朝のリベルナを出る時、リリアの荷物は以前より増えていた。
肩から提げた小型の調査鞄には、記録板、折り畳み式の測定具、採取容器、防塵布、細い手袋、筆記具が収まっている。どれも地方記録院が外勤用に用意したものだった。
重量、四・八キログラム。
歩行への影響、軽微。
自身の観測機能で代替可能な器具、七点中五点。
リリアは鞄の留め具を確認した。
隣でアルノが、自分の荷物を背負い直す。
「重くない?」
「問題ありません」
「そうじゃなくて――」
アルノはそこまで言ってから、少し考えた。
「まあ、今回はそれでいいか」
以前なら、何を聞こうとしたのか確認したかもしれない。今は、アルノが「活動に支障があるか」ではなく、人間が荷物を持った時に感じる負担について尋ねたのだと分かる。
「人間用の調査具は、私には不要なものが多いです」
「やっぱり?」
「空気成分、温度、振動は直接取得できます。簡易測定器より精度も高いです」
「じゃあ、減らす?」
リリアは鞄を見た。
採取容器。
測定器。
筆記具。
どれも、自分一人で観測するだけなら必要ではない。
「いいえ」
「なんで?」
「同じ形式で記録した方が、他の人が確認できます」
アルノは一度だけ瞬きをした。
それから、少し笑う。
「そっか」
「何か不自然でしたか」
「いや。前だったら『不要です』で終わってた気がして」
リリアは返答せず、鞄を肩へ掛け直した。
言われてみれば、その可能性は高い。
施設にいた頃、記録は自分が取得し、自分が分類し、観測系へ送信していた。他者がどう受け取るかを考える必要はなかった。
今は違う。
自分が見えたものを、アルノにも見える形へ置き換える。
それも調査の一部らしい。
地方記録院の前には、小型の搬送車が停まっていた。
外勤班はアルノを含めて四人。そこへ水路設備の技師が一人加わる。リリアは正式な班員ではなく、調査補助という扱いだった。
三人の班員には見覚えがあった。
正確には、三年前の記録に存在していた。
ヴォイド・リリーの近くで倒れたアルノを担架へ載せ、連れ帰った三人。
声も一致している。
当時、通信越しにアルノを叱っていた声。
薬筒を首へ押し当てた手。
周囲を警戒しながら、何度もアルノの呼吸を確かめていた人物。
彼らはリリアを知らない。
だからリリアも、そのことには触れなかった。
班長格の男が荷台から顔を出す。
「遅いぞ、アルノ」
「時間前です」
「十五分前には来るのが外勤だ」
「それ、あなたの基準でしょう」
「現場では俺の基準が班の基準になる」
アルノは小さくため息をついた。
リリアは二人を見る。
「出発予定時刻までは、十一分四十秒あります」
班長がリリアを見る。
「……正確だな」
「はい」
「アルノ、似たの連れてきたな」
「どこがですか」
「余計なことを正確に返すところ」
「似ていません」
リリアとアルノの声が重なった。
数秒、沈黙があった。
機材担当の男が吹き出した。
「そこまで揃うと説得力ないな」
笑いが広がる。
リリアは、自分とアルノを比較した。
身体構造。
思考処理。
年齢。
生物種。
一致項目は少ない。
だが、その説明をすると、さらに笑われるような気がした。
理由は分からない。
ただ、今回は説明をしないことにした。
搬送車はリベルナを抜け、北東へ続く旧道を進んだ。
街を離れると建物は急に減った。古い水路が道と並走し、その向こうには低い丘陵が連なっている。春の草はまだ背が低く、冬の名残を含んだ土の間から細い緑が伸びていた。
気温、九度。
風速、毎秒二・八メートル。
空気中の胞子濃度、低。
ヴェイル由来反応、微弱。
危険度、低。
数値を取得しながら、リリアは窓の外を見る。
薄い雲の隙間から落ちた光が、濡れた草の先に残っていた。数値化すれば、反射率と入射角で説明できる。
しかし、以前よりもそうする必要を感じなかった。
光は草の上にあった。
それだけでも、見ていられた。
上流の旧送水設備は、丘を一つ越えた谷間にあった。
石造りの水路に、年代の異なる金属管が何本も接続されている。外壁には補修材の色がまだらに残り、古い制御塔の上には後世に追加された小型の風力機が回っていた。
一つの設備というより、何度も壊れ、そのたびに別の人間が直してきた痕跡が積み重なっているように見える。
「ひどいな」
アルノが言った。
「構造的な意味ですか」
「見た目」
リリアは設備を見直す。
「補修箇所は多いです」
「それを、ひどい見た目って言う」
「機能が維持されているなら問題は限定的です」
「それ、ここの人に言うと喜ぶかもな」
設備の前では、すでに数人の職人が待っていた。
その中で最も年長に見える男が、技師の持ってきた設計板を見るなり眉をしかめた。
「全部替える?」
「中央弁と圧力制御器です。ここを新型にすれば下流側の変動もかなり抑えられます」
「故障したら?」
「交換部品を手配します」
「どこから」
「首都圏から」
老人は鼻を鳴らした。
「それじゃ駄目だ」
技師が困ったように設計板を下げる。
「今の制御器は精度が出ません。今回の亀裂も、圧力変動を吸収できなかった可能性があります」
「だから直す」
「直すより交換した方が早い」
「次に壊れた時、俺たちで直せない」
「新型はそう簡単には壊れません」
「壊れない機械なんか見たことない」
会話はしばらく平行線を進んだ。
リリアは制御器を見る。
旧式。
反応速度、低。
調整精度、新型推定値の四十二パーセント。
消耗部品、多数。
ただし構造単純。
手動操作可能。
現地加工部品による代替率、高。
新型へ交換した場合。
制御精度、上昇。
自動補正、可能。
遠隔監視、対応。
主要部品の現地製造、困難。
故障時の復旧時間、増大する可能性あり。
どちらが正しいか。
条件によって変わる。
以前、アルノの部屋を用途別に整理したことを思い出した。
配置は効率的だった。
けれど、アルノには使いづらかった。
設備も似ているのかもしれない。
数値上の性能だけでは、その場所で使う人間にとっての適性は決まらない。
「部分交換では駄目ですか」
全員がリリアを見る。
技師が首を傾げた。
「部分?」
リリアは制御器の前へ近づいた。
「圧力補正が遅れているのは中央弁ではなく、その前段です。こちらの応答機構に摩耗があります」
老人が目を細める。
「分かるのか?」
「振動周期が均等ではありません」
技師が測定器を当てる。
しばらく数値を見たあと、表情を変えた。
「……本当だ。二段目が遅れてる」
老人はリリアを見た。
「嬢ちゃん、耳がいいな」
「聴覚だけではありません」
アルノがすぐ横から口を挟む。
「昔の観測施設で暮らしてたので、そういうのに詳しいんです」
説明として完全な虚偽ではない。
老人は納得したように頷いた。
結局、制御器を全面交換する案は保留された。
摩耗している応答機構だけを取り外し、現地の部材で交換部品を作ることになった。
作業は簡単ではなかった。
水圧を完全に止めると下流側へ影響が出る。そのため、流量を維持したまま短時間だけ圧力を下げる必要がある。
職人たちは弁を操作し、技師が数値を読み上げる。
「まだ高い」
「これ以上閉めると下流が落ちるぞ」
「二分でいい。機構が抜ければ戻せる」
リリアは配管へ手を近づけた。
内部の流れが、金属を通して細かな震えとして伝わってくる。
人前で明確な現象操作はできない。
だが、職人たちの作業に重なる程度なら。
圧力を消す必要はない。
人間が工具を差し込める間だけ、一点への負荷を散らす。
リリアはアルノを見る。
アルノは配管を確認してから、短く頷いた。
声を落とす。
「やりすぎないで」
「分かっています」
演算を開始する。
流速。
配管径。
内部圧力。
振動。
使用可能ソウル。
出力は最小限。
意味を探す。
この設備を直すのは自分ではない。
老人。
技師。
工具を持つ職人たち。
自分が作るのは、その手が届くわずかな隙間だけ。
「ここだけ、弱くしてください」
言葉は作業音に混ざった。
形相投影(プロジェクション)を通常の圧力操作へ重ねる。
管の内部で、流れの一部がわずかに広がる。中央へ集中していた圧力が周囲へ逃げ、測定器の値が一瞬だけ下がった。
「今だ」
技師が声を上げる。
老人が工具を差し込む。
金属が軋む。
一人が固定具を外し、別の者が機構を引き抜く。
八秒。
十一秒。
圧力が戻り始める。
「抜けた!」
アルノが弁を開く。
リリアは操作を止めた。
配管が低く震えた後、流れが元へ戻っていく。
周囲に異常を疑う者はいない。
老人は取り外した部品をひっくり返し、摩耗面を見た。
「こりゃ確かに駄目だな」
技師も覗き込む。
「よく今まで持ったな」
老人は笑った。
「持たせてたんだ」
それは誇るような口調だった。
リリアは、古い制御器を見る。
新しい機械より精度は低い。
何度も壊れている。
何度も直されている。
そのことを、老人は欠点だけとは考えていないらしい。
「なぜ、新型を使わないのですか」
作業が一段落した後、リリアは改めて尋ねた。
老人は外した部品を布で拭きながら答えた。
「新しいのが嫌いなわけじゃないよ」
「では、性能が低いものを維持する理由は?」
「さっきも言ったろ。俺たちで直せるからだ」
「修理頻度は上昇します」
「するな」
「作業時間も必要です」
「必要だな」
「合理性が――」
そこまで言って、リリアは止めた。
老人は笑う。
「悪いか?」
「いいえ。条件が異なります」
「条件?」
リリアは制御器を見る。
「首都圏から継続的に部品を取得できる場所なら、新型の方が適切です。しかし、ここでは故障時の復旧性も性能に含まれる」
老人は少し驚いた顔をした。
「難しく言うなあ」
アルノが横で笑う。
「要するに、こっちにはこっちの使いやすさがあるってことです」
「そう、それだ」
老人は満足そうに頷いた。
リリアはアルノを見る。
「私は同じ内容を説明しました」
「うん。同じことを言ってた」
「では、なぜ反応が違ったのですか」
「たぶん、こっちの方があの人には伝わりやすい言い方だったんだと思う」
「情報量はほぼ同じです」
「そうだな。でも、同じことでも言い方で受け取りやすさは変わるから」
その違いは、まだ完全には分からなかった。
ただ、老人がアルノの言い換えで即座に頷いたことは記録した。
帰路、班は水路沿いの草地で休憩した。
職人から渡されたパンと乾燥肉、薄い野菜のスープが並ぶ。リリアに摂食の必要はないが、パンを一つ受け取った。
機材担当の男が、それを見て言った。
「食べるんだな」
「可能です」
「アルノから、食べなくても平気だって聞いてた」
アルノがむせた。
「そこまでは言ってないです」
「食が細いとは言ってた」
「細いの範囲がおかしいだろ」
「食べること自体は嫌いではありません」
リリアが言うと、機材担当はパンをもう一つ差し出した。
「じゃあ、これも食う?」
リリアは一つ目を見る。
まだ摂取していない。
「先に現在のものを確認します」
「食べてから決めるってことか」
「はい」
「了解。残しとく」
以前、市場で焼き菓子を食べた時には、「再摂取してもよい」と判断した。
パンを一口食べる。
外側は硬く、中は少し湿っている。塩味は薄い。焼き菓子ほど甘くない。
「どう?」
アルノが聞く。
リリアは少し考えた。
「焼き菓子の方が好ましいです」
周囲が笑った。
「ずいぶん贅沢になったな」
班長が言う。
「比較結果です」
「そういうことにしとくか」
食事が進むと、話題は自然にアルノへ移った。
「しかし、お前が面倒見る側になるとはな」
班長が言う。
「面倒を見てるつもりはありません」
「三年前はこっちが面倒見てたのに」
アルノの手が止まる。
「またその話ですか」
「こいつ昔から、気になったもんがあると寄りすぎるんだよ」
医療担当が淡々と続けた。
「崖の苔を見に行って足場崩したのは?」
「十六」
「毒性菌類を素手で触ろうとしたのは?」
「触ってない」
「触ろうとはした」
「測定具を落としたからです」
「それで手を伸ばすなって話」
会話のテンポが速い。
三人は、アルノが言い訳する前に次の出来事を出してくる。
昔から知っている。
その事実が、言葉の間にある。
リリアはパンを持ったまま聞いていた。
三年前。
白い花。
安全圏。
風向き。
警告。
そして、前へ進んだアルノ。
「あの頃よりはマシになったよ」
班長が最後に言った。
アルノは不満そうに眉を寄せる。
「比較対象が悪すぎます」
「自分だろ」
また笑いが起きた。
リリアはアルノを見る。
危険を知らなかったのではない。
危険を理解できない人間でもない。
それは以前から分かっていた。
だからこそ、分からなかった。
けれど今は、問いの形が少し変わっている。
なぜ近づいたのか。
ではなく。
何を、そこまで近くで見ようとしたのか。
答えはまだない。
それでも以前より、その問いはアルノの中へ近づいたように思えた。
春が深くなるにつれ、リリアが街の中で名前を呼ばれる回数は増えた。
最初に変わったのは、記録所だった。
三十日間の身元照会が終了しても、彼女の出自に該当する記録は見つからなかった。
西方の旧観測施設。
家族記録なし。
出生記録なし。
失踪届との一致なし。
犯罪記録なし。
照会結果、該当なし。
以前なら「該当なし」は、情報が不足したまま処理が終了したことを意味した。
しかし職員は、新しい記録用紙を出した。
「じゃあ、しばらくは出自未確認のままだね」
「照会は終了ですか」
「定期照会はね。何か新しい情報が出ればまた確認する」
「私はどうなりますか」
「どうって?」
「保護期間が終了します」
職員は不思議そうに彼女を見た。
「ここに住むんでしょう?」
リリアはアルノを見る。
アルノもこちらを見ている。
帰還可能な観測施設はある。
別の街へ移動することもできる。
しかし現在、それらを選択する理由はなかった。
「はい」
「なら、リベルナを居住地として記録を続ける。出自欄は未確認のまま。何か困った時の連絡先は、今まで通りアルノでいい?」
「俺は構いません」
アルノが答える。
職員はリリアを見る。
今度は、彼女の回答を待っている。
「私も構いません」
「分かりました」
それだけだった。
大きな手続きではなかった。
扉を出ても、街の色は変わっていない。
アルノの住居も同じ場所にある。
それでも、三十日だけ置かれている存在ではなくなったらしい。
リリアは自分の仮記録証を見る。
そこには、以前から同じ名前がある。
リリア。
文字は変わっていない。
けれど、その名前が指す場所が少し広がったように感じた。
市場では、焼き菓子を売る女性がリリアを見るなり言った。
「今日は青い実の方?」
リリアは足を止めた。
二種類ある。
薄い蜂蜜味。
青い乾燥果実を混ぜた酸味のあるもの。
これまでの摂取回数。
蜂蜜味、三回。
青い実、五回。
「なぜ分かったのですか」
「だって、そっち選ぶ方が多いもの」
観測されていた。
だが、嫌な感じはしなかった。
「では、青い方を一つください」
「はいよ」
言ってから、リリアは少し考えた。
「……今日は、それが食べたいと思います」
店の女性は、一瞬だけ目を細めた。
「そう。じゃあ、焼きたての方にしとく」
必要性ではなく、選好を伝える。
その言葉に応じて、相手の行動が少し変わる。
リリアは包みの温度を手に感じながら、家へ戻った。
初夏になる頃には、地方記録院へ入っても案内されることが減った。
受付で名前を言う前に、
「アルノなら奥」
と言われる。
工房へ行けば、
「リリア、そこの細い工具取って」
と頼まれる。
以前なら、工具の種類を確認しただろう。
今は作業している箇所を見て、必要なものを推定できる。
間違えたら聞けばいい。
そのことも学んでいた。
ある日、外勤用の資料を受け取りに行くと、机の上に五部の地図が重ねてあった。
アルノ。
班長。
医療担当。
機材担当。
そして五枚目。
端には小さく、リリア、と書かれている。
頼んでいない。
その文字を見ていると、機材担当が横から覗いた。
「足りなかった?」
「いいえ」
「じゃあ、何見てる」
「私の分があります」
「いるだろ」
「依頼していません」
「毎回来るんだから、最初から作った方が早い」
効率的だから。
そう説明された。
リリアは地図を取る。
紙一枚。
情報としては他の四枚と同一。
しかし、それが最初からそこにあったことを、しばらく覚えていた。
夏の調査は、地下水路から始まった。
工房区画の東を流れる支水路で、夜間に異音が続いている。流量も少しずつ低下していた。
原因候補は、堆積物。
管壁の破損。
小型機械生物。
最後の可能性が最も高かった。
地下へ降りると、湿った石の匂いと冷えた空気が身体を包んだ。
光量、低。
気温、十四度。
水流、通常比八十六パーセント。
金属反応、複数。
移動音、壁面内部。
「いるな」
アルノが灯具を上げる。
水路脇の暗がりで、小さなものが動いた。
六脚型。
全長、二十二センチメートル前後。
旧保守用機械生物に類似。
三体。
五体。
奥にさらに反応。
班長が言う。
「巣になってるな。追い出すか」
機材担当が音響器を取り出す。
「強めに鳴らせば出ると思う」
リリアは壁へ近づいた。
機械生物の一体が、管の表面へ脚を当てている。
削る音。
微細な鉱物片が落ちる。
それを別の個体が運び、壁際の空洞へ積み上げている。
「待ってください」
音響器を起動しかけていた手が止まった。
アルノが先にリリアを見る。
「どう見える?」
その聞き方に、リリアは一瞬だけ反応が遅れた。
何が起きているか、ではない。
どう見えるか。
彼は答えを持った上で確認しているのではない。
自分の観察を求めている。
リリアはもう一度、水路を見る。
機械生物の移動経路。
削られている場所。
堆積物の位置。
水の流れ。
巣材。
「配管を破壊していません」
「削ってるぞ」
班長が言う。
「表面の付着物です。管材には到達していません」
アルノがしゃがみ込む。
「つまり?」
「堆積した鉱物を巣材にしています」
機材担当が灯りを近づけた。
配管の一部は、他の場所より滑らかだった。
「掃除してる?」
「結果としては」
リリアは水路の先を見る。
巣へ続く区画で流路が狭くなっている。
問題は機械生物そのものではない。
巣の位置。
「ここから排除した場合、別の場所へ移動する可能性があります。現在は堆積物の多い区域を選択しています」
「じゃあ、こいつらがいなくなると?」
アルノが聞く。
「数か月後、付着物による流量低下が増える可能性があります」
班長が頭を掻く。
「追い出せばいいと思ってたんだがな」
アルノは暗がりにいる機械生物を見る。
「邪魔だからどかす、で終わらなくてよかった」
その声には、少しだけ面白がる響きがあった。
「じゃあ、邪魔にならないところへ移ってもらうか」
「可能です」
旧保守区画が水路の奥に残っている。
現在は使用されておらず、排水路だけが生きている。
そこなら人間の作業を妨げず、鉱物も十分にある。
人間側が音響器の周波数を調整する。
機材担当が誘導音を流し、アルノと班長が進路を塞ぐ板を置く。
リリアはその後ろで、小さく光の反射角を変えた。
機械生物は明るい方向を避ける傾向がある。
ならば、進ませたい道だけを暗く残す。
一体が動く。
続いて二体。
群れが少しずつ向きを変える。
完全には揃わない。
一体だけ、元の巣へ戻ろうとする。
リリアは気流をわずかに偏らせた。
機械生物の感知器へ、他個体の金属臭と微細な振動が届く。
「こっちなら、邪魔にならない」
声は小さかった。
命令ではない。
人間にも。
機械生物にも。
どちらにも、ここにいる理由がある。
その位置を少し変えるだけでよい。
最後の個体が方向を変えた。
群れは古い保守区画へ入っていく。
「行ったな」
班長が音響器を止める。
流路に残された巣材を人間たちが取り除き、水が通り始める。
流量、上昇。
八十九。
九十三。
九十六パーセント。
アルノは水面を見てから、リリアを振り返った。
「これ、俺だけだったら追い出してたと思う」
「それでも水路は一時的に回復します」
「一時的にはね」
「判断として誤りとは限りません」
「でも、もっといい方法があった」
アルノは壁際へ消えた機械生物の方を見る。
「リリア、こういうの見つけるの上手いな」
観測能力の話だけなら、特別なことではない。
けれど、アルノが言っているのは、おそらくそれだけではなかった。
彼が見ていなかった関係を、自分が見つけた。
以前は、自分が人間へ質問することの方が多かった。
今はアルノが、自分へ問いかける。
その違いを、リリアはすぐには言葉にしなかった。
地下水路から出ると、外は夏の夕方になっていた。
石壁が昼の熱を残し、水路の冷たさに慣れた外装には空気が暖かく感じられる。遠くで市場の片づけをする音が聞こえ、通りを走る子供たちの影が長く伸びていた。
アルノが歩きながら言う。
「腹減った」
「私は減りません」
「知ってる」
「でも」
リリアは市場の方向を見る。
青い実を混ぜた焼き菓子を思い出した。
今日は一度も摂取していない。
必要ではない。
帰宅後でもよい。
明日でもよい。
それでも今、食べるという選択肢を考えた。
「何?」
アルノが尋ねる。
「焼き菓子を買って帰りたいです」
アルノは少しだけ笑った。
「いいね」
「アルノも食べますか」
「食べる」
二人は市場の方へ道を曲がった。
最短経路ではなかった。
家へ帰るだけなら、反対側の橋を渡る方が少し早い。
リリアはその差を計算した。
四分十三秒。
以前なら、理由のない遠回りだった。
今は、その四分を短縮する必要がないことを知っていた。
夕方の街を歩きながら、アルノが今日の機械生物のことを話す。
リリアはそれを聞き、時々答える。
道の先には、いつもの店の灯りが見えていた。
同じ街。
同じ道。
同じ人間。
けれど、会うたびに少しずつ知っていることが増える。
人を理解するということは、一度答えを得れば終わる処理ではないのかもしれない。
何度も会う。
以前と同じところを見る。
それでも前とは違うものを見つける。
その繰り返しが、リリアには少しだけ面白いもののように思え始めていた。
◇
夏の終わりには、リリアは地方記録院の入口で立ち止まらなくなっていた。
以前は受付で行き先を告げ、アルノの所属を確認し、案内されてから奥へ進んでいた。今では扉を開けると、受付の職員が記録板から顔を上げる前に言う。
「今日は外勤?」
「いいえ。昨日の水路記録を届けに来ました」
「アルノなら二階。班長は奥の会議室」
それだけで会話が成立する。
名前を告げる必要もない。
仮記録票を見せる必要もない。
リリアは廊下を進みながら、その変化を以前ほど分析しなくなっていることに気づいた。
人は繰り返し会う相手を覚える。
自分も同じだった。
受付の職員が朝には濃い茶を飲むこと。機材担当が記録板を左手で持つこと。医療担当が考え事をしている時には眼鏡の端へ触れること。市場の菓子屋が雨の日には商品を少なく焼くこと。
それらは任務上、重要ではない。
けれど、知っている。
知ろうとして取得した情報ばかりでもない。
いつの間にか残っていた。
その日の記録を渡すと、職員が棚から別の紙束を取り出した。
「ついでにこれ、アルノに持っていってくれる?」
「はい」
紙束を受け取る。
以前なら、なぜ自分へ依頼するのかを確認したかもしれない。
今は、二階へ行く途中だからだろうと考え、それ以上は尋ねなかった。
階段を上る途中、窓の外から子供の声が聞こえた。
「リリア!」
足を止める。
通りの向こうで、見覚えのある少年が手を振っている。春に工房で工具を運んでいた職人の息子だった。
リリアも手を上げた。
少年はそれだけで走り去った。
情報交換はない。
用件もない。
それでも、口元がわずかに緩んだことを自覚した。
表情制御の異常ではない。
最近は、そう判断できることが増えていた。
秋は、ある日の夕方から始まった。
その日は朝から空が低く、ヴェイル外縁の丘には薄い霧が残っていた。地方記録院へ戻ったばかりの外勤班へ、農地集落から緊急の連絡が入った。
子供が一人、帰ってこない。
十歳。
男児。
最後の目撃、午後二時十二分。
集落北側の畑。
所持品、薄手の上着、小型水筒。
防塵具、なし。
日没まで、二時間十七分。
ヴェイル濃度、夕刻以降上昇予測。
班長の声が変わった。
「装備そのまま。水だけ補充しろ。五分で出る」
外勤から戻った直後だった。アルノの靴にはまだ泥がつき、機材担当は荷を半分しか下ろしていない。
それでも誰も休憩を求めなかった。
リリアも調査鞄を肩へ戻す。
アルノが見る。
「来られる?」
「行く」
短く答えると、アルノは頷いた。
以前なら、まず自分の活動継続性を確認し、その結果をそのまま答えとして返したかもしれない。
今は、確認より先に言葉が出た。
疲労の有無も、残存ソウルも、移動に耐えられるかどうかも、そのあとで確認できる。
行きたいと思った。
だから、行くと答えた。
搬送車が集落へ着いた時、日差しはすでに丘の向こうへ傾いていた。
家々の前に人が集まっている。
その中心に、一組の男女がいた。
母親らしい女性は何度も同じ方向を見ている。父親は地図を広げ、集落の男たちへ何かを指示していた。
「北の水路までは探しました」
「南の林も?」
「二人行ってる」
「旧道は?」
「足跡が途中で消えてる」
班長が状況を聞き取る。
リリアは地面へ視線を落とした。
小さな靴跡。
複数の大人の足跡が重なっている。
追跡可能範囲、限定。
土壌表面、乾燥。
風による粉塵移動あり。
目視による連続追跡、困難。
通常なら、行動範囲と時間から探索区画を分割する。
アルノたちもそうしていた。
しかし母親が、北東に見える古い塔を指した。
「あそこです」
班長が振り向く。
丘の上に、旧時代の信号塔が一本立っている。上部は半分崩れ、現在は使われていない。
「確認したんですか?」
「まだ。でも、あの子ならあそこへ行く」
父親が苦い顔をした。
「塔までは遠い。道も悪い。あいつだって行っちゃいけないのは分かってる」
「それでも行くんです」
母親は強く言った。
「どうして分かるんですか」
アルノが尋ねる。
女性は一瞬、答えに詰まった。
「……城だから」
班長が眉を寄せる。
「城?」
「あの子、あれを城って呼んでるんです。小さい頃から。あそこへ行けば、昔の兵隊がいたんだとか、宝物があるんだとか……誰が教えたんだか」
「子供の遊びか」
「それだけじゃない」
母親は両手を握る。
「持ってたでしょう、小さい金属の欠片」
父親が頷いた。
「歯車みたいなやつか」
「三日前から見当たらないって言ってたんです。あの塔の近くで拾ったものだから、もしかしたら――」
「探しに戻った?」
アルノが言った。
「たぶん」
班長は地図を見る。
信号塔。
通常の帰宅経路から外れている。
距離も長い。
十歳の子供が日没前に単独で向かう場所としては、優先度が低い。
だが。
リリアは、アルノの作業室に置かれた灰色の石を思い出した。
用途なし。
希少性なし。
市場価値なし。
初めて一人で調査へ出た日に拾った。
それだけの石。
捨てようとした時、アルノは即座に止めた。
あれはただの石だった。
そして、ただの石ではなかった。
「その金属片は、その子にとって重要ですか」
リリアが尋ねる。
母親はすぐに頷いた。
「いつも持ってます。寝る時まで枕元に置くくらい」
「なくしたことに気づいたのは?」
「昨日」
「最後に見た場所について、何か話していましたか」
「塔の下の石段かもしれないって」
探索優先度を再計算する。
距離。
地形。
通常行動。
それだけなら低い。
本人にとっての価値を加える。
塔へ向かう可能性、上昇。
リリアは班長を見る。
「信号塔を優先した方がいいと思います」
班長は地図と母親を見比べた。
「理由は?」
「金属片です」
「ただの部品だろ?」
「私たちには」
言葉が自然に出た。
「その子には違います」
アルノがリリアを見る。
ほんの一瞬だった。
それから地図へ視線を戻す。
「俺も塔側へ行く」
班長は数秒考え、頷いた。
「二班に分ける。俺とアルノ、リリアは塔。残りは旧道を継続」
「私も行きます」
母親が一歩出る。
父親も続こうとする。
班長が止めた。
「ここで待ってください」
「待ってなんて――」
「日が落ちます」
「だから行くんです!」
女性の声が震えた。
「子供が一人でいるんですよ!」
その感情は理解できた。
以前なら、危険区域へ非装備の人間を入れることの不合理性だけを指摘していたかもしれない。
今は、別の順序で言葉が出た。
「行きたい理由は分かります」
母親がリリアを見る。
「なら――」
「だから、戻ってこられる方法で行きましょう」
女性が止まった。
リリアは地図を指す。
「あなたが一緒に来ると、私たちはあなたの安全も確保する必要があります。移動速度が下がります」
「でも……」
「その子が塔へ向かった理由を知っているのは、あなたです」
リリアは続けた。
「ここにいてください。何か思い出したら、記録院の通信で知らせてください。それが一番役に立ちます」
母親は唇を噛んだ。
感情が消えたわけではない。
納得したわけでもないかもしれない。
だが、父親が肩へ手を置くと、やがて小さく頷いた。
「……お願いします」
お願い。
命令でも、情報でもない。
リリアはその言葉を受け取った。
「はい」
丘へ向かう。
日没まで、一時間四十一分。
塔までの推定距離、三・八キロメートル。
標高差、百二十メートル。
ヴェイル反応、緩やかに上昇。
胞子濃度、現在許容域。
アルノと班長が前を進み、リリアは地面と空気を同時に観察した。
足跡はない。
しかし、人が通れば草は倒れる。
枝に繊維が残る。
乾いた土から微細な粉塵が剥離する。
十三分後、低木の枝に布繊維を見つけた。
色。
母親が説明した上着と一致。
「通っています」
アルノが足を止める。
「いつ頃?」
リリアは繊維表面の湿度と周囲の付着物を見る。
「正確には分かりません。今日である可能性は高いです」
「十分」
アルノは塔を見る。
「当たりだな」
母親の推測。
本人にとっての宝物。
数値化できない情報が、探索経路を決めた。
合理的な判断に、感情が含まれている。
そのことが以前ほど奇妙には思えなかった。
塔へ近づくほど霧が濃くなった。
白い。
ただしヴォイド・リリーの胞子ではない。
低地の水分と、外縁から流れ込んだ微細粒子。
視界、二十八メートル。
風向き、南西。
胞子反応、上昇。
防塵具推奨。
三人は面布を上げた。
アルノが振り返る。
「リリア、大丈夫か?」
「平気です。必要なら、しばらく息を止めます」
「無理に話さなくていい」
「はい。必要な時だけ話します」
酸素呼吸は、彼女の活動に必須ではない。周囲の成分を取得するための吸排気を抑え、発声に必要な分だけ残す。 人間のように息を止めることとは少し違うが、ここで説明する必要はなかった。
塔の下へ到達する。
石段の一部は崩れている。
錆びた手摺。
倒れた標識。
人間の靴跡。
小さい。
新しい。
「上か?」
班長が灯具を向ける。
アルノは首を振った。
「違う。こっち」
塔の裏手。
保守用の低い入口がある。
扉は半分開いていた。
内部から声はしない。
リリアは耳を澄ませる。
風。
金属の振動。
水滴。
その奥。
不規則な小さな呼吸音。
「います」
二人が振り向く。
「奥、約十五メートル」
アルノがすぐに入ろうとする。
リリアは彼の袖をつかんだ。
「待って」
気づいた時には、言葉より先に手が伸びていた。
「何?」
「内部の胞子濃度が高いです」
「面布はある」
「今の装備なら、短時間の進入は可能です」
「子供は?」
「防塵具を持っていません」
三人の間に、一瞬の沈黙が落ちる。
奥から聞こえる呼吸音は、まだ途切れていない。
だが、この濃度に晒され続ければ安全とは言えない。
「行く」
アルノが言う。
「分かっています。でも、その前に」
リリアは袖をつかんだまま、入口の奥へ視線を向ける。
「戻る方法を決めます」
アルノは一瞬だけ彼女を見る。
「……分かった」
入口から子供まで十五メートル。
往復三十。
狭所。
倒壊可能性、低。
胞子濃度、現在上昇中。
南西風。
建物北側の裂け目から流入。
風向きを変えれば、内部濃度を短時間だけ下げられる。
必要出力、中。
持続、最大四十秒。
リリアは入口の周囲を見る。
崩れた外壁。 半分外れた防風板。 塔の側面を抜ける風。
「あの板を動かせば、入口へ入る風を少し逸らせると思います」
班長が外壁を見る。
「あれか?」
「はい。アルノが中へ入る間だけでいいです」
「俺が板を押さえる」
班長が言う。
「アルノは子供を。リリアは風を見ててくれ」
「分かりました」
三人とも、それぞれの役割へ移る。
防風板だけで足りるとは思えない。 だが、板が動いたことで風向きが変わったように見せることはできる。
リリアは塔の外壁に沿って吹く風を見る。
班長が板を動かした瞬間、その変化へごく小さく現象操作を重ねる。
止める必要はない。
風は悪意を持たない。
ただ、今はこの入口へ流れ込んでほしくない。
「ここは通らないで」
声は霧へ吸われた。
空気の流れへ干渉する。
完全に押し返すのではなく、塔の壁面を回り込ませる。
風向き、偏向。
流入口圧力、低下。
内部胞子濃度、下降開始。
「今」
アルノが駆け込む。
十秒。
十五秒。
奥からアルノの声。
「いた!」
子供の咳。
「立てる?」
小さな返答。
聞き取れない。
二十三秒。
ソウル消費、上昇。
霧の流れが不安定になる。
「早く」
リリアは呟いた。
それは風への言葉ではなかった。
三十一秒。
足音。
アルノが子供を背負って戻ってくる。
少年の手には、何かが握られていた。
錆びた金属片。
三十四秒。
班長が二人を外へ引く。
リリアは操作を解除した。
風が元の道へ戻る。
白い霧が入口へ流れ込んだ。
「離れるぞ」
班長が言う。
少年は意識がある。
呼吸、速い。
軽度の咳。
歩行困難。
ただちに生命危険なし。
アルノが背負ったまま丘を下りる。
途中で少年が、握っている金属片を見せた。
「これ……」
声が掠れている。
「見つけたのか」
アルノが聞く。
「うん」
手の中には、小さな歯車の欠片があった。
歯はほとんど欠け、錆が浮いている。
機能しない。
機械部品として再利用不能。
少年はそれを胸元へ抱えた。
「役に立たないやつだけど」
リリアはその言葉を聞く。
「あなたには必要だったのでしょう」
少年が振り返る。
「必要?」
「探しに来たので」
「……うん」
少し考えたあと、少年は笑った。
「大事なんだ」
大事。
リリアはその語を内部で繰り返した。
必要と同じではない。
価値とも少し違う。
なくても生存できる。
別の物で代替できない。
失えば探しに戻る。
それが危険だと知っていても。
アルノの石。
少年の金属片。
そして、白い花。
同じではない。
だが、離れたところにあるはずのもの同士が、細い線でつながったように感じられた。
集落へ戻ると、母親は待機場所から走ってきた。
班長が制止するより早く、アルノの背中から少年を抱き取る。
「どこ行ってたの!」
怒鳴る。
抱きしめる。
もう一度怒鳴る。
「馬鹿! 何考えてるの!」
「ごめんなさい」
「心配したでしょう!」
言葉と行動が一致していないように見える。
怒りながら、母親の腕は少年を離さない。
以前なら、感情分類に時間がかかったかもしれない。
今は、分かったような気がした。
怒っている。
安心している。
怖かった。
戻ってきて嬉しい。
複数の状態が同時に存在している。
矛盾していても、一つを削除する必要はない。
アルノが隣へ来た。
「無事でよかった」
「はい」
リリアは少年と母親を見る。
「……よかったです」
分析結果ではなく、その言葉を使った。
アルノが少しだけこちらを見る。
何も言わない。
それでよかった。
帰りの搬送車では、班員たちは疲れていた。
班長は壁へ頭を預け、医療担当は救助記録を書いている。アルノは向かいの席で目を閉じていた。
リリアは窓の外を見ていた。
夕方の霧が丘の間へ残っている。
三年前のヴォイド・リリーが思い出される。
危険を理解していた。
近づく必要はなかった。
それでもアルノは近づいた。
今のリリアでも、その行動を正しいとは思わない。
少年が金属片を探して危険域へ入ったことも、正しかったとは思わない。
母親が装備もなく捜索へ行こうとしたことも。
アルノが危険区域へ先に入ろうとしたことも。
止めるべきところは止める。
危険は危険である。
ただ。
近くで見たい。
取り戻したい。
助けたい。
その願いまで、誤りとして消す必要はないのかもしれない。
三年前の問いは、まだ答えを得ていない。
けれど、問いの輪郭は変わっていた。
なぜそんなことをしたのか。
ではなく。
何を、そこまで大切に思ったのか。
アルノが目を開けた。
「どうした?」
「何でもありません」
答えてから、少し考える。
以前なら、それで会話を終えた。
今は続ける。
「少し、考えていました」
「何を?」
白い花の名前が喉元まで来る。
リリアは飲み込んだ。
「今日の子供のことです」
「無茶したよな」
「はい」
「怒ってる?」
「私が?」
「さっき、ちょっと厳しい顔してた」
怒り。
自分の内部を探す。
「危険な行動だったと思います」
「それは俺も思う」
「でも、危険だと分かっていても、中へ入ろうとした理由は分かります」
アルノは少し黙った。
「そういうの、前は一番分からなかったんじゃなかった?」
「今も、すべては分かりません」
リリアは窓へ視線を戻す。
「分からなくても、理由がないとは思わなくなりました」
アルノは返事をしなかった。
少しして、笑う。
「それ、結構大きい変化じゃない?」
「比較基準がありません」
「そこは相変わらずだ」
秋が終わる頃、風は冷たくなった。
街路樹の葉が落ち、水路を流れる水も、夏の頃より少なくなっていた。市場では温かい飲み物を売る店が増え、アルノの住居では窓を開ける時間が短くなった。
リリアは寒さを避ける必要がない。
それでも、アルノが湯を沸かすと、自分の分の器も用意するようになっていた。
「それ飲んでも暖まらないんだろ?」
「外装温度には一時的な影響があります」
「じゃあ、ちゃんと暖まってるじゃないか」
「活動維持には必要ありません」
「必要じゃなくても、温かいのは悪くないだろ?」
リリアは器を持つ。
温かい。
以前なら温度を先に数値化した。
今も数値は分かる。
ただ、手の中にある熱を、わざわざ数字にする必要は感じなかった。
冬の調査依頼は、小規模な旧記録施設から来た。
雪ではなく、冷たい雨が三日続いた後だった。
施設の北壁が沈下し、内部の一部が立入危険区域になっている。屋根の梁も歪み始めており、次の大雨までに記録媒体を搬出する必要があった。
重要記録はすでに一覧化されていた。
水路管理。
農地記録。
旧道補修。
地域人口。
災害報告。
公的な優先順位がついている。
そこへ、引退した老技師がやってきた。
「三番棚も頼めないか」
現場責任者が困った顔をする。
「三番は低優先です。時間があれば」
「時間がないんだろ」
「だから公的記録からです」
老人は三番棚の方向を見る。
「分かってる。でも、あそこには昔の作業記録がある」
「正式報告は別棚にあります」
「正式報告じゃない」
老人の声が低くなる。
「現場で失敗した時の録音だ。誰が何を言ったとか、どのやり方が駄目だったとか。報告書には残してない」
「私的記録ですか」
リリアが尋ねる。
老人は頷く。
「そういうのも入ってる。くだらない話もな」
「公的な情報価値は低いです」
「そうだな」
老人は否定しなかった。
「でも、もういないやつの声が残ってる」
その一言だけで、分類が変わる。
人間にとって。
リリアは施設の内部を見る。
三番棚。
現在地から十三メートル。
梁の変形。
床面沈下。
倒壊推定時間、不明。
追加回収を行えば滞在時間が伸びる。
人命を危険にするなら、優先できない。
だが、危険にしない方法が存在するなら。
「先に重要記録を運びます」
老人の表情が落ちる。
リリアは続けた。
「その後、残り時間と構造状態を確認します。安全に回収できる範囲なら、三番棚へ行きます」
「……本当か」
「約束はできません」
「それでいい」
老人は小さく笑った。
「考えてくれるだけでいい」
搬出が始まった。
人間たちは箱を運ぶ。
リリアは構造振動を読む。
壁の亀裂。
床の傾斜。
雨水。
梁へかかる荷重。
機材担当が仮支柱を立てる。
アルノが搬出経路を整理する。
班長が時間を計る。
一つずつ、優先記録が外へ出される。
残り時間、推定十二分。
三番棚までの往復と搬出、最低九分。
可能。
ただし余裕、少。
「行けます」
班長が天井を見る。
「本当に?」
「現在の振動状態なら」
「崩れたら?」
「走ってください」
「安心できねえな」
「崩れないとは言っていません」
アルノが横で苦笑した。
「こういう時は、もう少し安心させるような言い方があるだろ」
「危険性を下げて伝えるのは適切ではありません」
「そうじゃなくて。同じことでも、『崩れる兆候が出たらすぐ知らせます』とかさ」
リリアは少し考えた。
「情報の内容は同じです」
「うん。でも、受け取る側の感じ方は違う」
三番棚へ入る。
老技師が示した箱は二つ。
一つ目をアルノが持つ。
二つ目をリリアが持ち上げた。
その時、天井から低い音がした。
構造振動、増大。
北梁、変位。
支柱荷重、上昇。
崩落開始予測、二十秒以内。
「出ます」
二人が振り返る。
通路の先で、機材担当が叫ぶ。
「梁が動いた!」
箱を置けば移動速度は上がる。
資料を持ったままでも、間に合う可能性はある。
しかし確率では足りない。
リリアは箱を抱えたまま、振動の流れを読む。
建物全体は支えられない。
落下を止める出力もない。
崩れる方向を少しだけ変える。
人がいる通路から外す。
「皆が出るまで、こちらへは崩れないで」
形相投影を重ねる。
振動干渉。
梁の応力集中点をずらす。
出力、上昇。
北壁が大きく鳴る。
「走れ!」
アルノが先へ行く。
リリアも続く。
五秒。
十秒。
背後で木材が裂ける音。
支柱が一本折れる。
リリアの操作では止められない。
ただ、落ちる順番をずらす。
十一秒。
出口。
班長が箱を受け取る。
十四秒。
リリアが外へ出る。
操作解除。
直後、施設の北側が崩れた。
低い音とともに屋根の一角が沈み、石壁が内側へ落ちる。灰色の粉塵が雨の中へ広がった。
誰も中にいない。
人員損傷、なし。
回収資料、二箱。
未回収資料、多数。
失われた。
リリアは崩れた建物を見る。
全部は守れなかった。
形相投影を使っても。
作業員たちが立てた支柱があっても。
できる限りの判断を重ねても。
老技師が二つ目の箱を開ける。
内部の記録媒体を一つずつ確認する。
やがて、小さな音声結晶を見つけた。
「……あった」
両手で持つ。
その顔を見て、リリアは尋ねた。
「失われた記録もあります」
「あるな」
「回収できなかったものの方が多いです」
「そうだな」
老人は結晶を握る。
「でも、これだけ残れば十分だ」
十分。
すべてではない。
完全でもない。
観測施設にいた頃なら、欠損率として扱っただろう。
失われた割合。
保存できた割合。
今は、老人が手にした一つの記録へ目が向いた。
残らなかったものがある。
だからといって、残ったものの意味が小さくなるわけではない。
雨の中、老人は結晶を胸元へしまった。
「ありがとう」
リリアは首を振る。
「私だけでは回収できませんでした」
老人は笑う。
「分かってるよ。だから、手を貸してくれたみんなに言ってるんだ」
リリアはその「みんな」の中に、自分も含まれていることを理解した。
冬が終わる頃、青い花はとうに枯れていた。
アルノが市場で買った、あの小さな花。
夏の終わりには色が薄くなり、秋には花弁が乾いた。
リリアは一度、
「廃棄しますか」
と尋ねた。
アルノは、
「いや。そのまま残しておこう」
と答えた。
それだけだった。
今、花は小さな瓶の中にある。
乾燥した花弁は青ではなく、淡い灰紫色になっている。
作業室の棚には、例の石も残っていた。
あれから配置は何度も変わった。
リリアが整理し、アルノが使いやすいように直し、そのたびに二人で置き場所を決めた。
現在の配置は、最初のどちらとも違う。
使いやすい。
そして、互いに分かる。
リリアがリベルナへ来てから、もうすぐ一年になる。
ある朝、窓を開けると、冷たい風の中に柔らかい匂いが混じっていた。
水路沿いの樹木に、新しい芽が出ている。
去年、この街へ来た時にも同じ季節だった。
市場の少年は背が伸びた。
工房で工具を運んでいた子供は、以前より重い箱を持てるようになった。
記録所の職員は髪を少し短くした。
アルノは外勤で傷めた上着を新しいものへ替えた。
一年。
時間単位へ変換することはできる。
日数。
時間。
秒。
けれど、その数値だけでは、今見えている変化を説明できないように感じた。
リリアは鏡の前へ立った。
生成り色のシャツ。
濃紺のキュロット。
灰色の上着。
衣服は何度か交換した。
しかし、その中にいる身体は、一年前とほぼ同じ寸法だった。
外見年齢、十三歳前後。
骨格設定、初期値維持。
外装再構成機能、使用可能。
必要性、なし。
最後の項目で、思考が止まった。
必要はない。
その通りだった。
今の身体で活動できる。
調査にも支障はない。
人間社会で生活することもできる。
変える理由は、機能には存在しない。
アルノが鏡越しにこちらを見る。
「どうした?」
「人間は、一年で変わります」
「急だな」
「身体も」
「まあ、十三くらいなら特に」
「私は変化していません」
アルノは少し考えた。
「気になる?」
以前なら、その質問にすぐ答えられなかったかもしれない。
リリアは鏡を見る。
同じ顔。
同じ身長。
けれど、自分自身が一年前と同じだとは思わない。
「少し」
「変えられるんだよな」
「はい」
「どれくらい?」
「構造上の許容範囲なら、外装と骨格を再構成できます」
「一気に大人にも?」
「可能だと思います」
アルノは驚いたように眉を上げる。
「じゃあ、そうする?」
リリアは首を振った。
即答だった。
「いいえ」
「なんで?」
「まだ、そこまで過ごしていません」
アルノは黙った。
リリア自身も、口にしてからその意味を考えた。
十六歳に見える身体を作ることはできる。
もっと大人びた姿も、おそらく可能。
だが、それでは結果だけを得ることになる。
市場の子供が少しずつ背を伸ばしたように。
街の人々との会話が、何度も繰り返すうちに自然になったように。
アルノとの部屋が、何度も物を動かした結果、二人に使いやすい配置になったように。
変化には、その途中がある。
「少しずつ変えてみたいです」
「人間みたいに?」
リリアは考える。
人間を模倣したいわけではない。
「同じではありません」
「うん」
「でも」
言葉を探す。
以前なら、理由を定義できないことを不完全だと思った。
今は、少し待てばよい。
「皆と同じ時間を過ごしたことを、私にも残したいと思います」
アルノの表情が静かになる。
「身体に?」
「はい」
「そっか」
それ以上の説明を求めない。
リリアは自分の手を見る。
一年間、何度も工具を持った手。
子供の金属片を返した手。
記録の箱を運んだ手。
人間の皮膚とほとんど変わらない外装には、傷は残りにくい。
修復される。
だからこそ、自分で残すものを選べるのかもしれない。
「ただ、一つ問題があります」
「何?」
「現在の衣服が合わなくなります」
アルノは一瞬黙り、それから笑った。
「そこは買い直そう」
「費用が発生します」
「三年同じ服を着るつもりだったの?」
「交換は損耗時で十分です」
「そういうところは、まだリリアだな」
まだ。
その言葉を聞いて、リリアは鏡を見る。
変わること。
変わらないこと。
どちらか一方を選ぶ必要はないらしい。
外装再構成の設定を開く。
急激な変更は行わない。
骨格成長率、低。
外装追従、段階的。
想定期間、複数年。
実行開始。
身体の内部で、ごく小さな調整が始まった。
見た目には何も分からない。
今日と明日で、誰かが気づくこともない。
それでよかった。
「何か変わった?」
アルノが聞く。
リリアは自分を確認する。
「〇・〇二ミリメートルほど」
「分からないよ」
「はい」
リリアは少し笑った。
「それでいいです」
窓の外では、水路の脇に新しい草が伸びていた。
去年も、同じ場所に草は生えていたはずだった。
同じ春。
同じ街。
けれど、自分はもう、ここへ初めて来た少女ではない。
名前を呼ぶ人がいる。
帰る場所がある。
自分の分の地図が用意される。
好きな焼き菓子を知っている人がいる。
知らない子供を探しに行き、その子が大切にしているものを少し理解できた。
失われた記録を全部は救えなくても、残った一つを誰かと喜ぶことができた。
一年前にはなかったものが、いくつもある。
それらは身体の中に数値として保存されているだけではない。
自分が何を見るか。
何を選ぶか。
誰の言葉に足を止めるか。
そういうところにも、時間は残っているようだった。
リリアは窓の外を見る。
変化する必要があるからではない。
変わっていく時間を、ここで一緒に過ごしたい。
その考えには、もう別の理由をつけなくてもよいような気がした。