い線を抱え込むように、もう一度締まる。

エルシアは息を呑んだ。

「一拍目で広がります。二拍目で線が見えます。三拍目で戻ります」

「つまり、切れるのは二拍目?」

ミラが言う。

「はい。でも、三拍目で戻されます」

エルシアは白い枝から目を離さなかった。

「切った線も、開いた道も、もう一度抱え込まれます」

マキナは右腕を見た。

負荷計の針は、黄域の端で震えている。さっきの留め具だけで、もう腕の奥が焼けるようだった。

「三拍目」

胸の奥で、エイルが応じる。

――三拍目、再接続。 ――危険、極大。

「分かった」

危ないことは、分かっている。 それでも、止める場所はそこだった。

ミラが叫ぶ。

「リゼット、見えてる?」

通信が割れた。

『見えてる! その下、三本。外側からじゃなくて、内側の物理線!』

「切れない!」

『出力を上げるな、焼ける』

リゼットの声。

「上げなきゃ切れないって言ってるの」

『切る場所が違う。白い枝じゃない。二拍目に見える物理線だけを切れ。三拍目で枝が戻る。その前に離脱しろ』

ミラは一瞬だけ白い枝を見た。

「二拍目で切って、三拍目までに抜ける。……無茶な手順ね」

『今さら!』

ミラは短く息を吐き、切断具を握り直した。

マキナは、三拍目の白い脈を見ていた。

戻る。

すべてを、中心へ戻そうとしている。

切られた線も。 ほどけた防衛群も。 炉にされた断片の恐怖も。

それを止めるのは、ミラではない。 セレスティアでも、カイでもない。

マキナは右腕を少し上げた。

「三拍目は、俺が止めます」

ノルンが負荷計を見た。

「止める、じゃない。止めに行って、戻ってくる」

「はい」

「返事だけはいい」

ノルンは冷却薬筒を一本、固定具に差し込んだ。

「稼げるのは数秒」

「十分です」

「十分じゃない。数秒だけ」

「痛くなったら」

「もう痛いです」

「なら、もっと痛くなったら」

「たぶん、分かります」

「最悪の返事」

ノルンは歯を食いしばった。

「エイル、あんたも戻りなさい」

胸の奥で、エイルが答えた。

――了解。 ――ノルン、記録。

「返事した?」

「しました」

「何て」

「記録、だそうです」

「何を記録してるのよ」

マキナは少しだけ笑った。

笑うと、胸が痛んだ。

それでも、その痛みで自分がまだ戻る場所にいると分かった。

カイが守護体の残骸を越え、マキナの前へ半歩出た。

「マキナ」

マキナはカイを見る。

「必ず、戻ってこい」

その言葉は、止める言葉ではなかった。

許す言葉でもない。

戻る場所を置く言葉だった。

マキナは頷いた。

「戻ります」

「言ったな」

「はい」

ラウドが残骸の下から義肢を引き抜きながら怒鳴る。

「言ったからな! 戻らなかったら俺が怒るぞ!」

「それは怖いです」

「怖がれ!」

人工現象炉が一拍目を打った。

白銀の線が外へ広がる。

空洞の壁が歪む。天井の観測柱が伸び、床の亀裂が開く。崩れた守護体の残骸が、もう一度一つに戻ろうとして微かに浮いた。

カイとラウドが同時に押し返す。

「戻らせるな!」

カイが叫ぶ。

「言われなくても!」

ラウドが重機義肢で残骸を床へ叩きつける。

二拍目。

白い線が一瞬止まり、反転する。

黒い物理線が見えた。

セレスティアが手を上げた。

「観測を固定します」

彼女の白銀が、炉の断片へ向かわず、周囲の空間へ広がった。触れるためではない。境界を切るためでもない。ただ、今そこにある波の位置を、消えないように見る。

イリスが言う。

「泣いているところが、そこです」

黒い容器の中の断片が震えた。

白い枝が弱まる。

理由は、もう分かっていた。

守護体へ流れていた防衛の意味が断たれ、白い枝は外へ広がりきれない。広がれないまま、二拍目だけ、物理線を露出させる。

ミラが叫んだ。

「今!」

切断具が鳴った。

一本目の物理接続が切れた。白い火花が逆流し、ミラの腕を焼きかける。カイが義肢で飛び散る破片を弾いた。

『入った!』

セイルの声が通信機から弾けた。

『外部制御、一部接続。リゼット!』

『閉じたログ、抜けた。制御線、二本目開く。ミラ、左下!』

「見えてる!」

ミラが二本目へ向かう。

三拍目。

すべての白い脈が、中心へ戻った。

マキナは右腕を伸ばした。

撃たない。

外へ出さない。

波を掴む。

胸の奥で、エイルが声を重ねる。

――波形、捕捉。 ――位相、同期。 ――拡散方向、反転。 ――収束点、固定候補。

マキナの視界が白くなる。

だが、完全には消えない。

白の中に、無数の線が見える。施設の壁を走る線。床の下へ潜る線。空へ裂ける線。外へ広がる線。それらが全部、逃げようとしている。

逃がさない。

壊すためではない。

閉じ込めるためでも、少し違う。

これ以上、誰かの選択を奪わせないために。

波を、戻る場所へ。

戻る場所で、形にする。

エネルギーとして逃げようとするものを、質量へ。

形のないものを、重さへ。

広がれないものへ。

右腕が燃えた。

本当に燃えているのかと思った。骨の中に白い火が入り、血管が光り、指先が自分のものではなくなる。負荷計の針が赤域へ振り切れる音がした。小さな金属音なのに、やけに大きく聞こえた。

ノルンが叫ぶ。

「マキナ!」

ミラも叫んだ。

「もう十分、止めて!」

カイの声が近くなる。

「戻ってこい!」

マキナは聞いていた。

聞いている。

でも、まだ足りない。

白い脈は中心へ集まり、また外へ逃げようとしている。固定が甘い。質量になりきらない。形のない熱が、空間の隙間から漏れようとしている。

「エイル」

――はい。

「一緒に押さえる」

――マキナ損耗、危険。

「知ってる」

――ソウル残量、急低下。

「知ってる」

――停止、推奨。

「それも知ってる」

一瞬、エイルが黙った。

それから、細い声が返る。

――共に、観測。

「共に、確定」

マキナは右手を握った。

白銀の光は爆発しなかった。

逆だった。

空洞全体に広がっていた白い線が、一斉に中心へ引き戻された。壁の亀裂から光が消え、床の脈が細くなり、天井の裂け目が内側へ巻き込まれる。

音が消えていく。

機械生物の駆動音。 炉の唸り。 通信の雑音。 誰かの叫び。

すべてが、中心へ吸われた。

黒い容器の上に、黒白い核が生まれた。

光ではない。 闇でもない。 重さそのものが丸まったような塊だった。

それは小さかった。

人の頭ほどの大きさしかない。

だが、見ているだけで膝が折れそうなほど重かった。空間がその周囲で沈み、白銀の枝がそこへ巻き取られ、逃げ道を失う。

ミラが二本目の接続を切った。

セイルとリゼットの声が重なる。

『制御遮断!』

『外部ログ確保、炉側の閉鎖権限落ちた!』

三本目。

ミラが切断具を押し当てる。

白い枝が最後の抵抗のように伸びた。

セレスティアが手を伸ばしかけ、止めた。

代わりに、言った。

「見ています。あなたを、炉としてではなく」

イリスが続ける。

「もう、ここに縛られなくていいです」

黒い容器の中の断片が、弱く光った。

白い枝が緩む。

ミラが叫ぶ。

「切る!」

三本目が切れた。

人工現象炉の脈が止まった。

完全な静寂ではない。

だが、広がっていたものが広がらなくなった。

黒白い質量核が中心に残り、その周りで白銀の光が小さく震えている。施設はまだ壊れかけていた。壁は歪み、床には亀裂がある。だが、さっきまでのように形を忘れてはいない。

防衛群の動きが乱れた。

ラウドに襲いかかっていた獣型が、急に脚を止める。鳥型が空中で軌道を失い、壁へぶつかる。組み上がりかけていた残骸が、ばらばらと崩れた。

ラウドはしばらく構えたまま動かなかった。

「……止まったのか」

誰もすぐには答えなかった。

ノルンがマキナへ駆け寄る。

「マキナ、腕を下ろして!」

マキナは下ろそうとした。

だが、腕が動かなかった。

自分の腕なのに、命令が届かない。

視界の白が濃くなる。

耳鳴りがする。

鼻の下を温かいものが流れた。血だと分かるまで、少し時間がかかった。

胸が痛い。

右腕だけではない。

胸の奥。エイルがいる場所。そこが裂けたように痛む。

「エイル」

返事はない。

「エイル」

もう一度呼ぶ。

何もない。

白い空洞が、遠くなる。

マキナは、足元の床が消えたように感じた。

倒れる。

そう思った時、誰かが支えた。

カイだった。

義肢ではない方の腕で、マキナの身体を受け止める。右の機械義肢は震えていた。接続部から煙が上がっている。カイも限界に近いはずだった。

「戻ってこいって言っただろ」

カイの声が近い。

マキナは答えようとした。

「戻っ……」

声にならなかった。

ノルンが脈を取る。

「心拍、乱れてる。ミラ!」

「測ってる。白銀反応、落ちてる。落ちすぎてる!」

「冷却やめる。刺激に切り替える。マキナ、聞こえる?」

聞こえる。

だが、遠い。

ガルムの声がした。

「なぜだ」

マキナはかろうじて目を開けた。

ガルムは炉の前に立っていた。

人工現象炉が止まったせいか、彼の背筋は少し曲がって見えた。支えていた何かを失ったように。それでも、目だけはまだ動いていた。

「なぜ、その不確かなものに賭けられる」

誰に向けて言ったのか分からない。

マキナか。 カイか。 セレスティアか。 世界か。

ガルムは黒白い質量核を見た。

「あれでは、次の崩壊は止まらない」

カイがマキナを支えたまま言った。

「かもしれない」

「なら、誰が止める」

ガルムの声が割れる。

「誰が次の崩壊を止める。誰が保留の先を決める。誰が、迷う世界を支える」

マキナは息を吸った。

胸が痛い。

声を出せば、何かが切れそうだった。

それでも、言わなければいけない気がした。

「分からない」

自分でも聞こえるかどうか分からない声だった。

だが、ガルムは聞いた。

マキナは続ける。

「でも、分からないからって、誰かを炉にしていい理由にはならない」

ガルムは動かなかった。

その言葉が届いたのか、届かなかったのか、マキナには分からない。

ただ、彼の顔から怒りが少しだけ抜けた。

残ったのは、疲れのようなものだった。

その瞬間、床の黒い管が弾けた。

ガルムの足元から白い光が噴き上がる。カイがマキナを引き寄せ、ラウドがエルシアの搬送台へ覆いかぶさる。ミラが叫び、セレスティアが白銀の壁のような観測膜を張る。

爆発ではなかった。

炉の残った力が、行き場を失って噴き出しただけだった。

だが、十分に危険だった。

ガルムは後ろへ倒れた。黒い固定具の破片が彼の肩を打ち、身体が床へ叩きつけられる。カイが動こうとしたが、マキナを支えているため動けない。

ラウドが舌打ちした。

「俺が行く!」

「動くな、エルシアが」

「分かってる!」

ラウドは搬送台のロックを片手でかけ、もう片方の重機義肢を伸ばした。床を滑る破片を弾きながら、ガルムの近くへ進む。そこへ崩れかけの機械生物が一体、最後の命令に従うように動いた。

ラウドがそれを殴り飛ばす。

「しつこいんだよ!」

機械生物は壁へぶつかり、今度こそ動かなくなった。

ラウドはガルムの襟を掴み、引きずるように戻った。

「生きてるかは知らねえ。でも置いていくと後味悪い」

ノルンが短く言った。

「そこへ寝かせて。息を見る」

「敵だぞ」

「患者でもある」

ラウドは何か言いかけ、やめた。

「医者って面倒だな」

「今さら?」

ノルンはマキナから手を離さず、片手でガルムの呼吸を見た。器用すぎると思ったが、マキナにはもうそれを言う力がなかった。

セイルの通信が割れた声で入る。

『炉の主制御、落ちた。局所場の拡大、停止。繰り返す、拡大停止』

リゼットの声も続く。

『ただし施設は崩れる。残留質量核が安定するまで、周囲の構造が持たない。すぐ離れて』

ミラが黒白い核を見た。

「離れてって言われても、あれを置いていいの?」

『動かせない。動かしたら全部戻る』

「最悪」

『だから置いて逃げて』

カイがマキナを抱え直した。

「動けるか」

マキナは答えようとした。

喉が鳴っただけだった。

「聞くまでもないな」

カイはマキナを支えようとして、義肢の接続部が火花を散らした。彼の顔が歪む。

ミラがすぐに叫ぶ。

「カイ、その腕で持ち上げないで!」

「分かってる」

「分かってない動き!」

「今は怒られる余裕がない」

「あとでまとめて怒る!」

ラウドが戻ってきて、マキナを見た。

「俺が持つ」

「エルシアは」

「台ごと引く。片腕で足りる」

「足りるわけないでしょ」

ノルンが怒鳴る。

ラウドは重機義肢を鳴らした。

「足りなくてもやる」

エルシアが搬送台の上で目を開けた。

「私は、大丈夫です」

「大丈夫じゃない人間が多すぎる」

ノルンが言う。

「ここにいる全員、言葉の使い方を間違えてる」

イリスがマキナのそばに来た。

小さな手が、マキナの胸元に近づく。

セレスティアが制止するように視線を向けたが、イリスは触れなかった。ただ、近くで見た。

「います」

その声だけが、妙にはっきり聞こえた。

マキナは動かない唇で、何かを言おうとした。

エイル?

イリスは頷いた。

「まだ、います」

その言葉で、マキナの中に残っていた力が、少しだけほどけた。

いる。

聞こえないだけで。

消えたわけではない。

胸の奥に意識を向ける。

返事はない。

でも、完全な空白ではなかった。

湖の底よりも深い場所に、小さな白い点があるような気がした。

「マキナ」

ノルンの声。

「寝るな。今寝たら、たぶん面倒」

面倒。

その言い方に、少しだけ笑いたくなった。

笑えなかった。

「マキナ」

今度はカイ。

「戻ってくるんだろ」

戻る。

そう言った。

言ったからには、戻らなければならない。

だが、身体が言うことを聞かなかった。

視界の端で、黒白い質量核が静かに沈んでいる。

広がり続けるはずだった白い線は、そこへ巻き取られたまま動かない。空洞の壁から光が消えていく。かわりに、古い鉄の色が戻ってくる。錆び、煤、割れた観測レンズ、壊れた機械。

世界が、少しだけ物の形を取り戻していた。

ガルムは床に倒れている。 ノルンが彼の首元を確認している。 ミラが切断具を閉じる。 セレスティアが黒い容器を見ている。 イリスがマキナを見ている。 ラウドが機械生物の残骸を蹴り飛ばす。 エルシアが搬送台の上で、こちらに手を伸ばそうとしている。 カイの腕が、マキナの背中を支えている。

皆がいる。

怖い。

痛い。

分からない。

それでも、まだ見たい。

マキナはその言葉を、胸の奥へ落とそうとした。

エイルに届けばいいと思った。

「まだ……」

声が出たのかは分からない。

白い光が、遠くなる。

ノルンが何か叫ぶ。

ミラが近づく。

カイの腕に力が入る。

イリスの声がもう一度聞こえた。

「小さいです。でも、います」

それを最後に、音が消えた。

白い霧の向こうで、森の朝に似た匂いがした。

湿った樹皮。 冷えた苔。 まだ火の残る灰。

マキナは、その匂いを追おうとして、意識を手放した。


エピローグ

次に目を覚ました時、布の向こうは朝だった。

薬瓶が触れ合う音がしていた。

硬い硝子同士が、かすかにぶつかる音だった。規則的ではない。誰かが急いで片づけているわけでも、乱暴に扱っているわけでもない。ただ、疲れた手が、必要なものと使い終えたものを分けている音だった。

その音の奥で、布が鳴っていた。

風を受けて膨らみ、また沈む。厚い防塵布の向こうで、白い霧が流れている。以前より静かだった。亀裂の光が布を震わせる音はない。遠くで機械生物が揃って歩く音もない。

かわりに、人の声があった。

低く話す声。何かを運ぶ声。怒鳴り声になりかけて、途中で抑えた声。誰かが咳き込み、誰かが水を求め、誰かが「そっちはまだ触るな」と言う。

世界は、また誰かの手で直されながら動いていた。

マキナは目を開けた。

最初に見えたのは、布の天井だった。

灰色の布。白い砂が縫い目に溜まり、ところどころに銀線が走っている。前に見た時より、少し焼けている。穴は塞がれていた。応急修理の跡が何本も斜めに走り、古い布と新しい布の色が違っていた。

ここは旧観測施設ではない。

白い空洞でもない。

ヴェイル外縁の仮設キャンプだった。

マキナは息を吸った。

胸が痛んだ。

痛い、と思える程度には、生きている。

右腕は動かなかった。動かないというより、動かそうとする前に身体が拒む。肩から指先まで固定され、肘のあたりに厚い冷却布が巻かれている。手首の負荷計は外されていた。代わりに、胸元へ細い測定線が何本も繋がっていた。

「起きた?」

声がした。

ノルンだった。

彼女は寝台の横の箱に腰を下ろし、薬瓶を布で拭いていた。髪は乱れたまま。白衣は白くなく、砂と血と薬品でまだらになっている。目の下には濃い影があった。

「ここは」

声が掠れた。

喉が乾いていた。

「ヴェイル外縁。元のキャンプ。戻されたの」

「戻れたんですね」

「戻したの」

ノルンは薬瓶を置いた。

「自分で戻ったみたいな顔をしない」

「顔で」

「言わせない」

マキナは少しだけ息を吐いた。

笑おうとしたのかもしれない。だが、胸が痛んで途中で止まった。

ノルンがすぐに測定板を見た。

「痛む?」

「はい」

「どこ」

「胸。右腕。背中。喉。頭。あと、たぶん全部」

「よろしい」

「よろしいんですか」

「場所を言えたから。痛みの質は?」

「熱いところと、重いところと、空っぽなところがあります」

ノルンの手が止まった。

「空っぽ?」

マキナは答える前に、胸の奥へ意識を向けた。

白銀の断片。

いや、エイル。

呼ぼうとして、少し怖くなった。

人工現象炉が止まった時、何度呼んでも返事がなかった。イリスが「まだ、います」と言った。その声を最後に、意識が落ちた。

いる。

そう言われた。

けれど、自分で聞くまでは分からない。

マキナは目を閉じた。

「エイル」

何も返らなかった。

胸の奥は静かだった。

静かすぎた。

いつもなら、遅れても何かが返る。覚醒確認。負荷残留。発声不要。そういう少しずれた声が、どこかから戻ってくる。

今は、沈黙が長い。

寝台の横で、ノルンが動かない。

何かを言いかけて、言わなかった。

マキナはもう一度呼んだ。

「エイル」

胸の奥の空白が、少しだけ揺れた。

本当に小さく。

聞こえたというより、遠い水面が光を返したような感覚だった。

――聴取、可能。

声は細かった。

以前よりずっと小さい。

白い場所で聞いた声とも違う。人工現象炉の前で、一緒に波を押さえた時の近さもない。湖の底より深い。けれど、確かにあった。

マキナは息を吐いた。

それだけだった。

涙は出なかった。

泣くほどの力が残っていなかったのかもしれない。ただ、肺の奥に残っていた硬いものが、少しだけほどけた。

「返った?」

ノルンが聞いた。

「はい」

「何て」

「聞こえるって」

ノルンは目を閉じた。

ほんの一瞬。

それから、いつもの顔に戻った。

「なら、まだ寝てなさい」

「今、起きたばかりです」

「だから寝るの」

「でも」

「でも、じゃない。今のあんたは、生きてること以外だいたい不合格」

マキナは天井を見た。

「不合格でも、生きてるんですね」

「そうよ」

ノルンは測定線を一本直した。

「だから次に進める。最悪だけど」

その言い方に、マキナは少しだけ笑った。

今度は、胸が痛んでも最後まで笑えた。

      ◇

外の光は、白ではなく灰色だった。

マキナが半分だけ起き上がることを許されたのは、目覚めてからしばらく後だった。ノルンは許したのではなく、諦めたのだと言った。ミラは「諦めるのが早い」と言い、ノルンは「あんたたち相手に諦めないでいると寿命が削れる」と返した。

寝台の周りには、何度も使われた処置の跡が残っていた。

血のついた布。空になった薬筒。焦げた冷却管。壊れた測定針。負荷計の残骸。どれが自分のものかは分からない。たぶん、半分以上は自分のものだった。

布の仕切りの向こうでは、エルシアが眠っているらしい。ノルンは「今は寝かせて」と言った。

外では、ラウドの声がしていた。

「だから、それはそっちじゃねえって言ってるだろ!」

何かを運んでいるのか、運ばされているのか、あるいは怒鳴りながら手伝っているだけなのかは分からない。 ただ、声だけはよく通った。

「そっちじゃねえ! 崩れた支柱を先にどかせって言ってるだろ!」

「その腕で引くな! また関節が飛ぶよ!」

「飛ぶ前に終わらせりゃいいだろ!」

ミラがため息をついた。

「元気ね」

「元気なんですか」

マキナが聞くと、ミラは腕を組んだ。

「動ける程度には。義肢は全然元気じゃないけど」

彼女は寝台の横に置かれた小さな台の上で、負荷計を分解していた。マキナのものではない。予備の部品を組み合わせ、新しい測定具を作っているようだった。

「それは」

「あなた用。次に赤域を振り切ったら、針じゃなくて音が鳴るようにする」

「音は、前から鳴っていました」

「もっと嫌な音にする」

「どんな音ですか」

「私とノルンが怒る音」

「それは測定具がなくても聞こえます」

「じゃあ、もっと大きくする」

ノルンが横から言った。

「寝台に縫いつける機能も欲しい」

「それは測定具ですか」

「拘束具」

「医療器具としては問題がある気がします」

「患者に問題があるから」

マキナは反論できなかった。

カイはテントの入口近くにいた。外套を肩にかけ、義肢の接続部をミラに外されかけたまま、まだ立っている。

「カイ、座って」

ミラが言う。

「座ってる」

「立ってる」

「気持ちとしては座ってる」

「接続部が気持ちで治るなら、私はいらない」

カイは少し困った顔をして、近くの箱に腰を下ろした。

その姿を見て、マキナは不思議な気持ちになった。

この人を追っていた。

伝承の中の英雄だと思っていた。 会えば、自分の力の意味が分かると思っていた。 白銀の断片の正体も、世界の見方も、全部何か答えを持っていると思っていた。

今、目の前にいるカイは、整備士に怒られ、義肢を外され、疲れた顔で箱に座っている。

そして、それでいいのだと思った。

セレスティアがテントに入ってきた。

彼女の白銀は、外の灰色の光の中でも静かだった。以前のように遠く、触れられないものではない。近づけば危険かもしれない。それでも、彼女は今、こちらへ歩いてくる前にノルンを見た。

ノルンが小さく頷く。

その頷きを確認してから、セレスティアは寝台の横に立った。

「マキナ」

「はい」

「観測してもよいですか」

ノルンがすぐに言う。

「浅く」

「はい」

「触れない」

「はい」

「異常が出たら止める」

「分かっています」

セレスティアはマキナの胸元に手をかざした。

触れない。

白銀の光が、わずかに揺れた。

マキナは息を止めかけたが、ノルンに睨まれて、ゆっくり吐いた。胸の奥で、エイルが小さく震える。以前なら、観測されることを消去や統合と誤認したかもしれない。だが今回は暴れなかった。

怖がっている。

けれど、逃げていない。

マキナには、そう感じた。

セレスティアはしばらく目を閉じていた。

それから、静かに言った。

「あなたの中の彼女は、もう断片ではありません」

マキナは胸に手を当てた。

「断片ではない」

「はい。由来としては、失われた姉妹に近い反応を持っています。けれど、同じではありません。単純な白銀ルーメン群の残片でも、人工現象炉の接続端子でもありません」

言葉は静かだった。

だが、断定しすぎない慎重さがあった。

「あなたと共に変化した、ひとつの未定義存在です」

未定義。

その言葉を聞いて、マキナは少しだけ安心した。

分類されなかったからではない。

分類されないことを、欠落として言われなかったからだ。

「それは、危険ですか」

セレスティアはすぐには答えなかった。

沈黙があった。

ミラも、ノルンも、カイも口を挟まない。イリスがいつの間にかセレスティアの後ろにいて、マキナの胸元を見ていた。

セレスティアは言った。

「危険です」

ノルンが少しだけ目を細めた。

セレスティアは続ける。

「あなたの身体にも、周囲にも、まだ影響はあります。エイル自身も安定しているとは言えません。何も起きない、とは言えません」

「はい」

「けれど、危険であることと、生きてはいけないことは同じではありません」

その言葉は、マキナの胸の奥にゆっくり沈んだ。

エイルが微かに震える。

――危険。 ――生存、許容。

「許容じゃないと思う」

マキナは小さく言った。

セレスティアが首を傾げる。

「エイルが?」

「はい。危険、生存、許容って」

イリスが前へ出た。

「小さい声は、いない声ではありません」

マキナはイリスを見た。

「そうだな」

「はい。小さい声です。ですが、あります」

イリスはまっすぐ言った。

「マキナの中の声は、前より遠いです。でも、遠いことと、消えたことは違います」

マキナは頷いた。

エイルは返事をしなかった。

だが、胸の奥の小さな白い点は消えなかった。

ミラが工具を置いた。

「だから無茶していいって意味じゃないからね」

「はい」

「はい、じゃない。あなたは返事だけで危険なことをする」

「よく言われます」

「言われるなら直しなさい」

ノルンが続けた。

「次に赤域まで振り切ったら、今度こそ寝台に縫いつける」

「それは本当にやるんですか」

「やるわよ。ミラに固定具を作らせる」

ミラが頷いた。

「作る。逃げられないやつ」

「俺を止める方向で結託しないでください」

カイが横から言った。

「俺の分も作られそうだな」

ミラは即答した。

「もう設計してる」

「早いな」

「必要になるから」

カイは否定しなかった。

そのやりとりを聞きながら、マキナはまた少しだけ息を吐いた。

世界は完全には戻っていない。 自分の身体も戻っていない。 エイルの声も、前と同じではない。

それでも、ここには怒る人がいて、止める人がいて、測る人がいて、見る人がいて、ため息をつく人がいる。

それが、生きている場所なのだと思った。

      ◇

二日が過ぎた。

あるいは三日だったかもしれない。

マキナは途中で何度も眠り、何度も目を覚ました。時間の感覚は薄かった。布の外の光が明るくなり、暗くなり、また明るくなった。ヴェイルの霧は白いままだが、もう空を裂く光はない。

旧観測施設は封鎖された。

正確には、近づける者がほとんどいなくなった。中心に残った黒白い質量核は動かせず、リゼットの言葉によれば、動かすべきでもなかった。局所現象改変場は拡大を止めたが、施設内部にはまだ歪みが残っている。テラ・フォージ改革派と外縁整備局が、観測と封鎖を続けることになった。

ガルムは生きていた。

それを聞いた時、マキナはしばらく黙っていた。

怒りはなかった。許したわけでもない。彼がしたことは消えない。エルシアの傷も、欠片狩りに奪われた人たちも、人工現象炉に使われた断片も、消えない。

ただ、生きているなら、証言できる。 隠されていたものが、隠されたままでは済まなくなる。

セイルとリゼットからの通信は、何度も途切れながら届いた。

『隠蔽ログは抜けた』

セイルの声は疲れていた。

『鉄統局系の承認印、資材搬入記録、欠片狩りとの接続、被害者名簿の一部。全部ではないけど、十分だ』

リゼットの声が続いた。

『十分、じゃないわ。まだ足りない。でも、隠せないところまでは開いた』

ノルンが通信機の前に立っていた。

「公開するの?」

『そのまま撒くと、被害者まで刃に晒すことになる』

セイルが答えた。

『情報は、持ってるだけだと鎖になる。でも、開け方を間違えると刃になる』

リゼットが短く言う。

『だから、管理する。改革派と外縁側と、あと信用できる記録官を噛ませる。少なくとも、鉄統局だけが名前を持つ状態には戻さない』

ノルンはしばらく何も言わなかった。

それから、低く答えた。

「患者の名前を、利用しないで」

『分かってる』

セイルの声は、いつもより少し柔らかかった。

『君が一番怒るところだと思ってた』

「分かってるなら、やらないで」

『やらない』

通信が切れる。

ノルンはしばらく通信機を見ていた。

マキナは寝台の上からその背中を見た。

「ノルンは、戻るんですか」

「どこへ」

「アッシュバルトへ」

「戻るわよ」

ノルンは振り返らずに答えた。

「診療室もあるし、患者もいる。今回のことで、増えるでしょうし」

「大丈夫ですか」

「大丈夫って言葉、最近嫌い」

「前からでは」

「前から嫌い。最近もっと嫌い」

ノルンは自分の白衣の袖を見た。

乾いた血の跡が残っている。洗えば落ちるものもある。落ちないものもある。

「償えるとは思ってない」

彼女は静かに言った。

マキナは何も言わなかった。

「でも、逃げる理由にはしない」

それだけ言って、ノルンは医療鞄を閉じた。

長い告白ではなかった。

それでも、マキナには十分だった。

彼女は、過去を全部話したわけではない。 けれど、これからどこに立つかは話した。

それは、きっと告白より重い。

      ◇

エルシアが外へ出たのは、その日の午後だった。

外へ出たといっても、一人で歩いたわけではない。ノルンが横にいて、ラウドが少し離れて立ち、ミラが「転ぶ前に言って」と何度も言っていた。エルシアは細い杖を持ち、片手で寝台の支柱を支えながら、ゆっくりとテントの外へ出た。

白い霧の中、キャンプの影がいくつも動いている。

壊れた機械生物の残骸を運ぶ者。補給箱を積む者。通信線を張り直す者。負傷者を運ぶ者。旧観測施設の方角には、簡易の封鎖標識が立てられていた。そこから先へ向かう者はいない。

エルシアはその標識を見て、しばらく黙っていた。

マキナは寝台から起こされ、外の簡易椅子に座っていた。自分で歩くことはまだ許されていない。椅子の横にはノルンが置いた杖がある。使うなという意味ではなく、勝手に立つならそれを使えという意味らしい。

エルシアは、マキナの前まで来た。

「座っていてください」

マキナが言うと、エルシアは少しだけ眉を上げた。

「それは、私の台詞では?」

「たぶん、どちらにも必要です」

「そうですね」

エルシアは用意された箱に腰を下ろした。座るだけで息が少し乱れる。けれど、彼女はすぐに顔を上げた。

「私は、アッシュバルトへ戻ります」

「はい」

マキナは予想していた。

それでも、言葉にされると少し胸が重くなった。

「テラ・フォージ改革派の人たちが、証言を集めています。演算装甲の被害者、欠片狩りに運ばれた人、人工現象炉計画に関わった人。まだ、見えないままの人が多いそうです」

「エルシアは、そこへ?」

「はい」

エルシアは自分の胸元へ手を置いた。

医療布の下には、まだ傷がある。外された演算装甲の跡も、消えていない。

「私は、ここで見ます」

声は強くなかった。

だが、退かなかった。

「見なかったことにされた人たちを、見える場所へ戻したい」

マキナは頷いた。

その言葉が、エルシアらしいと思った。

彼女はもう、予測層に未来を読ませるだけの人ではない。 誰かが隠したものを、そこにあったと示す人になる。

「マキナは」

エルシアが言った。

「マキナの道へ行くんですね」

「たぶん」

「たぶん?」

「まだ、ちゃんと決まったわけでは」

「決まっています」

エルシアは静かに言った。

マキナは首を傾げた。

「演算予測した?」

「いいえ」

エルシアは首を振った。

「そこは、予測するところじゃありません」

「じゃあ、どうして決まってるって」

「マキナが行くと決めたからです」

マキナは黙った。

言葉の意味は分かる。 けれど、論理がいつもの順番で繋がらない。

未来が見えたから進むのではない。 進むと決めたから、未来が道になる。

エルシアは少しだけ困ったように笑った。 その表情は、以前より柔らかかった。

マキナは、その表情に少し安心した。 それでも、胸の奥に残った戸惑いは消えなかった。

「遠くへ行くかもしれません」

マキナは言った。

「そうなったら、みんなとはしばらく会えません」

エルシアはすぐには答えなかった。

唇が、ほんの少しだけ緩む。 けれど次の瞬間には、いつもの静かな表情に戻っていた。

「私とは、また会えます」

マキナは少し考えた。

「……それも、予測じゃない?」

エルシアは首を縦に振った。

「はい」

そこで一度、言葉が止まった。

彼女は杖を握る指に、少しだけ力を込める。 小さく息を吸い、呼吸を整えてから、続けた。

「私が、そう決めているからです」

マキナは黙った。

その言い方は、さっきより少しだけ分かった気がした。 けれど、まだうまく言葉にはならなかった。

「それは」

マキナが言いかけると、エルシアは静かに言った。

「約束です」

胸の奥で、エイルが微かに反応した。

――胸部反応、上昇。 ――不快、類似。 ――分類、不能。

マキナは胸に手を当てた。

「エイル?」

返事は少し遅れた。

――観測、不要。

「今の、何だ?」

エイルは答えなかった。

エルシアはその様子を見て、少しだけ笑った。

からかうような笑みではなかった。 分からないものがそこにあることを、少しだけ懐かしむような顔だった。

「わからないものがあるのは、悪いことではないと思います」

マキナは顔を上げた。

「そうかな」

「はい。私も、まだ全部はわかりません」

エルシアはそう言って、少しだけ息を整えた。

重い話ではなかった。 けれど、軽くもなかった。

胸の奥で、エイルが沈黙していた。

完全な沈黙ではない。小さく、むっとしているような沈黙だった。

むっとしている。

そう感じた瞬間、マキナは自分の解釈に驚いた。

エイルが、むっとする。

そんなことがあるのだろうか。

エルシアは杖を握り直した。

「次に会う時は」

マキナは顔を上げた。

「担架ではなく、自分の足で来ます」

マキナは頷いた。

「じゃあ、俺も倒れてないようにします」

「それは、約束としては少し不安です」

すぐ横から声がした。

「不安どころか信用できないわね」

ノルンだった。

いつの間にか、少し離れた場所で聞いていたらしい。

「努力します」

「ほら、信用できない」

ラウドが遠くから言った。

「そいつの努力するは危ないぞ」

「ラウドまで」

「経験だ」

エルシアは笑った。

小さな笑いだった。 痛みを避けるように浅く、それでも確かに笑っていた。

その笑いを見て、マキナは、助けられてよかったと思った。

その思いが白銀反応なのか、共感なのか、選択なのか、まだ完全には分からない。

でも、分からないからといって、なかったことにはならない。

      ◇

ラウドは、出発の前日まで義肢をいじっていた。

正確には、ミラとリゼットから送られてきた部品表を見ながら、分からない顔で部品を並べていた。リゼット本人はアッシュバルト側に戻っており、通信越しに何度も怒鳴っている。

『その部品は肘じゃない。補助駆動の外殻』

「似たようなもんだろ」

『全然違う。耳と膝くらい違う』

「たとえが気持ち悪い」

『あなたの組み方の方が気持ち悪いわ』

ミラが横から覗き込み、頭を抱えた。

「ラウド、これは自分でやる段階じゃない」

「覚えなきゃできねえだろ」

「覚えるのと、今壊すのは違う」

「壊す前提で話すな」

「実績」

ノルンの言い方と似ていた。

マキナは椅子に座ったまま、そのやりとりを見ていた。

ラウドは以前のように、義肢をただ強くするためにいじっているわけではなさそうだった。重機義肢の外装にはまだ傷が残っている。エルシアの搬送台を守った時に入った深い噛み跡も、磨けば消える傷ではなかった。

「ラウドは、アッシュバルトに残るんですか」

マキナが聞くと、ラウドは義肢から顔を上げた。

「ああ」

「傭兵を続ける?」

「たぶんな」

「たぶん?」

「守る仕事ってのも、悪くねえと思った」

ラウドは自分の義肢を見た。

「殴るだけなら、強い腕があればいい。でも、守るなら、壊れる前に止めなきゃならねえ。腕だけじゃ足りない」

「難しそうです」

「難しいから腹立つ」

「腹立つと、やるんですか」

「やる」

ラウドは少しだけ笑った。

「次に会う時までに、もっとましな腕にしておく」

「殴るために?」

「殴るためじゃなくて、守るために」

そう言ってから、ラウドは自分で照れたように顔をしかめた。

「今の、変だったな」

「いいと思います」

「真顔で言うな」

「本当にそう思ったので」

「だから調子狂うんだよ」

ラウドは義肢の部品をひとつ持ち上げた。

「お前も、生きて戻れよ」

「はい」

「はい、じゃなくて、ちゃんと戻れ」

「はい」

「同じじゃねえか」

マキナは少し考えた。

「ちゃんと戻ります」

ラウドはしばらくマキナを見ていた。

それから、短く頷いた。

「ならいい」

      ◇

旅立ちの日、霧は薄かった。

白い霧が消えたわけではない。ヴェイルの霧は、まだ遠くの地面を覆っている。旧観測施設の方角には封鎖標識が立ち、黒白い質量核の観測班が交代で出入りしていた。機械生物の残骸はまだ片づききっていない。

それでも、空は見えた。

薄い灰色の空だった。

青くはない。晴れているとも言えない。 だが、裂けてはいなかった。

マキナは杖をついて立っていた。

ノルンの許可は半分だけ出ていた。歩いていい距離は短い。走るのは禁止。右腕は固定。負荷計は新しくなり、針ではなく、小さな光で状態を示すものになっている。

黒。 黄。 赤。

今は黒の端で、時々黄に揺れる。

「この状態で旅立つのは、医者としては反対」

ノルンが言った。

「でも、止めないんですね」

「止めても行くでしょう」

「はい」

「そこで即答するところが本当に最悪」

ノルンは医療鞄から小さな包みを出した。

「予備の負荷計。冷却布。薬。使い方は書いてある」

「俺、まだ文字が」

「絵も描いた」

「ありがとうございます」

「無茶をするための道具じゃない」

ノルンは包みをマキナの左手に押しつけた。

「戻ってくるための道具よ」

マキナは包みを見た。

重くはない。

でも、ずしりとした。

「戻ります」

「信用はしてない」

「でも、渡してくれるんですね」

「信用してないから渡すの」

ノルンはそう言って、マキナの額を軽く指で弾いた。

痛くはなかった。

「行きなさい。あと、定期的に通信を寄こしなさい」

「どれくらいの頻度で」

「生きてるとき」

「それは頻度ですか」

「最低条件」

マキナは頷いた。

「分かりました」

「分かってない顔」

「最近、そればかりです」

「事実だから」

ノルンは少しだけ目を細めた。

それは、笑ったのかもしれない。

マキナはエルシアを見た。

エルシアは少し離れた場所に立っていた。 杖を持ち、傍らの荷箱に片手を置いている。長く立っているのはまだ難しい。それでも、担架ではなかった。

視線が合う。

エルシアは何も言わず、小さく頷いた。

マキナも頷き返した。

約束は、もう交わしていた。

      ◇

カイたちは、キャンプの外れにいた。

カイは義肢をつけ直していた。

ミラが最後の接続を締める。

「無茶禁止」

「努力する」

「努力じゃなくて禁止」

「分かった」

「本当に?」

「たぶん」

「あなたもマキナ側ね」

カイは困ったように笑った。

セレスティアは少し離れて、ヴェイルの霧を見ていた。イリスはその横で、小さな石を拾っている。石というより、白銀結晶の混ざった古い金属片だった。

「イリス、それは持っていかない」

ミラが言う。

「なぜですか」

「危ないから」

「低濃度です」

「危ないから」

「低濃度でも危ないですか」

「持って帰って工具箱に入れる未来が見えるから駄目」

イリスは少し考え、石を地面に戻した。

「工具箱は、安定しています」

「寝床じゃない」

「はい」

カイはそのやりとりを見て、少し笑った。

それから、荷物の留め具を確かめ、外套の砂を払った。

マキナは、その姿を見ていた。

修理工具。 食料。 水。 観測器。 予備部品。 折り畳み式の寝具。

旅の荷物だった。

けれど、ただ遠くへ行くための荷物ではない。 壊れた場所を見つけ、危ないものを止め、直せるものを直し、直せないものに印をつけるための荷物だった。

カイたちは、終わらなかった世界を見に行く。

マキナは胸に手を当てた。

エイルの声は小さい。 身体はまだ痛い。 アッシュバルトにも、シルヴァン・リムにも、戻る場所はある。 ここに残って、ノルンやエルシアたちを手伝う道もあったかもしれない。

それでも、胸の奥に小さな声があった。

見たい。

自分も、見たい。

マキナは顔を上げた。

「カイ」

カイがこちらを見る。

ミラも手を止めた。 セレスティアは静かに振り返り、イリスは地面に戻した金属片から顔を上げた。

「俺も、行きたいです」

言ってから、マキナは少しだけ息を吸った。

カイはすぐには答えなかった。

「歩けるか」

「短い距離なら」

「旅は短い距離の繰り返しだ」

「そういうものですか」

「たぶんな」

カイは少しだけ笑った。

「俺を追うためか?」

その問いは、以前よりも軽く聞こえた。 だが、重さは変わらなかった。

マキナは首を振った。

「違います」

カイは黙って待った。

「カイを追いかけたいわけじゃありません。セレスティアの答えをもらいたいわけでもありません」

胸の奥で、エイルが静かに震えた。

「俺の中にいるやつに、世界を見せたい」

マキナは続けた。

「俺も、まだ見たいです」

カイは、少しだけ笑った。

大きく笑うのではない。 分かった、という顔だった。

「なら、来い」

ミラがすぐにため息をついた。

「増えた」

「荷物みたいに言わないでください」

「荷物の方が大人しい」

「それは否定できません」

「否定しなさいよ」

セレスティアが静かに頷いた。

「見るものが増えます」

イリスが言った。

「見られるものも、増えます」

マキナはイリスを見た。

「見られる?」

「はい。マキナも、エイルも、世界を見ます。世界も、あなたたちを見ます」

その言葉は、少し怖かった。

見られる。

観測される。

分類されるかもしれない。 兵器と呼ばれるかもしれない。 異常と呼ばれるかもしれない。 希望と呼ばれるかもしれない。

それでも、マキナはもう、そのどれか一つに決められるために歩くのではない。

まだ何者でもないまま歩く。

「行きましょう」

マキナは言った。

カイが先に歩き出す。

マキナは、その背中を見た。

見て、それから視線を少しずらした。

カイの背中だけを追わない。

足元を見る。 霧の流れを見る。 隣にいるミラの工具袋を見る。 セレスティアの白銀の揺らぎを見る。 イリスが拾わずに置いていった小さな金属片を見る。

自分の立つ場所を見る。

一歩。

杖が砂を突く。

胸の奥で、エイルが小さく言った。

――観測、開始。

「うん」

マキナは歩き出した。

「開始だ」

      ◇

その後、アッシュバルトでは、しばらく白い噂が流れた。

最初にそれを話したのは、外縁門の荷運びだったという者がいる。

いや、違う。診療室で包帯を替えていた候補者が聞いたのが先だという者もいる。

工房区の酒場では、もっと派手に語られた。

北から来た少年がいた。 生身で現象を扱った。 白銀の欠片と話していた。 旧観測施設で、人工現象炉を止めた。 黒白い核を作って、暴走する法則を丸ごと縛った。

「そんなこと、人間にできるわけがない」

誰かが言った。

「人間じゃなかったんだろ」

別の誰かが言った。

「兵器だよ。鉄統局が隠してたものが、外へ逃げたんだ」

そう言う者もいた。

「違う。あれは希望だ。フォージの中で隠されていたものを止めたんだ」

そう言う者もいた。

「希望なんて呼ぶな。そう呼ぶと、また誰かが使おうとする」

診療室の片隅で、白衣の女がそう言ったという話もある。

傭兵登録所では、古い掲示板の隅に、しばらくマキナの登録番号が残っていた。

仮傭兵。 北方出身。 医療監督対象。 特殊現象行使記録あり。

その横に、誰かが小さく落書きをした。

現象使い。

管理部はすぐに消した。

だが、翌日にはまた書かれていた。

工房区では、重機義肢の少年が「名前を勝手に貼るな」と怒鳴った。けれど、酒場で誰かがその少年に「お前も一緒にいたんだろ」と聞くと、彼は少しだけ黙ってから、「あいつは倒れるのが下手だ」と答えたらしい。

診療室では、演算装甲の少女が、まだ杖をつきながら歩行訓練をしていた。

少年の噂を聞くと、彼女は少しだけ顔を上げた。 驚きはしなかった。

ただ、杖を握り直し、次の一歩を踏み出したという。

情報屋たちは、鉄統局の隠蔽ログに群がった。

だが、すべてが好き勝手に売られたわけではなかった。セイルとリゼットが作った整理線は、細く、何度も切れかけたが、それでも残った。名前を出すべきものと、守るべきもの。公開する記録と、閉じて治療へ回す記録。情報は刃にも鎖にもなる。だからこそ、扱う手が必要だった。

テラ・フォージの中枢では、人工現象炉計画という言葉が、しばらく公には使われなかった。

かわりに、事故、逸脱、旧機構干渉、外縁封鎖事案、そういう硬い言葉が並んだ。

けれど、硬い言葉で覆っても、白い噂は隙間から漏れた。

旧観測施設で何かが止まった。 人を炉にしようとした者が敗れた。 白銀の欠片は、部品ではなかった。 北から来た少年は、誰かの後継者ではなかった。

シルヴァン・リムへ向かう交易路でも、その噂は少しずつ形を変えた。

森の民が聞けば、眉をひそめるかもしれない。 外へ出た少年がまた危ないものに近づいたと、古老はため息をつくかもしれない。 リオウなら、きっと額を弾こうとするだろう。 イサラなら、火のそばで静かに目を閉じるだろう。

マキナは、その噂をまだ知らない。

彼はその頃、カイたちとともに、ヴェイル外縁から南西へ続く古い道を歩いていた。

右腕はまだ固定されている。 歩幅は小さい。 杖も必要だった。 ミラにはすぐ休めと言われる。 ノルンから渡された薬は、きちんと荷袋に入っている。 カイは前を歩きすぎず、時々振り返る。 セレスティアは遠くの空を見ている。 イリスは道端の石の色を観測している。

胸の奥では、小さな声がときどき返る。

――風、記録。 ――砂、記録。 ――マキナ、歩行、不安定。

「最後のは記録しなくていい」

――必要。

「必要か」

――はい。

マキナは少し笑った。

胸はまだ痛い。 怖さも消えていない。 分からないことは、むしろ増えている。

エイルが何者なのか。 自分が何者になるのか。 黒白い質量核がいつまで施設を縛れるのか。 ガルムが残した言葉が、どこまで正しかったのか。 世界が次にどこで歪むのか。

何も終わっていない。

けれど、歩ける。

それだけで、今は十分だった。

道の先で、風が吹いた。

白い霧ではない。

乾いた砂を含んだ、南方の風だった。そこに、遠くの炉の匂いと、冷えた鉄の匂いと、まだ見たことのない土地の匂いが混じっていた。

マキナは足を止めた。

カイが振り返る。

「どうした」

「いえ」

マキナは少しだけ空を見た。

灰色の雲の切れ間から、細い光が落ちている。眩しいほどではない。けれど、進むには足りる光だった。

胸の奥で、エイルが言う。

――観測、継続。

マキナは頷いた。

「継続」

そして、また歩き出した。

      ◇

北から来た少年がいた。

生身で現象を扱い、白銀の欠片と共に歩く少年。

誰かは彼を兵器と呼び、誰かは異常と呼び、誰かは希望と呼んだ。

けれど他ならぬ彼自身は、まだ何者でもない。

だからこそ、彼は歩き出した。

現象使いのマキナとして。