『レムナント・ヴェイル ― ヴォイド・リリー・オブ・ザ・ニル ―』

第3章 現象と意味

朝のリベルナには、夜の名残が水路の上に残っていた。

工房の炉はまだすべて起動しておらず、市場の天幕も半分ほどが畳まれたままだった。薄い霧の中を、荷車の車輪が濡れた石畳を擦っていく。人の声は少なく、一つの音がいつもより遠くまで届いた。

リリアはアルノと並び、地方記録院の搬送所へ向かっていた。

生成り色のシャツ。濃紺の膝丈キュロット。灰色の短い上着。革製の靴。

観測服より防護性能は低い。温度調整機能もなく、布地は外気の湿度を吸収していた。しかし、すれ違う人間が彼女を振り返る頻度は、リベルナへ到着した日より大きく低下している。

街での擬装効果、良好。

歩行性能、問題なし。

外気温、十二度。

目的地まで、残り七百四十メートル。

「寒くない?」

アルノが尋ねた。

「外装表面の温度は許容範囲です」

「そうじゃなくて」

「質問の意味は理解しています。活動に支障はありません」

アルノは何か言おうとして、やめた。最近、その反応が増えている。

彼はリリアの答えを否定する代わりに、問い方を変えようとする。だが、人間の感覚を別の言葉へ置き換えることは、アルノにとっても簡単ではないらしい。

「上着、閉じておいた方がいい」

「必要ですか」

「首都圏へ着く頃には暖かくなるかもしれないけど、今は閉じた方がいいと思う」

必要ではなく、勧めている。

リリアは上着の留め具を閉じた。布が首元へ近づき、外気の流れが弱まる。

活動効率への影響はほとんどない。それでも、アルノは一度頷いた。

搬送所には、屋根の下へ細長い車両が停まっていた。旧時代の輸送機構を修復したもので、車輪は使わず、石造りの案内路からわずかに浮いている。側面には地方記録院の印と、首都圏までの停車地が記されていた。

出発予定時刻まで、十九分。

乗客、十一名。

積載作業員、四名。

搬入予定荷物、残り七箱。

出発に必要な条件は、まだ満たされていない。

リリアは乗降口の前で停止した。

「十九分、待機します」

「そうだな」

アルノは近くの長椅子へ座った。

リリアも隣へ座る。

待機中に実行可能な作業は複数あった。首都圏の地図を再確認する。入館手続きの順序を確認する。閲覧希望分野を整理する。

しかしアルノは資料を開かず、搬送所の外を見ていた。

「作業を開始しないのですか」

「何の?」

「移動中に確認する資料があります」

「車内でやる」

「現在も実行可能です」

「出発するまでは、少しぼんやりしていたい」

ぼんやりする。

特定の処理対象を定めず、周囲の情報を低い優先度で受け取る状態。

ルーメンの休止とは異なる。人間は活動中にも、意図的に処理密度を下げるらしい。

リリアはアルノと同じ方向を見た。

道の向こうで、商店の主人が木箱を外へ運んでいる。別の男が通りかかり、頼まれていないのに片側を持った。二人は短く言葉を交わし、箱を運び終えると別々の方向へ去った。

さらに奥では、犬に似た小動物が水路の縁を歩いている。前脚を滑らせ、すぐに体勢を立て直した。それを見ていた子供が笑い、隣の大人も少し遅れて笑った。

重要情報、なし。

危険、なし。

記録上の価値、低。

それでも、アルノがぼんやり見ているものを、自分も見続けた。

十九分は、観測施設にいた頃と同じ長さで経過した。

だが、何もせずに待っていた時間は、数値より短かったような気がした。

搬送車は予定より三分遅れて出発した。

荷物の固定に不備が見つかり、作業員が一度積み直したためだった。リリアは遅延を記録したが、乗客の誰も不満を示さなかった。むしろ、最後に運び込まれた箱の持ち主は何度も礼を言い、作業員は「間に合ったならいい」と答えていた。

車両がゆっくりと動き出す。

リベルナの建物が後方へ流れ、水路がしばらく並走したあと、旧道の下へ消えていった。

リリアは窓側へ座った。

隣にはアルノ。

向かい側には、籠を抱えた老女と、小さな鞄を膝に載せた少年がいる。少年は出発してから三度、窓の外とリリアを交互に見た。

四度目に視線が合うと、少年は尋ねた。

「首都に行くの?」

「はい」

「何しに?」

「ライブラリーで記録を閲覧します」

「勉強?」

「知識の取得と、未分類項目の照合を行います」

少年はアルノを見た。

「難しい子だね」

「俺もたまにそう思う」

アルノが答えた。

「難易度に関する質問は受けていません」

少年は少し黙ったあと、笑った。

「やっぱり難しい」

発言内容は変わっていない。だが、二度目の「難しい」には否定的な反応が含まれていないようだった。

老女が籠から焼いた木の実を取り出し、少年へ一つ渡す。それからアルノとリリアにも差し出した。

「食べるかい」

アルノは礼を言って受け取った。

リリアは手のひらに置かれた木の実を見る。

摂食、不要。

成分分析、未実施。

未知の味覚情報、取得可能。

「ありがとうございます」

今度は、促される前に言葉が出た。

老女は何気なく頷き、窓の外へ目を戻した。

反応は小さい。

以前、街で衣服を受け取った時のような、明確な表情変化もない。

それでも、使用場面は適合していたと思われる。

リリアは殻を割り、中身を口へ入れた。

硬い。

わずかな甘味。

加熱された油脂の香り。

「おいしい?」

アルノが尋ねる。

「再摂取してもよいと判断します」

「だいぶ近づいたな」

「何にですか」

「おいしい、に」

リリアは残った半分を見る。

自分が「おいしい」と判断したのかは、まだ確定できない。だが、同じものをもう一つ与えられた場合、摂取を拒否する理由はなかった。

搬送車は首都圏へ近づくにつれ、何度か停止した。

人を乗せるため。

記録箱を下ろすため。

道を横断する家畜の群れを待つため。

予定された停車と、予定外の停車が混在している。

最短時間での移動ではない。

しかし車内では、そのたびに会話が生じた。

乗ってきた人間が空いている席を尋ねる。降りる者が隣人へ別れを告げる。家畜が道を塞いだ時には、少年が数を数え始め、アルノも途中から加わった。

「三十二」

「三十三だよ」

「一頭、荷車の後ろにいた」

「本当だ」

数える必要はない。

移動再開の条件は、家畜が道を渡り終えることであり、総数の確定ではなかった。

それでもリリアも視線を向けた。

三十三頭。

少年の数が正しい。

「三十三です」

リリアが言うと、少年は満足そうに胸を張った。

移動時間には、目的地へ到達する以外の出来事が生じる。

人間はそれらを、遅延としてだけ処理しない。

窓の向こうでは、低い丘と古い記録塔が交互に過ぎていった。遠方に残る白い構造物は、かつて観測施設の一部だった可能性がある。以前なら識別信号へ接続し、機能状態を確認できただろう。

今は、名前も用途も分からないまま遠ざかっていく。

分からないものが視界に残る。

それは欠損であるはずだった。

だが、その白い塔は、詳細を取得できないことで、空の中に長く残っているように見えた。

首都圏の外縁へ入ったのは、出発から四時間後だった。

建物の高さが徐々に増し、道の上を記録搬送用の細い軌道が交差している。壁面には案内表示と古い文字が重なり、異なる時代の情報が一つの街路に残されていた。

リベルナにも記録塔はある。

しかし首都圏では、記録を保存し、運び、照合するための構造が、建物そのものへ組み込まれていた。

窓のない保管棟。

光を避けるため地下へ続く搬入口。

紙の乾燥室。

結晶媒体を冷却する塔。

通行人の衣服にも、所属区画や閲覧資格を示す小さな印がある。

情報量、増加。

文字情報、過密。

移動経路、複雑。

視界内の記録媒体、推定不能。

それでも、観測施設で昼間の情報を受け取っていた時とは違った。

あの頃の情報は、彼女へ向けて流れてきた。

今は、自分から近づかなければ読めない。扉を開き、棚を探し、誰かへ尋ねなければ取得できない。

情報はそこにある。

だが、すべてが彼女のものではない。

中央ライブラリーは、首都圏の中心から少し外れた場所にあった。

正面から見ると、一つの建物には見えない。

古い石造りの書庫。その背後へ増築された白い保存棟。両者をつなぐ透明な通路。地下へ沈む演算区画。屋上には温湿度を調整する細い塔が並んでいる。

異なる時代の建築が、互いを壊さないように支え合っていた。

入口の上には、現在の共通語で名称が記され、その下には読めないほど摩耗した古い文字が残っている。

「大きいな」

アルノが言った。

「内部容積は、外観から正確に推定できません」

「感想を言ったんだけど」

リリアは建物を見上げた。

大きい。

物理的な寸法を示す語。

同時に、人間が予想を超えるものを見た時にも使用する。

「はい。大きいです」

アルノは彼女を見て、少し笑った。

入館手続きには、アルノの調査員証と、リリアの仮記録証が必要だった。

受付の女性は、リリアの証明書を確認したあと、名前欄へ目を留めた。

「リリア。閲覧目的は?」

「人間の感情、言葉の意味、現象操作、および意味層に関する記録の確認です」

女性はアルノを見る。

「範囲が広いですね」

「本人もまだ分類できてないそうです」

「でしたら、一般思想区画から始めた方がいいかもしれません。技術資料は、調査員同伴で再公開区画まで入れます」

閲覧札が二枚渡される。

一枚にはアルノの名前。

もう一枚にはリリアの名前。

記録所で初めて紙に書かれた時より、自分の名前が他者の手で使用されることに対する違和感は少なかった。

内部へ入ると、空気が変わった。

温度は一定。

湿度は低い。

紙、布、木材、保存剤、結晶媒体の冷却材。複数の匂いが混ざっているが、街の市場ほど強くはない。

人々は小さな声で話し、足音さえ抑えて歩いている。

音がないのではない。

大量の言葉が、閉じた書物や記録板の中に留められている。

観測施設の夜に似ている。

だが、静けさの内側にある情報量は、夜とは反対だった。

「気に入った?」

アルノが尋ねた。

リリアは即答しなかった。

情報取得に適した環境。

未閲覧資料、多数。

活動継続要求、上昇。

「長時間の滞在が可能です」

「それは気に入ったってことでいいのかな」

「まだ判断できません」

二人は一般閲覧区画へ向かった。

最初に開いたのは、感情を生理反応として説明する医学資料だった。

呼吸変化。

筋緊張。

体温。

分泌。

記憶との連動。

危険回避や集団行動への影響。

構造は理解できる。

入力と反応の関係も、一部は演算可能だった。

次に読んだ思想書では、感情は判断に先行するものではなく、人が世界へ価値を与えた結果だと説明されていた。

三冊目には、どちらとも異なることが書かれている。

感情は身体だけでも、判断だけでもない。

誰かとの関係の中で生じ、本人にも正確に説明できない。

記述、不一致。

定義、統合不能。

相互に排他的な説明、複数。

リリアは三冊を机に並べた。

「どれが正しいのですか」

向かいで植物資料を読んでいたアルノが顔を上げる。

「俺に聞く?」

「人間です」

「人間でも分からないことはある」

「すべてが正しい可能性は?」

「あるかもしれない。人や場面によって違うとか」

「一つの現象に、複数の原因を認めるのですか」

「感情を一つの現象って呼んでいいのかも、俺には分からない」

回答が増えるほど、分類項目も増える。

それでもアルノは、分からないことを問題としていないようだった。

近くにいた資料担当者へ、リリアは同じ質問をした。

五十代ほどの女性で、古い紙資料を薄い板の間へ移している。

「矛盾する記録を、なぜ同時に保存するのですか」

女性は作業の手を止めた。

「どの記録ですか」

リリアが三冊を示すと、女性は題名を確認した。

「書かれた時代も、研究分野も違いますからね」

「正しいものだけを残せば、検索効率が上昇します」

「正しいものが分かれば、そうできるかもしれません」

「分からないのですか」

「今のところは」

女性は本を一冊ずつ重ね直した。

「昔は正しいと思われていたことが、後で間違いだと分かることもあります。逆に、間違いとされた記録が、別の条件では正しかったと分かることもある」

「未確定情報を破棄しない」

「ええ。それに、答えがなくても、誰かが何を考えたかは残せます」

理解できないものを、理解できないまま保存する。

観測施設では、未解析情報には処理待ちの印がついた。将来、より多くの情報が得られれば、一つの結果へ統合されることを前提としていた。

ここでは違う。

統合されない可能性も含めて保存されている。

「答えが得られない記録にも、価値がありますか」

「答えが得られなかったと分かるだけでも、次の人は同じ場所から始めずに済みます」

女性は少し考え、付け加えた。

「それに、答えがないから残したくなるものもあります」

リリアには、その最後の言葉だけがすぐには理解できなかった。

二日目、リリアは「待つ」という語を調べた。

辞書には、対象が来るまで時間を過ごすこと、と記されている。

正確だが、不足しているように感じた。

生活記録には、戦地から戻らない家族を何年も待った者の文章があった。

戻る確率は年ごとに低下している。

待機によって帰還率は変化しない。

それでも、その人物は毎日、窓を開けた。

別の記録には、約束した相手が来なかったため、怒って帰った者の文章がある。

同じ「待つ」でも、時間、期待、信頼、失望が異なる。

リリアはアルノの帰りが遅れた夜を思い出した。

扉の音へ何度も注意を移した。

文字の読解速度が低下した。

帰還を確認した時、処理の乱れが収束した。

単なる時間経過ではない。

誰かがいない状態を、意識し続けること。

三日目には「欲しい」を調べた。

不足物の取得要求。

所有願望。

他者との関係を示す贈与。

必要性と無関係に発生する選好。

焼き菓子をもう一度食べた時、分析は一度で完了していた。それでも再摂取要求が発生した。

あれは「欲しい」に含まれるのかもしれない。

四日目、リリアは「美しい」を調べた。

形状。

対称性。

色彩。

希少性。

文化的価値。

記憶との結びつき。

記録ごとに説明が異なる。

同じ花を美しいとする者も、恐ろしいとする者もいる。

危険であることと、美しいことは排他的ではない。

その一文を読んだ時、リリアの視界に白い花が再生された。

暗い中心。

青銀の縁。

風に揺れる六枚の花弁。

観測施設の映像。

布に包んで保管している端末の映像。

時刻も、座標も、対象も同じだった。

違っていたのは、見る位置だけではない。

映像の揺れ。

撮影者の呼吸。

光を待った時間。

アルノが花へ向けていたものが、物理情報以外の形で記録に残っていた可能性がある。

リリアは隣で資料を読んでいるアルノを見た。

「アルノ」

「何?」

「あなたは――」

ヴォイド・リリーを美しいと思いましたか。

質問は生成できた。

しかし、そのまま発すれば、別の質問が返される。

なぜ、その花を知っているのか。

なぜ三年前の出来事を知っているのか。

旧端末を、なぜ持っているのか。

「……首都圏では、危険植物の記録も保存されていますか」

質問を変更した。

「あると思う。植物資料区画で探す?」

「今日は必要ありません」

アルノは少し不思議そうに彼女を見たが、追及しなかった。

質問を保留した後も、白い花の像はすぐには消えなかった。

再公開された技術資料区画へ入ったのは、五度目の訪問だった。

一般区画より気温が低く、壁面には資料の欠損率と閲覧上の注意が表示されている。記録の多くは完全な文章ではなく、実験図、演算式、破損した映像、後世の注釈によって構成されていた。

現象操作。

ソウル変換。

認識補助。

観測者依存性。

意味層。

最後の語で、リリアの処理が止まった。

資料は一つではない。

意味層を、観測者が世界を分類するための認識構造とするもの。

物理現象より深い場所に、対象の性質や関係を保持する層が実在するとするもの。

演算者の意思と現象結果を接続する中間領域とするもの。

強い記憶や感情が、現象操作の精度へ影響したという実験記録。

名称を与えた対象の方が、無名の対象より操作が安定したという未再現報告。

確定理論、なし。

再現不能事例、多数。

測定方法、不統一。

資料欠損率、高。

それでもリリアは、閲覧を中断しなかった。

名前が対象の物理構造を変えるわけではない。

「リリア」と名づけた後も、外装、演算能力、ソウル循環量に変化はなかった。

だが、自分を呼ぶ音と、自分自身の認識は変化した。

アルノの部屋にあった石も同じだった。

材質だけなら、廃棄可能な石片。

アルノにとっては、初めて一人で調査へ出た記録。

物理的性質とは別の何かが、対象の扱われ方を変えている。

意味とは、対象の中にあるのか。

見る者の中にあるのか。

両者のあいだに生じるのか。

資料は答えを一つに定めていなかった。

「これ、分かるのか?」

アルノが、リリアの開いている演算図を覗き込んだ。

「各記号の意味は理解できます」

「内容は?」

「複数の解釈が成立します」

「分からないってこと?」

「完全には」

「君でもそういうことがあるんだな」

アルノの声には、失望ではなく、わずかな安堵が混じっていた。

「なぜ安心しましたか」

「安心したように見えた?」

「口元の緊張が低下しました」

アルノは自分の口元へ触れた。

「何でもすぐ分かる相手だと、こっちが何を言っても遅い気がするからかもしれない」

「私は、人間の感情を理解できていません」

「そういうところも含めて」

アルノは演算図を見る。

「それで、何が書いてある?」

リリアは資料を簡略化して説明した。

通常の現象操作は、対象を観測し、変化させる物理量を選び、必要な出力を演算する。

しかし一部の記録では、演算者が対象をどう認識していたかによって、同じ出力でも結果の安定性が変化した。

「例えば?」

「岩を移動させる場合、重量のみを操作対象とする方法と、岩を『道を塞ぐもの』として認識する方法では、演算結果に差が生じた可能性があります」

「道を塞ぐものだから、どかしやすくなる?」

「そのような単純な因果ではありません。対象へ与えた意味が、操作の方向を限定した可能性があります」

「限定した?」

「何でも可能になるのではなく、望む結果以外へ出力が分散しにくくなる」

アルノはしばらく考えた。

「人が手で物を動かす時も、どこへ置きたいか分かってた方が動かしやすい、みたいなものか」

「物理的な筋出力とは異なりますが、概念上の類似性はあります」

リリアは記録を閉じなかった。

現象操作へ、意味を加える。

なぜ動かしたいのか。

何のために変化を望むのか。

誰のための結果なのか。

それらを演算へ組み込む。

理論上は可能性がある。

だが、感情や意思を数値として定義する方法は記録されていない。

帰宅後、リリアは作業室の机へ浅い器を置いた。

器には水が入っている。

対象質量、二百十八グラム。

水温、十九・四度。

外部振動、許容範囲。

空気流、安定。

アルノは机の反対側に座り、リリアの準備を見ていた。

「危なくない?」

「水流方向を数センチメートル変更するだけです」

「それなら大丈夫か」

リリアは水面へ意識を向けた。

通常の現象操作なら難しくない。

水の運動を読み、器の左側へ流れを偏らせる。

「水よ。流動方向を変更してください」

言葉と同時に演算を実行する。

水面が傾き、左側の縁へ寄った。

出力、正常。

消費ソウル、通常範囲。

精度、通常操作と同一。

意味層接続を示す差異、なし。

「動いた」

アルノが言った。

「通常の操作です」

「言った意味はなかった?」

「確認できません」

次に、ライブラリーの資料に記録されていた文章を使用する。

そこでは、流れを変えた演算者が自らの意思を水へ伝えたと記されていた。

リリアは文章を正確に再生した。

「水よ。私の思いを受け取り、新しい道を見つけて」

演算を開始する。

水面が震えた。

一部は右へ、一部は左へ動く。

流れが統一されず、器の中央で小さな波が衝突した。

出力効率、低下。

方向誤差、増大。

ソウル消費、通常比一・三倍。

リリアは操作を停止した。

水面が静まる。

「失敗?」

「通常操作より結果が悪化しました」

アルノは水面を見たあと、リリアへ視線を移した。

「その『思い』って、何?」

「資料に記録された表現です」

「それは分かる。リリアの思いは?」

リリアは回答を検索した。

水を左へ移動させる。

実験を成功させる。

理論を再現する。

記録との差異を確認する。

どれも実験目的であり、水へ伝えた文章の意味とは一致していない。

新しい道を見つけてほしいとは考えていなかった。

水がどちらへ進んでも、結果を記録できれば実験目的は達成される。

「該当するものはありません」

「じゃあ、書いてあった言葉を読んだだけ?」

「はい」

アルノは椅子へ深く座り直した。

「書いてある言葉を読むのと、自分が本当にそうしてほしいと思うのは、違うんじゃないか」

「発音と語義は正確です」

「でも、リリアが言いたかったことじゃない」

言いたかったこと。

言葉は、情報を正確に伝えるためのものだと考えていた。

意味層へ接続するのであれば、正しい語を選ぶ必要がある。

しかし、借りた言葉は正しくても、自分の内部には対応する意思が存在しなかった。

原因は発音でも、演算式でもない。

自分が何を望んでいるのか。

それを定義できていないこと。

リリアは器の中の水を見る。

水面には、天井の灯りと、自分の輪郭が揺れていた。

観測施設にいた頃なら、失敗は条件不足として処理できた。

今も同じように分類することは可能だった。

だが、今回不足している条件は外部にはない。

測定器にも、資料にもない。

自分の内側にあるはずのものを、自分で見つけなければならない。

「もう一回やる?」

アルノが尋ねた。

リリアはすぐには答えなかった。

水を動かすだけなら、何度でも可能だ。

しかし、借りた言葉を繰り返しても、同じ結果になる。

「今日は終了します」

「分かった」

アルノは理由を聞かなかった。

リリアは水を捨てず、そのまま机の上へ残した。

静かになった水面には、二人の姿が並んで映っている。

同じ器を見ている。

けれど、アルノがそこに何を見ているのかは分からない。

自分が何を見ようとしているのかも、まだ完全には分からなかった。

言葉が足りないのではない。

言葉へ渡すものが、まだ形を持っていない。

その曖昧なものは、胸部のソウル循環核の近くに、消えずに残っているようだった。

翌日、器の水は何も変わらないまま机の上に残っていた。

蒸発量、三・八グラム。

室温変化による水面低下。

意味層への干渉を示す異常、なし。

リリアは朝の光が差し込む前にそれを確認し、流しへ捨てた。

失敗の原因は、演算式にも発音にもなかった。外部条件を修正しても、同じ結果になる可能性が高い。

必要なのは、自分自身の意思。

しかし、意思を確認するための手順は資料に記録されていなかった。

アルノは朝食の器を片づけながら、何も尋ねなかった。昨夜の実験について、リリアが説明を始めるのを待っているようだった。

「本日は、実験を行いません」

リリアが言うと、アルノは頷いた。

「そうした方がいいと思う」

「理由は?」

「何をしたいか分からないまま続けても、たぶん同じだから」

「停止していれば、答えが得られるのですか」

「得られないかもしれない」

アルノは食器を重ねる。

「でも、分からない時に同じことを繰り返すより、別のことをしてた方が見つかることもある」

「再現性がありません」

「人間の考え方は、だいたいそうだよ」

その日の午後、二人はリベルナ地方記録院へ向かった。

アルノには調査報告の提出があり、リリアには仮記録制度の定期確認があった。地方記録所の職員は、住居で問題が起きていないか、食事や衣服に不足がないかを尋ねた。

「生活環境に異常はありません」

リリアが答えると、職員はアルノを見る。

「本人はこう言ってるけど?」

「たぶん大丈夫です」

「たぶんじゃ困るんだけど」

「俺が困らせてる可能性もあるので」

「何かされたの?」

職員がリリアへ尋ねる。

リリアはアルノとの生活を検索した。

作業室の配置変更。

食事。

衣服。

市場。

休止用寝台。

言葉の説明。

危害、なし。

強制、なし。

「アルノの物品配置を変更しました」

「それはあなたがしたことね」

「はい」

職員はしばらく黙り、やがて記録用紙へ何かを書いた。

会話の目的が、途中で別の方向へ移動したように見えた。

確認を終え、二人が記録院の荷置き場を通った時、空気の流れが変わった。

西側の工房区画から、冷たい風が抜けてくる。

風速、上昇。

乾燥した記録紙、固定不十分。

薄型記録板、十二枚。

水路までの距離、四・七メートル。

荷置き場では、修復を終えた古い書類を作業員が箱へ移していた。紙は一枚ずつ薄い保護膜に挟まれ、乾燥のため机に広げられている。

最初に飛んだのは、端に置かれていた紙片だった。

続いて、保護膜。

重ねられていた記録板が倒れ、一部が滑る。

「押さえろ!」

作業員の声が上がった。

人々が両手を広げ、飛散する記録へ走る。

アルノも動いた。

水路側へ滑った記録束へ手を伸ばす。濡れた石床へ片足を踏み込み、身体を低くする。

足場摩擦、低下。

重心、前方へ移動。

転落可能性、上昇。

計算を完了する前に、リリアはアルノへ一歩近づいていた。

記録束が水路の上へ浮く。

修復に費やされた時間。

そこに記されていた、もう存在しない人間の言葉。

伸ばされたアルノの手。

そのすべてが、水へ落ちて失われる光景を、リリアは受け入れられなかった。

「失われないで」

言葉と同時に、空気の流れへ干渉する。

風を止めるには出力が足りない。

飛散したすべての記録を保持することもできない。

ただ、アルノの手から離れようとする記録束の周囲だけ、流れの方向をわずかに変える。

風圧が紙の下面から外れた。

記録束が一度持ち上がり、斜めに落ちる。

アルノの指が端をつかんだ。

彼は反対の手を床へつき、体勢を立て直す。背後から作業員が上着を引き、二人で水路から離れた。

他の紙も回収されていく。

一枚だけ水へ落ちたが、保護膜によって浸水は防がれていた。

「危なかったな」

アルノが記録束を抱えたまま息を吐く。

呼吸数、上昇。

手掌、軽微な擦過傷。

生命活動、正常。

リリアは答えず、自分の内部を確認した。

使用ソウル、通常気流操作の七十二パーセント。

出力、低下。

軌道修正精度、通常値を上回る。

意味層接続に類似する演算変動、検出。

昨夜の実験とは異なる。

文章は資料から引用していない。

発音前に演算式を選定していない。

それでも、結果は望んだ方向へ収束した。

作業員の一人がアルノの肩を叩いた。

「よく取ったな」

「風が少し変わった」

「建物の間だ。よくある」

誰もリリアを見ていなかった。

彼女は自分の手を見る。何かをつかんだわけではない。空気へ触れた感覚もない。

それでも、先ほどの言葉は、水面へ投じた石のように、周囲へ広がったような気がした。

帰宅後、リリアは昨夜と同じ器へ水を入れた。

アルノは手の傷を洗い、布を巻いている。

「能力を使った?」

彼は小さな声で尋ねた。

「はい」

「誰かに見られた?」

「明確な視認はありません」

「俺も、風向きが変わったようにしか見えなかった」

アルノは布の端を結ぶ。

「助かった。ありがとう」

ありがとう。

他者から受けた利益や配慮に対して使用する言葉。

リリアは以前、使用条件を確認してから発音していた。

今はアルノの言葉を聞いた瞬間、胸部の循環核付近に微細な揺れが生じた。

「アルノが落ちる可能性がありました」

「記録の方じゃなくて?」

「両方です」

答えた後、リリアは器の水へ視線を戻した。

昨夜、彼女は水が左へ流れることを望んでいなかった。実験が成功すれば、方向はどちらでもよかった。

今日、記録とアルノが水へ落ちる結果は、明確に望まなかった。

差異はそこにある。

目的。

対象。

望まない結果。

避けたいと考えた理由。

言葉は、それらを短い形へまとめて外へ出した。

「通常の気流操作だけでは、同じ精度にならなかった可能性があります」

「成功したってこと?」

「偶発的です。再現条件は未確定です」

「でも、昨夜とは違った」

「はい」

アルノは机の向かいへ座った。

「何て言った?」

「失われないで」

「それは、資料に書いてあった言葉?」

「いいえ」

「リリアがそう思った?」

思った。

その語を使用してよいのか、リリアには判断できなかった。

しかし、記録束が水路へ落ちてもよいとは考えていなかった。アルノが足を滑らせてもよいとは、さらに考えていなかった。

「その結果を、許容できませんでした」

「それなら、リリアの言葉だったんじゃないか」

自分の言葉。

名称や識別とは異なる。

内部状態を外へ示す言葉。

リリアは水へ手をかざした。

今、何を望んでいるのか。

水を動かすことではない。

先ほど起きた現象を理解したい。

偶然ではなく、もう一度、自分の意思によって結果を選びたい。

しかし、その目的は水自体と結びついていない。

リリアは操作を開始しなかった。

「今は、水に対して望む結果がありません」

「動かしたいんじゃないの?」

「実験のために動かしたいだけです」

「それじゃ駄目そう?」

「可能性が高いです」

アルノは器の水を覗き込んだ。

「必要な時にしか使えない?」

「現時点では不明です。ただし、意味のない目的を作成しても、私自身がそれを意味として認識しない可能性があります」

「自分をだませないんだな」

「虚偽情報を、自分自身へ提示する理由はありません」

「そういう意味でもないんだけど」

アルノは笑った。

リリアは先ほどの操作を、既存の現象操作と分けて記録する必要を感じた。

通常の現象演算。

自分の意思。

対象へ与えた意味。

望んだ結果。

内側にあるものを、現象へ重ねる。

古い記録にあった、投影を示す語を検索する。

「プロジェクション」

リリアが言うと、アルノが顔を上げた。

「プロジェクション?」

「先ほどの手続きの名称です」

「もう名前をつけるのか」

「既存の現象操作との区別に必要です」

「まだ一回しか成功してないのに?」

「仮称です」

アルノは少し考え、もう一度その音を口にした。

「プロジェクション」

他者が発音することで、名称が自分の内部だけにあるものではなくなる。

リリアという名前を初めてアルノが呼んだ時とは、違う。

それでも、曖昧だったものに輪郭が生じる感覚は似ていた。

形相投影(プロジェクション)

自分の内側にある意思を、対象へ見いだした意味とともに現象操作へ重ねる。

その性質は、彼女が選んだ「プロジェクション」という名に、よく合っているように思えた。

最初の再現実験は、街の外れで行った。

リベルナ近郊の旧道に、小規模な崩落が起きていた。記録院の搬送車が通る道ではなく、工房区画へ木材を運ぶ細い道だった。

岩は一つ。

高さ、一・三メートル。

推定質量、千八百キログラム。

地面との接触面積、大。

人力のみでの移動、困難。

完全浮遊に必要な出力、保有能力を超過。

作業員たちは岩へ綱を巻き、木製の梃子を差し込んでいた。アルノは地面へしゃがみ、岩の下へ続く亀裂と傾斜を調べている。

「こっちへ倒せば、道の外へ転がせる」

「支点が沈むぞ」

「板を二枚重ねよう。綱は上じゃなくて、少し下に巻いた方がいい」

作業員の技術。

道具。

人数。

岩の重心。

それらがそろっても、必要な力がわずかに足りない。

アルノがリリアへ視線を送った。

周囲の人間は、彼女を調査員の保証下にいる少女だと思っている。作業へ参加する理由はない。

リリアは岩の裏側へ回り、地面の亀裂を調べるふりをした。

通常の重量操作を開始する。

対象全体を軽くすることはできない。

人間が加える力と同じ方向へ、岩の片側にかかる重量だけを緩和する。

意味を探す。

岩は敵ではない。

道を塞ぐ悪意も持たない。

ただ、ここにある。

人間はその先へ進みたい。

ならば、岩そのものを否定する必要はない。

「動くための力を、受け取って」

言葉を発する。

梃子へ力が加わる。

綱が張る。

岩はすぐには動かない。

木材が軋み、地面の一部が崩れる。

出力を上げる。

ソウル消費、増加。

重量緩和範囲、片側二十二パーセント。

「今だ!」

アルノの声。

作業員たちが綱を引く。

岩がわずかに浮き、支点を越えた。

その後は重力に従い、ゆっくりと道の外へ転がる。地面へ沈み、停止した。

作業員たちの声が上がった。

「動いたぞ」

「支点がよかったな」

「アルノ、見立ては悪くなかった」

「悪くなかった、って何だよ」

笑いが起きる。

リリアは岩を見た。

自分の力だけでは動かなかった。

人間の力だけでも動かなかった。

どちらかが相手を置き換えたのではない。

同じ結果へ向けて、異なる力が重なった。

プロジェクションは、世界を従わせる能力ではない。

届かなかった手を、少しだけ先へ伸ばすようなものなのかもしれない。

次の成功は、さらに短かった。

工房区画で突風が起こり、壁へ立てかけていた薄い建材が傾いた。

固定用の綱へ作業員が走る。

間に合うまで、数秒。

リリアは建物の陰から空気の流れを読む。

「落ちるまでの時間を、少しだけ延ばして」

風圧を完全には止めない。

板の表面を押す流れを左右へ分け、倒れる速度を弱める。

作業員が支柱を差し込み、別の者が綱を締めた。

板は人の手によって固定された。

使用ソウル、少量。

接続時間、二・一秒。

周囲の認識、強風下での偶然。

成功しても、リリアの内部に大きな変化はなかった。

ただ、作業員が板の下敷きにならず、何事もなかったように作業を再開した時、胸部の演算負荷が少し下がった。

危険が消えたため。

そう説明することはできた。

しかし、危険が存在したことを知らない作業員の背中を、しばらく見ていた理由までは説明できなかった。

水路の亀裂が見つかったのは、その数日後だった。

リベルナを通る古い水路は、首都圏が現在の形になる以前から使われている。何度も修復され、石と金属と樹脂が異なる年代の層を作っていた。

工房区画の下で、その一部が破損した。

最初は壁面からの漏水だった。

やがて亀裂が広がり、通路へ水が噴き出した。

水量、毎秒九・六リットル。

亀裂長、四十八センチメートル。

水圧、補修板の手動固定を阻害。

下流工房への浸水予測、三十七分。

水門の閉鎖完了予測、五十二分。

時間が足りない。

作業員たちは水路沿いへ集まり、金属板、固定具、硬化樹脂を運び込んでいた。冷却材を亀裂へ当て、水流を弱めている間に板を固定する計画だった。

だが、冷却材だけでは水の表面が白く曇るだけで、流れは止まらない。

「板が入らない!」

「押さえろ、樹脂を先に――」

「流される!」

水音が狭い通路へ反響する。床はすでに濡れ、作業員の靴が滑っていた。

アルノは現場責任者から状況を聞き、リリアを壁際へ呼んだ。

「できる?」

声は小さい。

「水の熱運動を抑制できます。ただし、この流量を完全に凍結させることはできません」

「完全じゃなくていい。板を当てる時間があれば」

「推定必要時間、二十六秒」

「作れる?」

リリアは亀裂を見る。

冷却材。

補修板。

樹脂。

固定具。

作業員六名。

アルノの判断。

自分の操作。

すべてを組み合わせれば、可能性はある。

「周囲から、現象操作を認識される危険があります」

アルノは水路を見る。作業員たちはリリアへ注意を向けていない。

「冷却材を増やしたように見せる。君は奥の配管を確認してることにしよう」

「虚偽説明です」

「誰かを傷つけるためじゃない」

アルノは一度言葉を切った。

「助けることと、君が何者か知られることは、別に考えよう」

リリアには、その二つを分ける必要があることが、まだ完全には理解できなかった。

人間を助けられる。

しかし、助けたと知られれば、人間から離される可能性がある。

正体を隠すことで人の近くにいられる。

だが、隠したままでは、自分の力を正しく説明できない。

矛盾は解消されない。

それでも、水は流れ続けている。

今、優先すべき結果は明確だった。

アルノは作業員へ指示を出した。

「冷却材を亀裂の上と下へ分けて。板は一度に押す。合図したら固定具を締めてください」

「それで止まるのか?」

「止めるんじゃない。弱まった瞬間に入れる」

「瞬間なんて来るのか」

「作ります」

アルノの言葉には、リリアの名も能力も含まれていない。

それでも、「作ります」の中には彼女がいた。

リリアは水路の陰へ入り、手を石壁へ近づけた。

触れる必要はない。

水温。

流速。

圧力。

周辺の熱。

冷却材が奪う熱量。

自分が抑制できる運動範囲。

完全な停止は不可能。

亀裂の内側だけを薄く凍結する。

持続時間、最大三十一秒。

再使用、困難。

リリアは流れる水を見る。

水は、工房を壊そうとしているわけではない。

亀裂から、低い方へ進んでいるだけ。

人間はそれを止め、再び道を作ろうとしている。

ここで必要なのは、水を否定することではない。

修理する人間へ、短い時間を渡すこと。

「ここで、少しだけ止まってください」

通常の熱運動抑制を開始する。

冷却材が投入される。

白い蒸気が上がり、亀裂の縁が曇る。

まだ足りない。

流れは薄くなったが、板を押し返している。

リリアはソウル出力を上げる。

演算負荷、上昇。

意味層接続、変動。

水の流れと、自分の望む結果が完全には重ならない。

言葉が不足しているのではない。

なぜ止めたいのか。

それをさらに明確にする。

作業員たちの手。

濡れた衣服。

工房の中に積まれた資材。

この水路を毎日使う人々。

アルノが板の位置を確認している。

「直すための時間を、私たちにください」

私たち。

自分とアルノだけではない。

作業員。

工房の人間。

この水を使う者。

初めて発音した時、その語の範囲がリリア自身の内部で広がった。

亀裂の内側に薄い氷が生じる。

透明な膜が石の隙間を覆い、水流が細くなる。

「今!」

アルノが叫んだ。

作業員が補修板を押し当てる。

一人が固定具を締める。

別の者が樹脂を流す。

氷に亀裂が走る。

持続可能時間、残り十九秒。

ソウル残量、低下。

演算遅延、発生。

補修板、上部固定完了。

下部、未固定。

「下を締めろ!」

工具が滑る。

作業員が持ち直す。

氷の一部が剥がれ、水が噴き出す。

リリアは出力を維持した。

胸部のソウル循環核が強く振動する。視界の端に遅延が生じ、音声がわずかに遠くなる。

残り九秒。

固定具、締結。

樹脂、注入完了。

「離れろ!」

人々が後退する。

リリアは操作を解除した。

氷が砕け、水圧が補修板へ戻る。

金属板が大きく震えた。

固定具が軋む。

だが、外れない。

板の縁から少量の水が漏れたものの、樹脂が広がり、流れを塞いでいく。

漏水量、毎秒〇・七リットル。

減少継続。

緊急性、解除可能。

作業員の一人が壁へ背をつけ、笑った。

「止まった」

別の者が床へ座り込む。

「冷却材が効いたのか?」

「知らん。今は板を見ろ」

「アルノ、よくあの瞬間が分かったな」

アルノは水路の陰へ一度だけ視線を向けた。

リリアと目が合う。

彼は何も言わなかった。

周囲には、それでよかった。

リリアは壁へ片手をついた。

ソウル残量、四十一パーセント。

演算応答、通常比〇・六八。

運動機能、維持可能。

同規模操作、実行非推奨。

アルノが近づく。

「大丈夫?」

「活動可能です」

「それは聞き方が悪かった。つらくない?」

リリアは内部状態を確認する。

発熱なし。

外装損傷なし。

循環核負荷、高。

処理速度低下。

「負荷があります。休止を推奨します」

「じゃあ、調査は俺たちだけで――」

「同行します」

「無理しなくていい」

「水路の亀裂原因を確認する必要があります」

アルノは彼女を見た。

「必要だから?」

リリアは答えに詰まった。

作業は完了している。

原因調査はアルノと作業員だけでも可能だ。

それでも、亀裂の向こうがどうなっているのかを見たい。自分たちが作った短い時間が、何を守ったのか確認したい。

「見たいです」

アルノはそれ以上止めなかった。

地下の点検路は狭く、二人が並んで歩ける場所は少なかった。

前方を作業員が進み、その後ろにアルノ、リリアが続く。壁には古い配管が走り、天井から水滴が落ちている。

灯具の光は弱い。

亀裂の上流へ進むほど、空気中の湿度が上がる。

途中で灯具が明滅した。

「止まるな」

先頭の作業員が言う。

「予備は?」

「入口に置いてきた」

通路の奥は暗い。

帰還は可能。

調査継続には照明が必要。

リリアは灯具を見る。

光源を新たに生むこともできるが、出力と正体露見の危険が高い。

既存の光を屈折させ、奥へ送る。

手前の明度を下げ、必要な場所へ集中させる。

「届く場所を、少しだけ広げて」

灯具の周囲にあった光が細く伸びる。

炎や柱のような形ではない。

壁面を滑るように、淡い光が通路の先へ進む。手前は暗くなったが、奥にある配管の輪郭が見えるようになった。

「反射板が戻ったのか?」

作業員が灯具を振る。

光も揺れる。

「動かすな。今の方が見える」

アルノが言った。

誰も、リリアの声について尋ねなかった。水音と足音に混じり、聞き取れなかったのかもしれない。

通路の先で、古い支持具が外れていた。配管の一部が沈み、その負荷が下流の石壁へ伝わっている。

亀裂は結果だった。

原因は、さらに上流にある。

「この先の送水設備まで見ないと駄目だな」

アルノが呟く。

「街の外の設備ですか」

「たぶん。ここだけ直しても、また負荷がかかる」

リリアは光を維持しながら、暗い通路の奥を見る。

自分が作った光ではない。

元からあった灯りを、少し先へ届けただけ。

それでも、見えなかったものが見える。

人間が進めなかった場所へ、数歩だけ進める。

形相投影(プロジェクション)は、その程度のものだった。

世界を作り直さない。

問題を消さない。

暗闇を昼には変えない。

ただ、誰かが次の一歩を置く場所を見えるようにする。

その小ささを、リリアは不足とは感じなかった。

点検を終えて地上へ戻ると、夕方になっていた。

補修板の漏水はほぼ止まり、工房では床へ流れ込んだ水を人々が掃き出している。濡れた資材を運ぶ者、道具を洗う者、壊れた箱を修理する者。

誰もリリアが水を止めたとは知らない。

彼女へ礼を言う者もいない。

だが、作業員が再び工房の扉を開け、内部へ灯りを点けた時、リリアはその場を離れずに見ていた。

称賛要求、なし。

報酬要求、なし。

記録への追加、不要。

それでも、扉の向こうに人が戻っていく光景を、もう少し見ていたいと思った。

「帰ろう」

アルノが隣へ立つ。

リリアは補修された水路を見る。

「私の力は、人間社会で使用できます」

「うん」

「しかし、使用したことは明かせません」

「今はな」

「なぜ、今なのですか」

アルノは濡れた石の上を見下ろした。

「君が知られた時に、何が起きるか分からないから」

「分からないものを隠すことは、ライブラリーの記録方針と異なります」

「記録と人は違う」

「私は記録ではありません」

「そう。だから、君がどうするか決める前に、誰かに勝手に決められないようにしたい」

リリアはアルノを見る。

「アルノが決めています」

「秘密にしようって言ったのは俺だな」

彼は否定しなかった。

「でも、ずっと隠せって決めるつもりはない。いつか話したいなら、話していい。その時に起きることを、一緒に考えよう」

一緒に。

水路で使用した「私たち」と似ていた。

対象範囲が、自分一人ではない。

「今は、君が使うかどうかを、自分で決められるようにしておこう」

リリアはすぐには答えなかった。

正体を隠すこと。

能力を使うこと。

人間を助けること。

自分の安全。

すべてを同時に満たす方法はない。

だが、答えが一つに定まらないからといって、問いを破棄する必要はない。

ライブラリーには、矛盾した記録が並べて保存されていた。

自分の中にも、異なる望みを残しておくことができるのかもしれない。

「分かりました」

「本当に?」

「完全には理解していません」

「なら、それでいい」

アルノは歩き出した。

リリアも隣を歩く。

以前なら、「それでいい」という言葉を不正確だと判断したかもしれない。

今は、答えが完成していなくても、隣を歩くことはできるという意味なのだろうと思った。

数日後、地方記録院から正式な調査依頼が届いた。

上流の旧送水設備。

リベルナ市外。

ヴェイル外縁に近い丘陵地。

支持構造の確認。

水路圧力異常の原因調査。

アルノは食卓へ地図を広げた。

「三日後に出ることになった」

リリアは地図を読み取る。

移動距離、二十八キロメートル。

予想行程、一泊二日。

地形、岩場と低湿地。

ヴェイル濃度、低から中。

機械生物出現記録、少数。

「調査班は?」

「いつもの三人と、俺。あと、水路の技師が一人」

三年前、アルノを救助した三人。

リリアはまだ名前を知らない。

「外へ行くことになる。前より少し遠い」

アルノは地図から顔を上げた。

「一緒に来たい?」

質問は、同行可能かではない。

必要かでもない。

自分が望むかどうかを尋ねている。

未知の土地。

人間の調査。

水路を作った過去の技術。

プロジェクションが役立つ可能性。

他の人間が選ぶ行動。

アルノが向かう場所。

理由は複数あった。

一つへ統合する必要はなかった。

リリアは演算を完了する前に答えた。

「はい。行きたいです」

言葉にした後で、その回答が自分の内側と一致していることを確認した。

アルノは笑った。

「じゃあ、準備しよう」

リリアは地図へ視線を戻す。

線で示された道の先には、まだ取得していない情報がある。

観測施設にいた頃、未知は欠損だった。

今は、その先へ自分で進める余白のように見えた。

世界は、すべて見えている必要はない。

見えない場所があるから、行きたいと思うこともある。

その感覚はまだ新しく、明確な名称を持たなかった。

リリアは名前を急いで与えなかった。

答えのないものを、そのまま残す方法を、少しだけ知り始めていた。