『レムナント・ヴェイル ― 現象使いのマキナ ―』

第7章 失われた姉妹

南東外縁へ向かう搬送軌道は、途中から音が変わった。

最初は、テラ・フォージ中枢の音だった。

整えられた車輪の響き。床下を走る電磁駆動の低い唸り。一定の間隔で開閉する蒸気弁。車窓の外では、巨大炉から伸びる管が朝の光を受け、赤黒い街の上を血管のように横切っていた。

マキナは窓際の席に座り、首元の通行札に指を触れていた。

黒鉄の札は冷たい。

中枢へ入った時に押された赤い線。傭兵管理局を通った時に増えた細い刻み。リゼットの工房から出る直前に追加された仮任務印。

どれもマキナには読めない。

けれど指先でなぞると、線が増えたことだけは分かった。

鍵。

鎖。

ノルンがそう言った意味が、少しずつ分かるようになっていた。

この札があるから、マキナは中枢へ入れた。旧観測線へ向かう任務にも参加できる。エルシアの記録へ近づける。

同時に、この札はマキナがどこを通ったかを残す。誰に会ったか、どの門を抜けたか、どこで止まったか。必要な範囲、と係員は言った。だが、その必要が誰のものなのかは、誰も答えなかった。

搬送車が中枢の外周を抜ける。

窓の外の硝子壁が低くなり、工房の列が途切れ、整った街路が細くなっていく。高い塔の影が遠ざかるにつれ、路面の継ぎ目が増えた。管の外装には錆が浮き、蒸気弁の音が少し荒くなる。

ラウドが向かいの席で腕を組んでいた。

重機義肢の左肘には、新しい補強板が入っている。昨日までの焼け跡は磨かれていたが、完全には消えていない。新しい部品だけが妙に綺麗で、その周りの古い鉄と色が違っていた。

ラウドはそれが気に入らないらしく、さっきから何度も肘を曲げたり伸ばしたりしている。

「痛むのか」

マキナが聞くと、ラウドは顔をしかめた。

「馴染まねえだけだ」

「補強は成功したって、リゼットは言ってた」

「あの技師の言う成功は信用できる。だから余計腹立つ」

「どうして」

「中枢の部品だからだよ」

ラウドは窓の外を見た。

搬送車は高架を降り、南東外縁へ向かう低層軌道に入っていた。線路の脇には、古い工房と廃材置き場が増えている。中枢の街路では磨かれていた義肢の部品が、ここでは箱に詰められ、油紙に包まれ、値札もなく積まれていた。

「いい部品だ。動きもいい。出力も安定してる。俺の腕に入れたら、前より強くなる」

ラウドは義肢の指を鳴らした。

「でも、こういう部品が外縁には降りてこねえ。降りてきても、壊れかけか、値段が高すぎるか、どっちかだ」

マキナは窓の外を見る。

そこには、中枢と同じテラ・フォージがあった。

同じ鉄。同じ炉。同じ蒸気。

けれど、光り方が違う。

中枢の鉄は磨かれていた。人の身体を支える機械は、日常として通りに並んでいた。

外縁へ近づくほど、鉄は黒ずみ、部品は歪み、人はそれを叩いて、縛って、まだ動くようにしている。

「ラウドは、それでも使うんだな」

「使うに決まってんだろ」

ラウドは短く言った。

「腹が立つのと、使えるものを捨てるのは別だ」

ノルンが隣の席で小さく笑った。

「そこは賢い」

「そこは、って何だ」

「全部とは言ってない」

「医者、今日は機嫌悪いな」

「今日だけだと思う?」

ラウドは舌打ちしたが、それ以上言い返さなかった。

ノルンは膝の上に医療鞄を置いていた。いつもの薬瓶、巻布、測定板、細い工具。さらに今日は、銀線の入った黒い布と、小型の冷却薬筒が何本も追加されている。

マキナの右腕は、軽い固定具に包まれていた。

昨日より動く。だが、完全ではない。指を握ると、手首の奥に薄い痛みが残る。負荷計の針は黒域の端で揺れていた。安静時なら問題ない。ノルンはそう言った。

安静時なら。

マキナは胸の奥に意識を向けた。

白銀の断片は静かだった。

消えたわけではない。沈黙しているわけでもない。そこにいる。けれど、以前のようにこちらの問いにすぐ応じることは減った。

「聞こえるか」

内側で呼ぶ。

少し間があった。

――聴取、可能。

「南東外縁に近づいてる」

――把握。

「何か感じるか」

沈黙。

車輪の音が、継ぎ目で一つ跳ねる。

――遠方、微弱反応。

「姉妹信号か」

――分類、未完了。

未完了。

その言葉は、胸の奥で小さな棘のように残った。

昨夜、セイルが復元した記録には、エルシアらしき個体の搬送記録があった。外文明演算装甲高同期者。右上肢神経過同期。冷却板欠損。生体維持処置中。

生きている。

そう考えれば考えるほど、今すぐ走り出したくなる。

だが、マキナは立ち上がらなかった。

窓の外を見た。通行札を握った。右腕の痛みを確かめた。

今は、走る時ではない。

走るための道を、見失わない時だ。

ノルンが横目で見る。

「声?」

「少しだけ」

「何て」

「遠くに反応がある。分類は未完了だと」

「便利そうで、全然便利じゃない返事ね」

「最近は、そういう返事が増えました」

「持ち主に似てきたんじゃない?」

「俺はもう少し分かりやすいと思います」

ラウドが鼻を鳴らした。

「どこがだよ」

マキナは少し考えた。

「俺は、分からない時は分からないと言う」

「それを分かりやすいとは言わねえ」

「違うのか」

「違う」

ノルンが言った。

「分からないと言えるのは悪いことじゃない。でも、分からないまま近づくのは別」

「今日は近づく任務です」

「そう。だから私の胃が痛い」

「薬は」

「患者に心配されるほど落ちぶれてない」

その言い方はいつも通りだった。

だが、マキナには分かった。

ノルンの指先が、医療鞄の留め具を何度も触っている。必要もないのに、閉まっているか確認している。

彼女は緊張していた。

旧観測線という言葉を聞いた時から。

リゼットの工房で、セイルの復元記録を見た時から。

鉄統局の黒い扉の前で、「ハザ」と呼ばれた時から。

マキナは聞きたいことがあった。

ノルンは、何を知っているのか。

なぜ人工現象炉計画の原型を知っているのか。

どうして鉄統局の人間は、彼女を見てあんな目をしたのか。

けれど、今それを聞いても、ノルンは答えない気がした。答えないだけならまだいい。答えようとして、途中で止まるかもしれない。

マキナは窓の外へ視線を戻した。

搬送車は、古い鉄橋へ入った。

橋の下には、使われなくなった搬送軌道が何本も走っている。いくつかは崩れ、いくつかは土砂に埋まり、いくつかはまだどこかへ続いていた。遠くに、細い観測塔が見える。塔の上半分は折れ、先端が空へ向かって斜めに突き出している。

その周囲を、白い霧が薄く流れていた。

シルヴァン・リムのヴェイルとは違う。

北の霧は、森に染み込むように漂っていた。苔の匂いがあり、湿った木の根があり、見えないものが息を潜めている気配があった。

ここは乾いている。

鉄粉を含んだ風。焦げた草。錆びた支柱。砕けた観測レンズ。死んだ機械獣の殻。

白い霧だけが、どこか似ていた。

マキナの胸の奥が、かすかに震えた。

――観測線、接近。

「分かるのか」

――既知構造、断片一致。

「来たことがある?」

――記録、欠損。

また、それだった。

来たことがあるのかもしれない。

見たことがあるのかもしれない。

けれど、その記録は欠けている。

マキナは胸に手を当てた。

「なら、確かめる」

白銀の断片は答えなかった。

      ◇

搬送車が止まったのは、南東外縁の古い補給駅だった。

駅と言っても、中枢の停車場とは違った。

屋根の半分は剥がれ、柱には修理跡が何層も重なっている。壁の表示板は点灯していない。線路脇には、使われなくなった車輪や歯車が積まれていた。風が吹くたび、薄い金属板がどこかで鳴る。

降りると、空気が冷たかった。

炉の熱が遠い。

中枢では、どこにいても巨大炉の温度が皮膚に触れていた。ここでは、熱の代わりに、古い鉄と乾いた砂が肌に当たる。

駅には、リゼットから手配された外縁作業員が一人だけ待っていた。

小柄な男だった。顔の半分を煤避けの布で覆い、片目に古い測定レンズをつけている。左足は義足で、膝の継ぎ目からかすかな音がした。

「リゼット主任から聞いてる。旧観測線まで案内する」

男はそう言って、マキナたちを順番に見た。

マキナの右腕。

ラウドの重機義肢。

ノルンの医療鞄。

最後に、首元の通行札。

「ずいぶん目立つ調査班だな」

ラウドが言う。

「そっちもな」

男は肩をすくめた。

「俺はダグ。外縁整備局の名簿には、たぶんまだいる。給料は遅れてるが」

「案内役は一人だけですか」

マキナが聞くと、ダグは目だけで笑った。

「このあたりは人を出したがらない。旧観測線は、昔から評判が悪い」

「機械獣が増えているから?」

「それもある」

「他には」

「音がする」

風が吹いた。

折れた屋根の板が、かん、と鳴る。

ダグは南東を指差した。

「夜になると、地下から音がする。炉じゃない。搬送機でもない。観測塔がまだ何かを見てる音だって、古い連中は言う」

ノルンの顔が少し硬くなった。

「観測塔は、百年以上前に放棄されたはずよ」

「はず、は便利な言葉だ」

ダグは歩き出した。

「ここじゃ、放棄されたものほど誰かが使う」

線路の脇を進む。

足元には細かな鉄片が混じっていた。乾いた土を踏むたび、靴の底でじゃり、と鳴る。遠くでは、低い駆動音が断続的に響いていた。機械獣か、古い搬送機か、風で鳴る鉄骨か。マキナにはまだ区別がつかなかった。

ラウドは前を歩いた。

ノルンはマキナの斜め後ろ。視線は周囲を見ているが、時々マキナの負荷計へ落ちる。

「まだ黒域です」

マキナが言うと、ノルンは眉を寄せた。

「見られてるの気づいてたの」

「はい」

「じゃあ、私が心配しなくて済むような行動をしなさい」

「努力します」

「その返事、本当に嫌い」

ラウドが前から言った。

「諦めろ、医者。こいつは努力するって言った時が一番危ねえ」

「分かってるから腹が立つの」

「俺も分かってきた」

「ラウドまでそっち側に行かないで」

マキナは少しだけ笑った。

笑うと、胸の奥の緊張が少し緩んだ。

だが、それは長く続かなかった。

進むほどに、景色は静かになっていった。

工房の音が消える。人の声が消える。煙突が減り、代わりに折れた観測柱が増える。柱の上部には、かつて空や地脈を測っていたらしい輪状の装置が残っていた。多くは割れている。いくつかは傾き、いくつかは地面に倒れ、巨大な骨のように横たわっていた。

地面には、機械獣の足跡があった。

ダグが立ち止まる。

「新しいな」

ラウドがしゃがみ、重機義肢の指で土を掻いた。

「数は?」

「六、いや八。小型が多い。こっちから来て、向こうへ逃げてる」

マキナも跡を見る。

機械獣が旧観測線の奥から、外側へ向かっている。

「逃げているんですか」

「そう見える」

ダグは南東の方を見た。

「だから嫌なんだ。普通は逆だ。巣から出る時は広がる。でも最近は、奥から押し出されてるみたいに出てくる」

「何かが奥にある」

マキナが言うと、ノルンが短く返した。

「あるでしょうね」

その声が、妙に冷たかった。

その時、胸の奥の断片が震えた。

――接近反応。複数。

「来る」

マキナが言うより早く、ラウドが立ち上がった。

前方の錆びた支柱の陰から、金属の擦れる音がした。

小型の機械獣が三体、姿を見せる。

狼に似た形だった。四本脚。細い胴体。頭部の片側に観測レンズ。だが、その動きは獣のようではなかった。足取りが乱れ、首が何度も同じ方向へ跳ねる。逃げようとしているのに、こちらを敵として認識してしまったような動き。

「マキナ、撃つな」

ノルンの声。

マキナは右手を上げかけて、止めた。

負荷計の針はまだ黒域。

撃てる。

だが、撃てば白銀反応が残る。ここに何があるか分からない状態で、こちらの反応を大きく出すのは危険だった。

ラウドが前へ出た。

「俺が止める」

一体目が跳ぶ。

ラウドの左腕が唸った。新しい補強板が低く鳴り、重機義肢の掌が機械獣の頭部を横から叩く。金属が潰れる音。機械獣は地面を転がり、足を痙攣させて止まった。

二体目はラウドの足元を抜けようとする。

マキナは短弓を抜いた。

矢をつがえる。狙うのは胴体ではなく、脚の関節。森で獣を狩る時とは違う。仕留めるのではなく、動きを止める。

矢が飛ぶ。

機械獣の後脚に当たり、関節の隙間へ食い込む。完全には止まらない。だが、動きが崩れた。

ダグが古い短銃を撃つ。

乾いた音がして、機械獣の観測レンズが割れた。

三体目はノルンへ向かった。

マキナの胸が熱くなる。

手を向けかけた。

その瞬間、ノルンが鞄から細い金属針を投げた。針は機械獣の首の継ぎ目へ刺さり、小さな火花を散らす。機械獣の動きが一瞬止まった。

ラウドが横から蹴り飛ばす。

鉄の胴体が支柱へぶつかり、沈黙した。

静かになる。

風だけが残った。

マキナは右手を下ろした。

負荷計の針は動いていない。

ノルンがこちらを見る。

「今、使おうとした」

「はい」

「でも使わなかった」

「はい」

ノルンは何か言いかけて、やめた。

代わりに、機械獣の残骸へ近づく。

「妙ね」

「何が」

ラウドが聞く。

ノルンは機械獣の首元を工具で開いた。内部の配線は焼けていた。動力核の周辺に、白っぽい結晶の粉のようなものが付着している。

マキナの胸の奥が、微かにざらついた。

――残留反応。低濃度。

「白銀反応ですか」

ノルンはマキナを見た。

「分かる?」

「少し」

「なら、そうかもしれない」

ダグが後ずさる。

「おい、機械獣にそんな反応が出るのか」

ノルンは粉を布で拭い、小さな容器に入れた。

「普通は出ない」

「普通じゃないことばっかりだな」

ラウドが言った。

マキナは機械獣が来た方向を見た。

旧観測線の奥。

そこから何かが、機械獣を押し出している。

白銀反応を残す何か。

エルシアの搬送記録と同じ方角へ続く何か。

マキナは右手を握った。

痛みはある。

だが、それよりも胸の奥が熱かった。

      ◇

旧観測線の中継施設は、半分地面に沈んでいた。

低い建物だった。外壁は黒く焼け、屋根の一部は崩れている。入口の上には文字が刻まれていたが、錆と砂でほとんど読めない。壁には古い観測機器の台座が残り、そこから伸びるケーブルは途中で切れていた。

ダグが入口脇の手動盤を叩く。

返事はない。

「電源は死んでる」

ラウドが重機義肢を構えた。

「開けるか」

「できれば壊さずに」

ノルンが言う。

「中に何が残ってるか分からない」

「じゃあどうする」

マキナは入口の扉を見た。

扉の縁に、小さな傷がある。

最近のものではない。だが、完全に古いわけでもない。錆の上から削られた跡。工具を差し込んだような細い線。

「誰かが開けた」

マキナが言うと、ラウドが覗き込んだ。

「どこだ」

「ここ。縁のところ」

「よく見つけるな」

「森では、小さい跡を見ます」

「ここは森じゃねえぞ」

「でも、跡は跡です」

ノルンが扉の傷に指を当てた。

「確かに新しい。数日前……までは分からないけど、百年前じゃない」

ダグが周囲を見回した。

「この辺に来る奴なんて、整備局か、盗掘屋か、機械獣に追われた馬鹿くらいだ」

「カイ=ヴォルトかもしれない」

マキナは思わず言った。

ラウドがこちらを見る。

ノルンも見た。

ダグだけが首を傾げた。

「誰だそれ」

「南方の……」

言いかけて、マキナは止まった。

カイの名前は売られる。

ノルンが言っていた。

伝承は値段になる。英雄の名前はもっと値段になる。

マキナは言い直した。

「探している人です」

ダグはそれ以上聞かなかった。

ノルンは少しだけ目を細めたが、何も言わなかった。

扉は、ラウドがゆっくり押すと開いた。

壊れているのではなく、閉まりきっていなかった。

中は暗い。

マキナは目が慣れるのを待った。

空気は乾いていた。古い紙ではなく、焼けた樹脂と金属粉の匂いがする。床には砂が入り込み、足跡がいくつも残っていた。

古い足跡。

機械獣の跡。

それから、人の足跡。

マキナは膝をついた。

足跡は三種類あった。

一つは重い。機械義肢か、外骨格を持つ人間のもの。片方の踏み込みだけが深い。

一つは軽い。足幅が狭く、歩き方が安定している。

もう一つは、途中で何度も立ち止まっている。足跡の近くに、工具を置いたような小さな跡があった。

「三人」

マキナが言った。

「どれくらい前だ」

ラウドが聞く。

「砂が少しかぶってる。でも完全には消えてない。機械獣の跡より古いか同じくらい」

ノルンが中の壁を見た。

そこには、古い制御盤があった。ほとんどの灯りは消えている。だが、端の一つだけが薄く点滅していた。

「まだ生きてる」

ノルンが近づきかけた時、マキナは床の上に小さな金属片を見つけた。

拾い上げる。

ボルトだった。

掌に載るほどの小さな部品。フォージ規格のものだろう。マキナには型番は読めない。だが、ネジ山が丁寧に削られ、端に細い傷があった。

ラウドが覗き込む。

「義肢用の固定ボルトだな。古い型だ」

「分かるのか」

「俺の腕にも似た規格がある。これは……関節補修用か」

「落としたのかな」

「落としたっていうより、外して交換した跡だな」

ノルンはボルトを受け取り、目を細めた。

「現場で義肢を直した」

マキナの胸が鳴った。

カイ=ヴォルトは機械義肢を持っている。 伝承にも、セイルが復元した記録にも、そう残っていた。

本当に彼のものかは分からない。分からないが、そう考えた瞬間、部屋の暗さが少し変わった。

伝承の中の名前が、錆びた床の上に小さな金属片として落ちている。

それは奇妙だった。

英雄の証にしては、小さすぎる。

けれど、だからこそ本物に近い気がした。

セイルなら、記録と照合できるかもしれない。

マキナは小袋にボルトを入れようとして、ノルンに止められた。

「素手で持ち歩かない」

「危険ですか」

「分からないものは、だいたい危険」

彼女は布に包んで渡してくれた。

奥の部屋には、戦闘の跡があった。

壁に機械獣の爪痕。床に焦げ跡。だが、残骸は少ない。

ラウドが床の痕を見て言った。

「壊してねえな」

「何を?」

「機械獣だ。動力部だけ外してる。胴体はそのまま。関節も無駄に潰してない」

マキナはしゃがみこみ、床の焦げ跡を見る。

円形の焼け跡。

その中心に、小さな金属の欠片が落ちていた。機械獣の中枢核の外殻の一部らしい。切断面は滑らかだった。

「殺さずに止めた?」

「機械獣に殺すも何もあるかよ」

ラウドはそう言ったが、声にいつもの強さはなかった。

マキナはその跡を見ていた。

壊すのではなく、止める。

カイがここにいたのかは分からない。

だが、誰かがそういう戦い方をした。

そのことだけは、床に残っている。

「行こう」

ノルンが言った。

マキナは顔を上げる。

「もう少し調べれば、手がかりが」

「今追う相手を間違えない」

その言葉は、静かだった。

怒っているわけではない。

だからこそ、マキナは返せなかった。

エルシア。

まずは、そこだ。

カイの痕跡は胸を熱くする。だが、エルシアは今、生きているかもしれない場所で待っている。

マキナはボルトを布ごと小袋に入れた。

「分かりました」

ノルンは少しだけ目を細めた。

「本当に?」

「今は、エルシアです」

ラウドが肩をすくめた。

「珍しく話が早いな」

「珍しくはない」

「珍しいだろ」

「ラウドに言われると、少し納得できない」

「何でだよ」

ノルンが二人を見て、短く息を吐いた。

「動けるなら動く。ここ、長居したくない」

その時、制御盤の端で薄く点滅していた灯りが、急に消えた。

同時に、マキナの胸の奥が強く震える。

――下層。搬送路。隠蔽構造。

「下に何かある」

マキナは言った。

ノルンの表情が変わった。

「どこ」

断片の反応を追うように、マキナは奥の壁へ近づいた。

壁には古い観測線の図が描かれていた。文字は読めない。だが、線と円で何かの構造を示しているのは分かる。地上の塔、補給室、観測坑道。南東へ伸びる線。その下に、途中で削られたような不自然な空白があった。

図の下端に、縦線と歯車を組み合わせた小さな傷がある。

刻印ではない。

誰かが削って消した跡。

ノルンがそれを見た瞬間、顔から血の気が引いた。

「まだ使ってるの」

声は小さかった。

ラウドが聞き返す。

「何をだ」

ノルンは答えなかった。

代わりに、壁の右端に手を当て、古い金属板の継ぎ目を探った。指が止まる。工具を取り出し、薄い刃を差し込む。

「ダグ、入口の見張り」

「俺は巻き込まれたくないんだが」

「もう巻き込まれてる」

「最悪だな」

ダグは短銃を構え、入口へ戻った。

ノルンは壁の中の何かを押した。

かちり、と音がした。

何も起きない。

ラウドが言う。

「壊れてんじゃねえのか」

「壊れてる方がまし」

ノルンは別の位置を押す。

今度は、壁の奥で低い音がした。

長い間眠っていた歯車が、嫌々動き出すような音。

床が震える。

壁の一部が、ゆっくり沈み込んだ。

その奥に、狭い昇降路が現れた。

下へ続いている。

空気が上がってきた。

冷たい。

炉の匂いではない。

薬品と冷却液と、古い血のような匂い。

マキナの胃が小さく縮んだ。

ラウドが低く言う。

「これ、観測線の設備じゃねえだろ」

ノルンは昇降路の奥を見つめていた。

「観測線だったものの下に、別のものを作ったのよ」

「誰が」

マキナは聞いた。

ノルンは答えなかった。

けれど、答えは壁に残っていた。

消された歯車と縦線の徽章。

鉄統局。

昇降路の内部には、古い認証盤があった。表示はほとんど死んでいるが、中央の小さな溝だけが生きている。

ノルンは自分の手袋を外した。

マキナはその動きに気づく。

「ノルン」

「何」

「それ、使えるんですか」

「たぶん」

「どうして」

ノルンの手が止まった。

昇降路の暗がりが、彼女の横顔を半分だけ隠している。

「昔の癖は、なかなか消えないから」

それだけ言って、彼女は指先を認証盤へ押し当てた。

針のようなものが、皮膚に触れた。

マキナは思わず一歩近づく。

ノルンは動かなかった。

数秒。

長く感じる沈黙。

やがて認証盤が、低く鳴った。

赤い灯りが一度点き、すぐに消える。

次に、青白い灯りが細く走った。

昇降路の奥で、何かが開く音がした。

ラウドがノルンを見た。

「医者」

「聞かない」

「まだ何も言ってねえ」

「顔が聞いてる」

ラウドは口を閉じた。

マキナも何も言えなかった。

ノルンの指先には、小さな血の点が浮いていた。

彼女はそれを布で拭き、手袋を戻す。

「行くなら、ここから。戻れる保証はない」

「エルシアは、この下にいるんですか」

マキナが聞くと、胸の奥の断片が震えた。

――反応、下層。高同期。白銀残留。

高同期。

白銀残留。

マキナは息を吸った。

「いる可能性が高い」

ノルンは目を閉じた。

ほんの一瞬。

それから、いつもの声に戻る。

「なら、手順を決める。先頭はラウド。次にマキナ。私は後ろ。ダグは地上で待機。異常があればリゼットの工房へ信号を送る」

ダグが入口から顔を出した。

「俺だけ帰ってもいいか」

「信号役がいないと、全員帰れない」

「そういう言い方はずるい」

「知ってる」

ダグは悪態をつきながら、古い通信機を取り出した。

ラウドが昇降路へ足を踏み入れる。

床が軋んだ。

「落ちねえだろうな」

ノルンが答える。

「落ちる時は全員一緒」

「安心しねえよ」

マキナは右腕の固定具を確かめた。

負荷計の針は黒域。

まだ、使っていない。

胸の奥は、さっきより熱い。

「聞こえるか」

――聴取、可能。

「エルシアに近づいてる」

――対象、未確定。

「でも、いるかもしれない」

――探索、継続。

「分かってる」

昇降路に乗ると、床が沈み始めた。

地上の光が遠ざかる。

錆びた壁が上へ流れていく。途中で、古い観測線の配管が見えた。その下に、後から増設された黒い管が絡みついている。自然に伸びた根ではない。誰かが古い施設の腹の中へ、新しい管を無理やり通した跡だった。

下へ。

さらに下へ。

空気が冷えていく。

マキナは、喉の奥に金属の味を感じた。

      ◇

地下施設の入口は、思っていたより静かだった。

昇降路が止まると、目の前に短い通路が伸びていた。壁は古い観測線の石材ではなく、黒い金属板で覆われている。天井には細い管が何本も走り、その隙間に青白い灯りが等間隔に埋め込まれていた。

灯りは生きている。

つまり、この施設は死んでいない。

ラウドが一歩出る。

重機義肢の駆動音が、通路に低く響いた。

「綺麗すぎる」

彼はそう言った。

マキナも同じことを感じていた。

地上の観測施設は錆びていた。砂に埋もれ、風に削られ、古い時間の中で朽ちていた。

ここは違う。

床に砂がない。壁に錆が少ない。空気は冷たく、管理されている。人の生活の匂いはない。代わりに、薬品と冷却液と、何かを焼いた後の薄い臭いがした。

工房ではない。

診療室でもない。

マキナは、その違いをうまく言葉にできなかった。

ノルンが短く言う。

「ここでは、触らない。読めないものは特に」

「俺は大体読めません」

「じゃあ大体触らない」

「分かりました」

「本当に?」

「努力します」

「今の返事は禁止」

ラウドが小さく笑った。

その笑いも、すぐに消えた。

通路の壁に、透明な小窓があった。

中には、冷却槽が並んでいる。

液体の中に、機械生物の中枢核らしきものが浮かんでいた。丸い核、細長い核、獣の脊椎のような核。それぞれに細い管が刺さり、青白い泡がゆっくり上がっている。

マキナは足を止めた。

胸の奥がざわつく。

――中枢核。複数。活動、微弱。

「生きてるのか」

「休眠状態ね」

ノルンが答えた。

「機械生物の核を、なぜ」

「現象反応を通す媒体として使えると考えた連中がいる」

その声は平らだった。

平らすぎた。

ラウドが小窓を睨む。

「考えた連中って、鉄統局か」

ノルンは答えない。

答えないことが答えだった。

さらに進むと、記録室のような部屋があった。

扉は半開きだった。

中には端末が並んでいる。いくつかは壊れ、いくつかは画面に砂嵐のような線を走らせていた。床には散らばった記録板。焼却しようとして失敗したのか、端が焦げた紙片のようなものもあった。

マキナは文字を読めない。

だが、図は見えた。

人の輪郭。

胸の中心に描かれた炉のような円。

腕へ伸びる線。

背中に接続された管。

その横に、機械生物の中枢核と、白い欠片のような図。

マキナは息を止めた。

人間の身体の中に、炉が描かれている。

ラウドが低く唸った。

「何だよ、これ」

ノルンは記録板の一枚を拾った。

読んだ瞬間、口元が硬くなる。

「炉心候補。生体維持。同期不全。廃棄」

短い言葉だけを読み上げる。

それ以上は読まなかった。

いや、読めなかったのかもしれない。

マキナは図から目を離せなかった。

テラ・フォージの炉は、人を温め、街を動かし、義肢を鍛えていた。

ここに描かれている炉は、人の中にある。

人を動かすためではない。

人を使って、何かを動かすための炉。

胸の奥が熱くなる。

怒りだった。

白銀の断片の反応ではない。マキナ自身の熱だ。

「こんなことを、エルシアにも」

右手が動きかけた。

負荷計の針がわずかに揺れる。

ノルンの手が、マキナの腕を掴んだ。

「ここで壊さない」

「でも」

「奥に生きている人がいるかもしれない。装置を壊せば、その人たちの維持も止まるかもしれない」

マキナは歯を食いしばった。

分かっている。

分かっているから、苦しかった。

撃てば壊せるかもしれない。壁も端末も冷却槽も、白い光で吹き飛ばせるかもしれない。

でも、それで誰が助かるのか。

エルシアは。

ここにいるかもしれない他の誰かは。

マキナは右手を下ろした。

「……壊しません」

ノルンの手が離れる。

「今は」

マキナは付け加えた。

ノルンは少しだけ目を細めた。

「それでいい」

ラウドは記録板の図を見ていた。

重機義肢の指が、ぎり、と鳴る。

「人を炉にするって、こういう意味かよ」

誰も答えなかった。

答えは、目の前にあった。

その時、マキナの腰の小袋の中で、薄い金属片が震えた。

セイルの記録符だった。

マキナは取り出す。

細い溝に、青白い光が走っている。

ノルンがすぐに近づいた。

「端末に近づけて」

マキナは記録符を、まだ生きている端末の脇へ置いた。

画面の砂嵐が一瞬乱れる。

それから、短い文字列が浮かび上がった。

マキナには読めない。

だが、端末の横にある小さな通信器から、途切れ途切れの声がした。

「……接続、取れた」

セイルの声だった。

雑音が多い。

遠い場所から、細い糸で繋がっているような声。

「セイル」

マキナが言うと、通信器が小さく鳴った。

「声は拾えてる。映像は不安定。施設図を探す」

ノルンが端末へ顔を近づける。

「急いで。下層に生体維持区画がある可能性が高い」

「見えてる。記録がかなり消されてる。でも消した順番が雑だ」

「場所は」

「この階層から南側。封鎖扉が二つ。その先に同期室。搬送記録の残滓がある」

マキナの胸が跳ねた。

「エルシアはそこに?」

セイルはすぐには答えなかった。

雑音。

端末の灯りが揺れる。

「外文明演算装甲高同期者。右上肢神経過同期。冷却系欠損。生体維持処置中。記録片が一致する」

マキナは息を吸った。

いた。

いる。

まだ、ここに。

「行く」

ラウドがすでに扉へ向かっていた。

ノルンが医療鞄を握り直す。

「マキナ、走らない」

「分かってます」

「分かってる顔じゃない」

「走りません」

「力は」

「必要になるまで使いません」

「必要の判断は?」

マキナは一瞬迷った。

「ノルンに聞きます」

ノルンが目を見開いた。

ラウドが振り返る。

「今のは本当にお前か?」

「俺です」

「偽物じゃねえだろうな」

「たぶん」

ノルンは短く息を吐いた。

「少しは学習したのね」

「少しだけです」

「それで十分。今は」

セイルの声が割り込んだ。

「注意して。封鎖扉の先に警備反応がある。通常の傭兵装備じゃない。観測レンズが多い」

「マキナの能力を記録するためか」

ノルンが言う。

「可能性が高い。白銀反応検知用の針もある。撃てば残る」

ラウドが重機義肢を構えた。

「なら俺が前だ」

マキナはラウドを見る。

「危ない」

「お前が撃つ方が危ねえ」

「でも、ラウドの腕も」

「壊れたら直す」

「直せない壊れ方もある」

ラウドは鼻で笑った。

「それはお前も同じだろ」

言い返せなかった。

ラウドは続ける。

「お前は奥まで持たせろ。エルシアを止めるなら、お前の力がいる。ここで使うな」

その言葉は乱暴だった。

だが、真っ直ぐだった。

マキナは頷いた。

「分かった」

封鎖扉へ向かう。

通路の奥に、黒い扉が見えた。

地上の傭兵管理局で見た鉄統局の扉よりも古い。だが、同じ徽章があった。歯車と縦線。削られていない。隠す必要がない場所では、堂々と刻まれている。

ノルンがその徽章を見た。

表情は変わらない。

けれど、マキナには分かった。

彼女の呼吸が少しだけ浅くなった。

「ノルン」

「何」

「大丈夫ですか」

「患者に心配されるほど落ちぶれてないって言ったでしょ」

「はい」

「でも」

ノルンは扉を見たまま言った。

「大丈夫じゃなくても、やることは変わらない」

その言葉は、マキナに向けたものか、自分に向けたものか分からなかった。

ラウドが扉の前に立つ。

セイルの声が通信器からする。

「右側の下部に手動解除。警備電源は生きてる。開いた瞬間、観測される」

「観測される前に殴ればいいか」

ラウドが言う。

「それは理屈として雑だけど、今回は近い」

セイルが答える。

ラウドは笑った。

「記録屋に褒められた」

「褒めてはいない」

マキナは左手で短剣を確かめた。

右手はまだ使わない。

胸の奥の断片は熱い。

だが、静かだった。

まるで、何かを待っている。

ノルンがマキナの負荷計を見る。

黒域。

針は、まだ黒域。

「行くわよ」

ラウドが手動解除を叩いた。

扉が開く。

青白い光が、奥から漏れた。

同時に、細い警告音が通路へ走る。

その先に、白い測定針を背負った警備機が三体、こちらを向いていた。

人型ではない。

四脚の低い機体。背中に観測レンズ。前面に圧縮式の射出器。脚部には、機械獣よりも滑らかな関節がある。

ラウドが前へ出る。

「来いよ」

警備機のレンズが、マキナを捉えた。

胸の奥が冷たくなる。

観測されている。

記録されようとしている。

マキナは右手を握らなかった。

ラウドの重機義肢が唸る。

一体目が跳ぶ。

鉄と鉄がぶつかる音が、地下施設の冷たい壁を震わせた。

      ◇

警備機は、機械獣より厄介だった。

獣の形をしていないからではない。

迷いがないからだ。

機械獣には、まだ生物に似た癖があった。怯える、避ける、群れる、逃げる。壊れた個体ほど動きが乱れ、そこに隙が生まれた。

この警備機は違う。

低く走り、壁を使い、観測レンズを常にマキナへ向けてくる。ラウドが前に立つと、正面からぶつからず、脚部を狙って回り込む。ノルンが針を投げると、二体目がその軌道を遮る。

「うぜえ!」

ラウドが一体を壁へ叩きつける。

だが、潰れた機体の背中から、小さなレンズが転がり出た。床を滑り、マキナの方へ向く。

ノルンが即座に踏み砕いた。

「記録子機。気をつけて」

「気をつけるものが多すぎる!」

ラウドが叫ぶ。

マキナは左へ動いた。

警備機の一体が、その動きに合わせて射出器を向ける。

避ける。

床に衝撃が走る。弾ではない。圧縮空気と金属片を混ぜたような打撃が、床材をえぐった。

マキナは右手を上げかける。

使えば止められる。

小さな壁を出せば、ラウドが押し込める。

だが、背中のレンズがこちらを向いている。

今撃てば、全部残る。

「マキナ、下がれ!」

ラウドが割って入る。

重機義肢の左腕で警備機の射出器を受ける。金属片が腕の外殻を削り、火花が散った。

「ラウド!」

「いいから下がれ!」

ノルンが横から警備機の脚部へ細い薬筒を投げ込む。

薬筒が割れ、白い霧が広がった。

冷却剤だった。

警備機の関節が一瞬鈍る。

ラウドの右腕がその胴体を掴み、床へ叩きつける。二度。三度。観測レンズが砕け、ようやく動きが止まった。

最後の一体は逃げるように後退した。

いや、違う。

奥へ情報を持ち帰ろうとしている。

マキナは足元の金属片を蹴った。

短剣で弾く。

金属片は警備機の脚の隙間へ入り、わずかに動きを乱した。

その一瞬に、ラウドが踏み込む。

左肘の補強板が白く光った。

重機義肢が警備機を壁ごと押し潰す。

音が止まった。

通路に、ラウドの荒い呼吸だけが残る。

「腕は」

マキナが聞くと、ラウドは壁にもたれて笑った。

「見りゃ分かる。まだある」

外殻は削れていた。だが、関節は動いている。

ノルンがすぐに確認する。

「補強板がなかったら、軸が歪んでた」

「リゼットに礼言っとく」

「本人の前では言えないくせに」

「うるせえ」

マキナは警備機の残骸を見る。

自分は撃たなかった。

その代わり、ラウドが傷ついた。

正しかったのか。

胸の中に小さな迷いが浮かぶ。

ラウドがそれに気づいたように言った。

「その顔やめろ」

「どの顔」

「俺が勝手に前に出たのに、自分が殴られたみたいな顔だ」

マキナは黙った。

ラウドは重機義肢の指を鳴らす。

「役割だろ。お前が奥で使う。俺がここで殴る。医者が止める。記録屋が変な声を出す」

通信器からセイルの声がした。

「変な声は出していない」

「出てるぞ」

「雑音だ」

マキナは少し笑った。

ラウドは鼻を鳴らす。

「笑えるなら行ける」

ノルンが残骸の観測レンズを拾った。

「これ、白銀反応だけじゃなく、生体反応も見てる。マキナだけじゃない。エルシアみたいな対象の監視にも使ってた可能性がある」

マキナの笑みが消えた。

通路の奥を見る。

封鎖扉のさらに先から、低い音がしていた。

冷却装置の音。

あるいは、生体維持装置の音。

胸の奥の断片が、強く震えた。

――高同期反応。近接。

マキナは息を止める。

「近い」

ノルンが医療鞄を持ち直す。

ラウドが前へ出る。

セイルの声が途切れ途切れに続く。

「同期室は、この先。扉の向こうに……大きい反応がある。記録が欠けてる。意図的に消されてる」

「エルシアか」

マキナが聞く。

雑音。

それから、セイルの声。

「名前は残っていない。でも、条件は一致する」

名前はない。

記録から消されている。

それでも、彼女はいる。

マキナは右手を見た。

固定具の下で、指がわずかに震えている。

恐怖なのか、怒りなのか、期待なのか、分からなかった。

ノルンが言った。

「マキナ」

「はい」

「扉が開いても、すぐに飛び込まない」

「はい」

「声をかける。状態を見る。装置を見る。私の指示を聞く」

「はい」

「その後で、必要なら動く」

「分かりました」

ノルンは目を細めた。

「今日のあんた、返事がよすぎて怖い」

「俺も怖いです」

「何が」

マキナは扉を見た。

その向こうに、エルシアがいるかもしれない。

生きているかもしれない。

けれど、どんな姿でいるのか分からない。

声が届くのかも分からない。

「開けたら、間に合わなかったって分かるかもしれない」

口にすると、喉が痛んだ。

ラウドもノルンも黙った。

マキナは続けた。

「でも、開けないと分からない」

ノルンは静かに頷いた。

「そう」

ラウドが扉の前に立つ。

「じゃあ開けるぞ」

扉の表面には、白い線が走っていた。

古い塗装ではない。

内側から漏れたような、細い白銀の光。

マキナの胸の奥で、断片が強く脈打った。

――対象、近接。

――干渉、警戒。

――声、準備。

声。

その言葉だけが、今までと違って聞こえた。

マキナは扉の向こうへ向かって、まだ届かない名前を呼びそうになった。

けれど、唇を閉じた。

今は、扉が開く前だ。

声は、届く場所で使う。

ラウドが手動解除へ重機義肢の指をかける。

ノルンが医療鞄を開く。

マキナは右腕の固定具に左手を添えた。

扉の奥で、誰かの呼吸のような機械音がした。

そして、青白い灯りが一つ、また一つと点いた。


扉は、開くというより、ほどけるように動いた。

重い金属板が左右へ滑り、内側に溜まっていた冷気が足元へ流れ出す。薬品の匂い。冷却液の匂い。焦げた絶縁材の匂い。そこに、人の身体が長く機械に繋がれていた時の、言いようのない生ぬるい気配が混じっていた。

マキナは息を吸いかけて、途中で止めた。

広い部屋だった。

天井は高い。壁には円形の観測装置が何層も並び、青白い灯りがその縁をなぞっている。床には幾何学模様のように溝が走り、そこを冷却液らしき薄い光が流れていた。部屋の中央には、半透明の円筒槽がある。

その中に、人影があった。

青灰色の装甲。

細い肩。

右腕から伸びる、何本もの接続線。

「エルシア」

声が出た。

それは、思っていたより小さかった。

円筒槽の内部で、彼女の瞼がわずかに動いた。

生きている。

その事実が胸に届くより先に、別のものが目に入った。

エルシアの演算装甲は、以前の姿ではなかった。青灰色の外殻の上を、白銀の線が這っている。美しい線ではない。傷口を無理やり縫い合わせたような線だった。肩口から胸へ、胸から右腕へ。右上肢には太い神経接続管が刺さり、肘から先は細かく震えている。

背中からは冷却管が三本伸びていた。

一本は折れている。

一本は赤い警告灯を点滅させている。

残り一本だけが、かろうじて白い霧を吐いていた。

ノルンが、短く息を吐いた。

「生体維持は生きてる。でも、接続が乱暴すぎる」

ラウドが一歩踏み出した。

「外せばいいのか」

「待って。今切ったら死ぬ」

その言葉で、ラウドの足が止まった。

マキナは円筒槽へ近づこうとした。

負荷計の針が揺れる。

胸の奥の断片が、今までにない強さで震えた。

――高同期対象。外文明演算装甲。白銀補助核、接続。

「補助核?」

――対象内部、異物。制御層、侵食。

マキナは円筒槽の側面を見た。

そこに、小さな白銀の欠片が埋め込まれていた。

完全な結晶ではない。割れた鏡の破片のようなものだ。けれど、その周囲から白い光が細く伸び、エルシアの装甲と接続されている。

あれが彼女を動かしている。

いや、動かしてしまっている。

「エルシア、聞こえるか」

マキナはもう一度呼んだ。

円筒槽の中で、彼女の唇が動いた。

音は出ない。

代わりに、部屋の周囲の観測装置が一斉に点灯した。

警告音。

床の溝を走る青白い光が、赤に変わる。

ノルンが叫んだ。

「下がって!」

円筒槽が割れた。

硝子ではなかった。透明な防護膜が内側から裂け、冷却液が霧になって吹き出す。エルシアの身体が前へ倒れる。マキナは反射的に受け止めようとした。

その瞬間、青灰色の刃が伸びた。

右腕の装甲が展開し、細い刃がマキナの喉元へ迫る。

ラウドの重機義肢が横から割り込んだ。

刃と鉄腕がぶつかる。

火花が散った。

「起き抜けから物騒だな!」

ラウドが押し返す。

エルシアの足が床に触れた。

膝が折れるかと思った。

だが、折れなかった。

背中の接続線が千切れ、床に落ちる。彼女の身体は糸で吊られているように不自然に立ち上がった。瞳は開いている。だが、焦点がない。黒い瞳の奥に、薄い白銀の輪が回っていた。

部屋の壁面に声が響く。

「敵性現象反応、検出」

機械の声だった。

エルシアの声ではない。

「排除手順、起動」

マキナは一歩前へ出た。

「エルシア、俺だ。マキナだ」

エルシアの顔が、わずかにこちらを向いた。

唇が震える。

「マ……」

その先は、警告音に潰された。

彼女の右腕が跳ね上がる。

青灰色の刃が三本に分かれ、床を削りながら伸びた。

マキナは横へ跳んだ。

刃が肩を掠める。外套が裂け、皮膚の上を熱が走った。浅い。だが、速い。

エルシアの動きは、前に見たものとは違っていた。

査定戦の時の彼女は、皮肉を言いながら、相手の癖を読み、無駄なく動いていた。冷静で、少し意地悪で、けれど自分の身体を自分で扱っていた。

今は違う。

彼女自身が速いのではない。

装甲が彼女を運んでいる。

一歩ごとに膝が軋み、右腕の神経接続が白く明滅する。身体が悲鳴を上げているのに、演算武装だけが次の最適手を選んでいく。

「止めるぞ!」

ラウドが前に出た。

重機義肢の両腕を広げ、エルシアの進路を塞ぐ。

エルシアの瞳の白い輪が高速で回った。

次の瞬間、彼女はラウドの正面へ来なかった。

床を蹴る直前に軌道を変え、ラウドの左側へ潜り込む。青灰色の刃が、補強板の継ぎ目を正確に狙った。

ラウドが舌打ちして腕を引く。

刃が外殻を削った。

「こいつ、腕の癖まで見てやがる」

「演算予測よ」

ノルンは壁際の端末へ走りながら言った。

「ラウド、関節を見せないで。マキナ、撃たない。今撃てば反応を拾われる」

「分かってます」

分かっている。

けれど、目の前でエルシアが動くたび、右手が勝手に熱を持つ。

止めたい。

壊さずに。

今すぐ。

マキナは短剣を抜いた。

エルシアがこちらを見る。

刃を構える前に、彼女は踏み込んだ。

速い。

マキナは短剣を上げる。間に合わない。右手を使うか。使えば、白い壁を一枚出せる。

だが、撃つ前にエルシアの身体が止まった。

ほんの一瞬。

彼女の左手が、右腕の装甲を掴んでいた。

自分の腕を、自分で押さえようとしている。

「エルシア!」

マキナが叫ぶ。

彼女の目に、焦点が戻りかけた。

「……にげ、」

声は掠れていた。

次の瞬間、右腕の装甲が左手を弾いた。

エルシアの身体が跳ねる。刃が振り下ろされる。マキナは身をひねった。刃が床を割り、冷却液の光が飛び散る。

ノルンが端末を叩く。

「神経接続、外から切れない。維持装置と混ざってる。無理に遮断したら心肺が落ちる」

ラウドがエルシアの背後へ回ろうとする。

エルシアは振り返らない。

背中の補助装甲だけが開き、細い刃を後方へ伸ばす。ラウドは腕で受けた。金属音が響く。

「背中にも目があるのかよ!」

セイルの声が通信器から割り込んだ。

「観測レンズが部屋全体にある。彼女が見ているというより、部屋が見ている」

「じゃあ部屋を潰せばいいのか」

ラウドが叫ぶ。

ノルンが即答する。

「駄目。維持装置ごと落ちる」

「何でも駄目だな!」

「そういう部屋なの!」

マキナは周囲を見た。

壁面の観測装置。床の溝。天井の輪状レンズ。全部がエルシアの演算武装へ情報を渡している。彼女は一人で戦っていない。この部屋全体が、彼女の目と耳になっている。

だから読まれる。

撃つ方向も、踏み込む位置も、呼吸の乱れも。

「エルシア、聞け!」

マキナは走った。

正面からではない。左へ振る。右へ戻る。床の溝を踏まないように、灯りの切れ目を選ぶ。

エルシアの視線が追ってくる。

追ってくるが、少し遅い。

声には、反応している。

マキナは確信ではなく、願いのようにそう思った。

「お前、まだそこにいるんだろ!」

刃が来る。

マキナは身を低くした。

髪の上を青灰色の刃が掠める。風圧で頬が切れた。

「返事しろ!」

エルシアの唇が動く。

「うる……」

警告音。

彼女の身体が跳ねるように後退し、右腕が展開する。刃ではない。砲口のような円形の装置が開いた。

ノルンが叫ぶ。

「高圧演算射出!」

マキナは右手を上げた。

考えるより早かった。

白い光が手首から走る。

撃つのではない。

床から薄い質量壁を出した。

次の瞬間、エルシアの砲口から青白い衝撃が放たれる。質量壁が受け止める。受け止めきれない。壁は砕け、衝撃がマキナの身体を吹き飛ばした。

背中が床に叩きつけられる。

呼吸が止まる。

負荷計が鳴った。

黄色域。

右腕の奥が焼ける。

「マキナ!」

ノルンの声。

マキナは起き上がろうとした。手に力が入らない。右腕の指が痺れている。

エルシアが近づいてくる。

歩き方が不自然だった。

一撃を放った反動で、彼女自身も揺れている。冷却管の残った一本が白い霧を吹き、背中の警告灯が赤く点滅している。

それでも、演算武装は止まらない。

敵性現象反応、排除。

その声が部屋にまた響く。

マキナは歯を食いしばった。

「違う」

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

「俺は敵じゃない」

エルシアの刃が上がる。

ラウドが割り込もうとする。遠い。間に合わない。

マキナの胸の奥が、白く熱を持った。

――防御、推奨。

「違う」

――生存優先。

「違うんだ」

マキナは内側へ向かって叫んだ。

「壊さずに、声を届ける方法はあるか」

胸の奥で、白銀の断片が揺れた。

いつもより近い。

近すぎる。

マキナの心臓の鼓動と、断片の震えが重なる。熱い。冷たい。どちらでもある。白い光が視界の端に滲む。

返事はすぐには来なかった。

エルシアの刃が振り下ろされる。

マキナは身を転がして避けた。刃が床に刺さる。破片が腕を打つ。

その時、声が返った。

――干渉、可能。

「どうやって」

――演算予測層、一時低下。

エルシアが刃を引き抜く。

――質量化、対象外周。拘束可能。

ラウドが後ろから突っ込み、エルシアの肩を押さえようとする。彼女は読んでいた。半身をずらし、ラウドの力を流す。

――声、到達可能性、微小。

ノルンが端末から顔を上げる。

「マキナ、何をする気」

――ただし成功率、低。

マキナは笑いそうになった。

低い。

またそれだ。

でも、ゼロではない。

マキナは立ち上がった。

右腕が重い。黄色域の警告音が耳の奥で鳴っている。まだ赤ではない。だが、次に大きく使えば、たぶん越える。

「ラウド」

「何だ!」

「少しだけ、時間を」

「少しってどれくらいだよ!」

「俺にも分からない」

「最悪だな!」

そう言いながら、ラウドは前へ出た。

今度は正面からぶつからない。エルシアの視線を横へ引くように、重機義肢を大きく振る。フェイントが不器用だ。だが、ラウドらしい不器用さが、演算武装にとっては読みづらいのかもしれない。

ノルンが冷却薬筒を床へ投げた。

白い霧が広がる。

観測レンズの一部が曇る。

「十秒もたせる!」

「十分です」

十分なわけがなかった。

それでも、マキナはそう言った。

エルシアの演算武装は、マキナの動きを読む。

なら、読ませればいい。

マキナは右手を上げた。

撃つ構え。

エルシアの瞳の白い輪が回る。

右へ避ける予測。

左へ回り込む予測。

床へ壁を出す予測。

天井から質量を落とす予測。

マキナは、全部やらなかった。

右手に光を集める。

だが、撃たない。

一歩踏み込む。

止まる。

視線を上へ向ける。

実際には足元を見る。

小さな白い粒を、床の溝へ落とした。

攻撃ではない。

ほんの小さな質量片。

床を叩く音が、複数の方向に散った。

エルシアの顔が動く。

観測装置が、音と振動を拾う。

マキナはさらに踏み込んだ。

右から撃つと見せる。

左手の短剣を投げる。

短剣はエルシアへ向かわず、壁の観測レンズへ当たった。砕けはしない。だが、レンズの角度がずれる。

演算武装の反応が乱れた。

ほんのわずか。

マキナには見えた。

エルシアの右腕が、次の動きを選び直した。

そこだ。

マキナは右手を開いた。

胸の奥の断片が叫ぶように震える。

白い光が、エルシアの周囲へ走った。

撃たない。

当てない。

彼女の肩の外側。

腰の回転域。

膝の踏み込み先。

右腕の刃が展開する軌道。

空間に、質量が確定する。

一本目の杭が床から生えた。

二本目が背後に落ちた。

三本目が右腕の外側に現れた。

四本目が、彼女の踏み込み先を塞ぐ。

エルシアの身体は、即座に隙間を探した。

速い。

まだ止まらない。

杭の檻が閉じるより早く、彼女は左へ抜けようとする。

マキナは声を出した。

「エルシア!」

白銀の光が、質量化と同時に震えた。

それは衝撃ではなかった。

熱でもない。

音に近かった。

胸の奥から出た声が、白い光に混じり、エルシアを縛る演算の層へ触れる。

部屋の警告音が途切れた。

青灰色の装甲に走る白銀線が、乱れる。

エルシアの瞳に、焦点が戻った。

一瞬。

ほんの一瞬。

「……うる、さい」

声が聞こえた。

マキナは息を止めた。

それは彼女だった。

演算武装の声ではない。

エルシア本人の声だった。

次の瞬間、装甲が再起動する。右腕が杭を砕こうと動く。

だが、その右腕が遅れた。

ほんの一拍。

エルシア自身が、自分の腕を止めた。

マキナはその一拍へ、最後の力を叩き込んだ。

「今だ!」

ラウドが飛び込む。

重機義肢で、右側の杭を押さえる。杭と義肢が軋む。エルシアの刃が展開しようとするが、軌道が塞がれている。

ノルンが背後から冷却管へ手を伸ばした。

「ラウド、固定! マキナ、もう出すな!」

「まだ」

「もう出すな!」

マキナは聞こえていた。

けれど、最後の一本が足りない。

エルシアの左膝が動く。そこから抜ければ、拘束は崩れる。

マキナは右手を握った。

負荷計が赤に跳ねた。

音が鳴る。

耳の奥で、金属が割れるような音。

白い杭が、エルシアの背後に確定した。

彼女の身体が止まった。

演算武装が悲鳴のような駆動音を上げる。

ラウドが歯を食いしばる。

「止まれ、馬鹿装甲!」

ノルンが接続管を切り替える。切断ではない。流れを変える。冷却薬を注入し、神経過同期の線を一本ずつ眠らせる。

エルシアの身体が震えた。

瞳の白銀の輪が薄くなる。

マキナは膝をついた。

右腕の感覚がない。

いや、痛みだけがある。感覚がないのに、痛みだけが燃えている。胸の奥の断片が近い。近すぎる。自分の呼吸と、誰かの呼吸が重なっているようだった。

「戻ってこい」

声が掠れた。

エルシアの目が、こちらを見た。

今度は、演算武装越しではなかった。

それだけで、マキナは少しだけ息を吐けた。

ノルンが最後の接続を落とす。

部屋の観測装置が暗くなった。

エルシアの身体から力が抜ける。

ラウドが杭を押さえたまま、彼女が倒れないように腕を伸ばした。マキナも動こうとしたが、膝が言うことを聞かなかった。

ノルンがエルシアを受け止める。

「呼吸あり。脈、弱いけどある。生きてる」

その言葉が、部屋の冷たい空気を切った。

生きている。

マキナは床に片手をついた。

右手ではない。左手だ。

「エルシア」

ノルンが彼女を床へ寝かせ、応急維持具を取り出す。ラウドはまだ周囲を見ている。壊れた装置が再起動しないか、警備機が来ないか、重機義肢を構えたまま動かない。

エルシアの瞼が震えた。

ゆっくり開く。

瞳の焦点はまだ弱い。けれど、そこに彼女が戻ってきていた。

「……最悪」

声は掠れていた。

マキナは顔を上げる。

「エルシア」

「呼びすぎ」

「聞こえてたのか」

エルシアは目を逸らそうとした。

だが、力が入らなかったのか、視線だけが少し横へ動いた。

「……聞こえてない」

少し間が空く。

「うるさかっただけ」

マキナは、痛みの中で笑いそうになった。

「そっか」

「何度も、名前を呼ぶから」

彼女の声は細い。

途切れそうだった。

「演算が、乱れた」

「邪魔だった?」

「邪魔」

エルシアは小さく眉を寄せた。

「すごく、邪魔」

マキナは頷いた。

「邪魔でよかった」

「よくない」

彼女はかすかに息を吸った。

「……でも」

マキナは待った。

ノルンも手を止めなかったが、何も言わなかった。

エルシアは、ほとんど息だけで言った。

「次は、もう少し……早く呼びなさい」

それだけ言って、彼女の意識は落ちた。

ノルンがすぐに確認する。

「眠っただけ。今は起こさない」

マキナは頷こうとして、頭が揺れた。

視界の端が白い。

ラウドが近づいてくる。

「お前も寝そうな顔してるぞ」

「まだ」

「まだ、じゃねえ」

ノルンがマキナの負荷計を見た。

表情が険しくなる。

「赤を越えてる」

「少しだけです」

「少しだけ死にかけるって言葉はない」

「でも、エルシアは」

「助かった。だから今度はあんた」

ノルンがマキナの腕を取ろうとした。

その瞬間、胸の奥が強く震えた。

マキナは息を呑む。

エルシアではない。

この部屋でもない。

もっと奥。

地下のさらに深い場所から、何かが呼んでいる。

白い光が、視界の奥に細く伸びた気がした。

――応答、近接。

「何だ」

――姉妹反応。

マキナの身体が勝手に動きそうになった。

ノルンが肩を押さえる。

「駄目」

「奥に、何かある」

「分かってる。だから駄目」

「俺の中の声が」

「今のあんたは歩けない」

ラウドがエルシアを見下ろした。

「こいつを連れて戻るのが先だろ」

「でも」

言いかけて、マキナは止まった。

そうだ。

エルシアを助けた。

ここでまた走れば、同じことになる。

けれど、胸の奥の反応は消えない。

むしろ強くなる。

痛みに似ていた。

呼び声に似ていた。

セイルの声が通信器から割れた。

「待って。奥の区画が開いた。同期室のさらに下。今まで記録になかった場所」

ノルンが顔を上げた。

「施設図には」

「ない。削られてる。でも今、白銀反応で古い扉が起きた」

ラウドが舌打ちした。

「行くしかねえって流れかよ」

ノルンは数秒黙った。

その沈黙の中で、遠くから低い振動が聞こえた。

施設全体が動いている。

何かが起きている。

ノルンはエルシアに応急維持具を取り付け、ラウドに視線を向けた。

「エルシアを運べる?」

「誰に聞いてんだ」

ラウドはそう言って、慎重にエルシアを抱え上げた。いつもの乱暴さはなかった。重機義肢の指が、彼女の身体を傷つけないように角度を変えている。

ノルンはマキナを見た。

「歩ける?」

「歩けます」

「嘘」

「支えがあれば」

「最初からそう言いなさい」

ノルンがマキナの左腕を自分の肩に回す。

マキナは少し驚いた。

「重いです」

「知ってる」

「ノルンが」

「黙る」

怒られた。

だが、その声は少しだけ震えていた。

一行は同期室の奥へ進んだ。

そこには、さっきまで壁にしか見えなかった場所が開いていた。白銀の細い線が扉の縁を走り、内側から淡い光が漏れている。

階段があった。

下へ続いている。

マキナは一段目に足をかけた時、胸の奥が強く反応した。

――近い。

その言葉は、以前の無機質な声とは違って聞こえた。

まるで、恐れているようだった。

あるいは、急いでいるようだった。

階段の先は、狭い通路だった。

壁は黒い金属ではない。古い白い素材でできている。テラ・フォージの施設というより、ヴェイルの遺跡に近い。滑らかで、冷たく、どこにも継ぎ目が見えない。

ノルンが呟いた。

「旧ルーメン母胎工場の系統……」

「知ってるんですか」

マキナが聞くと、ノルンはすぐには答えなかった。

「記録で見たことがあるだけ」

「本当に?」

「今はそれでいい」

マキナはそれ以上聞かなかった。

通路の終わりに、小さな部屋があった。

中央に、台座がある。

台座の上に、白銀の断片が浮かんでいた。

それは、マキナの胸にあるものと似ていた。

だが、同じではない。

形が定まっていない。液体のように揺れ、結晶のように光り、時々、人の指先ほどの輪郭を作っては崩れる。周囲には黒い拘束環が三つ浮かび、細い針のような装置が断片へ向けられていた。

観測されている。

測られている。

閉じ込められている。

マキナは、胸が痛くなった。

右腕の痛みとは違う。

もっと奥。

自分のものではない痛みが、胸の中で跳ねた。

白銀断片が震える。

部屋に声が響いた。

「姉妹、未完了」

マキナは動けなかった。

声は、耳で聞いたのではない。

胸の奥で聞いた。

自分の中の断片が、答えようとしている。

――応答、不能。

震える声。

――欠損、保持。

台座の断片が揺れた。

「姉妹、未完了」

同じ言葉。

けれど、今度は少し違って聞こえた。

問いのようだった。

探している。

待っている。

欠けたものを、欠けたまま呼び続けている。

マキナは胸に手を当てた。

「お前は……」

言葉が続かなかった。

自分の中の存在は、ただの力ではない。

危険を知らせる声でも、現象操作を補助する装置でもない。

探している。

迷っている。

届こうとしている。

セレスティアという白銀の観測者の話を、マキナは伝承で聞いてきた。世界を見て、終わりを知り、人と共に選んだ存在。

なら、胸の奥のこれも。

目の前の断片も。

完全ではなくても、何かを見ようとしている命なのかもしれない。

マキナは一歩前へ出ようとした。

その時、拍手の音がした。

乾いた音だった。

部屋の奥、白い壁の影から、一人の男が現れた。

黒い外套。鉄色の襟章。歯車と縦線の徽章。

年齢は五十前後に見えた。髪は灰色に近く、整えられている。顔に大きな傷はない。目も声も静かだった。だが、その静けさが、グレイヴとは違う。

グレイヴの静けさは、規定に従って感情を削ったものだった。

この男の静けさは、最初から人を部品として見ているものの静けさだった。

ノルンの身体が硬くなった。

「ガルム」

男は彼女を見た。

「久しいな、ノルン=ハザ」

ラウドがエルシアを抱えたまま一歩引く。

「誰だ」

男はラウドには答えなかった。

視線はマキナに向いている。

「君がマキナか」

マキナは胸の奥が冷えるのを感じた。

「俺を知ってるんですか」

「記録でな。だが、記録より興味深い」

男は台座の断片を見る。

「白銀断片と生体の共存。ナノマシン適合による反動緩和。外部装置なしの現象操作。第八紀後の最初の兵器的希望だ」

兵器的希望。

その言葉が、耳に残った。

希望。

なのに、冷たい。

「俺は兵器じゃない」

ガルムはわずかに笑った。

「誰も最初から兵器として生まれるわけではない。使える形に整えるのだ」

ラウドの重機義肢が低く鳴った。

「こいつを部品扱いすんな」

ガルムはようやくラウドを見た。

「外縁製の重機義肢か。応急補修にしては悪くない。だが、ここでは不利だ。君の腕も、君自身も」

「試すか」

ノルンが鋭く言った。

「ラウド、動かない」

「でも」

「動かない」

その声には、有無を言わせないものがあった。

ガルムはノルンを見る。

「まだ医者のつもりでいるのか」

「少なくとも、あなたよりは」

「君は昔から感情で判断する」

「あなたは昔から、感情のないふりをして人を削る」

ガルムの表情は変わらなかった。

だが、部屋の空気が少し重くなった。

マキナは二人を見る。

昔。

ここにも、ノルンの過去がある。

だが、今は聞けない。

台座の断片が、また震えた。

「姉妹、未完了」

ガルムはその断片へ手を向けた。

黒い拘束環が動く。

「これは、本来なら我々がもっと早く確保すべきものだった。旧ルーメン母胎工場から剥離した未登録断片。観測権限は不完全。だが、不完全だからこそ加工できる」

「加工?」

マキナの声が低くなった。

「彼女を見ただろう」

ガルムはラウドに抱えられたエルシアへ視線を向けた。

「演算武装との接続は粗かった。冷却系の問題もある。だが、方向性は間違っていない。人間は炉になれる。ルーメンを神秘として崇める必要はない。観測装置も、現象操作も、文明を守るための資源だ」

「守るために、人を炉にするのか」

マキナは言った。

怒鳴ったわけではない。

けれど、声が震えた。

ガルムは静かに答えた。

「世界は救われていない。終末は保留されただけだ。次の崩壊が来た時、祈りや伝承では都市を守れない。フォージは自前の現象炉を持つ必要がある」

「だからエルシアを使った」

「彼女には適性があった」

「適性があれば、何をしてもいいのか」

ガルムは、初めて少しだけ眉を動かした。

「少年らしい問いだ」

その言い方が、マキナの奥を刺した。

子ども扱いではない。

人間扱いでもない。

まだ価値を理解していない材料を見る目だった。

ノルンがマキナの腕を強く掴む。

「乗らない」

「でも」

「今のあんたでは勝てない」

分かっている。

右腕は焼けている。胸の奥も不安定だ。エルシアを助けるだけで限界を越えた。ここで戦えば、何も守れない。

それでも、台座の断片が震えるたび、胸が痛む。

ガルムが手を動かした。

拘束環が台座から離れ、白銀断片を包み込む。断片は抵抗するように形を変えた。光が強くなる。

マキナの中の断片が震えた。

――喪失、回避。

「止めたいのか」

――姉妹、未完了。

声が乱れている。

マキナは歯を食いしばる。

ガルムの背後に、黒い護衛機が二体現れた。人型に近いが、人間ではない。長い腕。細い脚。胸部に観測レンズ。対義肢用の拘束具と、対現象反応用の測定針を備えている。

ラウドが動きかける。

護衛機の一体が、瞬時にラウドの足元へ射出杭を打ち込んだ。床が割れる。ラウドはエルシアを抱えているため、避けるだけで精一杯だった。

「くそっ」

ノルンがマキナの前に出る。

「ガルム、やめなさい」

「君の停止勧告は、昔から遅い」

その言葉で、ノルンの顔が白くなった。

マキナは初めて見た。

ノルンが怒るのではなく、傷つく瞬間を。

ガルムは白銀断片を黒い容器へ収めた。

容器が閉じる。

その瞬間、マキナの胸の奥で、何かが切れたような痛みが走った。

「っ……!」

膝が落ちる。

ノルンが支えようとする。

白い視界の中で、マキナは台座を見た。

もう光はない。

そこにあった声が、消えている。

胸の奥の断片が震えていた。

怒りではない。

恐怖でもない。

もっと、空っぽなもの。

「返せ」

声が出た。

ガルムは振り返る。

「取り戻したければ、追ってくるといい。君自身の価値も、そこで測れる」

「どこへ」

ガルムは答えなかった。

代わりに、部屋の奥の壁が開いた。黒い搬送路が見える。古い観測線よりさらに深く、ヴェイルの方角へ伸びているように感じた。

ガルムと護衛機が下がる。

ラウドが追おうとする。

だが、足元で警告灯が赤く点滅した。

セイルの声が通信器から叫ぶ。

「施設封鎖が始まってる! そっちの区画、切り離される!」

ノルンが即座に言った。

「戻る!」

「でも断片が」

マキナは立とうとした。

足が動かない。

ノルンが肩を掴む。

「エルシアを連れて帰る。今はそれだけ」

「でも」

「マキナ!」

その声に、マキナは止まった。

ノルンの目が濡れているように見えた。

怒りではない。

懇願でもない。

命を取りこぼさないために、ぎりぎりで踏みとどまっている目だった。

「今追ったら、全員死ぬ」

マキナは、エルシアを見た。

ラウドの腕の中で眠っている。呼吸は浅い。けれど、生きている。

助けた。

その事実を、捨ててはいけない。

マキナは唇を噛んだ。

「戻ります」

ノルンは頷いた。

「ラウド、走れる?」

「誰に聞いてんだ」

「エルシアを揺らさずに」

「注文が多いんだよ!」

それでも、ラウドは走った。

白い部屋を出る。

階段を上がる。

同期室へ戻る途中で、天井の灯りが一つずつ消えた。施設が自分の中を閉じていく。壁の管が鳴り、遠くで爆発音のようなものが響く。

セイルの声が雑音混じりに続く。

「南側通路は閉鎖。来た道は半分塞がってる。右の補助搬送路へ」

ノルンがマキナを支えながら走る。

「マキナ、意識を落とさない」

「落としてません」

「返事が遅い」

「考えてました」

「今は考えない。足を動かす」

ラウドが前で叫ぶ。

「扉!」

通路の先で隔壁が降りかけていた。

ラウドはエルシアを左腕で抱え、右の重機義肢を突き出す。隔壁を受け止める。金属が軋む。補強板が火花を散らす。

「早く!」

ノルンがマキナを押し込む。

マキナはくぐり抜ける直前、天井から落ちてくる管を見た。

ノルンの頭上。

間に合わない。

右手が動いた。

「マキナ!」

ノルンの声が聞こえた。

マキナは小さな質量片を確定させた。

大きな壁ではない。

拳ほどの白い塊。

それが落下する管の軌道を少しだけずらした。管はノルンの肩を掠め、床に叩きつけられる。

負荷計がまた鳴る。

マキナの視界が白く滲む。

ノルンが振り返り、怒鳴った。

「使うなって言った!」

「小さくしました」

「そういう問題じゃない!」

「当たったら、ノルンが」

「助けたことは怒ってない!」

ノルンはマキナを支え直した。

「倒れる順番を考えなさいって言ってるの!」

ラウドが隔壁の下から抜け出す。

「説教は帰ってからにしろ!」

「帰ったらもっとする!」

「最悪だな!」

それでも、三人は走った。

通路の空気が熱くなる。

冷却装置が落ち、どこかで火が入ったのかもしれない。薬品の匂いに焦げた臭いが混じる。

途中、冷却槽の並ぶ部屋を抜けた。

機械生物の中枢核が、液体の中で小さく震えている。いくつかの槽は割れ、中の核が床に転がっていた。活動はしていない。だが、その姿は、捨てられた臓器のように見えた。

マキナは目を逸らした。

逸らしても、残る。

人を炉にする図。

エルシアの白銀線。

台座の断片の声。

姉妹、未完了。

それらが胸の奥で重なり、痛みに変わる。

昇降路まで戻った時、扉は半分閉じていた。

セイルの声が叫ぶ。

「昇降機、上からロックされてる。リゼットが解除を試みてるけど、時間が」

通信が途切れた。

ノルンが認証盤へ走る。

「また私で開ける」

「させると思うかね」

別の声がした。

通路の奥に、黒い制服の男が立っていた。

中枢の傭兵管理局で、黒い扉から出てきた男だった。

ノルンを「ハザ」と呼んだ男。

彼は銃を構えていた。

「登録医ノルン=ハザ。および未承認侵入者。停止を命じる」

ラウドが低く言う。

「邪魔するならどけ」

男の視線がエルシアへ移る。

「実験体を返還しろ」

その言葉で、ラウドの顔が変わった。

「もう一回言ってみろ」

ノルンが前に出た。

「ラウド、駄目」

「医者」

「私が話す」

ノルンは男を見る。

「この子は患者よ」

「管理対象だ」

「患者よ」

男は銃口を動かさない。

「ハザ。君は昔から、対象に名前をつけたがる」

ノルンの指が震えた。

だが、声は揺れなかった。

「名前があるものを、対象と呼んでいただけ」

男は少しだけ沈黙した。

その一瞬、昇降路の認証盤が青く光った。

セイルの声が戻る。

「今!」

ラウドが動いた。

男の銃口がラウドへ向く。

マキナは右手を上げられない。

その前に、男の足元の床が弾けた。

外からではない。

昇降路の上から、何かが撃ち込まれた。

細い工具弾が男の銃を弾き飛ばす。

通信器から、リゼットの声が響いた。

「議論は上でやって。下はもう崩れるわ」

ノルンが認証盤を叩く。

昇降機が動き出す。

ラウドがエルシアを抱えたまま飛び乗る。ノルンがマキナを引きずるように乗せる。ダグが上から叫んでいる声が聞こえた。

「早くしろ! 地上側も揺れてる!」

昇降機が上がる。

下で、黒制服の男が何かを叫んでいた。

言葉は聞き取れなかった。

壁が流れていく。

黒い管。

古い観測線の石材。

錆びた鉄骨。

地上の光が近づく。

マキナはその光を見上げながら、意識が遠のくのを感じた。

「寝るな」

ノルンの声。

「はい」

「返事だけで寝るな」

「起きてます」

「嘘」

「少し、白いだけです」

「それを寝るって言うの」

ラウドが息を切らしながら言った。

「医者、こいつ揺すったら起きるか」

「揺すったら殺す」

「難しいな」

「黙って支えて」

昇降機が地上へ出た。

空が見えた。

灰色の空だった。

旧観測線の中継施設は、低く唸っていた。地面の下で何かが崩れている。遠くの観測塔が一本、ゆっくり傾いた。錆びた支柱が折れ、白い霧の中へ沈んでいく。

ダグがエルシア用の搬送台を引いてきた。

「生きてるのか」

「生きてる」

ノルンが答える。

「運ぶ。リゼットの避難車両は?」

「西側の旧搬送路に回してる。あんたら、本当に最悪のものを掘り当てたな」

「掘ったのは向こうよ」

「それもそうだ」

エルシアを搬送台に固定する。

ラウドの腕は削れていた。補強板の一部が歪んでいる。だが、彼は何も言わなかった。ただ、エルシアの冷却管が外れないように、重機義肢の指で支えている。

マキナは壁にもたれた。

立っていられなかった。

ノルンが彼の前に膝をつく。

「右手、見せて」

「動きません」

「動かさなくていい。見せなさい」

固定具の下を確認したノルンの表情が険しくなる。

「しばらく使えない」

「しばらくなら、いいです」

「いいわけないでしょ」

「エルシアは」

「生きてる」

「断片は」

ノルンの手が止まった。

「奪われた」

その言葉は、もう分かっていたのに、胸に落ちると重かった。

奪われた。

もう片方の白銀断片。

姉妹と呼んだ声。

未完了と告げた存在。

マキナの胸の奥で、断片がかすかに震える。

先ほどのような強い反応ではない。

もっと弱く、深い。

泣いているのではない。

でも、似ていると思った。

「追わないと」

マキナは言った。

ノルンはすぐに首を振った。

「今は駄目」

「分かってます」

「本当に?」

「今は」

ノルンはため息をついた。

「その言い方、本当に嫌い」

「でも、嘘じゃないです」

ラウドが搬送台の横から言った。

「追うにしても、お前は寝てからだ。立ってるだけで壊れそうな奴は荷物より邪魔だ」

「ラウドも腕が」

「俺は腕だけだ」

「腕だけじゃない」

ラウドは少し黙った。

それから、目を逸らした。

「……まあ、少し痛え」

「少し?」

ノルンが振り返る。

ラウドは露骨にしまったという顔をした。

「いや、今のは」

「後で診る」

「いらねえ」

「診る」

「はい」

マキナは小さく笑った。

痛みで、すぐに顔が歪んだ。

遠くで、車両の駆動音が聞こえた。

リゼットの手配した避難車両が、旧搬送路の向こうから近づいてくる。砂を巻き上げ、錆びた線路の上を揺れながら走っている。

その向こう、南東の空に白い筋が見えた。

雲ではない。

霧でもない。

ヴェイルの方角。

胸の奥の断片が、そこへ向いている。

マキナには、見えないはずの道が見える気がした。

ガルムはあの断片を持っていった。

どこへ向かったのかは、まだ分からない。

でも、胸の奥は知っている。

完全ではなくても。

欠けていても。

未完了のままでも。

あの声は、まだ呼んでいる。

エルシアの搬送台が車両へ積まれる。ノルンがその横へ乗り込む。ラウドがマキナへ手を伸ばした。

「ほら」

「自分で」

「倒れたいのか」

マキナは少し迷い、左手を伸ばした。

ラウドの重機義肢ではない方の手が、彼の腕を掴んだ。

強い。

だが、乱暴ではなかった。

車両に乗る直前、マキナはもう一度、南東の空を見た。

助けたはずなのに、胸の奥には穴が空いていた。

その穴の向こうで、誰かがまだ呼んでいる。

右手は動かなかった。

痛みだけが、自分がまだここにいることを教えていた。

マキナは左手で胸を押さえた。

「行く」

声は小さかった。

誰に向けたのか、自分でも分からなかった。

エルシアへか。

奪われた断片へか。

胸の奥の白銀へか。

それとも、まだ見ぬ誰かの足跡へか。

車両の扉が閉まる。

旧観測線の残骸が、窓の外で遠ざかっていく。

マキナは揺れる床に身を預けながら、目を閉じなかった。

白い空の向こうを、見続けていた。