金属を削る音がしていた。
細く、硬く、一定ではない音だった。刃物で何かを切っている音ではない。折れた歯車の噛み合わせを、少しずつ戻しているような音。時々、低い軋みが混じる。誰かが小さく息を吐き、それからまた、工具が金属に触れる。
マキナはその音を、しばらく夢の中で聞いていた。
白い霧の中で、音だけが先に戻ってくる。
拘束波が迫っていた。身体は動かない。右腕は熱く、負荷計の針は折れ、胸の奥では白銀の断片が細く震えている。ラウドの声も、ノルンの手も、エルシアのかすれた呼吸も遠い。
その先に、誰かが立っていた。
機械義肢が軋む音。
派手な光ではない。雷鳴でもない。伝承の中で語られるような、世界を割る一撃でもない。
ただ、壊れかけた腕が前に出て、迫っていたものを止めた。
マキナは目を開けた。
布の天井が見えた。
前に見た仮設補給拠点の布より厚い。何重にも重ねられ、隙間に銀色の細い線が走っている。風を受けるたび、布は浅く膨らみ、また沈む。外の白い霧が、布越しに光を鈍くしていた。
匂いが違う。
薬品。冷却液。焼けた金属。砂埃。そこまでは同じだった。だが、その奥に、古い油と、よく手入れされた工具の匂いがあった。アッシュバルトの診療室とも、テラ・フォージ中枢の整った医療棟とも違う。移動しながら直し続けている場所の匂いだった。
右腕を動かそうとして、できなかった。
痛みが先に来たのではない。
重さがあった。
肩から指先まで、自分の腕ではなく、誰かが置き忘れた金属の棒を身体につないだような重さ。固定具は前より厳重になっていた。黒い布、銀線入りの圧迫帯、薄い金属板。手首のあたりに新しい負荷計が巻かれている。三本の針のうち一本が、黄域の端で細かく震えていた。
赤ではない。
だが、黒でもなかった。
「起きた?」
声がした。
ノルンだった。
すぐ横にいた。寝台の足元に腰を下ろし、医療鞄の中身を並べている。髪は乱れ、白衣には白い砂がついていた。袖口に乾いた血が少し残っている。マキナのものか、エルシアのものか、別の誰かのものかは分からなかった。
「ここは」
声がかすれた。
喉の奥が乾いている。
「ヴェイル外縁の仮設キャンプ。あんたたちを拾った連中の拠点」
「拾った」
「拾われたのよ。倒れてる子供と、重傷者と、怒鳴る義肢男と、疲れた案内人まとめて」
「ラウドは怒鳴ってましたか」
「起きてからずっと」
ノルンは薬瓶を一つ指で弾いた。
「つまり元気」
マキナは少しだけ息を吐いた。笑おうとしたのかもしれない。だが胸の奥が痛んで、笑いにはならなかった。
胸の奥。
そこに意識を向ける。
白銀の断片は、いた。
けれど遠い。湖の底に沈んだ光のようだった。声はすぐには返らない。いつもなら、覚醒確認、負荷残留、発声不要、そういったずれた警告が来る。今は、沈黙が長かった。
「聞こえるか」
内側で呼ぶ。
しばらく何もない。
布の外で、誰かが何かを運ぶ音がした。金属箱が地面に置かれる。遠くで機械生物の残骸を引きずるような音。さらに奥で、工具がまた鳴る。
ようやく、胸の奥がかすかに震えた。
――聴取、可能。
「遅い」
――応答、遅延。
「知ってる」
それ以上は続かなかった。
マキナは目を閉じた。
消えてはいない。 それだけで、少し呼吸が楽になった。
ノルンがこちらを見ている。
「返った?」
「少しだけ」
「内容は」
「聞こえる。遅い。それだけです」
「十分。今は、それで十分」
ノルンはそう言ったが、声は安心していなかった。
マキナはゆっくり視線を動かした。
寝台の向こう、布で仕切られた空間に、エルシアがいた。横になっている。上体はわずかに起こされ、胸から肩にかけて医療布が巻かれている。青灰色の演算装甲は、もう身体を覆っていなかった。外された残骸が、寝台脇の箱に収められている。
細い管が腕に繋がっている。
エルシアの目は開いていた。
天井ではなく、こちらを見ていた。
「起きたんですね」
声は細かった。
それでも、前よりは少しだけ輪郭があった。
「エルシアも」
「起きています。動くと怒られます」
「俺もです」
「同じですね」
ノルンがすぐに言った。
「同じにしない。二人とも別方向に悪い」
エルシアは少しだけ口元を動かした。笑ったのか、痛みで表情が揺れただけなのか、マキナには分からなかった。
「ガルムは」
マキナが聞くと、ノルンの手が止まった。
「逃げた」
短い答えだった。
「追跡は」
「今はしてない。追える連中が、追わない判断をした」
「カイが?」
名前を出した瞬間、自分の声が少し変わったのが分かった。
ノルンはそれに気づいたようだった。だが、からかわなかった。
「そう。カイ=ヴォルトが、今は追わないって言った」
マキナは天井を見た。
カイ=ヴォルト。
その名前は、森で聞いた時、遠くに続く道のようだった。アッシュバルトで口にした時は、値札をつけられそうな危険な名前だった。旧観測施設で痕跡を見つけた時は、近くにいるのに届かない光だった。
そして今、その人は近くにいる。
近くにいるはずなのに、マキナの胸は思っていたほど軽くならなかった。
むしろ、少し怖かった。
布の向こうで、金属を削る音が止まった。
「起きたのか」
男の声がした。
低く、疲れていて、それでも通る声だった。
仕切りの布が少し開く。
そこにいたのは、伝承の英雄ではなかった。
灰色の外套。砂を吸った裾。左肩の古い傷。右腕の機械義肢は肘から先が外され、膝の上に置かれている。残った接続部には細い導線が何本も見え、皮膚と金属の境目には新しい処置痕があった。
カイ=ヴォルトは、片手に工具を持ったまま、マキナを見ていた。
すぐ後ろから、女の声が飛ぶ。
「カイ、動くなって言ったでしょ。接続部、まだ締めきってない」
「ちょっと見るだけだ」
「その『ちょっと』で三回失敗してる」
「二回だ」
「三回。私が数えた」
カイは少しだけ困った顔をした。
その顔を見て、マキナは言葉を失った。
もっと、違うと思っていた。
カイ=ヴォルトは、立っているだけで周囲の空気を変えるのだと思っていた。機械義肢は輝き、迷いなく動き、白銀の観測者と並んで、世界の終わりを押し戻した人の姿をしているのだと。
だが目の前のカイは、義肢を外され、整備士に怒られ、疲れた顔で立っていた。
「無理に起きるな」
カイが言った。
「俺もさっき、それで怒られた」
マキナは何か言おうとして、喉が詰まった。
カイは寝台の横に来ると、近くの箱に腰を下ろした。義肢のない右側を少し庇うような座り方だった。左手に持っていた工具を膝に置く。
「マキナ、で合ってるか」
「はい」
「カイ=ヴォルトだ」
「知ってます」
言ってから、マキナは少しだけ顔が熱くなった。
カイは笑わなかった。
「だろうな。俺の名前を呼んでたって聞いた」
「呼んでましたか」
「倒れる前に一回。倒れた後にも一回。たぶん」
ノルンが言った。
「倒れた後のは、うわ言」
「聞こえてたんですか」
「患者のうわ言を聞くのも仕事」
マキナは左手で布を握った。
「俺は、あなたを探してました」
「聞いた」
「シルヴァン・リムで、あなたの話を聞きました。白銀の観測者と、機械の人と一緒に世界を旅したって。世界の終わりを止めたって。ヴェイルで白銀の断片に触れて、現象操作が使えるようになってから、ずっと考えてました。あなたなら、これが何なのか分かるんじゃないかって」
言葉が止まらなかった。
身体は重いのに、口だけが先に動く。
「俺は、力が欲しかったわけじゃないと思います。たぶん。いや、少しはあったかもしれません。でも、それより、知りたかった。どうして俺なのか。白銀の断片が何なのか。失われた姉妹って何なのか。俺の中にいるこれは、俺をどこへ連れていこうとしてるのか」
胸の奥が、かすかに震えた。
聞いている。
そう感じた。
「カイに会えば、分かると思ってました」
最後は、声が小さくなった。
カイはしばらく何も言わなかった。
布の外で風が鳴る。誰かが遠くで「固定して」と言い、別の誰かが「これ以上締めたら割れる」と答えた。キャンプは動いている。ここにいる者たちは、立ち止まっているわけではない。ただ、走らないでいるだけだった。
カイは工具を手の中で回した。
「俺は、世界を救ったわけじゃない」
マキナは顔を上げた。
「終わらせるのを、いったん止めただけだ」
その言い方は、謙遜ではなかった。
英雄扱いを嫌がっているというより、間違った記録を直しているような声だった。
「でも、世界は」
「まだ続いてる。だから、止めたことには意味があったと思ってる」
カイは自分の外された義肢を見た。
「ただ、終わらなかった世界には、終わらなかった分だけ問題が残る。全部が綺麗になったわけじゃない。俺たちは答えを出したんじゃなくて、答えを出すまでの時間を作っただけだ」
マキナは黙っていた。
それは、森で聞いた古い伝承――過去の崩壊を少しだけ遅らせたと語る、かつての挑戦者たちの神話にもあった言い方だった。
世界を救ったとは言わず、終わるのを少し遅らせただけ。幼い頃のマキナは、その言い方が少し冷たく感じていた。
今は、違って聞こえた。
冷たいのではない。
それは、重さを知っている言葉だった。
「旧観測施設に、あなたたちの痕跡がありました」
マキナは言った。
「義肢用のボルト。修理の跡。冷却液。撤退印」
カイは少しだけ目を伏せた。
「残ってたか」
「なぜ撤退したんですか」
ノルンがマキナを見る。今それを聞くのか、という顔だった。だが止めなかった。
カイは答えた。
「進めなかったからだ」
「敵が強かった?」
「それもある。施設の状態も悪かった。俺の義肢も限界だった。セレスティアの観測も乱れた。ミラが、あと一歩進んだら戻れないって言った」
「それで、戻ったんですか」
「ああ」
簡単に言った。
その簡単さに、マキナは戸惑った。
「悔しくなかったんですか」
「なった」
「なら、どうして」
「悔しいから進むと、たいてい誰かを壊す」
カイは顔を上げた。
「俺一人が壊れるだけなら、まだ引き受けようがある。よくはないけどな。でも、あそこでは違った。俺が一歩間違えれば、セレスティアの観測も、ミラの退路も、施設そのものも巻き込んだ。敵に勝つかどうかじゃない。勝ったつもりで、戻る場所まで壊すところだった」
マキナは、旧観測施設の最深部を思い出した。
空間が歪み、機械生物が異常変化し、ガルムが断片を持ったまま消えた。あの時、マキナは止めるために白い杭を打った。固定できた。だが負荷計の針は折れ、自分は倒れた。
もしカイが来なかったら。
その続きを考えかけて、マキナは息を止めた。
「撤退は、負けですか」
マキナが聞くと、カイは少しだけ笑った。
「負けの時もある」
「違う時も?」
「負けて逃げる時もある。でも、もう一度戻ってくるために退く時もある」
その言葉は、マキナの胸の奥に沈んだ。
正しい、という感じではなかった。
痛い、に近かった。
カイは立ち上がろうとして、少し体を傾けた。
「だから、今は寝てろ。戻るには、まず戻れる身体がいる」
すぐに後ろから声が飛んだ。
「カイ」
「分かってる。立ってない」
「立とうとした」
「まだしてない」
「する前の顔だった」
布の隙間から、一人の女性が入ってきた。
短い金髪を揺らし、工具帯を腰に巻いている。目つきは鋭い。顔には疲れがあるが、手は迷いなく動いていた。彼女はカイの外された義肢を取り上げ、接続部を見て舌打ちした。
「また砂噛んでる。さっき清掃したのに」
「霧の中で使ったからな」
「使ったら壊れるものを使わないで」
「使わないとあの子が潰れてた」
「それは分かってるから余計腹立つの」
彼女はそこでマキナを見た。
目が合った瞬間、マキナは少し背筋を伸ばしそうになり、痛みで失敗した。
「ミラ=アスト。整備士。あなたの身体も少し見た」
「身体も?」
「義肢じゃないけど、似たようなものよ。壊れたところを、別の仕組みで無理やり繋いで動かしてる」
ノルンが短く言った。
「言い方」
「柔らかく言っても身体は柔らかくならない」
ミラは負荷計を確認し、マキナの右腕の固定具に触れた。手つきはノルンとは違う。医療者というより、機械の振動を読む手だった。けれど乱暴ではない。
「これ、前からこう?」
「右腕ですか」
「そう。反動の入り方。神経だけじゃなくて、骨の内側まで白銀反応が染みてる」
「前より悪いですか」
「前を知らない。でも、今のこれは良くない」
即答だった。
マキナは黙った。
ミラは続けた。
「ナノマシンが治してくれてると思ってるなら、半分間違い。治してるんじゃない。壊れた場所を、次の壊れ方まで繋いでるだけ」
その言葉は、冷たい金属板を胸に当てられたようだった。
ノルンも同じことを言っていた。
勝っていると思うな。 身体が許したと思うな。 壊れたところを、その場しのぎで繋いでいるだけ。
違う人の口から同じことを聞くと、逃げ場が少なくなる。
「俺は、普通より治りが早いです」
「早く塞がることと、元通りになることは違う」
ミラは固定具の上から、負荷計の針を軽く叩いた。
「これが黄にいる間は、力を使わない。赤に入ったら、使う使わない以前に止める。針が折れたら、こっちがあなたを止める」
「どうやって」
「気絶させる」
マキナはノルンを見た。
ノルンは頷いた。
「私は賛成」
「即答ですか」
「医療的に妥当」
ミラはカイの方を見た。
「あなたも」
「俺も?」
「同じ顔をしない。二人とも、止めないと進む顔をしてる」
カイは少し困ったように笑った。
「似てるか?」
「嫌なところが」
ミラはそう言って、カイの義肢を抱えて出ていこうとした。
その時、布の向こうから、かすかな光が差した。
白銀だった。
けれど、セレスティアのものより少し淡く、揺れ方が違う。霧に反射した光のようで、見る角度によってわずかに色が変わる気がした。
小さな人影が、入口に立っていた。
人間の子どもくらいの背丈。
白銀の髪のようなものが肩のあたりで揺れている。肌も服も、どこまでが身体でどこからが光なのか分からない。瞳だけが不思議にはっきりしていた。虹彩の奥に、薄い色がいくつも重なって見える。
マキナは息を止めた。
胸の奥の断片が、今までより強く震えた。
――観測者。
声が返った。
「イリス」
ミラが言った。
「勝手に医療区画に入らない」
「勝手ではありません。カイがここにいます。ミラもいます。セレスティアも近くにいます。マキナの中にも、誰かがいます」
その子は、まっすぐマキナを見ていた。
ノルンが警戒するように半歩動いた。カイは止めなかった。ミラも何か言いかけて、やめた。
イリスと呼ばれた白銀の子は、寝台のそばまで来た。
足音はほとんどしなかった。
「あなたの中に、誰かがいます」
マキナは胸元に左手を置いた。
「声のことか」
「声だけではありません」
イリスは首を傾げた。
「まだ形がありません。形になろうとしています。でも、形になることを怖がっています」
胸の奥が熱くなった。
白銀の断片は何も言わない。
だが、沈黙の質が変わった。隠れているような、息を殺しているような沈黙だった。
イリスはさらに近づく。
「その子には、名前がありますか」
マキナは答えられなかった。
名前。
今まで、考えたことがなかったわけではない。
けれど、考えないようにしていたのかもしれない。
胸の奥の声。白銀の断片。失われた姉妹の片方かもしれないもの。現象操作を可能にするもの。危険を警告するもの。時々、マキナの選択とずれるもの。
名前をつけるということは、それを何かにしてしまうことだ。
何かにしてしまえば、もうただの現象ではなくなる。
「ない」
マキナは言った。
「まだ」
イリスは頷いた。
「名前がないと、呼ぶ時に迷います」
「そうかもしれない」
「迷うと、見失います」
その言葉は、妙に胸に残った。
ミラがイリスの肩に手を置いた。
「そこまで。今は休ませる」
「はい」
イリスは素直に下がった。だが、視線は最後までマキナの胸元から離れなかった。
入れ替わるように、もう一つの白銀が現れた。
セレスティアだった。
マキナは、すぐにそう分かった。
イリスと似ているのに、まったく違う。立っているだけで、周囲の光の密度が変わる。白銀の髪、静かな瞳、感情の薄い顔。だが、その目には冷たさだけではないものがあった。
伝承の白銀の観測者。
カイと共に世界の終わりを見た存在。
マキナは身体を起こそうとして、ノルンとミラに同時に止められた。
「動かない」
「起きなくていい」
二人の声が重なった。
セレスティアは寝台の横で足を止めた。
「無理に礼をする必要はありません」
「礼をしようとしたわけでは」
「起きようとしました」
「はい」
「それは、今のあなたには適切ではありません」
言い方は淡々としていた。
だが、不思議と責められている感じはしなかった。
セレスティアの視線が、マキナの胸元へ落ちる。
その瞬間、白銀の断片が強く震えた。
痛みではない。
呼ばれたような、見つけられたような感覚。
セレスティアの瞳が、わずかに揺れた。
「近いものを感じます」
マキナは息を呑んだ。
「あなたと、同じものですか」
「いいえ」
セレスティアはゆっくり首を振った。
「同じではありません。けれど、遠くもありません」
マキナは、セレスティアの隣に立つイリスを見た。
白銀の観測者が二人いる。
けれど、二人は同じではなかった。セレスティアは静かな光をまとい、遠い過去まで見通すように立っている。イリスはその横で、まだ世界のひとつひとつを確かめているように、マキナと胸の奥の断片を見比べていた。
「あなたたちは、今も旅をしているんですか」
自分でも、なぜその問いが出たのか分からなかった。
カイが外された義肢の接続部を見ながら、少しだけ頷いた。
「してる」
「まだ、世界を救うために?」
カイは工具を持つ手を止めた。
「昔も、そこまで綺麗な旅じゃなかった」
ミラが横から言った。
「少なくとも、私の記憶ではね」
カイは苦笑した。
それから、マキナの方を見る。
「今は、終わらなかった世界を見て回ってる。止まったあとに、何が残ったのか。どこがまだ歪んでいて、どこが変わろうとしていて、どこが変われないままなのか」
「残ったもの……」
「壊れた施設。動き続けている旧機構。セレスティアやイリスに反応する場所。昔の選択を、別の形で使おうとする連中。そういうものだ」
セレスティアが静かに続けた。
「世界は終了しませんでした。ですが、完全に安定したわけでもありません。保留された状態のまま、各地に歪みが残っています」
保留。
その言葉は、カイの言った「いったん止めただけ」と同じ場所に繋がっている気がした。
終わらなかった世界。
だが、救われきった世界ではない。
マキナは、胸の奥に手を当てた。
イリスが言った。
「私は、それを見ています。終わらなかった世界が、何を選ぶのか」
ミラはカイの義肢を持ち上げ、砂を払った。
「ついでに、危ないものを見つけたら止める。壊れたものが直せそうなら直す。直せないなら、せめて誰かが踏み抜かないように印をつける」
「後始末、ですか」
マキナが言うと、カイは少しだけ笑った。
「見回りと、後始末と、たまに迷子探しだ」
「迷子?」
「俺たちも含めてな」
その言い方が、思っていたより軽かった。
けれど、軽いからこそ、長い旅の重さが少しだけ見えた。
カイたちは、終わった物語の向こう側を歩いている。
英雄としてではなく、まだ残っているものを見落とさないために。
マキナはセレスティアを見た。
「だから、ここにも?」
セレスティアは頷いた。
「はい。ヴェイル旧観測施設の反応は、以前から確認していました。ただし、私たちが到達した時点では、すでに危険域に入っていました」
「それで、一度退いた」
カイが言った。
「戻るためにな」
マキナは旧観測施設で見た痕跡を思い出した。
義肢用のボルト。途中で止まった修理痕。冷却液。撤退印。
あれは、ただの敗走の跡ではなかった。
この人たちの旅の、途中に残った印だった。
セレスティアの視線が、再びマキナの胸元へ落ちる。
「今、深く観測すれば、あなたにも、その内側の存在にも負荷がかかります」
ノルンが即座に言った。
「なら、しないで」
「今は、しません」
セレスティアは答えた。
その返事に、ノルンは少しだけ目を細めた。信じきってはいない顔だった。
カイが口を挟んだ。
「セレスティアは、急ぐとたまに怖い」
「カイ」
「事実だろ」
「補足が必要です」
「補足してる間にまた難しくなる」
ミラがため息をついた。
「どっちも黙って。患者の前」
マキナはそのやりとりを見ていた。
カイ。セレスティア。ミラ。イリス。
伝承の中にいたはずの人たちが、目の前で普通に言い合っている。
普通ではない。 どう見ても普通ではない。
それでも、そこには生活の重さがあった。旅をして、壊れて、直して、怒って、心配して、また歩いてきた時間があった。
英雄譚の中では省かれていたもの。
その省かれていたものの中に、今のカイたちは立っている。
通信機が鳴ったのは、その時だった。
古い卓上通信機だった。仮設の机の上で、雑音を吐きながら震えている。ダグが外から顔を出し、受信線を押さえた。
「アッシュバルト方面からだ。線が荒い」
ノルンが立ち上がる。
「セイル?」
通信機から、割れた声が返った。
『聞こえる?』
「聞こえる。悪いけど、患者が多いから短く」
『なら短くする。ガルムは撤退したんじゃない』
空気が変わった。
マキナの胸の奥も、同時に震えた。
セイルの声はいつもより少し速い。
『旧観測施設の起動ログを、リゼットが一部拾った。ガルムは接続試験に失敗して逃げたんじゃなく、最低限の接続値を取って移動してる。断片を持ったまま、さらに奥へ向かった』
リゼットの声が割り込んだ。
『正確には、奥というより接続深度が高い場所。地図上の距離は信用しないで。ヴェイル内部、今、空間座標がずれてる』
ミラが舌打ちした。
「最悪」
セレスティアが静かに問う。
「目的は」
通信の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。
リゼットが答える。
『局所現象改変場の形成。まだ小さい。でも、始まってる。機械生物の動きが揃い始めた。白銀結晶の残留も増えてる』
ノルンの顔が硬くなる。
「人工現象炉の前段階ね」
通信機の雑音が一瞬大きくなった。
セイルが聞き返す。
『ノルン、今、何て?』
「聞こえたなら記録しないで」
『もうした』
「消しなさい」
『必要な記録だ』
ノルンは額に手を当てた。
カイが彼女を見る。
「ノルン。知ってることがあるなら、必要な分だけでいい」
ノルンはすぐには答えなかった。
マキナは、その横顔を見た。
いつもの苛立ち。医療者としての怒り。患者を止めるための強さ。その下に、別のものがあった。
古い傷を押された人の顔。
「人工現象炉は、安定した炉心を持たない」
ノルンは言った。
「本来なら、人間側の装置だけで現象改変なんて扱えない。だから、白銀断片を接続端子にする。外から意味を与えて、無理やり炉心の代わりにする」
「ガルムが持っている断片を」
マキナが言うと、ノルンは頷いた。
「そう。けれど、断片は炉心として作られたものじゃない。押し込めば歪む。歪めば広がる。広がるものは、周囲の現象まで巻き込む」
「止めるには?」
ラウドの声が、仕切りの外からした。いつの間にか来ていたらしい。
ノルンは少しだけ目を伏せた。
「全部は分からない」
「分かるところだけでいい」
カイが言った。
ノルンは息を吸った。
「暴走する炉は、強いから危険なんじゃない。広がり続けるから危険なの。広がるものは、どこかで一点に縛れれば止まる可能性がある」
一点に縛る。
マキナは右腕を見た。
白い杭。
あの最深部で、自分は波を縫い止めた。攻撃ではなく、固定として《事象確定》を使った。あの時、空間歪曲は一瞬止まった。止まった代わりに、自分の負荷計は折れた。
ノルンの視線がすぐにマキナへ向く。
「今のを、自分の役目だと思わない」
「まだ何も言ってません」
「顔が言った」
ラウドも言った。
「俺にも分かった」
「そんなにですか」
ミラが低く言った。
「分かりやすい無茶は、止めやすいだけまし」
マキナは口を閉じた。
胸の奥の断片は、静かだった。
だが、完全な沈黙ではない。何かを聞いている。ノルンの言葉を、カイの声を、セレスティアの気配を、イリスの問いを。
その全部を、自分の中で並べているようだった。
セイルの声が通信機から続いた。
『時間はあまりない。でも、すぐに最終起動へ入れる状態でもない。そっちは動ける人員と動けない人員を分けて。無理に突っ込むと、たぶんガルムの思う通りになる』
「珍しくまとも」
リゼットが言った。
『いつもまともだよ』
「今のは保存しておく」
ノルンが通信機へ向かって言う。
「解析を続けて。旧観測施設の接続図、人工現象炉に関係しそうな系統だけ優先。あと、マキナの力を前提にした作戦は組まないで」
『本人が聞いている前で言うんだね』
「聞かせるために言ってる」
マキナは何も言えなかった。
通信が切れると、布の内側に風の音が戻った。
誰もすぐには動かなかった。
ガルムは進んでいる。 ヴェイルは変わり始めている。 機械生物は統一された動きを見せている。 人工現象炉という言葉が、とうとう隠れなくなった。
それでも、今のマキナは寝台の上にいる。
右腕は重く、負荷計は黄域の端で震え、胸の奥の声はまだ遠い。
カイが立ち上がった。
今度はミラも止めなかった。片腕のない右側を庇いながら、それでも彼は立った。
「まず休む。動けるようにする。話はそれからだ」
マキナは思わず言った。
「でも、ガルムが」
「今すぐ走れば追いつくかもしれない」
カイは言った。
「でも、止められるとは限らない」
言葉が刺さった。
以前のマキナなら、追いつく可能性があるなら走っていたかもしれない。今も、身体の奥は走れと言っている。いや、走れるなら走りたい。
だが、右腕の重さがそれを止めていた。
エルシアが静かに言った。
「私は、まだ動けません」
全員の視線が彼女へ向いた。
エルシアは寝台の上で、布を握っていた。指が震えている。だが、目は逸らさなかった。
「でも、見たことは話せます。装甲の中で、何が繋がっていたのか。何を見せられて、何を見なかったのか」
ノルンが何か言いかける。
エルシアはその前に続けた。
「それと、マキナ」
「はい」
「あとで、少し話せますか」
「今でも」
「今は、医者が怖いので」
ノルンが言った。
「正しい判断」
エルシアは小さく頷いた。
「だから、あとで」
マキナは頷いた。
その約束が、なぜか重かった。
ガルムを追うための作戦でも、人工現象炉の弱点でもない。けれど、今のマキナには、それも必要なことに思えた。
カイが寝台の脇を離れる。
ミラは義肢を抱え、ノルンは薬瓶を片づけ、セレスティアはマキナの胸元を一度だけ見てから布の外へ出た。イリスも続こうとして、入口で振り返った。
「名前があると、呼べます」
マキナは彼女を見る。
イリスは続けた。
「呼べると、戻れることがあります」
それだけ言って、彼女は外へ出ていった。
白銀の光が布の向こうに消える。
マキナは左手を胸に当てた。
「聞こえたか」
返事はない。
だが、胸の奥で、何かが小さく震えた。
それは警告ではなかった。
推奨でも、危険評価でもなかった。
もっと弱く、もっと曖昧で、まだ言葉になる前の反応だった。
マキナは目を閉じた。
カイに会えば、すべてが分かると思っていた。
けれど、分かったのは、カイも分からないまま進んでいるということだった。セレスティアも間違えるかもしれない。ミラは怒る。ノルンは隠している。イリスは名前を聞く。エルシアは動けない身体で、見たものを話そうとしている。
誰も、完全な答えを持っていない。
そのことが、思っていたよりも怖くて、少しだけ楽だった。
布の外で、また金属を削る音が始まった。
壊れたものを、次に進むために直す音だった。
◇
夕方になるころ、風の音が変わった。
昼のあいだ、白い霧は布の外を横へ流れていた。砂と鉄粉を含んだ風が支柱を鳴らし、仮設キャンプの布を低く膨らませていた。だが、日が傾くにつれて、その音は少しずつ浅くなった。
遠くのものが、近くで鳴っているように聞こえる。
近くの足音が、布一枚隔てただけで遠くへ沈む。
ヴェイルの外縁では、距離の感覚が時々狂う。ダグがそう言っていた。マキナは寝台に横たわったまま、その言葉を思い出していた。
身体はまだ重い。
右腕は固定されたまま。負荷計の針は黄域の手前から少し下がったが、黒域には戻っていない。胸の奥の声も、途切れ途切れだった。呼べば返る。けれど、返るまでに間がある。まるで、深い霧の向こうからこちらへ歩いてくるような遅さだった。
ノルンは何度目かの処置を終えると、マキナの額に手を当てた。
「熱は下がった」
「なら、起きても」
「駄目」
「最後まで聞いてください」
「聞いたら言い訳が増える」
ノルンは負荷計を確認し、針の位置を記録した。紙片に書いている。通信記録や端末ではなく、古い紙だった。理由を聞くと、「残したくない記録もある」とだけ言った。
その言い方が、少し引っかかっていた。
外では、カイの義肢を調整する音が続いている。時々、ミラの怒る声が聞こえた。
「そこ締めないで。今締めたら噛む」
「緩いと外れる」
「外れないようにするのが私の仕事。勝手に手を出すのがあなたの悪癖」
「手は一本しか出してない」
「そういう返しが余計腹立つ」
カイは、伝承よりずっと怒られていた。
その事実が、マキナの中で何度も形を変えていた。
カイ=ヴォルトは、世界を救った英雄ではなかった。
少なくとも、本人はそう思っていない。
終わらせるのを、いったん止めただけ。
その言葉は、胸の奥に残っている。軽くはない。けれど、マキナが背負うべき重さとは少し違う。誰かから渡された答えではなく、誰かが背負ってきた重さを見せられただけだった。
布の仕切りの向こうで、エルシアが小さく咳をした。
ノルンがすぐに顔を上げる。
「痛む?」
「少しです」
「少しって言う時は、だいたい少しじゃない」
「マキナにも同じことを言っていました」
「患者はみんな同じ嘘をつくの」
ノルンは立ち上がり、エルシアの寝台へ行った。仕切りが半分だけ開いている。マキナからは、エルシアの横顔が見えた。
彼女は上体を少し起こしていた。
青灰色の演算装甲を外した身体は、やはり細い。布の下に隠れていても、肩の線や首元の白さで分かる。けれど、最初に見た時より目はしっかりしていた。まだ震えている。まだ痛みの底にいる。それでも、ただ横たわっているだけではなかった。
ノルンが薬を飲ませ、呼吸を確かめ、管の位置を直す。
「話すなら短く」
「はい」
「本当に短く」
「努力します」
「その返事、あっちにも聞き覚えがある」
ノルンがマキナを見た。
マキナは目を逸らした。
エルシアが小さく笑った。今度は、たぶん痛みではなかった。
ノルンはため息をつく。
「五分。二人とも寝台から出ない。声を張らない。泣いてもいいけど、呼吸が乱れたら止める」
「泣く前提ですか」
マキナが言うと、ノルンは即答した。
「泣ける時に泣かない患者ほど面倒なの」
そう言って、彼女は仕切りの外へ出た。完全には離れない。布一枚向こうにいる気配がした。聞こえる距離にいる。止められる距離にいる。
マキナは左手だけを動かし、寝台の端を掴んだ。
「エルシア」
「はい」
「さっき、話したいって」
「はい」
エルシアは少し息を整えた。
外で、風が布を叩いた。布の影が揺れる。光が薄くなり、寝台の間に長い影が落ちた。
「あなたは、白銀断片の声が聞こえるんだって?」
マキナは胸元に手を置いた。
「聞こえます。いつもじゃないけど」
「どんな声ですか」
「最初は、警告ばかりでした。危険、逃走推奨、現象操作可能。そういう、硬い声です」
「今は?」
マキナは少し考えた。
「今は、少し違います。分からないことを、分からないって言うようになりました」
「それは、声が変わったんですか。あなたが変わったんですか」
答えようとして、止まった。
すぐには分からなかった。
以前なら、断片が変わったと言ったかもしれない。あるいは、自分の解釈が増えたと。でも今は、どちらか一方ではない気がした。
「両方かもしれません」
「そうですか」
エルシアは目を伏せた。
「私は、聞こえませんでした」
マキナは彼女を見る。
エルシアの指が、布を握っていた。細く、白い指。爪の端に、まだ消えきらない青灰色の染みがある。演算装甲の接続痕だろうか。
「命令はありました。演算もありました。痛みも、熱も、冷たさも。身体の中で、誰かが勝手に扉を開けていくみたいでした」
言葉が一度止まる。
呼吸が浅くなる。
布の向こうでノルンが動く気配がした。けれど、入ってはこなかった。
エルシアは続けた。
「でも、声ではありませんでした。何かが私に話しかけたわけではない。ただ、動かされるだけでした」
マキナは何も言えなかった。
自分は、白銀の断片と接触した。
望んで近づいた。
危険だと分かっていて、足が前へ出た。声が聞こえるようになり、力が使えるようになり、身体は自分だけのものではなくなった。
怖いと思った。
けれど、エルシアとは違う。
マキナは自分から触れに行った。エルシアは奪われた。
同じではない。
けれど、まったく違うとも言えなかった。
身体の内側に、自分ではないものがいる感覚。自分の手が、自分の思った通りに動かないかもしれない恐怖。誰かに分類され、記録され、使われるかもしれない嫌悪。
それは、マキナにも分かるものだった。
「俺は」
声が詰まった。
「エルシアを助けたかったのは、たぶん、自分と同じだと思ったからです」
エルシアが顔を上げた。
「同じ?」
「全部が同じじゃない。俺は、自分で白銀に近づいた。エルシアは違う。そこは同じじゃない」
マキナは左手で胸を押さえた。
「でも、身体の中に知らないものが入って、知らない力が動いて、自分が自分だけじゃなくなる怖さは、少し分かる気がしました。エルシアは、それを望んでないのにされた。だから、放っておけなかった」
エルシアはしばらく黙っていた。
布の外で、誰かが小さく咳をした。たぶんノルンだ。聞いている。聞いているが、何も言わない。
エルシアは、ゆっくり息を吐いた。
「私は、あなたに助けられました」
「でも、遅かった」
「遅かったかどうかは、私が決めます」
マキナは口を閉じた。
エルシアの声は細い。けれど、その言葉だけはまっすぐだった。
「私は、助けられました。だから今、こうして話せています」
「はい」
「でも、助けられただけでは、終われないんです」
エルシアの目が、寝台脇の箱へ向いた。
そこには、演算装甲の残骸が収められている。青灰色の外殻。割れた予測層。焦げた冷却板。切断されたケーブル。彼女を支配したものの残骸。
「私を動かしたものが、まだ誰かを動かすかもしれない。私に繋げたものが、まだ別の人に繋がるかもしれない。それを、私は見ないふりできません」
「でも、身体が」
「分かっています。戦えません。歩くのも、まだ無理です」
エルシアは小さく笑った。
「それくらいは、私にも分かります」
「なら」
「でも、話すことはできます。思い出すことも。少しなら、予測層が何を見ていたかも」
マキナは箱を見た。
演算装甲。
かつて彼女を支配したもの。
それをもう一度見ること自体が、どれだけ怖いのか、マキナには正確には分からない。けれど、分からないからこそ、軽く言えなかった。
「怖くないんですか」
「怖いです」
即答だった。
「今でも、目を閉じると戻りそうになります。あの中に。命令が来て、身体が動いて、声が出せなくなるところに」
エルシアの指が震える。
「でも、あの施設の最後に、私は少しだけ使いました」
「予測層を」
「はい。使われたのではなく、自分で使いました。ほんの少しだけ。怖かった。でも、あの時は、使えた」
エルシアはマキナを見る。
「だから、次も、少しだけなら。誰かに使われるためではなく、自分で選ぶためなら」
言葉の途中で、エルシアの呼吸が乱れた。
すぐにノルンが入ってきた。
「そこまで」
「まだ」
「そこまで」
ノルンの声は強かった。だが、怒っているだけではなかった。
エルシアは何か言いかけ、諦めたように目を伏せた。
「はい」
ノルンは彼女の脈を取り、呼吸を整えさせる。マキナにも視線を向けた。
「あんたも、顔が悪い」
「顔ですか」
「色」
「言い直しても、あまり」
「黙って休む」
マキナは頷いた。
エルシアは、処置を受けながら小さく言った。
「マキナ」
「はい」
「私、あの時、胸の奥からあなたの声が聞こえた気がしました」
マキナは息を止めた。
「俺の?」
「はい。実際の声ではなかったかもしれません。予測層の反響か、装甲のノイズか、分かりません。でも、聞こえた気がしました」
エルシアは目を閉じた。
「だから、戻ろうと思えました」
ノルンの手が一瞬止まった。
マキナは胸に手を当てた。
白銀の断片は沈黙している。
でも、その奥で何かが揺れた。
自分の声が、彼女に届いたのか。
それとも、断片が何かを繋いだのか。
分からない。
分からないことが、今は少しだけ怖かった。
同時に、分からないまま大切にしなければならないものが増えた気がした。
◇
夜が近づく前に、セレスティアがもう一度マキナの寝台へ来た。
ミラとノルンも一緒だった。カイはいない。義肢の再接続中らしい。イリスは入口の布のそばに立ち、内側へ入っていいのか迷っているように見えた。
セレスティアは、寝台から少し離れた位置で止まった。
「マキナ」
「はい」
「あなたの内側にいる存在を、観測する方法があります」
ノルンがすぐに口を開いた。
「方法があることと、やっていいことは別」
「理解しています」
「本当に?」
「はい」
セレスティアは静かに答えた。だが、ノルンは納得していない顔だった。
ミラも腕を組んでいる。
「観測って、どの程度」
「分離ではありません。切除でもありません。内側の境界を一時的に明確化し、反応を外部へ投影します」
「言い方がもう怖い」
ミラは眉をひそめた。
「本人の身体は?」
「負荷はあります」
「どのくらい」
「正確には不明です」
「それ、整備士の前で言ったら一番駄目な答え」
ノルンも言った。
「医者の前でも駄目」
セレスティアは黙った。
その沈黙は、反論できないからではなく、言葉を選んでいるようだった。
「私は、以前にも似た間違いをしました」
その言葉に、ミラの表情が少し変わった。
カイの話ではない。もっと古い、彼女自身の話なのだろうとマキナは思った。
「観測できるものを、理解したものだと誤認しました。構造を見れば、相手のすべてを扱えると考えました」
セレスティアはマキナを見る。
「今、同じことをしたくはありません」
「なら、なぜ」
マキナが聞くと、セレスティアは答えた。
「あなたの内側の存在が、恐れています」
胸の奥が微かに震えた。
「それが分かるんですか」
「分かる、とは言い切れません。けれど、反応はあります。私に対して。イリスに対して。そして、あなたに対して」
イリスが入口で小さく頷いた。
「その子は、呼ばれる前に隠れます」
「隠れる?」
「はい。見つけられることと、消されることを、まだ分けられません」
ノルンが険しい顔をした。
「それなら、なおさら触るべきじゃない」
「触れないまま、ガルムの施設へ近づけば、より大きな反応が起きる可能性があります」
セレスティアの声は静かだった。
「人工現象炉は、白銀断片を炉心として扱おうとしています。マキナの内側の存在が、それを統合、消去、あるいは呼び戻しと誤認すれば、戦闘中に自己防衛を起こすかもしれません」
ミラが小さく舌打ちした。
「先に、何に怯えてるか見ておきたいってことね」
「はい」
沈黙が落ちた。
布の外では、遠くの機械が低く唸っていた。キャンプの発電機か、修理装置か、それとも霧の向こうの何かか、マキナには分からない。
ノルンがマキナを見た。
「やらなくていい」
「でも」
「でもじゃない。今のあんたの身体は、実験に耐える状態じゃない」
「実験」
マキナはその言葉を繰り返した。
ノルンが唇を噛んだ。
「ごめん。今のは」
「いえ」
実験。
その言葉は、エルシアの身体にも、マキナの身体にも、ノルンの過去にも触れている気がした。軽い言葉ではなかった。
セレスティアは言った。
「拒否できます」
マキナは彼女を見た。
「俺が拒否したら、あなたたちは俺を置いて行くんですか」
ミラが即答した。
「置いていかない。止める」
「それも置いていくのと近いです」
「近くても違う」
ミラの声は強かった。
カイの声が、外からした。
「マキナ」
布が開き、カイが入ってきた。右腕の義肢はついている。だが、まだ完全ではないらしく、肘の動きが少し硬い。ミラが顔をしかめた。
「動くなって」
「聞いてた」
「聞いたなら守って」
「必要なところだけ」
「最悪」
カイはマキナのそばに来た。
「知りたいのか」
マキナは答えようとして、止まった。
知りたい。
それは本当だった。
でも、それだけではない。
自分の中の声が何なのか。どうして自分に宿ったのか。ガルムの断片とどう違うのか。セレスティアやイリスとどう繋がるのか。知りたいことは山ほどある。
けれど、今セレスティアが言っているのは、答えを手に入れることではなかった。
内側の存在が何を怖がっているのかを見ること。
それは、マキナにとって都合のいい答えではないかもしれない。
「知りたいです」
マキナは言った。
「答えが欲しいわけじゃなくて、知らないまま連れていきたくない」
胸の奥が震えた。
「俺の中にいるのに、俺が何も知らないまま、ガルムのところへ行くのは嫌です」
カイは頷いた。
「なら、決めるのはお前だ」
ノルンが言った。
「カイ」
「止めるなら止めろ。俺も止める側に回る時はある。でも、決めるところまで取り上げたら、それは守ることと違う」
ノルンは何も言わなかった。
言い返せないというより、言い返したい言葉が多すぎて詰まったようだった。
ミラは深く息を吐いた。
「条件をつける」
「はい」
マキナは答えた。
「心拍が乱れたら即中止。負荷計が赤に入ったら中止。白銀反応が外部機器を焼き始めたら中止。セレスティアが危ないと判断しても、私かノルンが危ないと判断したら止める。本人が続けると言っても止める」
「分かりました」
「分かってない顔」
ノルンが言った。
「でも、聞く顔にはなってる」
マキナは頷いた。
イリスが近づいてきた。
「私も見ます」
ミラが眉をひそめる。
「イリス」
「見ます。ですが、触りません」
セレスティアが彼女を見る。
「補助観測だけです」
「はい」
イリスは真面目に頷いた。
「その子が隠れる場所を、塞がないように見ます」
その言い方が、マキナには不思議に優しく聞こえた。
◇
準備は静かに進んだ。
医療テントの奥、布で囲った区画に簡易の観測台が作られた。といっても、大げさな装置ではない。ミラが持っていた測定機、セレスティアが使う白銀の小さな結晶片、ノルンの心拍監視板、イリスが手にする輪のような光。その程度だった。
それでも、空気は重かった。
マキナは寝台から起こされ、背中を支えられて座った。ノルンが左手首に心拍用の細い帯を巻き、ミラが胸元に小さな測定板を置く。冷たい。
「息苦しい?」
「少し」
「少しじゃなくなったら言う」
「はい」
「言えるうちはまだいい。言えなくなったら、こっちで止める」
ミラは測定機の針を見ながら言った。
「今の時点で、すでに嫌な数値」
「やめますか」
マキナが聞くと、ミラは睨んだ。
「やめてほしい」
「でも、止めないんですね」
「止める理由を探してる。まだ見つけきれてないだけ」
ノルンが小さく言った。
「私も同じ」
セレスティアは、マキナの正面に立った。
「これから行うのは、分離ではありません」
マキナは頷いた。
「切り離すものでもありません」
「はい」
「もし、内側の存在がそれを誤認した場合、あなたは呼びかけてください。これは消去ではない、と」
「分かりました」
イリスが横から言った。
「名前がないと、呼びかけにくいです」
マキナは胸元を見た。
「今は、まだ」
「はい。今は、まだ」
イリスはそう繰り返した。
セレスティアの白銀光が、静かに広がった。
最初は、冷たくなかった。
むしろ、森の朝に近かった。霧が苔の上へ降りる時のような、柔らかい白。光はマキナの胸元へ触れず、その周囲を薄く囲む。輪郭を探るように、ゆっくり回っていく。
胸の奥の断片が震えた。
――外部観測。
「分かってる」
――危険評価、未完了。
「切り離すんじゃない」
沈黙。
セレスティアの光が少し強くなる。
測定板の針が動いた。ミラが短く息を吸う。ノルンの指が、心拍帯の上で止まる。
マキナの胸元に、淡い白い影が浮かんだ。
最初は煙のようだった。
次に、細い糸の束のように見えた。
白銀の線が絡み、ほどけ、また絡む。中心が定まらない。人の形になりかけて、すぐに崩れる。肩のようなもの。髪のようなもの。腕のようなもの。顔はない。
けれど、そこに誰かがいる。
マキナはそう思った。
胸が痛んだ。
「見える」
声が震えた。
ノルンがすぐに言う。
「痛む?」
「痛い。でも、まだ」
「まだ、は禁止語にしたい」
ミラの測定機が甲高い音を立てた。
白い影が、急に縮んだ。
セレスティアの瞳がわずかに揺れる。
「拒絶反応」
「中止」
ノルンが言う。
その瞬間、胸の奥で声が裂けた。
――統合、拒否。
「違う」
マキナは言った。
「統合じゃない」
――消去、拒否。
「違う。消されない」
――境界侵犯。自己保持。自己保持。自己保持。
白い影が膨らんだ。
布の内側の灯りが一斉に落ちた。
暗くなる。
直後、白銀の光が区画全体を満たした。
測定板が火花を散らし、ミラが手を引いた。ノルンの心拍監視板が白く焼け、細い煙を上げる。吊ってあった金属器具がふわりと浮き上がった。薬瓶が棚から離れ、空中で震える。
「マキナ!」
ノルンの声が遠くなる。
マキナは胸を押さえた。
息ができない。
白い影が、セレスティアの方へ伸びた。触れようとしているのではない。押し返している。近づく白銀を、同じ白銀で拒んでいる。
セレスティアは動かなかった。
だが、彼女の足元の布が裂けた。光が床に走り、細い亀裂のように広がる。
イリスが一歩前に出る。
ミラが叫んだ。
「イリス、下がって!」
イリスは下がらなかった。
「その子は、消えたくないと言っています」
声は小さかった。
けれど、白銀の光の中で、不思議にはっきり聞こえた。
マキナの胸に、その言葉が落ちる。
消えたくない。
胸の奥で、何かが震えている。
それは警告ではない。推奨でもない。計算でもない。
恐怖だった。
マキナは手を伸ばそうとした。右腕は動かない。左手を胸に置く。
「消さない」
声が出たかどうか分からない。
白い光が強くなる。
心臓が、ひどく遠くなった。
一度、大きく鳴った。
それから、音が消えた。
◇
白い場所にいた。
地面はなかった。
空もなかった。
上下も、距離も、温度も分からない。ただ、白い。けれど、まぶしくはなかった。目を開けているのか閉じているのかも分からない。身体があるのかさえ、はっきりしなかった。
それでも、胸だけが痛かった。
マキナは歩こうとした。
足があるかどうかも分からないのに、歩こうと思うと進んだ。白の奥に、誰かがいた。
顔のない少女。
そう見えた。
本当に少女なのかは分からない。髪のような白い線が肩まで落ち、細い輪郭が揺れている。だが、顔はない。目も、口も、表情もない。ただ、そこに「見られることを恐れている形」があった。
「お前か」
声が響いた。
自分の声なのに、遠い。
少女の輪郭が揺れる。
――定義不能。
「いつもの声だ」
――負荷。異常。未完成片。生存阻害要因。
言葉が、白い空間に落ちていく。
――切除推奨。分離成功時、宿主生存率上昇。
マキナは黙った。
否定できなかった。
この存在がいるから、自分は現象操作を使える。 この存在がいるから、右腕は何度も焼けた。 この存在がいるから、ガルムの断片に引かれ、セレスティアに反応し、イリスに見つけられた。 この存在がいるから、今、自分の心臓は止まったのかもしれない。
切り離せば、普通に戻れるのかもしれない。
森を出る前の身体に。
少なくとも、今よりは安全な身体に。
「お前は、そう思ってるのか」
――宿主保全、優先。
「俺を守るために、消えようとしてる?」
――消失、可。保全、優先。
言葉は硬い。
けれど、硬すぎるから分かった。
震えている。
恐怖を、計算の形にしている。
自分を負荷と呼び、異常と呼び、未完成片と呼ぶことで、消える理由を作ろうとしている。
マキナは、白い空間の中で息を吸った。
息があるのかは分からない。
でも、吸ったと思った。
「必要だから、一緒にいるんじゃない」
輪郭が止まった。
「お前が力をくれるからとか、危険を教えてくれるからとか、ガルムを止めるのに必要だからとか、そういうことじゃない」
――理由、不成立。
「不成立でいい」
マキナは一歩近づいた。
少女の輪郭が少し下がる。
「もう、いるんだろ。俺の中に」
白い空間が、わずかに揺れた。
「俺は、お前が何なのか分からない。セレスティアと同じなのか、違うのか。失われた姉妹なのか、ただの欠片なのか。ガルムの持ってる断片とどう違うのか。何も分からない」
――不明要素、多数。危険。
「そうだな」
――分離推奨。
「でも、分からないものを全部切り捨てたら、俺はここまで来てない」
森の朝を思い出した。
白い霧。旧文明の金属片。読めない文字。伝承の中のカイ。外の世界。アッシュバルト。エルシア。ラウド。ノルン。セイル。リゼット。カイ。セレスティア。ミラ。イリス。
分からないものばかりだった。
危険なものばかりだった。
それでも、全部が今のマキナをここまで連れてきた。
「お前を、いないことにはしたくない」
少女の輪郭が、少しだけ崩れた。
顔のない場所に、表情の代わりの揺らぎが生まれる。
――呼称、未設定。
イリスの声が、どこかから聞こえた気がした。
名前がないと、呼ぶ時に迷います。
迷うと、見失います。
マキナは白い少女を見る。
「名前」
言った瞬間、胸が痛んだ。
名前をつけることは、決めることだ。
でも、完全に決めることではなくてもいい。
今ここで、呼ぶためのもの。
見失わないためのもの。
「エイル」
白い空間が静かになった。
「仮でいい。嫌なら、あとで変えよう」
少女の輪郭が、小さく震える。
――エイル。
それは声ではなかった。
白い空間そのものが、その音を覚えようとしているようだった。
――個体呼称、エイル。
「そう」
マキナは頷いた。
「俺はマキナ。たぶん、それは知ってるだろ」
――マキナ。
初めて、その声が名前を呼んだ。
胸の痛みが、少しだけ形を変えた。
消えたわけではない。
でも、ただ痛いだけではなくなった。
遠くで、誰かが叫んでいる。
ノルンの声。ミラの声。カイの声。エルシアの細い声。イリスの白い気配。セレスティアの静かな光。
戻らなければならない。
マキナは手を伸ばした。
エイルの輪郭は、まだ触れられるほど確かではなかった。指先が白い線をすり抜ける。それでも、彼女は逃げなかった。
「戻るぞ」
――戻る。
「一緒に」
少し間があった。
――一緒に。
白が割れた。
◇
最初に戻ってきたのは、音だった。
誰かが自分の名前を呼んでいる。
「マキナ!」
胸に強い衝撃が来た。
空気が肺に入る。
痛い。
喉が焼ける。身体が跳ねる。右腕が重い。胸の奥で白銀が熱を持つ。負荷計の警告音が、耳元で割れるように鳴っている。
マキナは咳き込んだ。
ノルンの顔が目の前にあった。
いつもの怒った顔ではなかった。もっと剥き出しの顔だった。汗で髪が額に張りつき、目が赤い。
「戻った」
ミラの声。
「心拍、戻った。まだ乱れてる」
「呼吸は」
「浅い。でも戻ってる」
ノルンの手がマキナの頬を叩いた。強くはない。確認するための痛みだった。
「名前」
「……マキナ」
「今どこ」
「キャンプ」
「誰がいる」
「ノルン。ミラ。セレスティア。イリス。カイ。たぶん、ラウドが外で怒ってる」
布の外から声がした。
「怒ってねえよ!」
マキナは少しだけ笑おうとして、咳き込んだ。
ノルンがすぐに支える。
「笑うな。今は笑うのも許可制」
「厳しい」
「死にかけた患者に優しくすると思ったら大間違い」
声は怒っていた。
でも、手は震えていた。
マキナは視線を動かした。
セレスティアが少し離れた場所に立っていた。彼女の白銀光は弱くなっている。足元の布は裂け、測定機の一部が焼けていた。イリスはセレスティアの横に立ち、じっとマキナを見ていた。
ミラは測定機を床に置き、深く息を吐いた。
そのあと、セレスティアを睨んだ。
「今の、あと一歩で死んでた」
「はい」
セレスティアは答えた。
「私はまた、理解する前に触れようとしました」
誰もすぐには何も言わなかった。
カイが布の入口に立っていた。義肢の指を握りしめている。表情は静かだったが、目は笑っていなかった。
「止まれたなら、まだ間違いの途中だ」
セレスティアがカイを見る。
「途中で止まれなければ?」
「その時は、俺たちが止める」
ミラが低く言った。
「今度はもっと早く止める」
ノルンも言った。
「次はない」
セレスティアは静かに頷いた。
「はい」
マキナは胸に手を置いた。
そこに、まだ熱があった。
白銀の断片。
いや。
「エイル」
声に出した瞬間、全員の視線が向いた。
ノルンが眉をひそめる。
「何?」
「名前です」
マキナは息を整えながら言った。
「中にいる声の。仮だけど」
イリスの瞳が、少し明るくなった。
「呼べましたか」
「たぶん」
「戻れましたか」
「戻れた」
イリスは頷いた。
「よかったです」
セレスティアは静かにマキナを見ていた。
「エイル」
彼女がその名を口にした瞬間、胸の奥が小さく震えた。
怯えではない。
警告でもない。
返事に近いものだった。
――聴取、可能。
マキナは目を閉じた。
「聞こえる」
ノルンが深く息を吐いた。
「名前がついたのはいいけど、心停止のおまけつきとか、本当に最悪」
「すみません」
「謝る元気があるなら寝る」
ミラが測定機の焦げた端を見て、顔をしかめた。
「これ、修理できるかな」
カイが言った。
「ミラならできる」
「褒めても怒りは減らない」
「知ってる」
「なら黙って」
二人のやりとりを聞きながら、マキナは少しだけ目を閉じた。
身体はひどく重い。
右腕は痛い。
喉は焼けている。
でも、胸の奥に、今までとは違う静けさがあった。
そこにいるものを、呼べる。
ただそれだけのことが、こんなに違うとは思わなかった。
◇
完全に夜になる前、ミラはマキナの身体を改めて診た。
診るというより、解体前の機械を観察する整備士の顔だった。ノルンも隣にいる。二人の視線が同じ方向から来ると、逃げ場がない。
「まず、良い話から」
ミラが言った。
マキナは少しだけ身構えた。
「良い話があるんですか」
「ある。心臓は動いてる」
「それは良い話ですね」
「最低限すぎる良い話だけど」
ノルンが記録を見ながら言った。
「白銀反応は落ち着いてきた。エイル、だったわね。その反応は暴走時より内側に戻ってる」
「悪い話は」
「山ほどある」
ミラは即答した。
「右腕の神経負荷は限界に近い。骨の内側の微細損傷も増えてる。ナノマシンが塞いでるけど、治してるわけじゃない。さっきも言った通り、壊れたところを次の壊れ方まで繋いでるだけ」
マキナは黙って聞いた。
逃げたくなかった。
この話から逃げたまま、次へ進んではいけない気がした。
「次に大きく使えば、腕だけじゃ済まないかもしれない」
ミラは言った。
「心肺、神経、白銀反応の境界。どこが先に切れるか分からない」
「使わなければ」
「安静にして、時間をかければ戻る部分もある」
ノルンが続けた。
「でも、時間がない」
その言葉は、誰のせいでもなかった。
ガルムが進んでいる。
ヴェイルが歪んでいる。
機械生物が変わり始めている。
それでも、身体には身体の都合がある。世界の危機だからといって、骨や神経が急に丈夫になるわけではない。
ミラは少し声を落とした。
「根性で動く機械なんてない」
「人間もですか」
「人間は根性で動いた気になる分、機械より厄介」
ノルンが頷いた。
「特にあんたみたいなのは」
「俺みたいなの」
「痛いのに動ける子。怖いのに進める子。止まる理由を、自分で後回しにする子」
ノルンの声は、怒っているようで、疲れていた。
「そういう子は、助ける側からすると一番怖い」
マキナは返事に迷った。
すると、外からラウドが入ってきた。重機義肢の肩に新しい補強帯を巻いている。カイの義肢整備を見ていたのか、腕の関節部に自分で何かを試した跡があった。
「医者の言うことは聞いとけ」
マキナは少し驚いた。
「ラウドがそれを言うんですか」
「俺は聞いてる」
ノルンが横から言った。
「半分くらいね」
「半分聞けば十分だろ」
「十分じゃない」
ラウドは舌打ちし、それからマキナの右腕を見た。
「義肢なら、壊れたら替えがある。高いけどな。借金も増える。でも、替えはある」
彼は自分の重機義肢の指を鳴らした。
「お前の腕は、そうじゃねえ。壊れたら、すぐ替えればいいって話じゃない」
「はい」
「だから、俺が前に出る。お前は、勝手に全部背負うな」
マキナはラウドを見た。
その言葉は乱暴だった。
でも、真っすぐだった。
ラウドは目を逸らす。
「何だよ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。調子狂う」
ノルンが小さく笑った。
「言われ慣れてないだけでしょ」
「うるせえ」
その時、入口にイリスが顔を出した。
「入ってもよいですか」
ミラが少し考え、頷いた。
「短くね」
イリスはマキナのそばへ来た。白銀の小さな光が、夜の布の内側で淡く揺れる。
「エイルは、返事をしましたか」
「少し」
「よかったです」
イリスは寝台の横に立ち、マキナの胸元を見た。
「あなたは、その子と一緒にいたいのですか」
マキナはすぐに答えられなかった。
イリスは待っている。
急がせない。
ただ、答えが出るまでそこにいる。
「分かりません」
マキナは正直に言った。
ミラが眉を動かしたが、何も言わなかった。
「一緒にいたい、っていうのが、まだよく分からない。でも、いないことにはしたくない」
イリスは頷いた。
「名前をつけたのは、離れないためですか」
「たぶん、見失わないためです」
「見失わないと、戻れます」
「イリスも、そうだったんですか」
イリスは少し首を傾げた。
「私は、名前をもらいました」
「誰に?」
イリスはカイたちがいる方を見た。
「みんなに。最初は呼称効率のためだと言われました。でも、ミラは怒る時に名前を呼びます。カイは探す時に名前を呼びます。セレスティアは確認する時に名前を呼びます」
少し間を置いて、彼女は言った。
「だから、名前は場所に似ています」
マキナはその言葉を聞いて、胸の奥に触れた。
エイル。
そこが、彼女の戻る場所になるのかもしれない。
そして、マキナが呼ぶ場所にも。
◇
夜、カイはキャンプの外縁にいた。
マキナは寝台から出ることを許されなかった。だが、ノルンとミラの監視付きで、テントの外まで運ばれることは許された。ラウドが簡易椅子ごとマキナを持ち上げた時、マキナは抗議しようとしたが、右腕が痛んだのでやめた。
「荷物みたいです」
「今のお前は荷物より危なっかしい」
ラウドはそう言って、椅子を外縁の防風布の内側に置いた。
そこから、白い霧が見えた。
夜のヴェイルは、黒くならない。
白い。
空も地面も、どこか白い光を含んでいる。遠くの観測塔の残骸が、霧の中で傾いていた。時々、空間が細く歪み、星の位置がずれたように見える。風は冷たいのに、霧の奥には熱を持った何かがある気がした。
カイは少し離れた場所に座っていた。
義肢の肘を外し、膝の上に置いている。工具は使っていない。ただ、金属の表面を布で拭いていた。
「身体は」
カイが聞いた。
「悪いです」
「正直だな」
「ノルンに鍛えられました」
「いい医者だ」
「怒りますけど」
「いい医者ほど怒る」
カイは義肢を見た。
「ミラもよく怒る」
「知ってます」
「さっき一回、俺の頭に工具が飛んできた」
「当たりましたか」
「避けた」
「避けたら余計怒られませんか」
「怒られた」
マキナは少し笑った。
笑うと胸が痛んだが、今度は止めなかった。
しばらく、二人は霧を見ていた。
カイの横顔は、昼より少し影が濃かった。英雄というより、疲れた旅人だった。義肢のない右側は、少しだけ頼りなく見える。それでも、背中は折れていない。
「マキナ」
「はい」
「俺を追うな」
言葉は静かだった。
突き放すようでもあり、そうではないようでもあった。
マキナはすぐには答えなかった。
カイは続ける。
「憧れるな、とは言わない。俺にも、昔そういう相手はいた。誰かの背中を見て歩き出すことはある」
義肢の金属面に、白い霧の光が映る。
「でも、追い続けると、自分の足元を見なくなる」
マキナは足元を見た。
椅子の下に、白い砂が溜まっている。靴先には古い血の跡と、薬品の染みがついていた。ここまで来る間に、いくつもついたものだ。
「俺は、あなたみたいになりたかったのかもしれません」
「やめておけ」
即答だった。
「そんなにですか」
「俺になると、ミラに毎日怒られる」
マキナはまた笑いそうになった。
カイも少しだけ笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「俺は何度も間違えた。進むべき時に迷ったし、止まるべき時に進もうとした。セレスティアを分かったつもりになったこともある。ミラを置いていきかけたこともある。世界を相手にしてるふりをして、目の前の一人を見落としそうになったこともある」
マキナは黙って聞いた。
「それでも、戻れたのは、一人じゃなかったからだ」
カイは義肢を接続部に戻した。完全にはめず、軽く合わせるだけだった。
「お前も、一人で行くな」
「エイルがいます」
「それもそうだな」
カイはマキナの胸元を見た。
「でも、エイルだけでもない。ノルンがいる。ラウドがいる。エルシアがいる。セイルとリゼットもいる。俺たちも、今はいる」
「今は」
「ずっとはいない」
その言葉は、冷たくはなかった。
ただ、事実だった。
「だから、自分で選べ」
カイは言った。
「俺の後を追うんじゃなくて、お前が行く場所を選べ。間違えるかもしれない。撤退するかもしれない。誰かに怒られるかもしれない」
「それはもう、かなり」
「なら見込みがある」
マキナは霧を見た。
白い霧の奥で、何かが光った気がした。
遠い。
けれど、近づいている。
胸の奥で、エイルが震えた。
――遠方反応、増大。
マキナは手を胸に置いた。
「カイ」
「何だ」
「怖いです」
カイは頷いた。
「怖いなら、まだ見えてる」
「見えてる?」
「怖くなくなった時の方が危ない。自分が何を壊すか、見えなくなる」
マキナはその言葉を覚えようとした。
怖いなら、まだ見えている。
胸の奥で、エイルがもう一度震える。
――恐怖、あり。
マキナは小さく息を吐いた。
「俺も」
霧の向こうで、低い音がした。
最初は雷かと思った。
だが、空は光っていない。
地面の奥から、何かが起き上がるような音だった。古い観測塔がきしみ、遠くの白霧が縦に裂ける。裂け目の内側に、白銀の光が走った。
カイが立ち上がった。
ほぼ同時に、キャンプ内で警報が鳴る。
ミラの声が飛んだ。
「全員、起きて! 観測値が跳ねた!」
ノルンが医療テントから出てくる。
ラウドが重機義肢を鳴らしながら走る。
エルシアも、布の内側で上体を起こそうとしていた。ノルンがすぐに怒鳴る。
「動かない!」
「見えます」
「だめ!」
「音だけでも分かります」
セイルの通信が割れた音で繋がった。
『ガルムが旧観測施設を完全起動した。いや、完全というより、強制起動に近い』
リゼットの声が重なる。
『局所現象改変場、形成開始。機械生物の群れが全部同じ方向に動いてる。防衛線を作ってるみたい』
空の白銀亀裂が、もう一度走った。
霧の奥で、複数の影が動く。
機械生物。
獣の形をしたもの。鳥の形をしたもの。砕けた機械の残骸をつなぎ合わせたようなもの。それらがばらばらに動くのではなく、一つの意志を持つように、旧観測施設の方角へ集まっていく。
マキナの胸の奥で、エイルが震えた。
強く。
けれど、さっきまでのような混乱ではなかった。
――危険。
「分かってる」
――恐怖、あり。
「俺も」
――観測継続、希望。
その言葉に、マキナは目を閉じた。
観測継続。
まだ見たい。
まだ終わりにしたくない。
それは、エイルの言葉なのか。マキナ自身の言葉なのか。分からない。けれど、今は分けなくてもいい気がした。
マキナはカイを見た。
カイは義肢を完全に接続し、手を握った。軋む音がする。万全ではない。それでも、動く。
ミラは測定機を抱え、セレスティアは白銀の亀裂を見上げていた。イリスはその隣で、霧の色を観測している。ノルンは医療鞄を肩にかけ、エルシアの寝台のそばへ戻った。ラウドは前に立ち、重機義肢の関節を鳴らした。
誰も完全ではなかった。
誰も、答えを持っていなかった。
それでも、動こうとしている。
マキナは左手で椅子の肘掛けを掴んだ。
立てるかは分からない。
戦えるかも分からない。
右腕は痛む。身体は重い。エイルもまだ不安定だ。怖い。怖くないわけがない。
それでも、霧の奥へ視線が向いた。
「行けるか、エイル」
胸の奥で、白い声が返る。
――恐怖、あり。損耗、予測。生存率、不安定。
「うん」
――でも。
初めて、その言葉が来た。
――まだ、世界を見たい。
マキナは息を吸った。
白い霧の匂いがした。
鉄粉と薬品と、遠くで起き上がる古い施設の匂い。その奥に、森の朝に似た湿り気がある気がした。
「俺も」
マキナは言った。
「まだ世界を見たい」
白銀の亀裂が、夜のヴェイルを照らした。
その光は綺麗ではなかった。
怖かった。
それでも、マキナは目を逸らさなかった。