布が鳴っていた。
風を受けた厚い防塵布が、低く、重く、何度も揺れる。天井ではない。壁でもない。仮設の支柱に張られた布が、外の白い風を受けて膨らみ、また萎む。そのたびに、金属の留め具が小さく鳴った。
音は一定ではなかった。
強く鳴る時もある。急に止まる時もある。止まったあと、外の世界が息を潜めたような間があり、次の瞬間、乾いた砂を含んだ風が布を叩く。
マキナは、その音で目を覚ました。
最初に見えたのは、薄汚れた布の内側だった。灰色の繊維に、赤茶けた粉塵が細かく入り込んでいる。布の向こうでは誰かが歩いているらしく、影が揺れた。重い足音。軽い足音。荷台の車輪が砂を噛む音。遠くで、崩れかけた支柱が風に軋む音。
ここは診療室ではない。
中枢の医療棟でも、アッシュバルトの登録所でもない。
マキナはゆっくり息を吸った。
薬品の匂い。焼けた金属の匂い。砂埃。冷却液。血の匂いは薄い。だが、完全には消えていない。どれも混ざっているのに、どこか冷えていた。
炉の熱が遠い。
テラ・フォージの中枢では、どこにいても巨大炉の温度が皮膚に触れていた。アッシュバルトでも、鉄と油の熱が街にこびりついていた。
ここには、それがない。
かわりにあるのは、白い風だった。
右腕を動かそうとして、やめた。
肩から指先まで、重かった。固定具は以前より簡易なものだが、黒い布と薄い金属板で手首から肘まで押さえられている。負荷計はその上に巻き直され、三本の針のうち一本が、黄域の手前で細かく震えていた。
赤ではない。
黒でもない。
その中間に、身体がまだ引っかかっている。
「起きた?」
声がした。
ノルンだった。
彼女は寝台の横に座り、記録板ではなく、古い紙片に何かを書きつけていた。髪はいつもより乱れている。白衣の袖口には砂がつき、手袋の指先は薬品で変色していた。
机などない。膝の上に硬い板を置き、その上で書いている。彼女の医療鞄は開いたまま、寝台の足元に置かれていた。薬瓶、巻布、細い工具、銀線入りの黒布。どれも使われたあとだった。
「ここは」
マキナの声は掠れていた。
「南東外縁の補給拠点。正確には、補給拠点だったものをリゼットが一時的に使えるようにした場所」
「施設は」
「崩れた」
短い答えだった。
マキナは目を閉じかけた。
地下の音が戻ってくる。
白銀の補助核。 喉で途切れたエルシアの叫び。 ガルム=オルデンの黒い容器。 崩落する壁。 ラウドの腕。 ノルンの声。 自分の右腕を焼いた、あの白い熱。
「エルシアは」
言った瞬間、喉が痛んだ。
ノルンは視線だけを隣へ向けた。
布で仕切られた向こう側に、もう一つ寝台があった。仕切りは半分だけ開いている。そこに、エルシアが横になっていた。
青灰色の演算装甲は、もう彼女の身体を覆っていない。外された残骸が寝台脇の箱に収められている。ケーブルの切断部には封止材が塗られ、胸元から肩にかけて、白い医療布が何重にも巻かれていた。
細い管が一本、腕の内側へ繋がっている。呼吸のたび、胸の布が小さく上下する。演算装甲の下では分からなかった身体の細さが、今は隠しようもなく見えていた。
彼女は眠っているように見えた。
だが、目は開いていた。
淡い色の瞳が、布の天井ではなく、どこか遠くを見ている。
「……生きてる」
マキナが言うと、エルシアの視線が動いた。
「そうみたいです」
声は細く、息に近かった。
それでも、彼女自身の意思で出した声だった。
マキナは起き上がろうとして、肩に痛みが走った。右腕ではない。背中から脇腹にかけて、筋を引きつらせるような痛みが走る。
ノルンの手が額を押した。
「起きない」
「でも」
「今それをやったら、私が怒る」
「いつも怒ってます」
「今のは種類が違う」
マキナは寝台へ戻された。
エルシアが小さく笑ったように見えた。笑ったのか、痛みで表情が揺れただけかは分からない。
「すみません」
マキナは言った。
「助けるのが遅くなりました」
エルシアはしばらく黙っていた。
外で、金属箱を下ろす音がした。誰かが怒鳴り、別の誰かが「通信線を踏むな」と言った。風が布を叩く。
「謝るなら」
エルシアは言った。
「私を置いていかないでください」
マキナは息を止めた。
ノルンがすぐに口を開く。
「同行は無理。今の身体で歩ける距離じゃない」
「歩けないなら、運んでもらいます」
「そういう問題じゃない」
「同じです」
エルシアは少しだけ首を動かした。たったそれだけで、こめかみに汗が浮かんだ。
「私は、何をされたのか見ていません。感じていただけです。身体の中で、知らない回路が動いて、知らない命令が来て、知らない声が、私の手を動かしました」
言葉が途切れた。
彼女の指が、布の上でわずかに震えた。
「だから、見たいんです。どこへ繋がっていたのか。誰が、まだそれを使おうとしているのか」
ノルンの顔が険しくなる。
「見るだけで済まないかもしれない」
「見ない方が、怖いです」
エルシアの声は強くなかった。
だが、退かなかった。
マキナは、その声を聞いていた。
救われた人の声ではない。 まだ震えている人の声だった。 それでも、自分の身体を取り返そうとしている人の声だった。
胸の奥が、かすかに震えた。
白銀の断片。
マキナは意識を向けた。
「聞こえるか」
しばらく何も返らなかった。
いつもより遅い。
遠い場所から、折れた通信が戻ってくるような間があった。
――聴取、可能。
声は細かった。
「ガルムはどこへ行った」
沈黙。
負荷計の針が、小さく揺れた気がした。
――姉妹、遠隔。
「方向は」
――追跡、可能。
マキナは息を吸った。
まだ追える。
そう思った瞬間、胸の奥が別の方向へ引かれた。
痛みではない。熱でもない。もっと細い、白い糸のような感覚。身体の中心から、遠い霧の奥へ引かれる。ガルムが消えた方角とは少し違う。
「……何だ」
――観測者、近接。
「観測者?」
――合流、候補。
声はそこで途切れた。
マキナは眉を寄せた。
ガルムの断片。 観測者。 姉妹。 合流。
言葉だけが並び、意味が繋がらない。
ノルンがこちらを見ていた。
「何か返った?」
「ガルムは追える。でも、別の反応もあるみたいです」
「別の?」
「観測者、近接。合流、候補」
ノルンの表情が動いた。
ほんの一瞬だった。
「……今は、余計な反応を追わない」
「分かっています」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんは嫌い」
マキナは左手で負荷計に触れた。
針は、黄域の手前。
今走れば、確実に崩れる。
それでも、胸の奥の糸はまだ引いていた。
どこかにいる。
断片が求めている何かが、ガルムとは別の場所にいる。
その可能性だけで、呼吸が浅くなった。
カイ=ヴォルト。
名前が浮かんだ。
マキナはそれを、まだ口にはしなかった。
布の外で、通信機が甲高く鳴った。
ノルンが立ち上がるより早く、仕切りの外からラウドの声がした。
「医者、セイルから通信だ」
「入れないで。そこから繋いで」
「俺が通信機に詳しく見えるか?」
「見えないから、誰かを呼びなさい」
「もう呼んでる」
すぐに、古い卓上通信機が寝台の横へ運び込まれた。運んできたのはダグだった。煤避けの布を首に下げ、片目の測定レンズが砂埃で曇っている。
「悪いな。ここの線、半分死んでる。声が割れるかもしれん」
通信機から、雑音が流れた。
数秒後、セイルの声が聞こえた。
『聞こえる?』
「聞こえます」
マキナが答えると、セイルはすぐに言った。
『声は出るね。なら話せる』
「無事とは言いにくいです」
『同感。だから急ぐ』
通信の向こうで、紙か記録板を動かす音がした。
『ガルム=オルデンの搬送経路を追った。崩落前の施設から、南東ではなく東南東へ抜けた記録がある。通常の搬送路ではない。旧観測線のさらに奥、ヴェイル側へ向かっている』
ノルンが通信機へ近づいた。
「目的地は」
『記録上は封鎖区域。名称は、ヴェイル旧観測施設。正式分類は、観測補助群の残存接続点。百年以上前に閉鎖されたことになっている』
「ことになっている、ね」
ノルンの声が冷たくなった。
セイルは間を置いた。
『二年前、補修資材の搬入記録がある。その後、削除されている』
ラウドが仕切りの外で舌打ちした。
「またそれかよ」
『削除した痕跡も残っている。承認印は鉄統局系。ガルムが使うには都合がいい場所だ』
リゼットの声が、別回線から割り込んだ。
『都合がいいどころじゃないわ。そこ、旧観測線の中でも抑制機構残滓に近い。今の施設図は信用しないで。百年前の図面に、後から誰かが継ぎ足した跡がある』
ノルンが額に手を当てた。
「リゼット、あなた寝てないでしょ」
『今その話いる?』
「いる」
『じゃあ寝てない』
「最悪」
『そっちも似たようなものでしょ』
リゼットの声は疲れていたが、速かった。いつもの、工具を握った時の声に近い。
『ガルムが持っていった黒い容器、あれはただの保存容器じゃない。短時間なら接続端子になる。つまり、断片を運ぶだけじゃなく、そのまま施設へ繋げる』
マキナは左手を握った。
「何をするために」
『推測でいい?』
「はい」
『抑制機構残滓への干渉。もっと小さく言えば、局所的な現象制御権の取得。フォージ側の装置だけで現象操作に近いことをするための、接続試験』
通信機の雑音が、一瞬大きくなった。
その向こうで、風が鳴っているように聞こえた。
マキナは、ガルムの声を思い出した。
世界はまだ救われていない。 備える者が必要だ。 炉が必要だ。
「止めないと」
身体が先に動こうとした。
ノルンの視線が刺さる。
マキナは止まった。
寝台の上で、左手だけを膝に置く。
「……今度は、走らない」
自分に言い聞かせるように言った。
「道を見てから追う」
ノルンは、しばらく何も言わなかった。
それから、小さく息を吐く。
「その言葉、記録しておきたいわね」
セイルが通信越しに言った。
『記録した』
「本当にしなくていい」
マキナが言うと、ラウドが仕切りの外で笑った。
「言った以上、破ったら全員に言われるぞ」
「ラウドも来るんですか」
「当たり前だろ」
ラウドが仕切りを少し開けて顔を出した。
重機義肢の肩部に新しい補強帯が巻かれている。左腕はまだ擦れた音を立てていたが、動いている。義肢の表面には、地下施設でついた細かな傷が残っていた。磨けば消えるものもある。消えないものもある。
「ガルムの野郎を殴りに行く。あと、そこの演算装甲女を運ぶ奴がいるだろ」
エルシアが静かに言った。
「名前はエルシアです」
「知ってる」
「なら、名前で呼んでください」
ラウドは口を閉じた。
少しだけ気まずそうに視線を逸らす。
「……エルシアを運ぶ奴がいるだろ」
エルシアは、小さく頷いた。
「お願いします」
「軽く言うな。俺の腕は荷車じゃねえ」
「でも、運んでくれるんですよね」
「運ぶけどよ」
マキナは少し笑った。
笑った瞬間、右腕の奥が痛んだ。
ノルンが見逃さなかった。
「痛む?」
「少し」
「少しで顔を歪めるなら、かなり痛い」
「そうかもしれません」
「正直でよろしい。最悪だけど」
ノルンは医療鞄を閉じた。
「出発は半刻後。マキナは歩ける範囲だけ。無理なら乗せる。エルシアは基本的に担架。ラウドは前衛兼運搬。ダグは道案内。私は二人の身体を見る。リゼットとセイルは通信支援。ただしヴェイルに入れば切れる可能性が高い」
「俺の役目は」
マキナが聞くと、ノルンは即答した。
「倒れないこと」
「それは役目ですか」
「最重要任務」
ラウドが頷いた。
「珍しく医者と意見が合った」
「珍しくは余計」
エルシアが寝台の上で、ゆっくり息を整えていた。
彼女の目は、もう天井を見ていなかった。
外を見ている。
布の向こう。 白い風の先。 自分が連れていかれ、自分の身体を誰かの装置にされた場所の、さらに奥を。
マキナはその横顔を見て、胸の奥に手を当てた。
白銀の断片は、また沈黙していた。
けれど、完全に眠ってはいない。
何かを待っているように、微かに震えていた。
◇
補給拠点を出ると、空が低かった。
雲ではない。
白い霧と鉄粉を含んだ風が、地表の近くを流れている。遠くの観測塔は、霧の中で半分だけ見えた。折れた先端が空を指し、その周囲を黒い鳥のような小型機械が旋回している。
鳥ではない。
機械獣でもない。
壊れた監視端末が、目的を失ったまま飛び続けているのかもしれなかった。三つ、四つ、時々数が変わる。霧に隠れているだけなのか、本当に増減しているのかは分からない。
地面は乾いていた。
砂と錆びた鉄片、砕けた耐熱材、古い軌道の残骸。踏むたびに、靴底の下で細かなものが割れる。中枢の整えられた金属床とも、アッシュバルトの油じみた石畳とも違う。ここは、人が使い終えたものを、世界がまだ飲み込みきれていない場所だった。
ラウドは先頭を歩いた。
背には簡易担架を固定している。エルシアはそこに半身を預け、上体だけを少し起こしていた。完全に横になることを拒んだため、ノルンが渋い顔で許した姿勢だった。
「気分は」
ノルンが聞く。
「悪いです」
エルシアは答えた。
「正直でいいけど、どの程度」
「吐くほどでは……ないと思います」
「それは基準として雑」
「今、他の言い方が出ません」
ラウドが前を向いたまま言った。
「吐くなら左にしろ。右は俺の腕がある」
「努力します」
「努力でどうにかなるのか、それ」
マキナは二人のやりとりを聞きながら、少し後ろを歩いていた。
右腕は吊っている。弓は左肩。短剣は腰にあるが、抜くつもりはない。負荷計の針は黄域の手前。歩いているだけなら問題ない。だが、白銀の反応が近づくたび、針がわずかに震えた。
その震えが嫌だった。
痛みなら分かる。 疲労なら分かる。 けれど、針の動きは、マキナ自身の感覚より先に身体の異常を告げる。自分の身体なのに、誰かが外から測っているような気がする。
ダグが脇を歩き、古い地図板と実際の地形を見比べている。
「この先、旧軌道が三本に分かれる。真ん中は沈んでる。右は機械獣の巣になってた。左から回る」
「なってた?」
マキナが聞くと、ダグは嫌そうに笑った。
「最近、巣が空になった」
「移動したんですか」
「逃げたんだろうな。奥から何かが来てる」
その言い方は、ただの推測ではなかった。
この土地で働いてきた人間の、嫌な確信だった。
しばらく進むと、霧が濃くなった。
白い霧。
北の森で見たヴェイルの霧とは違う。あちらは湿っていて、苔や土の匂いを含んでいた。ここは乾いている。粉のように細かく、喉の奥に引っかかる。息を吸うと、金属の味がした。
霧の中では、距離が少しずつ狂う。
遠くにあったはずの観測塔が、気づくと近くに立っている。近くにあったはずの倒れた支柱が、振り返ると霧の奥で小さくなっている。足元の旧軌道はまっすぐ続いているのに、歩いている身体だけが斜めへずれていくような感覚があった。
マキナは何度か、靴の向きを確かめた。
まっすぐ歩いている。
だが、目の奥がそれを信じない。
「気持ち悪いな」
ラウドが言った。
「道が曲がって見える」
「実際には曲がっていない」
ダグが答えた。
「たぶんな」
「そこは断言しろよ」
「断言する奴から落ちる」
ラウドは舌打ちした。
風が止んだ。
全員の足音だけが、霧の中に残る。
すると、どこかで水滴が落ちる音がした。
一滴。
二滴。
だが、音は下から聞こえた。
マキナは足を止めた。
錆びた軌道の脇に、小さな水たまりがある。乾いた土地には不自然な水だった。その表面から、透明な雫がゆっくり浮かび上がった。雫は空中で丸くなり、落ちるのではなく、上へ昇って霧に消えた。
誰も、すぐには喋らなかった。
ダグが喉を鳴らす。
「見なかったことにしたいな」
ノルンが即答した。
「無理」
「だよな」
マキナの胸の奥が震える。
――観測線、残留。
「分かるのか」
――既知構造。欠損、多数。
「来たことがあるのか」
沈黙。
それから、
――記録、欠損。
マキナは足元を見た。
壊れた軌道の継ぎ目に、白い結晶が薄く付着している。雪のように見えるが、冷たくはない。近づくと、肌の内側が微かにざらつく。
エルシアが顔を上げた。
「近いです」
ノルンがすぐに反応する。
「何が」
「制御層の……音に近いもの」
「音?」
エルシアは少し考えるように目を細めた。
「本物の音ではないです。でも、身体の内側で、順番を数えられる感じがします」
ノルンの表情が硬くなった。
「無理に拾わなくていい」
「拾っているんじゃありません。向こうから来ます」
その声に、マキナは胸の奥の断片を思った。
向こうから来る。
自分の意思とは別に、身体の内側へ触れてくるもの。
「嫌なら、目を閉じてもいい」
マキナが言うと、エルシアはこちらを見た。
少しだけ、笑った。
「目を閉じても、中で鳴ります」
マキナは返す言葉を失った。
道は、旧軌道に沿って続いていた。
だが、道の周囲にあるものは、少しずつ道ではなくなっていく。
機械獣の残骸があった。
最初は一体だけだった。四本脚の小型。腹部を上にして倒れ、動力核を抜かれている。ラウドが横目で見て、「誰かが止めた跡だ」と言った。
次にあった残骸は、脚が六本になっていた。
壊れたものを別の機械獣が食い、部品を取り込んだのかもしれない。そう思おうとした。だが、その脚は後から取り付けられたものではなく、胴体の内側から生えかけていた。金属が金属を押し広げ、まだ形にならない関節が白い結晶をまとっている。
三つ目の残骸は、頭部のレンズが内側を向いていた。
外を見るためのものが、自分の身体の中を見ようとしているようだった。
ラウドが足を止める。
「これ、生きてねえよな」
ダグが短銃を構えた。
「たぶん」
「だから断言しろって」
その時、残骸のレンズが一度だけ光った。
全員が身構えた。
だが、それ以上は動かなかった。
エルシアが小さく言った。
「命令待ち、みたいです」
「誰の」
マキナが聞く。
エルシアは答えなかった。
答えられなかったのだろう。
さらに進むと、空間が一度ずれた。
最初に気づいたのはダグだった。
「止まれ」
全員が足を止める。
目の前には、倒れた観測柱があった。さっきも通ったような気がする。柱の根元に、三つに割れた丸い計測器。そこに絡む黒いケーブル。赤茶けた砂に半分埋もれた、古い工具箱。
「ここ、さっき通ってないか」
ラウドが言った。
「通っていません」
マキナは言いかけて、止まった。
通った気がする。
だが、足跡がない。
自分たちの足跡は、後ろに続いている。前にはない。なのに、目の前の景色だけが、記憶の中にある。
ダグが地図板を叩いた。
「距離が合わない。補給拠点からここまで、まだ半分のはずだ」
「近づいた?」
マキナが聞く。
「近づいたならいい。問題は、同じ場所を見せられてる可能性だ」
ノルンが周囲を見た。
「空間歪曲?」
「かもしれない」
胸の奥の断片が震えた。
――観測誤差、拡大。
「どうすればいい」
――固定点、必要。
マキナは地面を見た。
旧軌道の横に、錆びた標識が倒れている。半分折れているが、根元は深く埋まっていた。マキナはそこへ近づき、左手で触れる。
冷たい。
だが、確かにある。
「これを目印にしましょう」
ダグが頷いた。
「古いやり方だが、戻ったかどうかは分かる」
ラウドが担架の角度を直した。
「分かったところで、戻ってたらどうする?」
「戻って同じ顔をする」
「嫌な冗談だな」
ノルンがマキナを見た。
「力は使わない」
「使いません」
「今、固定点って言われて、何かしようとした顔だった」
「顔に出ますか」
「出る」
「気をつけます」
「顔じゃなくて行動を」
標識の根元へ、ダグが黒い布を結びつけた。ラウドはそこに小さな金属片を落とした。ノルンは薬瓶の空容器を一つ置いた。
三つの目印。
同じ場所へ戻れば、分かる。
進めば進むほど、そういう古い確かめ方しか信用できなくなっていく。
先へ進む。
今度は、景色が少しずつ変わった。
観測塔が近くなる。地面の白い結晶が増える。霧の中に、古い壁面が見えてきた。壁は鉄でも石でもない、白く滑らかな材質に変質していた。もとは黒い合金だったのだろう。だが表面だけが、薄い白銀に覆われたように光っている。
マキナの足が止まった。
胸の奥が、強く鳴った。
「マキナ?」
ノルンの声が遠くなる。
マキナは壁へ近づいた。
白い線が走っている。
傷ではない。文字でもない。何かが通った跡。指でなぞったようでもあり、光が染み込んだようでもある。線は壁の奥へ入り、そこで消えていた。
セレスティア。
名前を知らないはずの感覚が、そう言った気がした。
マキナ自身の記憶ではない。
胸の奥の断片が、壁の白い線を知っている。
その白銀の線のそばに、別の痕跡があった。
最初は汚れかと思った。
白い壁の下の方。マキナの腰よりも低い位置に、小さな丸い跡がついている。指先で押したような丸み。大人の手ではない。工具でもない。白銀の線と似ているが、線の伸び方が違った。
セレスティアの痕跡が、まっすぐで静かに壁の奥へ染みているとしたら、その小さな跡は、丸く、少し迷っているように見えた。
何かが壁に触れた。 見上げた。 確かめた。 そして、すぐに離れた。
そんな痕跡だった。
「これは……」
マキナは指を伸ばしかけた。
胸の奥の断片が、今までとは違う震え方をした。
強い。
だが、怖いだけではない。
懐かしいような、急かすような、探していたものを見つけた直後のような反応。
――姉妹。
声が、今までより近かった。
マキナの指先が、壁に触れた。
視界の端に、白い光が走る。
一瞬、音が消えた。
風も、足音も、金属の軋みも、全部が遠ざかる。
代わりに、胸の奥から熱が広がった。痛みではない。懐かしさに似ているが、マキナの記憶にはない。誰かを探す感覚。失くしたものを見つけかけた時の、息を詰めるような感覚。
――合流、優先。
マキナの足が動いた。
一歩。
壁の白い線と、小さな丸い跡が続く方へ。
そこは、ガルムの向かった旧観測施設とは別の方角だった。霧の奥、折れた観測塔の影を越えた先。そこに何があるのかは分からない。だが、胸の奥の断片は、そちらを求めていた。
――姉妹、近接。 ――観測者、応答可能。 ――接触、必要。
「マキナ」
ノルンの声。
マキナは止まらなかった。
いや、止まろうとしていた。
けれど、足がもう半歩前へ出ていた。
自分の意思より先に、身体が白い線を追おうとしている。
ラウドが低く言った。
「おい、どこ行く」
エルシアが担架の上で息を呑む。
「白い反応が……強い」
マキナは胸元を押さえた。
中から引かれる。
自分の身体の中にあるものが、自分の身体を使って、別の場所へ行こうとしている。
敵の干渉ではない。
これは、内側から来ている。
「違う」
マキナは小さく言った。
断片は返す。
――合流、優先。 ――喪失、回避。 ――姉妹――
「違う」
今度は、はっきり言った。
足を戻す。
膝が少し震えた。右腕ではなく、胸の奥が痛む。痛むというより、拒んだ場所が熱を持つ。
白い線の先には、カイがいるかもしれない。
セレスティアがいるかもしれない。
さっき見た、小さな丸い跡を残した何かがいるかもしれない。
断片が求める「姉妹」がいるかもしれない。
マキナ自身も、行きたかった。
行けば、ずっと追ってきたものに近づけるかもしれない。
だが、ガルムは別の方角にいる。
黒い容器の中の断片を持って、旧観測施設を起動しようとしている。
ここで道を変えれば、間に合わない。
マキナは胸元を押さえたまま、内側へ向かって言った。
「……悪い。今はそっちじゃない」
断片はすぐには引かなかった。
――接触、必要。 ――姉妹、近接。 ――接続個体、移動――
初めて、それが自分を指しているらしい音に聞こえた。
マキナは歯を食いしばる。
「分かってる。でも今行ったら、ガルムを止められない」
沈黙。
風が戻ってきた。
布ではない。霧の中を通る乾いた風。ラウドの義肢の駆動音。ノルンの呼吸。エルシアの浅い息。ダグが地図板を握る音。
胸の奥の熱は、完全には消えなかった。
ただ、声だけが途切れた。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
それとも、何かを諦めたのか。
マキナには分からなかった。
ノルンが近づいた。
「今の、断片?」
マキナは頷いた。
「カイたちの方へ、引かれました」
その名を口にした瞬間、ラウドが目を細めた。
エルシアも、少しだけ表情を変えた。
ノルンは責めなかった。
ただ、短く言った。
「それでも、行かないのね」
「はい」
マキナは白い壁から手を離した。
指先に、薄い銀の粉がついていた。
「今は、ガルムを追います」
ダグが霧の奥を見た。
「なら急いだ方がいい。こっちの道も、そう長くはもたない」
彼が示した先には、旧観測施設へ続く低い通路が口を開けていた。
黒い入口だった。
その周囲だけ、霧が吸い込まれるように薄くなっている。奥から、低い音が聞こえた。炉ではない。搬送機でもない。何かが、古い場所で目を覚まそうとしている音だった。
エルシアが小さく言った。
「……あの音です」
ノルンが彼女を見る。
「分かるの?」
エルシアは頷いた。
「私の中で鳴っていた音と、似ています」
マキナは通路を見た。
胸の奥の断片は沈黙している。
けれど、その沈黙は空っぽではなかった。
何かがそこにいて、こちらを見ているような沈黙だった。
マキナは左手で負荷計に触れた。
針はまだ、黄域の手前。
走らない。
道を見てから追う。
そう決めた。
それでも、足は前へ出た。
白い線の先ではなく、黒い入口の方へ。
ガルムが向かった場所へ。
通路の奥で、観測施設が低く唸っていた。
黒い入口をくぐると、音が変わった。
外では風が鳴っていた。霧が乾いた砂を運び、折れた観測塔の骨を叩いていた。だが通路の内側では、風は急に遠くなる。代わりに、壁の奥から低い震えが伝わってきた。
炉ではない。
搬送機でもない。
もっと古いものが、眠りながら歯を鳴らしているような音だった。
マキナは左手で壁に触れた。
壁は冷たかった。黒い合金の表面に、細かな白い筋が走っている。外の壁面にあった白銀の線ほど明るくはない。だが、奥へ進むにつれて、その筋は少しずつ太くなっていた。
指先に、ざらつきが残る。
金属ではない。 石でもない。 触れた場所だけ、皮膚の内側へ薄い光が染み込むような感覚があった。
マキナは手を離した。
胸の奥の断片は、答えなかった。
さっきまで、あれほど強く別の方角へ引いていたのに、今は沈黙している。ただ、そこにいる気配だけがある。胸の奥の白い場所に、背を向けた何かが座っているような感覚だった。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
それとも、ただ言葉をなくしているのか。
マキナには分からない。
「聞こえるか」
内側で呼ぶ。
返事はなかった。
通路は緩やかに下っていた。
ラウドが前で言った。
「明かり、死んでるな」
重機義肢の肩から、小さな作業灯が点いた。黄色い光が通路を撫でる。床には砂が積もっていた。そこに、人の足跡と、機械獣の爪痕が重なっている。
足跡は新しい。
だが、真っ直ぐではなかった。ある場所では壁際へ寄り、ある場所では急に中央へ戻り、ある場所では何もないところを避けるように曲がっている。見えない穴か、見えない壁がそこにあったような足運びだった。
「誰かが先に通ってる」
マキナが言うと、ダグが地面を見たまま答えた。
「鉄統局だけじゃないな。古い跡も混ざってる」
「古い?」
「数日か、もう少し前か。砂が動いてるから読みにくい」
ダグは片膝をつき、床を指で払った。
「こいつは撤退の足だ。奥へ行く足は深くなる。戻る足は乱れる。ここで誰かが、急いで戻ってる」
その言葉が、通路の低い震えに混じった。
戻る足。
マキナは黙って先を見た。
エルシアを乗せた簡易担架は、ラウドの背に固定されていた。完全に背負う形ではなく、重機義肢の肩部と腰部に取り付けた支持具で吊っている。歩くたびに担架が揺れ、エルシアの指が布を掴んだ。
「揺れるか」
ラウドが聞く。
「揺れます」
「文句か」
「報告です」
「そうかよ」
短いやりとりだったが、ラウドは歩調を落とした。
ノルンはそれを見て何も言わなかった。代わりに、マキナの負荷計をちらりと見る。針はまだ黄域の手前で震えていた。黒に戻りきらないまま、周囲の白銀反応に合わせて小さく跳ねる。
「痛みは」
「歩く分には」
「戦う分には?」
「試していません」
「試さないで」
「はい」
「今の返事、信用してないから」
「分かっています」
ラウドが前で鼻を鳴らした。
「会話になってんのか、それ」
「なってる。私たちの間では」
ノルンが答えると、ラウドは顔をしかめた。
「面倒な会話だな」
マキナは少し笑いそうになった。
だが、胸の奥は笑わなかった。
通路の壁には、古い観測器が埋め込まれていた。丸いレンズ。割れた硝子。針が折れた計器。黒く焦げた表示板。どれも死んでいるように見える。
だが、通り過ぎるたびに、視界の端で何かが動く。
振り返ると止まっている。
進むと、また動く。
見られている。
そんな感覚だけが、足首に細い糸のように絡んだ。
ところどころで壁が崩れ、古い配管が露出している。配管の一部はまだ生きていて、淡い光が管の中を流れていた。水ではない。電気でもない。白い粒子のようなものが、ゆっくりと奥へ向かっている。
ダグが測定レンズを指で叩いた。
「嫌な流れだ」
「何が」
ラウドが聞く。
「この施設、死んでるはずだ。なのに奥へ吸ってる。換気じゃない。排水でもない。何かを集めてる」
エルシアが低く言った。
「演算層に似ています」
ノルンの足が止まった。
「無理に読むなって言ったでしょ」
「読もうとしていません。向こうの拍が、勝手に身体の中で重なります」
エルシアは目を伏せた。
「私の中に繋がっていたものと、ここの音が、同じ順番で鳴っています」
ノルンは止めようとして、言葉を飲み込んだ。 止めることが、エルシアから選ぶ余地まで奪うと分かっていた。
その沈黙が、マキナには痛かった。
エルシアは守られるべき状態だった。けれど、それだけではない。自分に起きたことを、自分の目で見ようとしている。
マキナは、右腕の重さを感じながら前を見た。
通路の奥で、金属が擦れる音がした。
ラウドが片腕を上げる。
全員が止まった。
暗がりの向こうから、細長い機械が三つ、床を滑るように出てきた。機械獣ではない。人の腰ほどの高さの無人機で、四本の細い脚と、環状の頭部を持っている。頭部の中心に、黒いレンズがあり、その周囲に白い線が走っていた。
「観測機か」
ダグが短銃を構える。
ノルンが低く言った。
「違う。拘束用」
その言葉が終わる前に、無人機のレンズが開いた。
空気が曲がる。
目に見えない輪が、こちらへ放たれた。
ラウドが踏み込んだ。重機義肢の左腕を前へ出し、床へ打ちつける。肘の補強板が低く唸り、金属の盾のように腕が開いた。輪がその腕にぶつかり、空気が弾ける。
「重いっ」
ラウドの足が半歩下がる。
マキナは左手を上げかけた。
ノルンの声が飛ぶ。
「撃たない」
分かっている。
ここで射出すれば、施設全体へ白銀反応を知らせることになる。そもそも右腕がもたない。
マキナは床の砂を見た。
通路の左側に、崩れた支柱の破片が転がっている。大きさは拳二つ分。重さは十分。
「ラウド、右へ」
「言われなくてもっ」
ラウドが拘束波を受け流しながら右へ体をずらした。
マキナは左手で破片を拾い、無人機の脚へ投げた。
ただ投げただけではない。
胸の奥から、ごく薄い熱を引く。波を質量に変えるのではなく、破片の振動だけをほんの少し整える。軌道を固定する。力というより、癖をつける。
負荷計の針が一瞬だけ跳ねた。
破片は床を跳ね、無人機の脚関節へ当たった。関節が歪み、無人機の体勢が崩れる。
ダグが撃つ。
レンズが割れた。
二体目が天井へ跳んだ。蜘蛛のように配管へ張り付き、上から輪を放つ。
エルシアが息を呑んだ。
「左上、次は足元へ来ます」
マキナは反射的に足を引いた。
直後、床が歪んだ。さっきまでマキナが立っていた場所に、透明な輪が落ち、砂が丸く沈む。
「見えたのか」
マキナが聞く。
エルシアは担架の布を握ったまま答えた。
「順番だけです。動きは、まだ」
声は震えていた。
それでも、エルシアは敵から目を逸らさなかった。
ノルンが顔を強張らせる。
「エルシア」
「……まだ、繋いでいません」
ラウドが前へ出た。天井の無人機へ向けて、重機義肢の掌から短いワイヤーを射出する。先端の鉤が配管に引っかかり、ラウドは腕力だけで無人機を引きずり落とした。
無人機が床に叩きつけられる。
三体目は逃げるように奥へ下がった。
その背後に、人影が見えた。
黒い制服。
鉄統局。
通路の曲がり角に二人。顔の半分を防護面で覆い、腕には小型の干渉装置を巻いている。片方がこちらを見て、短く何かを言った。
音は聞き取れなかった。
だが、装置の針がマキナの方を向いたのは分かった。
「対象確認」
人に向ける声ではなかった。通路の奥で、測定音のように響いた。
ラウドが低く唸る。
「やっぱりいやがった」
黒制服の一人が腕を振る。
壁の白い筋が一瞬だけ明るくなり、通路の距離が伸びたように見えた。
遠い。
目の前にいたはずの敵が、数十歩先へずれた。逆に、音だけが近い。足音が耳元で鳴り、声が背中から聞こえる。
「空間歪曲です」
エルシアが言った。
「測距を信じないでください。床の傷を見て」
マキナは床を見た。
砂の上に、一本の亀裂が走っている。その亀裂だけは曲がっていない。距離が狂っても、物の連続は残る。
「ラウド、床の線!」
「分かった!」
ラウドが亀裂に沿って走る。敵は遠く見える。だが、実際には近い。ラウドの重機義肢が何もない空間を叩いたように見えた瞬間、金属音が鳴った。
黒制服の一人が吹き飛ぶ。
もう一人が装置をこちらへ向ける。
マキナは左手を上げた。
撃たない。
ただ、薄い壁を出す。
空気中の振動を集める。小さく、薄く、盾にもならない程度の質量板。だが、干渉波の向きを逸らすには足りる。
白い板が一瞬だけ現れ、透明な輪を斜めに弾いた。
負荷計が黄域へ入った。
ノルンが叫ぶ。
「マキナ!」
「大丈夫です」
「大丈夫の定義を変えないで!」
弾かれた輪は壁に当たり、白い筋を走らせた。
通路全体が震えた。
奥から、もっと大きな音が返ってくる。
施設が、こちらに気づいたようだった。
黒制服の男は、倒れた仲間を見ずに奥へ走った。
ラウドが追おうとする。
「待って」
エルシアが言った。
ラウドが止まる。
「床が、二拍後に落ちます」
「二拍って何だよ」
「今です」
床が消えた。
通路の中央、ラウドが踏み出そうとしていた場所が、音もなく下へ沈んだ。崩落ではない。床そのものが、最初からそこになかったようにずれた。暗い穴が開き、下から白い光が漏れる。
ラウドは一歩手前で止まっていた。
「……助かった」
「はい」
エルシアは小さく息を吐いた。
ノルンが彼女の脈を取る。
「まだ見てるだけ?」
「はい」
「なら、見すぎない」
「努力します」
「マキナみたいな返事をしないで」
マキナは少しだけ肩をすくめた。
だが、笑う余裕は続かなかった。
穴の向こう、通路の奥に広い空間が見えた。
観測施設の中枢部。
そこへ向かって、白い光が流れている。
◇
中枢部へ降りる階段は、半分崩れていた。
ダグが古い保守通路を見つけた。壁の内側を通る狭い通路で、人ひとりがようやく通れる幅しかない。ラウドは担架をいったん外し、エルシアを片腕で支える形で進んだ。
壁の内側は、外よりさらに音が近かった。
低い震えが、胸ではなく歯に触れる。古い配管が頬のすぐ横を通り、ところどころから白い蒸気とも霧ともつかないものが漏れている。マキナは右腕を壁にぶつけないよう、身体を斜めにして進んだ。
一度、足元の格子床の下で何かが流れた。
光だった。
水路のような溝を、白い粒子が奥へ走っていく。速い。さっき通路の配管で見たものよりずっと速い。施設の奥に向かって、何かが吸い上げられている。
「ここまで来ると、完全に起きかけてるな」
ダグが呟いた。
「起きたらどうなる」
ラウドが聞く。
「知りたくない」
「役に立たねえ答えだな」
「こういう場所では一番正直な答えだ」
エルシアがラウドの腕に支えられながら、低く言った。
「落とさないでください」
「落とすかよ」
「今、足元を見ていませんでした」
「見てる」
「壁を見ていました」
「お前、細けえな」
「落ちたくないので」
「正論だな」
狭い通路を抜けると、空間が開けた。
そこは巨大な縦穴の内側だった。
円筒形の空間。壁一面に古い観測機器が埋め込まれ、中心には折れた塔の芯のような柱が立っている。柱からは無数のケーブルが垂れ、床へ、壁へ、さらに地下へ伸びていた。
下は見えない。
白い霧が縦穴の底から立ち上がっている。だが、外の霧とは違う。粒子が光っていた。小さな白銀の粉が、重力を無視するように上へ流れている。
上へ。
すべてが下へ落ちるはずの場所で、白いものだけが上へ向かっていた。
「これが、旧観測施設」
マキナは呟いた。
胸の奥は沈黙している。
それでも、身体は分かっていた。
ここは、ただの廃墟ではない。
見られている。
壁の古いレンズ、割れた計測器、死んだはずの観測盤。その全部が、こちらの輪郭を測っているようだった。
誰が来たのか。 何を宿しているのか。 何を失い、何を追っているのか。
そんなことまで、無言で数えられている気がした。
ノルンが低く言う。
「長居は無用ね」
「同感だ」
ダグが答えた。
「ここ、音が下から来てる。なのに振動は上から返ってくる。気持ち悪い」
縦穴の周囲には、環状の通路が走っていた。その一部に、最近の足跡があった。
黒制服の靴跡。
搬送機の車輪跡。
それから、別の跡。
マキナはしゃがんだ。
砂の薄い膜に、深い足跡が残っている。片足だけ踏み込みが重い。機械義肢の重さだ。だが、その周囲には鉄統局の靴跡とは違う乱れがある。
急いでいる。
追われているか、退いているか。
「また義肢の跡か」
ラウドが横から覗き込んだ。
「古い?」
「最近だな。けど、ガルムの連中じゃねえ」
マキナは跡を追った。
通路の壁面に、小さな金属片が刺さっていた。外そうとしたが、深く食い込んでいる。ラウドが見て、目を細める。
「固定ボルトだ」
「義肢用?」
「ああ。しかも、応急用じゃねえ。関節の奥に使うやつだ。普通は現場で抜けたら最悪だ」
「抜けたのに、回収してない」
「回収する余裕がなかったんだろ」
マキナの喉が乾いた。
さらに先へ進むと、制御盤があった。
半分開けられている。外装板は丁寧に外され、内部の配線が一部だけ繋ぎ直されていた。切断された線は色ごとにまとめられ、仮留めの金具も使われている。
雑ではない。
むしろ、きれいだった。
だが、途中で止まっている。
最後の一本だけが繋がれていない。工具もない。外装板も戻されていない。修理をしていた者が、完了を諦めて離れたようだった。
リゼットの声が通信機からかすかに入った。
『……見えてる? その盤、送れる?』
ダグが小型端末を向ける。
雑音が走る。
リゼットの声が途切れ途切れに戻った。
『これ、フォージ式だけど、繋ぎ方が変ね。旧型を無理やり生かす時の処理に近い。』
『私の知ってる整備士に、こういう直し方をする人がいる。……でも、最後までやってない』
「なぜ」
マキナが聞く。
『時間がなかったか、やったらまずいと判断したか、どっちか』
通信が揺れた。
『その先、慎重に。そこは、誰かが戻った場所よ』
戻った場所。
マキナは制御盤の下を見た。
床に、錆色の跡があった。
血かと思った。
だが匂いが違う。鉄と油と、少し甘い冷却液の匂い。義肢から漏れたものだ。
跡は、奥からこちらへ続いている。
進んだ跡ではない。
退いた跡だ。
壁の隅に、短い走り書きがあった。
文字は読めない。
だが、線と矢印のような記号は分かる。通路の奥ではなく、戻る方向を示している。急いで刻まれたのだろう。線は歪み、最後が途切れていた。
セイルの声が通信越しに入った。
『その記号、読み上げて』
マキナは形を伝えた。
セイルは少し黙った。
『進行標識じゃない。撤退印に近い。少なくとも、奥へ進めという印ではない』
撤退。
その言葉が、縦穴の底へ落ちていくように感じた。
マキナは、壁に刺さったボルトを見た。
途中で止まった修理痕。 義肢の冷却液。 戻る方向を示す印。
カイたちは、ここへ来た。
そして、ここで引き返した。
胸が震えた。
カイの力が、この場所には通じなかった。
そう考えかけて、違うと思った。
通じなかったのではない。ここは、進むより退くことを選ばせる場所だった。
伝承の中のカイ=ヴォルトは、どこか遠かった。壁を越え、世界の奥へ進み、終わりを保留した人。マキナが追っていた名前。いつか会えば、分からないことに形をくれるかもしれない人。
その人が、ここで退いた。
壊れた義肢を引きずり、修理を途中で捨て、戻る印を刻んだ。
「カイでも、退くんだな」
声に出していた。
ラウドが横で言った。
「当たり前だろ。退かねえ奴は死ぬ」
それはラウドらしい言い方だった。
だが、マキナにはすぐに頷けなかった。
当たり前。
そうだ。
当たり前だ。
でも、マキナが追っていたものは、その当たり前から少し離れていた。
英雄も、撤退する。 その事実は、思っていたより重かった。 けれど、弱さには見えなかった。
進めなかったのではない。 退くことを選んだのだ。
それが、遠かった名前に、少しだけ人の輪郭を持たせた。
「マキナ」
ノルンの声。
「今は考えるなとは言わない。でも、立ち止まるな」
マキナは頷いた。
「はい」
その時、縦穴の中心柱が光った。
白い光ではない。
黒い容器から漏れるような、濁った白銀の光。
環状通路の反対側に、ガルム=オルデンが立っていた。
黒い外套。片手には、あの容器。容器の側面から細い端子が伸び、中心柱へ接続されている。周囲には黒制服が数名。だが、彼らの顔にも余裕はなかった。施設の振動が大きくなるにつれ、誰もが足元を気にしている。
中心柱の周囲では、古い観測機器が順番に灯っていく。
一つ。 二つ。 十。 数えきれない数。
死んだはずのレンズが開き、割れた計器が震え、壁の白い線が縦穴全体へ広がっていく。まるで、長い間眠っていた巨大な目が、少しずつ瞼を開いているようだった。
ガルムは、こちらを見た。
「来たか」
声は縦穴に反響した。
低い声だった。
大きく張り上げてはいない。それなのに、壁が拾い、柱が返し、足元の金属が震わせる。ガルムの声というより、施設そのものが彼の言葉を発しているように聞こえた。
ラウドが前へ出る。
「その箱、返せ」
ガルムはラウドを見ず、マキナを見た。
「返す、か。君たちはいつも、それを所有物のように言う」
マキナは左手を握った。
「あなたが持っていていいものじゃない」
「では、誰が持つべきだ。君か。彼女か。眠った観測者たちか。あるいは、世界を保留したまま旅を続ける者たちか」
カイの痕跡が、足元にあった。
戻る印。 冷却液。 回収されなかったボルト。
ガルムの視線が、そこへ落ちる。
「彼らも退いた。英雄と呼ばれる者たちも、この場所で足を止めた」
マキナは答えなかった。
ガルムは続ける。
「退いたことを責めているのではない。正しい判断だ。この場所は、無責任な希望だけで触れてよいものではない」
中心柱の光が強くなる。
容器の中で、白銀断片が震えていた。
生き物のようにも見えた。 装置の部品のようにも見えた。 そのどちらでもないものが、黒い容器の中で細く脈打っている。
マキナの胸の奥も、遅れて震えた。
沈黙していた断片が、ほんの少しだけ反応する。
だが、言葉はない。
エルシアが短く息を吸った。
「接続が、進んでいます」
ノルンがガルムを睨む。
「やめなさい。今の施設で抑制機構残滓へ触れたら、制御できない」
ガルムは初めてノルンを見た。
「制御とは、失敗を積み重ねた者が口にする言葉だ。あなたなら分かるはずだ、ノルン=ハザ」
ノルンの顔から血の気が引いた。
ラウドが低く言う。
「知り合いかよ」
「今聞かないで」
ノルンの声は硬かった。
ガルムは容器へ手を置いた。
「世界は救われていない。ただ終わりを先へ送っただけだ。抑制機構は眠っているのではない。誰も責任を取らないまま、世界の底でまだ動いている」
中心柱から、白い線が広がる。
壁へ。 床へ。 縦穴の底へ。
それは光ではなく、命令のようだった。
施設の古い機構が、ガルムの言葉に従っている。いや、従っているように見えるだけかもしれない。百年前に死んだはずの観測施設が、黒い容器の中の断片を鍵にして、無理やり起こされている。
起きたくないものを起こしている。
マキナは、そう感じた。
「ならば、扱える者が扱うべきだ」
ガルムの声は揺れない。
「都市を守るには炉がいる。文明を残すには権限がいる。次に世界が傾いた時、また誰かの善意と偶然に委ねるつもりか」
マキナは息を呑んだ。
善意。 偶然。 英雄。
それらを、ガルムは信用していない。
「フォージは炉を持つ文明だ。火を恐れて、都市は守れない」
「人を炉にしても?」
マキナは言った。
声が、自分でも思ったより低かった。
ガルムは少しだけ目を細めた。
「火は、いつも何かを燃やす」
「燃やされる側に、選ばせないのか」
「選択を待っている間に都市が消えるなら、選択そのものが贅沢になる」
エルシアの指が担架の布を掴んだ。
ラウドの重機義肢が低く鳴る。
ノルンが言った。
「それを正当化するために、患者という言葉を捨てたのね」
ガルムは答えなかった。
代わりに、容器の端子をさらに押し込んだ。
中心柱が鳴った。
縦穴全体が震える。
音が下から来た。 振動が上から返った。 霧が横へ流れた。
次の瞬間、空間が折れた。
環状通路の一部が上へずれる。壁にあった観測レンズが内側から割れ、白い粒子を吹き出す。足元の距離が狂い、ガルムの姿が近くなったり遠くなったりする。
黒制服の一人が悲鳴を上げた。
その身体が、壁の方へ引かれる。重力が横へ傾いたように、男は壁に叩きつけられた。ガルムは振り返らない。ただ容器を外し、別の端子を閉じる。
「接続は完了した。撤収する」
「待て!」
ラウドが走る。
だが、床が歪み、ラウドの前に透明な壁のようなものが立ち上がった。重機義肢がそれを殴る。音はした。だが、壁は割れない。衝撃だけが横へ逸れる。
マキナは左手を上げた。
撃てるか。
負荷計は黄域に入っている。右腕はまだ重い。射出は危険。質量化も、規模を間違えれば通路ごと落ちる。
胸の奥の断片は沈黙している。
「答えろよ」
思わず言った。
返事はない。
ガルムが遠ざかる。
断片を持ったまま。
その時、縦穴の底から何かが上がってきた。
機械生物だった。
だが、形がおかしい。四本脚の胴体に、追加された脚が無数に生えかけている。頭部のレンズは三つに割れ、その隙間から白い結晶が伸びていた。動きは機械でも獣でもない。何かに押し上げられ、形を決められないまま暴れている。
「下がれ!」
ラウドが叫ぶ。
機械生物が環状通路へ飛び移った。
通路がたわむ。
ダグが撃つ。ノルンが針を投げる。ラウドが前に出る。マキナは小さな質量片を床に打ち込み、エルシアの担架が滑るのを止めた。
針が黄域の奥へ進む。
「もう使わない!」
ノルンが叫んだ。
「分かってます!」
分かっている。
だが、機械生物の後ろで、空間歪曲が広がっていた。
白い輪が、縦穴の中心から放射状に広がる。触れた場所がずれる。床の一部が横へ折れ、壁の一部が内側へ伸びる。まるで施設そのものが、自分の形を忘れていくようだった。
その波が、ノルンとエルシアのいる場所へ向かっていた。
ラウドは機械生物を押さえている。
ダグは弾切れに近い。
ノルンはエルシアを支えている。
マキナには、波の位置が読めなかった。
どこを固定すればいい。 どこへ質量核を打ち込めば、流れを止められる。
目の前の空間は、何度もずれている。距離も高さも信用できない。見えている場所へ撃っても、そこに届くとは限らない。
「くそ」
マキナは左手を握った。
右腕が熱を持つ。
使えば倒れる。
それでも、使わなければ誰かが消える。
「待ってください」
エルシアの声だった。
彼女は担架から上体を起こそうとしていた。ノルンがすぐに支える。
「動かないで」
「……波の拍が、分かります」
「だめ」
ノルンの声が鋭くなる。
「今それに触れたら、戻される」
エルシアは、自分の手を見ていた。
指が震えている。
恐怖か。 残留回路の反応か。 その両方か。
彼女自身にも、分からない顔だった。
「完全には、繋ぎません」
「そういう問題じゃない」
「予測層だけです。あの時、私に繋がっていたものと、この施設の干渉波は、同じ拍で動いています」
「エルシア」
「分かっています」
エルシアは目を閉じかけ、すぐに開いた。
「怖いです」
その言葉は、はっきり聞こえた。
ノルンの手が止まる。
エルシアは続けた。
「でも、見ない方が怖い。使われたまま、何も知らないままでいる方が」
彼女は、演算装甲残骸の箱へ手を伸ばした。
箱の中で、封止された小さな部品がかすかに光っている。ノルンが止めようとした。だが、エルシアは首を振った。
「……大丈夫です。これは、私が選んでやっています」
声は震えていた。
だが、目は開いていた。
ノルンは歯を食いしばった。
「一瞬だけ」
「はい」
「戻れなくなる前に切る」
「はい」
エルシアの指が、残骸の表面に触れた。
青灰色の細い光が走る。
それは、彼女の身体を覆うような光ではなかった。装甲が戻るわけではない。ケーブルが再接続されるわけでもない。ただ、彼女の瞳の奥に、薄い演算光が一瞬だけ灯った。
エルシアの呼吸が止まる。
マキナは、彼女の顔から血の気が引くのを見た。
それでも、エルシアは目を逸らさなかった。
「二拍」
彼女が言った。
空間歪曲の波が近づく。
「あと二拍で、そこが開きます」
エルシアの指が、何もない空間を示した。
マキナには、そこがただの霧に見えた。
「本当に?」
「開きます」
ノルンがエルシアの肩を支える。
「マキナ、信じるなら今」
マキナは息を吸った。
ラウドが機械生物を押さえながら叫ぶ。
「やるならやれ!」
負荷計の針が、見なくても分かった。
黄域の奥。 赤の手前。
マキナは右腕を上げた。
痛みが肩から胸へ走る。だが、右腕でなければ届かない。左手では出力が足りない。今必要なのは、射出ではない。破壊でもない。
固定。
空間の流れを、一点で縫い止める。
エルシアが示した空間に、二拍後、隙間が開く。
一拍。
胸の奥が熱を持つ。
沈黙していた断片が、ようやく反応した。
――危険。
「知ってる」
二拍。
何もない空間が、薄く開いた。
マキナはそこへ撃った。
白い光が走る。
だが、いつもの射出とは違う。まっすぐ貫く光ではない。途中でほどけるように広がり、開いた隙間の中心で凝縮する。波が重さを持つ。重さが点になる。点が杭になる。
見えないものへ、重い楔を打ち込む。
世界が一瞬、止まった。
次の瞬間、反動が来た。
右腕だけではない。
肩、胸、背骨、足の裏、目の奥。身体の内側にある細い線が、全部同時に焼けたようだった。負荷計が甲高い音を立てる。針が赤を越え、さらに振り切れた。
ぱき、と小さな音がした。
針が折れた。
「マキナ!」
ノルンの声。
遠い。
エルシアが何かを言っている。ラウドが叫んでいる。ダグが誰かを呼んでいる。
マキナには、白い杭だけが見えていた。
空間歪曲の波が、その杭に絡め取られる。流れが曲がる。ノルンとエルシアのいる場所を避け、縦穴の中心へ引き戻されていく。機械生物の身体が歪み、白い結晶が砕けた。
止まった。
止めた。
そう思った瞬間、膝から力が抜けた。
胸の奥で、断片が叫んだ。
――停止、推奨。 ――喪失、回避。 ――マキ――
そこで途切れた。
マキナは倒れた。
床が近づいてくる。
だが、床の距離さえ、もう信用できなかった。
視界が斜めになる。
白い霧。 黒い柱。 折れた針。 エルシアの青い光が消える瞬間。 ノルンに支えられて、数秒だけ動けなくなる彼女の姿。
エルシアの目は、どこか遠くを見ていた。
あの場所へ戻りかけている目だった。
ノルンが彼女の頬を叩く。
「戻ってきなさい。今はここ」
エルシアの唇が動いた。
声は聞こえない。
だが、頷いたのは見えた。
よかった。
そう思った。
その直後、黒制服の一人が動いた。
ガルムはもういない。だが、残った兵が、倒れたマキナへ拘束装置を向けている。マキナは腕を動かそうとした。
動かなかった。
右腕は、もう自分のものではないみたいに重い。
左手も、床を掴むことしかできない。
ラウドはまだ機械生物を押さえている。ノルンはエルシアから離れられない。ダグは倒れた無人機の陰で銃を構え直しているが、間に合わない。
透明な輪が、マキナへ向かって飛んだ。
避けられない。
胸の奥の断片も、もう声を返さない。
マキナは、白く霞む視界の中で、さっき見た撤退印を思い出した。
戻る方向を示す線。
カイたちも、ここで退いた。
自分は、退くことすらできない。
透明な輪が近づく。
その時、別の音がした。
義肢の軋む音。
重く、古く、どこか無理をしている駆動音。
足音が一つ。
砂を踏む音。
それは派手な音ではなかった。爆発も、閃光もない。ただ、誰かがそこに踏み込んだだけの音だった。
透明な輪が、横から弾かれた。
何か小さな金属片が、拘束装置の関節に刺さっていた。固定ボルトだった。古い型の、義肢用のボルト。
黒制服の男が反応するより早く、汚れた外套の影が前へ出た。
機械の腕が動く。
だが、その動きは鋭すぎない。むしろ、少し遅れている。関節のどこかが壊れているのか、肘の動きに引っかかりがあった。それでも、必要な場所へ必要なだけ届いた。
男の装置が、手首ごと押さえ込まれる。
外套の人物は体をひねり、相手の力を横へ流した。殴り飛ばすのではない。壊すのでもない。ただ、攻撃が誰にも届かない角度へずらす。
霧の奥で、さらに別の足音がかすかに重なった。
一つではない。
複数。
だが、それはすぐに施設の震えと白い粒子の流れに紛れた。姿までは見えない。ただ、目の前の外套の人物が一人きりでここへ来たわけではないと、マキナはぼんやり感じた。
ラウドが息を呑んだ。
「……なんだ、あの腕」
彼の声には、怒りではなく驚きがあった。
同じ義肢を持つ者だけが分かる驚き。
壊れている。 出力も安定していない。 軸もぶれている。 それなのに、動きが無駄なく繋がっている。
ラウドの重機義肢が、機械生物を押さえたまま低く鳴った。
「壊れかけで、まだあんな動きすんのかよ」
ノルンもその人物を見ていた。
エルシアを支えながら、目だけが動かない。驚きではない。安堵でもない。もっと複雑な表情だった。会ったことがあるのか、記録で知っているのか、それとも、あの背中が意味するものを理解しているだけなのか。
「……遅い」
ノルンが小さく言った。
責めているようで、そうではなかった。
待っていた人に言う声だった。
エルシアは、まだ呼吸を整えきれていなかった。だが、その人物を見て、震える目を少しだけ見開いた。
「この人が……」
最後までは言わなかった。
言う余力がなかったのかもしれない。
あるいは、名前にしてしまうのが怖かったのかもしれない。
マキナは顔を上げようとした。
視界がぼやける。
汚れた外套。 壊れかけた義肢。 露出した補修線。 肩で息をする背中。
背は、思っていたほど大きくなかった。
伝承の中の人物は、もっと遠く、もっと高い場所にいる気がしていた。けれど、目の前の背中は、砂と油で汚れていた。義肢は軋み、右足を少し引きずっている。息も乱れている。
それでも、その人は敵の前から退かなかった。
黒制服の兵が、もう一つの装置を起動しようとする。
外套の人物は短く言った。
「そこから先は、通さない」
声が聞こえた。
低く、少し掠れた声。
どこかで聞いたことがあるわけではない。
でも、何度も想像した名前が、胸の中で形になった。
セイルの通信が、雑音の向こうで叫ぶ。
『マキナ、今の反応――そこに誰がいる?』
誰かが、答える前に。
ラウドが呟いた。
「カイ……ヴォルト?」
外套の人物が、ほんの少しだけ振り返った。
顔が見えた。
疲れた顔だった。
若いのか、年を取っているのか、一瞬分からなかった。目の下に影があり、頬には砂がつき、額から血が流れている。だが、目だけははっきりしていた。
マキナは言葉を出そうとした。
出なかった。
喉が動かない。
カイ=ヴォルト。
ずっと追っていた名前。
森の焚き火のそばで聞いた名前。 アッシュバルトで口にするなと言われた名前。 義肢の固定ボルトから想像した名前。 白銀の観測者と並んで語られた名前。
その人が、目の前にいた。
けれど、英雄には見えなかった。
マキナは、直前に見ていた。
この場所から戻る印。 回収されなかったボルト。 途中で止まった修理痕。 冷却液の跡。
この人は、ここで一度退いた。
退いて、それでも戻ってきた。
カイは視線をマキナから外し、周囲を見た。
「動ける奴は、倒れてる奴を運べ」
その声は命令のようで、頼みのようでもあった。
ラウドが我に返る。
「言われなくても!」
ノルンがマキナのそばへ走ってくる。エルシアはまだ完全には戻っていない。だが、ノルンに支えられながら、こちらを見ようとしていた。
マキナの視界が暗くなる。
最後に見えたのは、カイの背中だった。
壊れた義肢を鳴らし、少し傾きながら、それでも前に立つ背中。
その奥の霧の中で、もう一つ、白いような影が揺れた気がした。
だが、確かめる前に、視界が沈む。
マキナは、英雄が来たのだと思おうとした。
けれど、視界の中にいたのは英雄ではなかった。
一度ここで退き、傷つき、壊れた腕を引きずりながら、それでも誰かの前に戻ってきた、一人の人間だった。