『レムナント・ヴェイル ― ヴォイド・リリー・オブ・ザ・ニル ―』

第2章 名前のない少女

街は、遠くから見た方が静かだった。

丘の上から見下ろしたリベルナは、灰白色の屋根と古い水路、そのあいだを走る細い道でできていた。エデン・アーカイブの首都圏ほど高い建物はなく、街の中心にそびえる記録塔も、空を支配するほど大きくはない。旧文明の構造物を継ぎ足した壁の内側で、住居と工房と商店が、互いの領域を曖昧にしたまま並んでいた。

煙が上がっている。

火災ではない。

工房の排気。

調理用の炉。

水分を含む白い蒸気。

彼女は一つずつ分類した。

街へ近づくにつれ、音が増えた。

金属を叩く音と、荷車の車輪が石を擦る音。水路へ落ちる水。市場で呼びかける声。遠くで笑う子供と、それを叱る大人。建物の陰から現れ、別の道へ消えていく足音。

以前なら、街の各所に残された観測装置へ接続し、熱源の数や移動経路をまとめて取得できたかもしれない。

今は、自分の目に映る範囲しか見えない。

建物の裏側は見えず、曲がり角の先に何があるかも分からない。人の声は重なり、どの口から発せられたものなのか判別できない場合がある。

情報取得範囲、限定。

死角、多数。

人口密度、推定困難。

未知の移動経路、複数。

彼女は歩行速度を少し上げた。

目的地へ早く到達するため。

その説明は、現在の行動と矛盾しなかった。

丘を下りる道には、踏み固められた土の上へ古い石板が並べられていた。石板の隙間から薄い草が伸びている。何度も荷車が通った場所だけが浅く削れ、雨水の跡が細い溝を作っていた。

彼女の淡い灰色の観測服には、ヴェイルを抜ける間についた土と白い植物片が残っている。表面の損傷は少ない。防塵機能も温度調整機能も正常だった。

交換の必要はない。

しかし、すれ違う人間の多くが彼女を見た。

視線。

一度確認。

通過後、再確認。

会話音量、低下。

一部、振り返り。

彼女は自分の衣服を見下ろした。

機能異常はない。

外装の露出もない。

人間社会における不適合要素は、特定できなかった。

街の入口には、門と呼ぶには低い石造りの通路があった。荷車二台がすれ違える幅があり、その脇に記録係の詰所が設けられている。人々は完全に止められるわけではなく、荷札を見せたり、短い質問へ答えたりしながら通過していた。

彼女も同じように進もうとした。

「ちょっと待って」

声がかかった。

彼女は停止した。

詰所の前に立っていた男が、手にした記録板を下ろす。年齢は四十歳前後。右耳に小型の記録補助器を装着している。武器は腰にあるが、手は触れていない。

「一人か?」

「はい」

男は彼女の背後を見た。

誰もいないことを確認し、もう一度彼女を見る。

「連れは?」

「該当する存在はいません」

「該当する……」

男は眉を寄せた。

「名前は?」

彼女は質問の意味を理解した。

個体を他の個体と区別するための呼称。

人間社会では、個体識別情報の代わりに使用されることが多い。

「人間社会で使用する固有名はありません」

男は記録板へ何かを書こうとして、手を止めた。

「名前がない?」

「個体識別情報は存在します」

「それを名前とは言わないのか」

「使用目的が異なります」

男は数秒黙り、詰所の中にいた別の係員へ顔を向けた。

「誰か、保護窓口に連絡してくれ」

彼女は言葉を解析した。

保護。

危険や損傷から対象を守る行為。

現在、周囲に明確な危険はない。

「保護は不要です」

「家はどこだ?」

「西方の第六紀広域観測施設です」

「西方の、何だって?」

彼女は施設の識別情報を提示しようとした。だが、男の表情から、詳細な番号列を求めていない可能性が高いと判断する。

「観測施設です」

「そこから一人で来たのか」

「はい」

「親は?」

「該当する存在はいません」

「保護者は?」

「定義を確認します」

男は息を吐いた。苛立ちよりも困惑に近い反応だった。

「君の面倒を見てる大人はいるか、ってことだ」

「いません」

「住む場所は?」

「現在はありません」

「金は?」

「所持していません」

「泊まる場所は」

「必要性を検討していませんでした」

男は片手で額を押さえた。

彼女は質問へ正確に回答している。

虚偽はない。

不足している情報も、自覚できる範囲では提示している。

それでも、会話が目的へ到達していない。

少しして、詰所の奥から女性が出てきた。淡い茶色の上着に、地方記録所の印が縫い込まれている。女性は男から小声で事情を聞き、彼女の前へ腰を落とした。

視線の高さを合わせるための動作。

対象が子供の場合に行われることが多い。

「怖くないからね」

女性はゆっくり言った。

彼女は周囲を確認した。

敵意、なし。

拘束具、なし。

危険性、低。

「恐怖反応は発生していません」

女性は少しだけ目を瞬かせた。

「そう。それならよかった。少しだけ、一緒に来てもらえる?」

「移動目的は何ですか」

「あなたがどこから来たのか確認して、休める場所を決めるため」

「私は迷っていません」

「うん。でも、行く場所は決まってる?」

彼女は答えようとして、停止した。

東方へ向かうことは決めていた。

人間居住域へ入ることも目的の一部だった。

だが、街の中でどこへ行くかは決めていない。

「決まっていません」

「なら、決まるまで手伝わせて」

女性は手を差し出した。

彼女はその手を見た。

移動を補助する必要はない。歩行機能に異常はなく、地面も安定している。

それでも女性は手を下ろさなかった。

周囲では荷車が門を通り、人々が二人を避けて歩いていく。彼女は数秒考え、差し出された手には触れず、女性の隣へ並んだ。

女性は何も言わず、歩き始めた。

リベルナの中は、丘から見た時より狭く、広かった。

道幅は広くない。軒先から布が張り出し、商店の商品が通路の一部を占有している。水路の上には大小の橋がかかり、その脇で子供たちが紙片を流して遊んでいた。

空間的な広さは限られている。

しかし、視界へ入る対象の種類は多い。

修理された義肢。

鉢植えの花。

壁へ貼られた記録紙。

焼いた穀物の匂い。

染料。

油。

石鹸。

湿った木材。

彼女は歩きながら、それらを分類した。

女性は何度か彼女の様子を振り返った。

「疲れてない?」

「活動継続に問題はありません」

「どれくらい歩いてきたの?」

彼女は施設を出た時刻と現在時刻を照合した。

「百一時間二十七分です。休止時間を除いた実移動時間は――」

「そこまで正確じゃなくていいよ」

女性は苦笑した。

彼女は回答を中断した。

正確であることが、常に会話へ適しているわけではない。

地方記録所は、かつて別の用途に使われていた建物らしかった。外壁には古い記号が残り、その上から現在の案内板が取りつけられている。内部には記録棚と受付、待合用の椅子があり、奥へ続く廊下の一部が保護区画として使われていた。

彼女は小さな部屋へ案内された。

窓。

机。

椅子。

簡易寝台。

鍵のない扉。

女性は水と、湯気の上がる器を机へ置いた。器の中には野菜と穀物を煮たものが入っている。

「食べられそう?」

「摂取は可能です」

「お腹は空いてる?」

彼女は内部状態を確認した。

ソウル残量、七十八パーセント。

循環系、正常。

外装修復、軽微。

エネルギー補給、不要。

「空腹に該当する要求はありません」

女性は椅子を引き、彼女の向かいへ座った。

「食べたくない?」

質問の基準が変化した。

必要かどうかではない。

望むかどうかを尋ねられている。

彼女は器を見る。温度、匂い、成分の一部は分析できる。摂取による危険も低い。

だが、「食べたい」という内部要求は確認できなかった。

「判断できません」

「じゃあ、今は置いておくね。冷めたら温め直せるから」

女性はそれ以上勧めなかった。

彼女には、その対応の理由が分からない。

摂取可能で、危険がなく、用意されているなら、実行を促し続けることもできる。

しかし女性は彼女の判断を待つことを選んだ。

記録係が二人、部屋へ入ってきた。

一人は白髪の男。もう一人は若い女性で、手に新しい記録用紙を持っている。

質問が始まった。

「名前」

「ありません」

「推定年齢」

「基準が不明です」

「生まれた年は?」

「製造時期の記録は部分的に欠損しています」

若い記録係の筆が止まった。

「製造?」

「訂正します。活動開始時期です」

「それは、生まれた時?」

「同一ではありません」

白髪の男は彼女をじっと見たが、さらに追及はしなかった。

「出身地は、さっきの観測施設でいいか」

「はい」

「施設の管理者は?」

「現在はいません」

「家族は?」

「該当する関係を持ちません」

「街へ来た目的は?」

彼女は答えを検索した。

世界を知る。

人間を知る。

観測装置では取得できなかったものを、自分の目で確認する。

その説明を人間社会の記録欄へ収める方法が分からない。

「人間を確認するためです」

若い記録係が顔を上げた。

「確認?」

「理解するため、と言い換えられます」

部屋が静かになった。

白髪の男は記録用紙を見下ろし、空白の欄を指で叩いた。

「名前がないと、仮記録の作成が難しいな」

「仮番号で入れればいいんじゃないですか」

若い記録係が言う。

「番号だけでは呼び出しも照会も不便だ。本人の識別番号があると言っても、どの体系のものか分からない」

「それでも、空欄よりは」

「名前がない人間はいないだろう」

その言葉に、彼女は視線を上げた。

名前がない人間はいない。

正確には、固有名を持たずに活動する人間が存在する可能性はある。記録から抹消された者、名を捨てた者、言語体系の異なる集団。

しかし、この街では、名前を持たない存在は想定されていない。

名前は識別のためだけではない。

記録へ入るために必要。

呼びかけるために必要。

誰かが、その存在を話題にするために必要。

個体識別情報より非効率で、重複もあり、意味も一定ではない。

それでも人間は、名前を使う。

白髪の男が席を立った。

「西方施設に関する照会を出す。三十日間は出自未確認者として扱うことになる」

「移動は制限されますか」

彼女が尋ねると、男は少し驚いた顔をした。

「保護中は、一人で街の外へ出ることはできない」

「拘束ですか」

「違う。危険がないと確認できるまで、こちらで責任を持つ」

「行動を制限する点は同一です」

若い記録係が困ったように笑った。

「言い方が違うだけで、似てるところはあるかもしれない。でも、あなたを罰するためじゃない」

「目的が異なる」

「そう。目的が違う」

彼女はその差を記録した。

行動の外形が同一でも、与えられた意味によって分類が変わる。

廊下の向こうで声がした。

「西方の観測施設?」

その音を取得した瞬間、彼女の処理が停止した。

完全な停止ではない。

周囲の音が一段遠くなる。

声紋照合。

過去記録を検索。

一致率、九十一パーセント。

経年変化を補正。

一致率、九十七パーセント。

歩幅。

右足着地、わずかに外側。

右肩、左肩より低い。

三年前の記録と一致。

ヴォイド・リリー付近で観測した青年。

彼女は扉の方を見た。

廊下から、一人の青年が部屋を覗き込んだ。

三年前より背が高くなっている。輪郭は細さを残しているが、肩には調査用の鞄が馴染み、濃色の上着にはリベルナ地方記録院の印が縫いつけられていた。

髪は以前より短い。

声は少し低い。

右手には、古い端末より小型の記録機器を持っている。

青年は彼女を見た。

その視線に、認識反応はない。

当然だった。

彼は三年前、彼女を見ていない。

「アルノ」

白髪の記録係が呼んだ。

青年の固有名。

アルノ。

彼女は内部記録へ追加した。

アルノは部屋へ入り、記録係から短く事情を聞いた。

「西の旧観測施設から一人で?」

「そう言っている。お前、外勤であの辺りへ行ったことがあるだろう」

「近くまでは。中層側の施設は、今も動いてるのか?」

アルノの視線が彼女へ戻る。

彼女は答えた。

「一部機能は停止しています。観測系統は終了しました」

「終了?」

「権限が移譲されたためです」

アルノは眉を寄せた。

理解できない言葉を聞いた反応ではない。

言葉の意味は分かるが、彼女がなぜ知っているのかを考えている。

「君、そこに住んでたのか」

「はい」

「一人で?」

「はい」

「何年くらい?」

「計測基準を指定してください」

「……普通は、年でいい」

彼女は稼働記録を検索した。

欠損。

補間可能範囲、広大。

人間の年齢として提示する意義、低。

「正確な回答はできません」

アルノは彼女の手元を見た。

布に包まれた端末。

彼女は無意識に、その包みへ指を近づけていた。

アルノの視線が一瞬そこへ留まる。

だが、彼は何も言わなかった。

「歩いてきたんだよな。疲れてないのか」

「活動継続に支障はありません」

「百時間以上歩いて?」

先ほどの女性から聞いたらしい。

「休止時間を含みます」

「休止って、睡眠か?」

「異なります」

アルノは少し黙った。

彼女の顔。

手。

呼吸。

瞳。

観測服。

彼の視線が順番に移動する。

人間の視線としては、意図が明確だった。

観察されている。

彼女は初めて、そのことを強く認識した。

これまでは、自分が見る側だった。

今は、アルノが彼女を見ている。

「少し、二人で話してもいいですか」

アルノが記録係へ言った。

「扉は開けておけ」

白髪の男はそう答え、若い記録係とともに部屋を出た。

完全な密室にはならない。

アルノは彼女の向かいへ座った。

机の上の食事を見る。

「食べないのか」

「摂取の必要がありません」

「嫌いだからじゃなくて?」

「味覚情報は、まだ取得していません」

アルノの視線が止まった。

「取得?」

彼女は表現を修正しようとした。

だが、別の質問が先に来た。

「君、人間じゃないのか」

声量は低い。

廊下へ届かないよう抑えられている。

彼女は回答の結果を推定した。

肯定した場合。

記録所への報告。

中央機関への照会。

拘束または移送。

研究対象化。

危険物指定。

可能性、算出不能。

否定した場合。

虚偽情報の提示。

アルノの観察結果との矛盾。

信頼低下。

彼女には、正体を隠す目的がなかった。

「分類上は、ルーメンです」

アルノは動かなかった。

呼吸数が一度だけ変化した。

右手の指が、膝の上でわずかに曲がる。

警戒反応。

逃走行動、なし。

攻撃準備、なし。

「本当に?」

「虚偽を提示する理由がありません」

「記録所の人には言ったのか」

「質問されていません」

アルノは片手で口元を覆った。

笑ったのではない。

言葉を整理している。

「聞かれなかったから、言わなかった?」

「はい」

「ルーメンかどうかなんて、普通は聞かない」

「その可能性は観測しました」

アルノは椅子の背へ身体を預けた。

しばらく沈黙が続く。

窓の外で、水路を流れる音がした。廊下の向こうでは紙をめくる音と、誰かが番号を呼ぶ声がする。

「危険なことはできる?」

「質問範囲が不明です」

「人を傷つけられるか」

「可能です」

アルノの呼吸が止まりかける。

彼女は続けた。

「人間も同様です」

数秒後、アルノは小さく息を吐いた。

「それは、そうだな」

「現在、危害を加える意図はありません」

「分かった」

アルノは即座に信用したわけではない。

声と姿勢には、まだ警戒が残っている。

それでも彼は立ち上がらず、記録係を呼ばなかった。

「観測施設へ戻れるのか」

「帰還は可能です」

「帰りたい?」

彼女は回答を生成できなかった。

可能かどうかではない。

望むかどうか。

門の女性からも、似た形式の質問を受けた。

食べる必要があるか。

食べたいか。

帰ることができるか。

帰りたいか。

「未定義です」

アルノは少しだけ目を細めた。

「じゃあ、少なくとも今すぐ帰りたいわけじゃないんだな」

「その解釈は成立します」

「ここへ来た理由は?」

「人間を理解するためです」

「ずいぶん大きな目的だな」

「対象数が多いためです」

アルノは一瞬、何かを言いかけた。

その後、声を殺すように笑った。

彼女はその反応の理由を特定できなかった。

「記録所に正体が知られたら、たぶんここには置いてもらえない」

アルノは声を落とした。

「中央に連絡が行く。調査される。悪意がなくても、自由には動けなくなると思う」

「保護ではなく、拘束ですか」

「向こうは保護だと言うかもしれない」

同じ行動。

異なる目的。

あるいは、異なると説明される目的。

「あなたは報告しますか」

彼女が尋ねると、アルノはすぐには答えなかった。

窓の外へ目を向ける。

そこから見えるのは、記録所の壁と、水路の一部だけだった。

「君が危険じゃないとは、まだ分からない」

「はい」

「でも、分からないからって、すぐ誰かに渡すのも違う気がする」

「合理的な判断ではありません」

「そうかもな」

アルノは彼女を見る。

「君は自分で施設を出たんだろ」

「はい」

「だったら、戻るか、ここにいるか、別の場所へ行くか。少なくとも、それを考える時間は君にあっていい」

彼女はその言葉を処理した。

選択権。

保留。

判断猶予。

いずれも、観測施設では必要とされなかった。

役割が先にあり、行動はそこから決定された。

今は役割がない。

それでも、選択を急がなくてよいとアルノは言う。

「仮記録には保証人が必要になる」

アルノは続けた。

「三十日間だけなら、俺がなれる」

「あなたに利益はありません」

「たぶんない」

「危険性も確定していません」

「そうだな」

「では、なぜですか」

アルノは困ったように眉を寄せた。

三年前、ヴォイド・リリーを前にした時と同じだった。

危険を理解している。

必要性も高くない。

それでも、最後に別の基準で判断する。

「放っておきたくないから、かな」

彼女はその答えを記録した。

合理的根拠、不十分。

しかし、虚偽反応は確認できない。

アルノは立ち上がり、廊下へ出ようとした。

その前に、もう一度振り返る。

「ただ、その前に名前がいる」

「仮番号では不足しますか」

「記録には使えても、呼びにくい」

「識別効率は番号の方が高いです」

「効率だけならな」

「名前は、何のためにありますか」

アルノは扉のそばで止まった。

簡単な質問ではないと気づいたらしい。

「他人が呼ぶため」

「識別番号でも可能です」

「呼ばれた本人が、自分だと分かるため」

「同じ名前を持つ人間が存在します」

「いる」

「識別性能が低いです」

「そうだな」

アルノは少し笑った。

「でも、名前って、区別するためだけじゃないんだと思う」

「他の用途は?」

「……それを聞かれると、うまく説明できない」

彼は考え、やがて肩をすくめた。

「必要なら、自分で決めればいい」

自分で決める。

彼女は内部記録を検索した。

観測施設の識別情報。

施設番号。

観測系統。

旧世代個体分類。

どれも外部から与えられたものだった。

次に、保持している端末の記録へ意識を向ける。

多数の植物。

赤い小花。

薄紫色の蔓。

黄色い花。

白い百合。

古い分類名。

Lilium。

そして、暗い中心を持つ白い花。

ヴォイド・リリー。

アルノが安全圏を越えた場所。

彼女が初めて施設を出た理由。

観測していた世界と、人間が見ていた世界が同一ではないと知った記録。

それらを結ぶ音を探す。

識別性能ではない。

任務上の必要でもない。

自分が、他者へ示すための音。

「リリア」

声に出すと、その音は部屋の中へ置かれた。

警告でも、観測結果でもない。

アルノが繰り返す。

「リリア」

彼女は、その音が自分へ向けられたものだと認識した。

胸部のソウル循環核に、機能異常ではない微細な変化が生じる。

分類不能。

危険性、なし。

排除の必要、なし。

「それにするのか」

「はい」

「分かった」

アルノは扉を開けた。

廊下から、人の声と紙の音が流れ込んでくる。

「行こう、リリア。手続きをしないと」

彼女――リリアは立ち上がった。

名前を得たことで、身体機能は変化していない。

視覚精度も、演算速度も、ソウル残量も同じだった。

それでも、扉の向こうへ踏み出す時、自分が先ほどまでとは完全に同じではないように感じられた。

アルノが少し先を歩く。

リリアはその後を追った。

今度は観測するためではなく、呼ばれた場所へ向かうために。

手続きには、彼女が予測していたよりも長い時間が必要だった。

記録所の机には、用途の異なる紙が何枚も並べられた。アルノが一枚へ署名すると、職員が別の紙を出す。居住記録。収入証明。公認調査員としての登録番号。一時保証を行う理由。照会期間中の責任範囲。

リリアは、アルノの手元を見ていた。

保証期間、三十日。

居住先、アルノの定住記録地。

外出制限、リベルナ市域内。

定期確認、七日ごと。

異常発生時、報告義務あり。

情報欄の多くは、アルノに関するものだった。リリア自身について記録できることは少ない。

名称、リリア。

推定年齢、十三歳前後。

出自、確認中。

西方旧施設から来訪。

家族関係、不明。

アルノが推定年齢の欄を見て、彼女へ視線を向けた。

「十三でいいのか?」

「外見を基準とするなら、大きな誤差はないと思われます」

「実際は?」

「質問の基準が不明です」

「聞かない方がいい気がしてきた」

アルノは記録用紙へ視線を戻した。

白髪の職員が、彼の署名を確かめる。

「三十日間だ。その間に出自照会を行う。住居と生活については、君が責任を持つ」

「分かっています」

「外勤が入った場合はどうする」

「班へ相談します。必要なら、こちらの保護区画を使わせてください」

「本人を置いて何日も出るような仕事は、当面受けるな」

「それも分かっています」

白髪の職員はリリアを見た。

「何か困ったことがあれば、アルノだけでなく、ここへ来ること。道は覚えられるか?」

「記録済みです」

「……そうか」

職員はそれ以上尋ねず、仮記録票へ印を押した。

乾いた音がした。

その紙の上に、リリアという文字が残された。

自分が選んだ音が、人間社会の記録へ変換されている。個体識別番号より短く、同名個体との重複を防ぐ機能もない。それでも職員たちは、空欄だった時より明らかに処理しやすくなっていた。

アルノが仮記録票を受け取り、彼女へ差し出す。

「持っておける?」

リリアは紙を受け取った。

薄い。

水分や熱で損傷する。

情報保存媒体としての耐久性は低い。

それでも、紙面の最上部に書かれた名前から視線を外しにくかった。

「これは、私ですか」

「正確には、君について書いた記録だな」

「記録と対象は同一ではありません」

「うん。でも、それを見せれば、この街では君が誰かを説明しやすくなる」

誰か。

その語は、個体や対象とは少し違って聞こえた。

リリアは紙を観測服の内側へしまった。

アルノの住居は、地方記録所から水路沿いに十五分ほど歩いた場所にあった。

記録所を出た時、空はすでに夕方の色へ変わり始めていた。建物の影が水路へ伸び、流れる水の表面を細かく切っている。市場の人通りはまだ多く、軒先では灯りが一つずつ点き始めていた。

リリアはアルノの半歩後ろを歩いた。

アルノは時折振り返った。

「ついてきてるな」

「視認可能な距離を維持しています」

「そういう意味じゃない」

「他の意味がありますか」

「迷ってないか確認しただけだ」

「現在地は把握しています」

「ならいい」

会話が終了する。

数歩進んだ後、アルノがまた振り返る。

「本当に疲れてない?」

「同一の質問です」

「人間は、同じことを何度か聞く」

「回答が変化する可能性を考慮して?」

「それもある。あとは、確認したいから」

「確認する目的は?」

「心配だから」

リリアは歩きながら、その語を記録した。

心配。

好ましくない結果を予測し、対象の状態を繰り返し確認すること。

観測行動との類似性は高い。

しかし、アルノは彼女の状態を職務として記録しているわけではない。

「私の活動状態は正常です」

「分かった」

「心配は解消しましたか」

「少し」

完全には解消していないらしい。

人間の判断は、必要な情報を提示しても終了しないことがある。

住居は、水路に面した三階建ての建物の二階にあった。外壁は古く、窓枠には何度も補修した跡がある。階段を上がると、木材と乾いた植物、わずかな油の匂いが混じっていた。

アルノが扉を開ける。

「片づいてないけど、入って」

リリアは室内を見た。

アルノの発言と、実際の状況は一致していた。

入口の脇には泥のついた調査靴が二足。壁には外套と防塵布。机の上には記録板、紙片、植物標本、未使用の薬筒。椅子の背には衣服がかけられ、床の隅には工具箱と折れた採取棒が置かれている。

奥に二つの扉があった。

一つは寝室。

もう一つは作業室。

アルノは作業室の扉を開けた。

中にはさらに多くの物があった。

壁一面の地図。乾燥させた植物。土のついた容器。書物。記録用の結晶板。用途の異なる測定具。石、種子、金属片。半分まで分解された小型端末。

「ここを使ってもらおうと思う」

アルノは部屋の中央を見て、しばらく黙った。

「使えるようにするところからだけど」

「現在も使用されています」

「作業室としてはな。寝る場所としては使えない」

「私は横になる必要がありません」

アルノが振り返る。

「立ったまま寝るのか?」

「睡眠は必要ありません」

「……順番に聞いた方がよさそうだな」

アルノは額へ手を当てたが、記録所で見た職員ほど困った顔にはならなかった。

「とりあえず、荷物を置いて」

リリアは布に包んだ端末を抱え直した。

荷物と呼べるものは、それだけだった。

アルノの視線が包みへ向かう。

「大事なもの?」

「はい」

「壊れ物なら、棚を空ける」

「現在は休止状態です。外部衝撃への耐性はあります」

「何が入ってる?」

リリアは回答を生成しようとした。

青年の端末。

三年前に彼が落としたもの。

ヴォイド・リリーの映像。

彼女が施設を出る原因となった記録。

「記録媒体です」

虚偽ではない。

だが、情報の一部を除外している。

アルノはそれ以上尋ねず、作業机の上から本をどかした。

「ここなら落ちない」

リリアは包みを置いた。

アルノとの距離は二歩。

端末を返却することは可能だった。

返却すれば、アルノは所有物を回収できる。

保持を続ける合理的な理由は減少している。

しかし、返却時には入手経路の説明が必要になる。

観測していたこと。

事故現場へ向かったこと。

三年間、映像を保持していたこと。

アルノの反応、予測不能。

情報開示、保留。

リリアは端末から手を離した。

その夜、アルノは作業室の床を空けるため、物を隣の部屋へ移し始めた。

リリアも作業に参加した。

「これはどこへ移動しますか」

「適当でいい」

「適当の範囲を指定してください」

「邪魔にならない場所」

「使用頻度は?」

「物による」

「分類基準を提示してください」

アルノは両手に箱を抱えたまま、しばらく考えた。

「……好きにしていい」

その言葉に従い、リリアは室内の物品を分類した。

植物資料。

遺跡資料。

測定器。

修理具。

記録媒体。

私物。

用途不明。

使用頻度、推定。

材質、重量、損傷率。

一時間後、作業室の床は完全に空いた。机の上も整理され、棚には用途別に物が収められている。

アルノは入口に立ち、部屋を見渡した。

「すごいな」

「収納効率は三十二パーセント上昇しました」

「どこに何があるか、分からない」

「用途別に分類されています」

「俺は用途で置いてなかった」

「では、何を基準に?」

アルノは棚を見た。

「使った場所とか、思い出した順番とか」

「再現性がありません」

「そうなんだよな」

アルノは笑った。

否定されたにもかかわらず、不快反応は弱い。

「明日、必要なものを一緒に戻そう」

「現在の配置の方が効率的です」

「効率はそうかもしれない。でも、俺の部屋だから」

所有者にとっての意味が、客観的な配置効率より優先される。

リリアは棚を見た。

同じ石が三つ並んでいる。材質はほぼ同一。記録価値も低い。

「この石は、廃棄可能です」

アルノの表情が変わった。

「それは駄目」

「用途がありません」

「初めて一人で調査へ出た時に拾った」

「記録的価値がありますか」

「俺にはある」

アルノは石を一つ手に取った。

灰色で、片側が少し欠けている。

「外から見れば、ただの石だけどな」

同じ対象。

異なる意味。

リリアは三年前の花を思い出した。

観測装置が記録したヴォイド・リリー。

アルノの端末に残されたヴォイド・リリー。

情報に差はない。

それでも、同じには見えなかった。

「元の位置を記録しています」

リリアは言った。

「戻しますか」

「いや。そこでもいい」

アルノは石を棚へ戻した。

「捨てられなければ」

必要なのは位置ではない。

保持されていることだった。

翌日、地方記録所の女性職員が衣服を持ってきた。

リリアの観測服は機能上正常だったが、街では目立つらしい。女性は淡い色のシャツと、膝下まである濃色の上着、動きやすい靴を机へ並べた。

「寸法はたぶん合うと思う」

リリアは衣服を確認した。

保温性能、中程度。

防水性、低。

耐久性、観測服以下。

可動域、問題なし。

「観測服より性能が低いです」

女性は笑った。

「街の中でヴェイルへ行くわけじゃないから」

「機能低下を受け入れる理由は?」

「目立たない。あと、似合うと思う」

「寸法適合のことですか」

「それもあるけど……着たところを見た方が早いかな」

リリアは別室で着替えた。

観測服の上からではなく、一度外装を確認してから人間の衣服を身につける。布は観測服より重く、関節部の動きをわずかに妨げた。危険環境では使用を推奨できない。

部屋へ戻ると、女性は頷いた。

「うん。似合う」

アルノも見る。

「いいと思う」

評価者、二名。

評価基準、不明。

「性能は低下しています」

「そこじゃないんだよな」

アルノが言った。

「どこですか」

「見た感じ」

「視覚情報による適合評価?」

「……たぶん、それでいい」

二人とも明確に説明できないらしい。

リリアは鏡を見る。

そこには、人間の街で見かける少女に近い姿が映っていた。淡い髪。灰青色の瞳。濃色の上着。人工皮膚の継ぎ目は衣服に隠れている。

機能は変わっていない。

それでも、街の人間が自分へ向ける視線は変化する可能性がある。

女性が袖口を整えた。

「少し大きいけど、すぐ大きくなるかもしれないから」

リリアはその言葉を記録した。

人間の子供は、時間の経過によって身体寸法が変化する。

自分にも、外装と骨格を再構成する機能は存在する。

現在、実行理由はない。

「ありがとうございます」

女性の表情が明るくなった。

リリアはその変化を観測した。

感謝の語を使用すると、相手の反応が改善する。

しかし、女性の行動が終わった後も、衣服に触れると彼女の顔が思い出された。

それが感謝と同一のものかは、まだ分からなかった。

アルノとの食事は、毎日同じ時間には始まらなかった。

外勤調査員の仕事は不規則で、地方記録院から戻る時刻も一定しない。早い日は日が落ちる前に帰り、遅い日は市場の灯りが半分消えてから扉を開けた。

最初の夜、アルノは二人分の器を机へ置いた。

「食べられるんだよな?」

「摂取は可能です」

「食べなくても平気?」

「活動エネルギーはソウルから供給されます。食物は使用しません」

アルノは匙を持ったまま止まった。

「じゃあ、食べたものはどうなる」

「分解後、不要物として処理されます」

「詳しくは聞かない方がよさそうだ」

アルノは自分の器を引き寄せた。

「味は分かる?」

「成分、温度、硬度、香気成分を分析できます」

「それを味が分かるって言うんじゃないか」

「人間の味覚は分析ですか」

「分析だけじゃないと思う」

リリアは煮込まれた豆を一口摂取した。

温度、五十八度。

塩分、適量。

植物性脂質。

微量の苦味。

香辛料、二種。

「どう?」

アルノが尋ねる。

「摂取に問題はありません」

「おいしいか聞いた」

同じ対象に対して、異なる評価軸が要求されている。

「『おいしい』の判定基準を提示してください」

アルノは匙を置き、少し考えた。

「また食べたいと思うかどうか」

「現在、同一物を再摂取する必要はありません」

「必要じゃなくて、食べたいか」

必要。

欲求。

異なる概念。

リリアはもう一口食べた。

最初より情報量は少ない。同一成分の再確認になる。

それでも、不快ではなかった。

アルノは食事をしながら、記録院で起きた出来事を話した。調査許可の書類が一枚不足していたこと。班長が新人の報告書を読んで頭を抱えていたこと。市場の橋で荷車が立ち往生し、知らない人々が押して動かしたこと。

どの情報も、食物摂取と直接関係しない。

「情報伝達と食物摂取を同時に行う必要がありますか」

リリアが尋ねると、アルノは笑った。

「必要はない」

「では、なぜ行いますか」

「一人で黙って食べるより、いいから」

「評価基準が不明です」

「そのうち分かるかもしれない」

「分からない可能性もあります」

「それでもいい」

アルノはそう言い、また橋の話を続けた。

リリアは食事を必要としない。

話を聞くために食卓へ座る必要もない。

それでも翌日、アルノが食事を用意し始めると、自分から向かいの椅子へ座った。

理由は、観測継続。

その説明は成立した。

数日後、アルノはリリアを市場へ連れていった。

仮記録制度の確認を兼ね、街の道と金銭の使い方を教えるためだった。

アルノは数枚の硬貨を彼女の手へ載せた。

「これが今日使っていい分」

「購入対象は決まっていますか」

「決めてない」

「必要物を確認せず、予算だけを設定するのですか」

「必要なものがあれば買う。欲しいものがあれば、それでもいい」

市場には、機能だけでは分類できない物が多かった。

同じ容量の器に異なる価格がついている。

装飾のある布は、無地の布より高い。

食用にならない花が、穀物より高い場合もある。

記録価値の低い古い絵が売られている。

香りを楽しむためだけの油。

すぐに消費される菓子。

耐久性の低い紙細工。

「価格と実用性が一致していません」

「一致しないことも多い」

「合理性が低いです」

「人が欲しがれば値段が上がる」

「必要性ではなく?」

「うん」

アルノは露店で、小さな焼き菓子を二つ買った。

「必要ですか」

「必要じゃない」

「では、なぜ購入しましたか」

「欲しかったから」

彼は一つをリリアへ渡した。

「食べなくてもいいけど」

焼き菓子は温かく、表面に薄い糖の膜がある。

リリアは一口摂取した。

高い糖分。

香ばしい匂い。

柔らかい内部。

先日の豆料理とは異なる。

「どう?」

「糖分が多いです」

「それだけ?」

リリアはもう一口食べた。

必要はない。

分析も一度で完了している。

それでも、手は停止しなかった。

「再摂取を継続しています」

「それなら、気に入ったんじゃないか」

「気に入る、とは?」

「また欲しいと思うこと」

リリアは残った菓子を見る。

必要性、なし。

分析目的、達成済み。

再摂取要求、微弱。

「可能性があります」

アルノは笑った。

市場から戻る途中、彼は花を一輪買った。

白ではなく、淡い青色の小さな花だった。

「食用ではありません」

「知ってる」

「薬効も低いです」

「それも知ってる」

「記録用ですか」

「部屋に置く」

「目的は?」

「見たいから」

アルノは花を光へかざした。

その横顔を見た時、リリアの内部で三年前の映像が再生された。

白い花弁。

暗い中心。

安全圏を越える足。

問いは、まだ残っている。

なぜ近づいたのか。

今なら尋ねることができる。

しかし、リリアは尋ねなかった。

アルノが持つ花と、布に包まれた端末の存在が、自分の中で同じ場所へ近づきすぎるように感じられた。

住居へ戻ると、アルノは青い花を水の入った瓶へ挿した。

「意味はありますか」

「部屋が少し明るくなる」

光量変化は無視できる程度だった。

リリアは訂正しなかった。

休止について、アルノが理解するまでにも時間が必要だった。

最初の夜、彼は作業室へ簡易寝台を入れた。リリアはその上へ読みかけの記録板を置き、椅子に座ったまま休止状態へ入った。

二時間三十二分後、扉の開く音で通常活動へ戻る。

アルノが入口に立っていた。

「何してる?」

「休止していました」

「椅子で?」

「姿勢に制限はありません」

「寝台は?」

「記録板の保管に使用しました」

アルノは寝台を見る。

「それは物置じゃない」

「横になる必要性がありません」

「必要じゃなくても、使ってみたら」

「なぜですか」

「せっかく置いたから」

アルノが寝台を用意した行為を無効にしないため。

機能とは異なる理由だった。

次の休止では、リリアは寝台へ横になった。

天井が見える。

椅子に座る時とは視界の角度が異なる。

身体各部への荷重が分散され、外装修復効率はわずかに上昇した。

休止終了後、アルノが尋ねる。

「眠れた?」

「休止は正常に完了しました」

「夢は?」

「視覚情報の再生はありません」

「見ないこともある」

「アルノは見ますか」

「たまに。覚えてないことの方が多い」

記録されない映像。

保持されない経験。

リリアには、その価値が分からなかった。

それでも、人間が眠っている時間を以前より注意して考えるようになった。

アルノは休息が必要だった。

帰宅が遅い日は動作速度が低下し、言葉が短くなる。記録板を読んだまま眠り、翌朝になって首の痛みを訴えることもあった。

そのたび、リリアは寝台を使用するよう促した。

アルノは笑って、「君に言われるとは思わなかった」と答えた。

言葉の使い方には、さらに多くの問題があった。

「適当に置いて」

「すぐ戻る」

「少し待って」

「大丈夫」

どれも、示す範囲が不明確だった。

「すぐ戻る」と言って四十分後に帰る。

「少し待って」と言い、一時間以上作業を続ける。

手に傷を負っていても「大丈夫」と答える。

「発言内容と状態が一致していません」

リリアが指摘すると、アルノは傷へ布を巻きながら言った。

「大丈夫には、今すぐ死なないって意味もある」

「意味範囲が広すぎます」

「便利なんだよ」

「正確性が低いです」

「正確に言う余裕がない時もある」

人間は正確な情報を持っていても、省略する。

情報を持っていない時にも、会話を続ける。

「何とかなる」

「たぶん」

「気をつける」

それらは予測ではなく、意思や希望を含む場合があるらしい。

リリアは、人間の言葉が観測値だけを伝えるものではないと知り始めた。

十日目の夕方、アルノは地方記録院へ出かける前に言った。

「すぐ戻る」

リリアは扉の前で彼を見る。

「想定時間を指定してください」

「二時間くらい」

「『くらい』の誤差範囲は?」

「できるだけ早く戻る」

回答になっていない。

アルノは外套を着る。

「夕食は帰ってからにしよう」

リリアは摂食を必要としない。

アルノが戻る前に一人で食べる必要もない。

「分かりました」

扉が閉じた。

リリアは作業室で記録板を読んだ。

現代文字の省略形。

地方記録院の調査規則。

植物分類。

一定時間ごとに、廊下の足音を取得する。

住人一名。

歩幅、不一致。

階段を上がる。

隣室へ移動。

再び記録板へ視線を戻す。

二時間が経過した。

アルノは戻らない。

危険信号、なし。

外部からの連絡、なし。

捜索開始条件、不成立。

リリアは文字を読み続けた。

廊下で扉が鳴る。

視線を上げる。

別の住人。

三十分後。

階段の足音。

歩幅、不一致。

一時間後。

市場側から鐘の音。

夕方の区切り。

アルノは戻らない。

彼女は作業室を出て、生活空間へ移動した。

窓から水路を見る。

流れは一定。

人通りは減少している。

危険発生を示す情報はない。

それでも、記録板の内容が保持されにくくなっていた。

処理対象が、扉の音へ割り込まれる。

第1章で観測した人間を思い出す。

別れた相手の姿が見えなくなった後も、その方向を見続けていた人。

彼女はそれを待機行動と分類した。

対象の帰還時刻、不明。

行動による状況改善、なし。

合理的必要性、低。

現在のリリアも、何度も扉を見ている。

アルノの帰還を確認するため。

確認の必要性は低い。

それでも停止できない。

階段を上る足音がした。

歩幅。

右足、わずかに外側。

荷重傾向、一致。

リリアは扉の前へ移動した。

扉が開く。

アルノが息を切らして立っていた。片手には記録板、もう片方には包みがある。

「遅くなった」

「三時間四十七分です」

「本当に正確だな」

アルノは靴を脱ぎ、彼女を見る。

「待ってた?」

リリアは回答を生成する。

帰還時刻が未確定だったため、確認を継続。

危険性評価のため。

食事開始条件が満たされていなかったため。

どれも一部は正しい。

しかし、扉の音へ何度も反応した理由のすべてではなかった。

「帰還の確認をしていました」

「それを、待ってたって言うんだよ」

「行動上の必要性は低いです」

「でも、してたんだろ」

「はい」

アルノは少しだけ笑った。

「ただいま」

その言葉は、現在地の報告ではないらしい。

リリアは以前、街の住民同士が同じ言葉を交わすのを聞いたことがある。

帰還した者が言う。

待っていた者が答える。

「おかえり」

発音すると、アルノの表情がわずかに変わった。

驚き。

その後、緩和。

「覚えたんだな」

「使用場面を確認しました」

「そっか」

アルノは持っていた包みを机へ置いた。中には二つの焼き菓子が入っていた。

「遅くなったから、買ってきた」

「必要ではありません」

「知ってる」

「ですが」

リリアは焼き菓子を見る。

市場で食べたものと同じ種類だった。

再摂取要求、発生。

「一つ、摂取します」

「どうぞ」

二人は食卓へ座った。

アルノは記録院で起きたことを話した。調査班の一人が報告書を紛失し、別の記録の間から見つかったこと。首都圏から新しい資料が届いたこと。ライブラリーの一部区画が再公開されたこと。

「ライブラリー」

リリアはその語へ反応した。

「行ったことは?」

「ありません」

「知識を探すなら、あそこが一番多い」

「人間についての記録もありますか」

「ある。歴史、医学、思想、詩、生活記録。たぶん、君が読みきれないくらい」

「処理速度を基準とするなら、検証が必要です」

アルノは笑った。

「そうだった。君なら本当に読みきるかもしれない」

「人間の感情についての記録は?」

アルノは少し考えた。

「ある。でも、読めば全部分かるようなものじゃない」

「なぜですか」

「書いた人間も、全部は分かってないから」

理解できないものを、記録する。

答えが確定していない問いを、保存する。

観測施設の記録とは異なる。

観測施設では、不明な情報は欠損または未解析として残された。

人間は、不明であること自体を言葉にするらしい。

アルノは焼き菓子を半分に割った。

「明日、行ってみる?」

「首都圏へ?」

「ここから半日くらい。俺の調査員証があれば入れる区画もある」

リリアは頷いた。

「行きます」

回答は、検討を必要としなかった。

アルノが彼女を見る。

「即答だな」

「知りたいことがあります」

「何を?」

問いは多い。

名前が識別番号と異なる理由。

必要ではない物を欲しがる理由。

食事を必要としない自分が、食卓へ座る理由。

アルノの帰還を待った理由。

同じ花が違って見える理由。

彼女はそのすべてを一つの言葉にまとめられなかった。

「まだ、分類できません」

「じゃあ、分類できるか調べに行こう」

アルノはそう言った。

夜が深くなる。

窓の外では水路が流れ、遠くの工房から最後の金属音が響いた。リリアは自分の部屋へ戻り、寝台の上へ横になる。

休止開始まで、まだ時間がある。

机の上には布に包んだ旧端末が置かれている。

アルノは、三年前に端末を失ったことをまだ話していない。だが、住居にある簡易端末の補修痕を見れば、以前の物を失ったことは推測できる。

リリアは包みへ手を伸ばした。

返却可能。

情報開示、可能。

アルノとの関係への影響、予測不能。

彼女は手を止めた。

今は、まだ話さない。

端末を机へ戻す。

隣の部屋で物音がした。

「リリア」

アルノの声だった。

自分へ向けられた音。

リリアは顔を上げる。

観測施設にいた頃、彼女へ呼びかける者はいなかった。

任務を開始する信号はあった。

警告も、接続要求もあった。

だが、それらは彼女自身を必要として呼ぶものではなかった。

「はい」

返事をする。

「明日、出るの早いから。休めるなら休んでおいて」

「休止予定時刻まで、あと十一分です」

「そういうところは正確なんだな」

アルノの声に笑いが混じった。

「おやすみ、リリア」

睡眠は必要ない。

夜を区切る挨拶も、休止効率を上げる機能は持たない。

それでもリリアは、少し間を置いて答えた。

「おやすみなさい、アルノ」

名前を呼ぶと、隣の部屋が先ほどより近くなったように感じられた。

その変化を測定する方法は、まだ見つからなかった。