朝、リリアは棚の上段から記録箱を下ろした。
腕を伸ばすだけで届く。
そのことに気づいたのは、箱を机へ置いてからだった。
以前は、棚の縁へ指を掛けるためにわずかに踵を上げていた。踏み台を使うほどではなかったが、上段の奥へ置かれたものを取る時には身体を伸ばす必要があった。
今は違う。
腕も伸びた。
肩の位置も高くなった。
机へ向かう時の視線も、椅子へ腰を下ろした時の膝の位置も、二年前とは違っている。
けれど、棚そのものは変わっていなかった。
記録箱の隣には、灰色の石が置かれている。
片側が少し欠けた、ただの石。
初めてアルノが一人で調査へ出た時に拾ったものだと聞いた。
用途はない。
希少性もない。
同じ成分の石なら、リベルナの外へ少し歩けばいくらでも見つかる。
それでも、そこにある。
石の隣には、小さな透明瓶があった。
中に残っているのは、乾いた青い花。
正確には、もう青くはない。
とうに枯れ、花弁は淡い灰紫色へ変わっている。茎も細く縮み、触れれば形を失いそうだった。
それでもアルノは捨てなかった。
そのまま残しておこう、と言った。
リリアも、それから一度も廃棄を提案していない。
棚の下段には、記録板と工具が並んでいる。
三年前、リリアが初めてこの部屋を整理した時とは配置が違う。
アルノが使いやすいように直した場所。
リリアが次に使いやすく変えた場所。
その後、二人で相談して決めた場所。
何度も少しずつ変わり、今ではどちらが最初にそこへ置いたのか思い出せないものも多い。
ただ、二人とも場所を知っている。
リリアは記録箱から交換用の感知膜を取り出し、箱を上段へ戻した。
自然に手が届いた。
もう一度、それを見上げる。
身体が変わった。
その事実には、今さら驚かない。
変化は突然起きたわけではなかった。
二年前。
リベルナで一年目の冬が終わる頃、リリアは自分の身体にも時間を残すことを選んだ。
一度に大きく変えることもできた。
外装の形状。
骨格の比率。
発声器の共鳴特性。
毛髪繊維の長さ。
人間の十六歳に相当する姿や、さらに大人びた姿を算出し、その形へ短期間で移行することも、構造上は可能だった。
けれど、そうしなかった。
まだ、そこまで過ごしていない。
あの時、自分でそう言った。
だから少しずつ変えた。
春に肩幅をわずかに広げた。
夏には脚部骨格の比率を調整した。
秋には衣服の袖が短くなり、冬には靴を替えた。
翌年も同じように、昨日と今日では見分けられないほど小さな変化を続けた。
今、鏡へ映る姿は十六歳ほどの少女に見える。
それは人間になるための姿ではない。
人間に見せるためだけの姿でもない。
リベルナの子供たちの背が伸びた。
市場の少年の声が少し低くなった。
近所の女性の髪に白いものが増えた。
アルノの顔にも、三年前にはなかった細い傷が一つ増えた。
街は変わる。
人も変わる。
自分だけ、同じ形で残ることもできた。
けれど、それを選ばなかった。
人と同じ時間を生きたのなら、その時間が自分にも見える形で残ってほしいと思った。
その理由は、今も変わっていない。
「何してるの?」
背後から声がして、リリアは振り返った。
アルノが寝室との境に掛けられた布を押し上げて立っていた。
髪が片側だけ跳ねている。
「棚を見ていました」
「棚?」
アルノも同じ方を見る。
「何か壊れてた?」
「いいえ」
「じゃあ、石?」
「石も正常です」
「石に正常とかあるのか」
アルノが笑った。
二十三歳になった。
六年前、ヴォイド・リリーの前で倒れた時には十七歳だった。
リベルナで再会した時は二十歳。
あれから三年。
背丈はほとんど変わっていないが、昔の記録映像と今のアルノを並べれば違いは分かる。
顔つき。
声。
歩き方。
調査用の鞄を肩へ掛ける動作。
危険区域へ入る前に装備を確認する時間。
変わったものはいくつもある。
「見ないでくれ」
「何をですか」
「今、絶対に何か分析してた」
リリアは少し考えた。
「髪が右側だけ十二度ほど――」
「そこ」
アルノが頭を押さえる。
「そこは三年前と変わらないな」
リリアは笑った。
「直しますか」
「自分でやる」
アルノは水差しの前へ行き、手で髪を押さえた。
リリアも机へ戻る。
窓から朝の光が入っていた。
春の終わりの空気は少し冷たく、水路から上がってくる湿気を含んでいる。向かいの屋根では、小さな鳥が二羽、朝日を受けて羽を広げていた。
気温。
湿度。
風速。
数値は分かる。
意識を向ければ、いつでも取り出せる。
けれど今は、少し冷たい朝だった。
それで足りた。
「朝、どうする?」
アルノが湯を沸かしながら聞いた。
「昨日のパンがあります」
「在庫じゃなくて」
「分かっています」
棚を見る。
昨日、市場で買った赤い実の蜜煮が残っている。
甘さの後に少し酸味があり、温かいパンへ載せると香りが強くなる。
「蜜煮を食べたいです」
「了解」
アルノはそれ以上、理由を聞かなかった。
そのことが嬉しい。
以前なら、自分自身が理由を探していた。
摂食は必要ではない。
成分分析も済んでいる。
活動効率への寄与もない。
なら、なぜもう一度食べるのか。
今なら簡単に言える。
好きだから。
食べたいから。
それを説明するために、内部状態をすべて解析する必要はない。
けれど。
その考えの直後に、別の疑問が浮かんだ。
好きだから。
食べたいから。
その「好き」は、どこから来たのだろう。
蜜煮を好むこと自体は小さなことだった。
けれど、似たものは他にもある。
窓を開けた時の朝の匂いが好きだと思う。
アルノの帰りが遅いと落ち着かない。
調査へ出る日は少し楽しみになる。
知らないものを見つけると、近づいて確認したくなる。
誰かが無事に帰ってくると、よかったと思う。
自分の分の器が食卓に用意されていると嬉しい。
それらは、三年前にはなかったのだろうか。
リリアは思い返す。
なかった、と言い切ることはできない。
観測施設を出たこと。
アルノが落とした端末を持ち帰ったこと。
役目を失った後、休止ではなく外の世界へ向かったこと。
今なら、それらの行動にも「知りたい」「見たい」という言葉を置ける。
当時は、そう呼ばなかっただけなのかもしれない。
では、自分は変わったのか。
それとも、最初からあったものを理解できるようになっただけなのか。
「リリア?」
アルノが器を置いた。
「パン焦げるよ」
「はい」
考えている間に、焼き網の端が少し黒くなっていた。
リリアは蜜煮を載せ、一口食べた。
甘い。
少し酸っぱい。
今日はこれが食べたかった。
その感覚は確かだった。
だからこそ、その感覚を持っている自分のことが、以前より分からなくなっている気もした。
地方記録院へ向かう途中、市場を通った。
三年前より店が増えている。
古い水路の脇に、小さな修理工房ができた。以前は空き地だった場所には共同倉庫が建ち、橋の横には屋根付きの休憩所がある。
焼き菓子の店の女性が、リリアを見つけて手を振った。
「今日は買わないの?」
「朝、甘いものを食べました」
「じゃあ帰りね」
「食べたくなったら、また来ます」
「うん。それでいいよ」
女性は笑った。
三年前なら、予定を決めていない行動を不確定として処理しただろう。
今は、その時決める、で困らない。
道の向こうから少年が走ってきた。
リベルナへ来たばかりの頃、水路へ紙を流して遊んでいた子供の一人だった。
「リリア!」
「おはようございます」
「今日、外?」
少年はリリアの肩の調査鞄を見る。
「今日は記録院です」
「その鞄なのに?」
「いつ調査が入ってもいいように持っています」
「リリアって、いつも用意いいよね」
少年はそう言って、友人たちの方へ走っていった。
リリアは背中を見る。
彼も大きくなった。
最初に会った頃は、走ると腕の振りが大きく、何度か水路へ落ちかけていた。
今は身体の使い方が安定している。
人間は、意識しなくても変わる。
身体が成長する。
声が変わる。
経験が増える。
昨日とは違うものになる。
それでも、周囲は同じ名前で呼ぶ。
アルノもアルノ。
市場の少年も、同じ少年。
三年前の自分と今の自分も、どちらもリリア。
名前は同じだった。
では、その名前が指しているものは何なのだろう。
身体ではない。
身体なら、自分は意図的に作り替えている。
記憶だろうか。
記憶なら、観測施設にいた頃から連続している。
思考だろうか。
それは大きく変わった。
役割だろうか。
世界を観測する役割は、もうない。
リリアは歩きながら、自分の手を見る。
人間に近い外装。
爪。
指の関節。
皮膚に見える表層。
三年前と同じ素材で構成されている部分もあれば、すでに再生成された部分もある。
それでも自分の手だと思う。
当然のことのように。
「どうした?」
隣を歩くアルノが聞いた。
「少し考えています」
「珍しくないな」
「そうですね」
「俺に話せるやつ?」
リリアはすぐには答えなかった。
以前なら、話す必要性を判断した。
今は、話したいかどうかを考えた。
「あとで話すかもしれません」
「分かった」
アルノはそれ以上聞かなかった。
その距離が、リリアには心地よかった。
地方記録院の打ち合わせ室には、すでに地図が広げられていた。
班長が一枚の記録票を読み、医療環境担当が窓際で感知器の膜を交換している。機材担当は箱から外勤用の器具を取り出していた。
机の上には五部の資料。
アルノ。
班長。
医療環境担当。
機材担当。
リリア。
もう、それを見て立ち止まることはない。
自分の分を取り、いつもの席へ座る。
「遅いぞ」
班長が言った。
アルノが壁の時計を見る。
「まだ八分あります」
「十五分前に来いって何年言わせる」
「三年くらいですか」
「リリア」
班長がこちらを見る。
「正確な日数を言わなくていいからな」
リリアは口を閉じた。
機材担当が吹き出す。
「今、言おうとしただろ」
「少しだけ」
「変なところで素直になったな」
笑いが起きた。
リリアも笑う。
この会話を、三年前の自分ならどう受け取っただろう。
班長は開始時刻前の到着を遅刻と表現している。
アルノは規定上の正しさを主張している。
周囲は問題を解決する代わりに笑っている。
以前なら、その構造を理解しようとした。
今は、朝の挨拶に近いものだと分かる。
班長が地図を指す。
「北西の斜面。昨日の雨で旧道が一部落ちた。明日の調査で状態を確認する」
リリアは地図へ視線を落とした。
会話の温度が切り替わる。
地形図。
降水記録。
旧道位置。
前回確認された亀裂。
斜面角度。
頭の中で情報が一気に整列する。
昨日の降水量、三十二ミリ。
北西斜面、表層含水率上昇。
旧道北側、亀裂四。
東側迂回路、距離一・六八倍。
地盤安定性、東側優位。
胞子滞留予測、北側高。
「東から回った方がいいと思います」
班長が顔を上げる。
「遠いぞ」
「四十分程度増えます。でも北側は崩れた場所より、その手前の方が危険です」
リリアは地図の一点を示した。
「ここです。排水路が詰まっている可能性があります。昨日の雨量なら、表面が残っていても下が緩んでいます」
医療環境担当が記録を見る。
「胞子は?」
「北側の窪地に溜まります。明日の朝まで風向きが変わらなければ、東側の方が安全です」
班長はアルノを見る。
「どう思う」
アルノは地図を覗き込む。
「俺も東でいいと思います」
以前なら、そこでアルノがリリアの説明を補っていたかもしれない。
今は違う。
「ただ、ここの分岐は旧標識が消えてます。俺が前を見ます」
「では、その前までは私が地盤を確認します」
「頼む」
それだけで役割が決まる。
班長が地図の線を引き直した。
「じゃあ東。出発は明朝」
会話は次の項目へ移った。
リリアは手元の地図を見る。
嬉しい。
その感情はすぐに分かった。
自分の意見が採用されたからではない。
自分が一人分として扱われたから。
アルノの付属ではない。
保護されている少女でもない。
この場に必要な見方を持つ一人として、意見を聞かれた。
それは、三年間かけて少しずつ作られた場所だった。
望んで得たのかと聞かれれば、分からない。
最初からここへ入りたいと考えていたわけではない。
一つの調査に同行した。
次も呼ばれた。
できることをした。
助けられた。
また行った。
そうして今がある。
人間の関係は、決定した時点が分からないものが多い。
いつからアルノの部屋を「帰る場所」と感じるようになったのか。
いつから外勤班を「一緒に仕事をする人たち」と思うようになったのか。
いつからリベルナで名前を呼ばれることが普通になったのか。
特定できない。
けれど、存在している。
打ち合わせが終わったあと、リリアは記録整理室へ向かった。
明日の外勤準備があるアルノとは、しばらく別行動になる。
整理室の壁には、過去の登録記録を確認するための端末が並んでいた。
担当者へ返却する資料を登録している途中、画面の端に自分の名前が表示された。
リリア。
居住地、リベルナ。
出自、未確認。
登録区分、継続。
その下に、小さな顔写真がある。
三年前。
この街へ来て間もない頃の自分。
十代前半に見える少女。
表情はほとんど動いていない。
記録所の職員に「もう少し普通に」と言われても、何を求められているのか分からず、結局そのまま撮影された。
リリアは画面へ近づいた。
同じ顔ではない。
頬の輪郭。
目の高さ。
顎。
肩。
髪の長さ。
今の自分と並べれば、姉妹のように見えるかもしれない。
けれど、写真の中にいるのも自分だ。
あの日の思考も覚えている。
名前を記録へ入れる必要。
仮記録制度。
アルノの保証。
街で暮らす条件。
分からないことが多く、それでも一つずつ整理しようとしていた。
今、その頃の自分を見て、未熟だったとは思わない。
人間の心を知らなかった。
会話の意味を取り違えた。
必要性と希望を分けられないことも多かった。
でも。
施設を出たのは、この自分だ。
名前を選んだのも。
アルノの部屋へ行くことを決めたのも。
知らない食べ物へ手を伸ばしたのも。
今の自分につながる最初の選択は、すでにこの少女がしていた。
では、何が変わったのだろう。
リリアは隣の黒い画面に映る現在の自分を見る。
写真の少女。
現在の少女。
両方とも自分。
その間に、三年分の記録がある。
けれど、人間のような生物的な成長ではない。
自分は、自分で身体を変えた。
人間の言葉を学んだ。
感情を理解した。
人間の中で暮らした。
その結果として、今の自分がある。
けれど、一つの疑問が、最近になって輪郭を持ち始めていた。
私は、何者なのだろう。
ルーメンであり、人間ではない。それは分かっている。けれど、今の自分をそれだけでは説明しきれない。
人を理解したいと思うことも、誰かと共にいることを望むことも、最初からそうなるよう設計されていたのだろうか。
答えは、まだなかった。
リリアは画面を閉じた。
以前なら、答えのない問いを長く保持することを不快な未処理状態と捉えただろう。
今は違う。
答えがなくても、問いそのものを持っていられる。
ただ。
できるなら、知りたい。
自分がどのような存在として造られたのか。
自分に似た存在は、他にもいたのか。
その存在も、人を見て何かを感じたのか。
役目を失ったあと、何をしたのか。
そこまで考えたところで、整理室の扉が開いた。
アルノだった。
「ここにいた」
「探していましたか」
「明日の地図、追加分が来たから」
彼は紙束を机へ置き、リリアの画面を見る。
すでに登録画面は閉じている。
「何見てた?」
リリアは少し迷ってから答えた。
「三年前の自分です」
「写真?」
「はい」
アルノが記録端末を見た。
「懐かしいな」
「覚えていますか」
「そりゃ覚えてるよ」
「どこが一番違いますか」
アルノは即答しなかった。
リリアの顔を見る。
視線が頭から足元まで一度動く。
「背」
「それは見れば分かります」
「聞いたのリリアだろ」
「外見以外です」
「難しいな」
アルノは机へ寄りかかった。
「話し方はかなり変わった」
「はい」
「表情も」
「はい」
「昔は何か聞くと、答える前に一回止まってた」
「現在も停止することはあります」
「前とは違う。前は答えを探して止まってた感じ。今は、言うかどうか考えてる」
リリアは少し驚いた。
その違いは、自分では明確に意識していなかった。
「他には?」
「甘いもの食べるようになった」
「三年前から食べています」
「食べるのと、食べたがるのは違うだろ」
その言い方に、朝の蜜煮を思い出す。
「でも」
アルノが続ける。
「変わってないところもあるよ」
「どこですか」
「知りたいと思ったら、ずっと考えてるところ」
リリアは彼を見る。
「最初から?」
「最初から」
アルノは何気なく答えた。
「名前を決める時もそうだったし、言葉の意味でも、プロジェクションでも。分からないものがあると、放っておかないだろ」
「そうでしょうか」
「俺よりよっぽど」
アルノは笑う。
「あと、困ってるもの見つけると、自分に何ができるか考えるところも」
「それは後から学んだ可能性があります」
「そうかもな」
否定しない。
「でも、今のリリアがそうなのは確かだろ」
確か。
その言葉が残った。
なぜそうなったかとは別に。
今、そうである。
リリアはその考えをしばらく持っていた。
「アルノ」
「何?」
「アルノは、三年前と同じ人ですか」
今度はアルノが止まった。
「急だな」
「質問です」
「それは分かる」
少し考え、彼は自分の手を見る。
「同じじゃない?」
「では、六年前とは?」
「……十七の俺と?」
「はい」
「同じではあると思う」
アルノは苦笑した。
「同じだったら困るところもあるけど」
「同じであり、違う?」
「たぶん」
「どちらですか」
「両方じゃ駄目?」
以前なら、論理的に不十分な回答だった。
同一か非同一か。
識別上はどちらかへ分類する必要がある。
けれど今は、アルノが言っていることを少し理解できる。
同じ人である。
でも、同じ状態ではない。
過去を持ったまま変わる。
自分もそうなのだろうか。
「両方でも、いいのかもしれません」
リリアが言うと、アルノは少し目を丸くした。
「本当に変わったな」
「そうでしょうか」
「うん。今のは本当にそう思った」
翌日予定されていた斜面調査は、昼前に延期された。
首都圏から地方記録院へ大量の記録箱が運び込まれたためだった。
広域調査で回収された資料のうち、地方区域に関係するものを各記録院へ戻す作業らしい。
「また押しつけられた」
機材担当が積み上がった箱を見て言った。
班長が記録票を読む。
「中央は『地方由来資料の再配分』って呼んでる。都合のいい名前をつけて、こっちに仕事を回してきたわけだ」
「もう。名前を変えても量は減らないでしょう」
リリアが呆れたように言う。
一瞬、室内が静かになった。
班長が笑う。
「昔から、リリアのツッコミは直球だな」
「そうでしょうか」
アルノも笑った。
「うん。そこは変わらないよね」
箱は六つあった。
土壌記録。
旧道調査。
植物分布。
未登録遺跡。
停止した機械生物。
リリアは最後の二箱を担当した。
ほとんどは、すぐに分類できる資料だった。
映像。
位置情報。
回収物の構造記録。
読み取り不能な媒体は別箱へ移す。
作業を始めて一時間ほど経った時、一枚の記録票で手が止まった。
ヴェイル東方中層。
リベルナから通常の外勤範囲を越え、さらに奥。
停止機械生物。
回収時、活動反応なし。
外装損傷、大。
記録系、一部残存。
備考欄。
既知形式に一致しない周期信号を確認。
リリアは媒体を取り出した。
小さな結晶記録片。
人間用の読取器へ接続する。
最初に再生されたのは、破損した映像だった。
白い霧。
崩れた岩。
古い塔らしい影。
映像終了。
次に音響記録。
風。
機械生物自身の駆動音。
その奥。
細い反復。
リリアの手が止まった。
三回。
間。
二回。
長い空白。
再び三回。
周囲の音が少し遠くなった。
意識が信号へ集中する。
信号周期。
旧観測規格との部分一致。
同期形式、類似。
符号構造、異なる。
発信識別子、判別不能。
内部制御系との同期、なし。
外部信号受信可能性、高。
リリアはもう一度再生した。
三回。
二回。
空白。
知らない信号。
なのに、知っている。
完全には一致しない。
自分が観測施設で用いていた形式とは違う。
けれど、信号を組み立てる順序が近い。
複数の観測点から情報を集め、発信元を区別し、時刻を揃える。
表面の記号が違っても、その奥にある考え方が似ている。
人間の言葉なら。
違う声で、少し違う訛りを持って、同じ言語を話しているような。
「リリア?」
アルノの声がした。
いつの間にか近くへ来ていた。
「どうした?」
リリアは媒体を見たまま答える。
「分かりません」
「危ないもの?」
「違います」
もう一度、信号。
胸の奥に、何かが引かれるような感覚がある。
懐かしさ。
それとも期待。
自分でも区別できない。
「でも、知っています」
「分からないのに?」
「形式は知りません。でも……似ています」
リリアはようやくアルノを見る。
「私に」
アルノの表情が変わった。
二人は記録票を持って、隣の小部屋へ移った。
人の出入りが少ない場所。
リリアがもう一度信号を再生する。
アルノには、細い機械音にしか聞こえないらしい。
「どのくらい似てる?」
「同一ではありません」
リリアは紙へ簡単な波形を書く。
「私が以前使っていた観測系では、複数の観測装置の時刻を合わせるために、この間隔で同期信号を挟みました。この信号は長さが違います。でも、配置が近いです」
「古い観測網?」
「可能性があります」
記録票には回収地点がある。
周辺の旧地図を開く。
該当位置の近くに、用途不明の施設跡。
第六紀。
旧中継施設。
詳細不明。
閉鎖記録なし。
「ここか」
アルノが指す。
「おそらく」
リリアは地図を見る。
自分の観測施設とは接続記録がない場所だ。
遠い。
別の観測系。
もし、この信号が施設から出ていたのなら。
誰が使っていたのだろう。
人間。
自律装置。
あるいは。
自分と同じような観測者。
その考えを認識した瞬間、胸の奥が強く動いた。
もし、自分に近い存在がいたら。
その存在は、何を観測していたのだろう。
人間をどう見ていたのだろう。
役目を失った時、どうしたのだろう。
施設に残ったのか。
外へ出たのか。
名前を持ったのか。
誰かと暮らしたのか。
身体を変えようと思ったのか。
それとも。
何も変えなかったのか。
自分に似た存在を見ることができれば、自分がどこから来たのか分かるかもしれない。
どのような目的で造られたのか。
人を理解しようとするこの思考が、自分だけのものなのか。
最初から備えられた機能なのか。
それを知ったら何が変わるのだろう。
今までの三年間が違うものになるのか。
アルノと過ごした時間。
街で覚えた名前。
好きになった味。
誰かを心配したこと。
自分から外装を変えたこと。
それらに「設計された結果」という名前が付いたら。
自分は、それを同じように自分のものだと思えるだろうか。
少し怖い。
そう感じた。
答えが欲しいのに。
答えによって、今までのものの見え方が変わることが怖い。
けれど。
知らないままにしておきたいとは思わなかった。
むしろ、その逆だった。
確かめたい。
自分が何者なのか。
今ここで生きている自分が、何から始まり、どこまで自分で選んできたのか。
そして。
これからどう生きたいのかを考えるために。
自分が過去から何を引き継いでいるのか、知りたい。
「行きたいです」
言葉が出た。
アルノがこちらを見る。
「現地へ?」
「はい」
即答したあと、リリアは自分の感情を確認した。
衝動ではない。
調査価値だけでもない。
「この信号が何なのか、見たいです」
アルノは地図を見る。
「何も残ってないかもしれない」
「分かっています」
「信号も、ただの古い装置かもしれない」
「はい」
「リリアと関係ない可能性もある」
「それでも行きたいです」
今度は、迷わなかった。
「今まで、自分が何なのかを考える必要がありませんでした」
アルノは黙って聞いている。
「観測施設にいた時は、観測者でした。それで十分でした。役割がありましたから」
世界を見る。
記録する。
伝える。
それだけで、自分を説明できた。
「役割がなくなって、私は外へ出ました。でも、その時も、自分が何かを決める必要はありませんでした。世界を見たいと思った。それで動けました」
リベルナへ来た。
名前を選んだ。
アルノと暮らした。
「三年間、人と一緒に過ごして、できることも、感じることも増えました」
リリアは自分の手を見る。
「今は、観測施設にいた頃の私と違います」
「うん」
「でも、人間ではありません」
「それも知ってる」
「では、私は何でしょう」
アルノはすぐに答えなかった。
リリアも、答えてほしくて聞いたわけではない。
「ルーメンです。それは分かっています。でも、それだけでは、今の私を全部説明できません」
言葉にすると、問いの形が少しはっきりした。
「私は、この街で生きています。アルノと暮らしています。外勤班と仕事をします。食べたいものがあります。帰ってこない人を心配します。自分の身体を変えることも選びました」
一つずつ。
現在の自分を並べる。
「それが、もともと私に与えられていたものなのか。人間を見て学んだ結果なのか。それとも、私が選んだからそうなったのか」
声が少し小さくなった。
「知りたいです」
アルノはしばらく地図を見ていた。
「答えがなかったら?」
リリアは考える。
以前なら、答えが得られない調査は効率が悪いと考えただろう。
けれど、今は違う。
「その時は、なかったことが分かります」
アルノが少し笑った。
「リリアらしいな」
「それに」
リリアは続ける。
「答えがなくても、見たものは残ります」
リベルナでの一年目の冬。
全部の記録を救えなかった。
それでも、残ったものの意味まで小さくなるわけではないと知った。
同じように。
探している答えそのものがなくても、そこへ行き、何かを見ることには意味があるかもしれない。
「私は、自分と似た存在がいたなら、その存在を見たいです」
その言葉を口にした時、少しだけ胸が軽くなった。
理由が見つかった。
正体を確定するためだけではない。
自分の未来を決めてもらうためでもない。
ただ、見たい。
自分より前に世界を観測していたかもしれない存在を。
その存在が、自分とは違う何かを見ていたかもしれない場所を。
そこから何を受け取るかは、その後に考えればいい。
アルノが地図の回収地点を指でなぞる。
「ここまでは搬送路が残ってる」
リリアが顔を上げる。
「アルノも行くのですか」
「そのつもりだけど」
「明日の斜面調査があります」
「班長にずらしてもらう」
「記録院へ申請も必要です」
「それもする」
「奥地です。通常調査より危険があります」
「知ってる」
アルノが顔を上げる。
「それでも、俺も見たい」
リリアは一瞬、何も言えなかった。
六年前の記録が、わずかに浮かぶ。
白い花。
危険を知りながら近づいた足。
見たい。
まだ、その理由を本人から聞いたことはない。
でも今、その言葉が以前とは違って聞こえた。
「……分かりました」
「何、その間」
「何でもありません」
「絶対何かあるだろ」
「今は話しません」
アルノは眉を寄せたあと、笑った。
「そういうのも覚えたな」
調査許可が出たのは、その日の夕方だった。
地方記録院としても、未知形式の観測信号は確認する価値がある。
ただし大規模な班を動かすほどの緊急性はない。
旧道の状態。
周辺のヴェイル反応。
帰還経路。
二人分の調査計画を提出し、翌々日の出発が決まった。
夜。
リリアは調査鞄を開いた。
防塵布。
記録板。
採取容器。
携帯灯。
旧施設用接続具。
人間用の簡易測定器。
自分には直接取得できる情報も多い。
それでも入れる。
アルノと同じ数字を見るため。
記録院へ同じ形式で持ち帰るため。
三年前には必要性が分からなかった道具が、今では自分の仕事の一部になっている。
荷物を詰め終えたあと、リリアは机の下の収納を開いた。
衣服の奥。
布に包まれた黒い端末。
手に取る。
六年前、ヴォイド・リリーの近くでアルノが落としたもの。
三年前、リベルナで再会した時にも返さなかった。
返せる機会は何度もあった。
今なら、なぜ返さなかったのかも少し分かる。
この端末は、アルノのものだった。
同時に。
自分が人間を見るきっかけになったものでもある。
観測施設の外へ初めて出たこと。
記録された花を見たこと。
同じ花なのに、違って見えたこと。
リリアという名前を選んだこと。
自分の中では、いくつもの出来事がこの端末につながっている。
まだ、アルノには話していない。
端末を持っていく必要はない。
旧施設の調査には使えない。
規格も違う。
重量は小さいが、荷物は増える。
その判断は簡単だった。
不要。
けれど、手は収納へ戻さなかった。
自分の過去を探しに行く。
その言葉が浮かぶ。
なら。
これも持っていきたいと思った。
理由は、それで十分だった。
リリアは布包みを鞄の一番奥へ入れた。
翌朝。
二人がリベルナを出る頃、空には薄い雲が広がっていた。
街の外壁を抜ける。
水路沿いの道。
低い丘。
その向こうへ、ヴェイルの白い霧が横たわっている。
リリアは一度だけ振り返った。
記録塔が見える。
住居の屋根は、ここからでは区別できない。
それでも、あの中に自分の帰る部屋がある。
石。
枯れた青い花。
二人で置き場所を決めた棚。
昨日食べた蜜煮。
地方記録院の机に置かれた自分の資料。
三年間で増えたもの。
そのすべてを背後に残して、自分は過去へ向かおうとしている。
過去を知れば、現在が変わるのだろうか。
何かが偽物に見えるのだろうか。
あるいは。
今まで見えなかったものが、見えるようになるのだろうか。
怖い。
けれど、行きたい。
アルノが隣で地図を畳んだ。
「行こうか」
「はい」
リリアは霧の向こうを見る。
そこに答えがあるとは限らない。
自分と似た存在がいたと決まったわけでもない。
それでも。
自分が何者なのかを考え始めた今、その影を見ずに戻ることはできないと思った。
何のために造られたのか。
どこまでが与えられたものなのか。
何を自分で選んできたのか。
そして、これから何を選びたいのか。
全部の答えが一度に見つかるとは思わない。
まずは、自分より前にそこにあったかもしれないものを見る。
それでいい。
リリアはアルノと並び、白い霧へ続く道を歩き始めた。
◇
リベルナを離れてしばらくは、人の手が残る道を歩いた。
石を敷いた旧街道。荷車の轍。雨のあとに崩れた路肩を補修した新しい土。ところどころに立つ道標には、地方記録院が追加した小さな金属札が打ちつけられている。
午前のうちは、振り返ればまだ遠くに記録塔が見えた。
昼を過ぎる頃には、それも丘の向こうへ消えた。
代わりに白い霧が近づいてくる。
霧は一枚の壁のように広がっているわけではなかった。低い谷へ溜まり、斜面を這い、ところどころで薄く切れている。その向こうに黒い岩や枯れた樹木が浮かび、また白の中へ沈んでいく。
リリアは歩きながら、空気を吸い込んだ。
呼吸は必要ではない。
けれど、空気の成分を調べる時には、今も人間と同じように息をする動作を使う。
湿度、高。
白色胞子、低濃度。
刺激性成分、許容範囲。
ヴェイル由来微粒子、増加。
風向き、北東。
危険兆候、なし。
情報を整理してから、リリアは空を見た。
雲は薄かった。
陽光が霧の上へぼんやりと落ちている。
白く、静かだった。
かつて観測施設からヴェイルを見ていた頃なら、霧は視界阻害率として扱っていただろう。地表反射。湿度。粒子濃度。観測可能距離。
今は、きれいだと思う。
同時に、少し不安でもあった。
霧の向こうに何があるのか分からないから。
その二つは矛盾しなかった。
「濃くなってきた?」
前を歩いていたアルノが振り返る。
「少し。まだ防塵布は必要ありません」
「じゃあ次の谷まで行くか」
「その前に、左へ寄った方がいいです」
アルノが立ち止まった。
「何かある?」
「正面の地面が薄いです」
見た目には、普通の灰色の地面だった。
ところどころ苔があり、白い草が低く生えている。
アルノが腰を落とし、杖の先で地面を押した。
二度。
三度。
四度目で、表面が崩れた。
その下に黒い空洞が開く。
「……いつから分かってた?」
「三十メートルほど前です」
「先に言って」
「避ける位置を決めていました」
「それも先に言って」
リリアは少し考えた。
「次からそうします」
「お願いします」
アルノは立ち上がり、リリアの示した左側へ移る。
地中には旧排水路が残っている。
天井の一部が崩れ、土で覆われていただけらしい。
リリアは振動を確認しながら先に進んだ。
「ここから八メートルは大丈夫です」
「八メートル先は?」
「まだ確認していません」
「はい」
アルノが後ろからついてくる。
以前は逆だった。
リベルナを出たばかりの頃。
知らない街で。
知らない道で。
アルノが前を歩き、リリアがその後ろを見ていた。
最初の外勤でも、リリアは基本的には班の指示を受けて動いていた。
今は、必要なら自分が前へ出る。
アルノもそれを特別なこととして扱わない。
空洞を抜けた先で、道が二つに分かれていた。
今度はリリアが止まる。
右は岩場。
左は低い草地。
地図には分岐がない。
「どちらですか」
「右」
アルノが即答した。
「理由は?」
「こっち」
彼は右側の岩の根元を指した。
三つの小石が縦に積まれている。
リリアは見る。
自然に積み上がった可能性。
低い。
人為配置。
可能性、高。
ただし古い。
「調査標識ですか」
「たぶん。昔の外勤がよく使ってたやつ」
アルノは一番上の石を持ち上げる。
下面だけ、周囲より泥の付着が少ない。
「一度動かされてる」
「いつですか」
「そこまでは分からない」
「表面の乾燥状態から――」
言いかけて、やめた。
アルノが笑う。
「調べる?」
リリアも小石を見る。
調べれば、おおよその時間は絞れる。
けれど今必要なのは、その標識がどちらを示しているかだ。
「いいえ。右へ行きましょう」
アルノが少し笑う。
「そこまでは調べないんだ」
「今は、道が分かれば十分です」
「なるほど」
アルノは小石を元の位置へ戻した。
同じものを見ても、二人の見方は違う。
リリアは振動を聞く。
空気を見る。
素材を読む。
アルノは、人が通った痕跡を見る。
石の置き方。
傷の向き。
草の踏まれ方。
同じものが見える必要はなかった。
以前なら、自分の方がより多くの情報を取得できる場面では、人間の観察を低精度な手段として分類したかもしれない。
今はそう思わない。
アルノの見方には、リリアが知らない「人がどう動くか」が入っている。
リリアの見方には、アルノには取得できない情報がある。
その二つを一つにすると、一人で見るより遠くまで見える。
それが好きだった。
「何?」
アルノが聞いた。
「何がですか」
「また笑ってる」
リリアは自分の口元へ触れる。
「……一人で来なくてよかったと思っていました」
アルノは一度だけ瞬きをした。それから前を向く。
「それは、俺も」
短い答えだった。
その声を聞いて、リリアは少し温かくなった。
この感覚を分析する必要はない。
そう思えるようになったこと自体が、三年間の一部なのかもしれない。
日が傾き始める頃、地形が変わった。
低い丘が途切れ、前方に深い谷が現れる。
その向こう側。
霧の中に、細長い影が立っていた。
塔だった。
上部は折れている。
残った半分も傾き、外壁には白い蔓が絡みついていた。塔から地上へ伸びた導線の一部は途中で切れ、黒い線となって谷の斜面へ垂れている。
リリアは足を止めた。
記録院で見た回収記録。
停止した機械生物の映像に、一瞬だけ映っていた形。
一致する。
「あれ?」
アルノが地図を見る。
「位置は合っています」
二人は谷を回り、施設へ近づいた。
塔の下には低い構造物があった。
岩壁へ埋め込まれるように造られ、外壁の半分は土と植物に覆われている。入口と思われる場所には金属扉が残っていたが、上部が歪み、片側が壁へ沈み込んでいた。
リリアは、そこでまた立ち止まった。
さっきとは違う。
危険を感じたわけではない。
信号を検出したわけでもない。
ただ。
懐かしい。
その言葉が、最初に浮かんだ。
「どうした?」
アルノが隣で止まる。
リリアは施設を見た。
自分がいた観測施設とは違う。
外壁の材質。
観測塔の位置。
地下区画の推定規模。
入口の構造。
どれも同じではない。
それでも、どこか知っている。
目に見える形ではなく、その奥にあるものを。
遠くから情報を集めるための塔。
複数の導線を一つの場所へ寄せる配置。
地中へ伸びる感知系。
人が生活するための窓がほとんどない外壁。
世界を見るために作られた場所。
「懐かしいです」
言ってから、自分でも不思議に思った。
この場所へ来た記録はない。
接続履歴にもない。
「来たことある?」
「ありません」
「じゃあ、施設が?」
「似ています」
リリアは入口脇の壊れた接続板へ近づく。
表面に残る配線を追う。
「形ではなくて……」
言葉を探した。
「作り方が」
アルノが隣へ立つ。
「観測施設っぽい?」
「はい」
かつての自分なら、構造上の類似点を列挙しただろう。
今でもできる。
けれど、懐かしいという言葉の方が先に出た。
そのことが、少し嬉しく、少し怖かった。
懐かしいと感じるのは、自分がここに似た場所を「過去」として持っているからだ。
観測施設は、自分が捨てた場所ではない。
人間を知らなかった頃の未完成な自分を置いてきた場所でもない。
そこにいた自分も、自分だ。
「入れそう?」
アルノが扉を見る。
リリアも確認した。
扉下部。
変形。
駆動系、停止。
上部軸、固着。
右側壁面、安定。
左側、亀裂あり。
強制開放時、左壁への負荷上昇。
「完全には開けない方がいいです」
「二人通れればいい」
アルノが工具を取り出す。
扉の下へ薄い金属棒を差し込む。
「少し軽くできる?」
「できます」
リリアは扉へ手を添えた。
形相投影(プロジェクション)は使わない。
単純な重量操作で足りる。
扉そのものを持ち上げるのではなく、アルノが加える力の邪魔になる重さを一部だけ減らす。
「始めます」
「うん」
金属が軋む。
アルノが支点を変える。
扉が二センチ浮く。
そこへ固定片を差し込む。
もう一度。
五センチ。
さらに一度。
十二センチ。
「これなら?」
リリアは隙間を見る。
「もう少しです。アルノの肩が通りません」
「じゃあ、あと一回」
四度目。
扉が人一人分まで開く。
内部から、冷たい空気が流れ出した。
埃。
乾いた金属。
古い植物。
微量の油脂成分。
そして。
ごく弱い白銀反応。
リリアは顔を上げた。
「あります」
「何が?」
「記録院で見つけた反応と近いものです」
「中?」
「はい」
まだ場所までは分からない。
でも、確かにある。
胸の奥が少し早くなる。
人間の心拍ではない。
けれど、自分の中の処理速度が上がっていることは分かる。
期待。
そう呼んでいい。
同時に緊張もある。
答えに近づいているかもしれない。
扉の向こうは暗かった。
アルノが携帯灯を点ける。
「先、俺?」
リリアは内部へ視線を向ける。
「最初は私が行きます。床の状態を見ます」
「じゃあ後ろ見る」
それだけで決まる。
リリアは身体を横にし、開いた扉の隙間を抜けた。
床へ足を置く。
一歩。
二歩。
荷重、安定。
床下空洞、部分的。
右側壁面、崩落なし。
微弱振動、奥から周期的に到達。
三回。
間。
二回。
長い空白。
記録院で聞いた信号。
「大丈夫です」
アルノが続いて入る。
携帯灯の光が通路を照らした。
壁には古い接続端子が並んでいる。
ほとんどは暗い。
何本かは内部配線を失い、黒い穴だけが残っている。
床には薄く砂が積もり、その上に小さな足跡があった。
人間ではない。
四脚の小型機械生物。
古い。
「最近、人が入った形跡は?」
アルノが聞く。
「ありません」
「じゃあ、さっきの信号は」
「現在発信されているとは限りません」
「記録?」
「残留しているだけかもしれません」
言葉にすると、期待が少しだけ落ち着いた。
生きている誰かが待っているわけではない。
最初から、その可能性は低かった。
それでも、自分に近い何かの痕跡がある。
今はそれでいい。
通路は三つに分かれていた。
正面は崩落。
左は低い配管室。
右は奥へ下っている。
壁面の古い案内記号を、アルノが携帯灯で照らした。
「主観測区画は右で合ってる?」
リリアは記号を追う。
「はい。左は保守区画です」
「読めるんだな」
「私がいた施設と同じ系統です。ただ、略記が少し違います」
「なるほど。じゃあ右」
アルノは記号をもう一度見る。
「古い字って嫌いだ」
「記録院の人が言ってはいけないと思います」
「外勤だからいい」
「よくありません」
二人は右へ進んだ。
坂を下るにつれ、空気はさらに冷たくなる。
壁に触れなくても分かるほど、内部に大きな空間がある。
途中、床を横切る太い導線があった。
外装は破れ、中の白い繊維状素材が露出している。
リリアはしゃがんだ。
「ここです」
「白銀反応?」
「はい」
指を近づける。
触れない。
素材そのものは白銀ではない。
けれど、その表面に微細な粒子が残っている。
観測信号の伝達に使われた痕跡。
あるいは、何かが直接接続していた痕跡。
断定はできない。
「人の装置?」
アルノが尋ねる。
「人間が扱えない構造ではありません。でも、操作系が多すぎます」
「多い?」
「一人が一度に扱う前提ではない数です」
アルノが導線の先を見る。
「ルーメンなら?」
リリアは答えなかった。
代わりに、先へ進んだ。
胸の内側で期待がまた少し大きくなる。
主観測区画は、円形の部屋だった。
扉は失われている。
入った瞬間、リリアは足を止めた。
壁面を囲む観測端末。
中央の低い演算台。
床から伸びる複数の接続柱。
天井へ向かって束ねられた導線。
人間用の椅子はない。
休憩区画もない。
生活用の設備も見当たらない。
ただ世界を見るためだけに作られた部屋。
自分がいた場所より小さい。
けれど。
よく似ていた。
リリアは中央まで歩いた。
携帯灯の光が、停止した観測面を一つずつ横切る。
誰もいない。
それは分かっていたはずなのに、胸の奥に小さな落胆があった。
「反応は?」
アルノが声を落として聞いた。
リリアは目を閉じた。
視覚を切る必要はない。
ただ、他の情報を少し下げる。
振動。
電磁反応。
残留信号。
微細なソウル反応。
壁の奥。
床。
中央演算台。
複数。
「残っています」
「動いてる?」
「違います」
リリアは目を開けた。
「動いているものではありません」
例えるなら、誰かが部屋を出たあとも残る温度。
声が消えたあとに壁へ返る響き。
発信そのものは、もうない。
けれど、何度も同じ信号が通った場所には、わずかな偏りが残る。
アルノは観測台の周囲を調べ始めた。
「記録媒体は?」
「壁側にあります」
リリアが示す。
六基。
うち二基は完全に破損している。
一基は外されている。
残り三基に、ごく弱い反応。
さらに床下に一基。
「外されたやつ、誰か持ってった?」
「分かりません」
アルノは端子を見る。
「壊れて抜けた感じじゃないな」
「はい。固定具が解除されています」
人間か。
観測主体自身か。
それも分からない。
残っている記録媒体を一つずつ確認する。
通常の読み取りでは、ほとんど情報にならなかった。
時刻情報、破損。
連続番号、欠損。
映像、断片。
環境記録、断片。
同期信号、残留。
複数媒体間の順序、判定不能。
リリアは三つの媒体を床へ並べた。
アルノが持ってきた記録板を横に置く。
「一個ずつ読んでも駄目?」
「読める部分はあります。でも、順番が分かりません」
一つ目には雨の映像。
二つ目には人間の集落。
三つ目には夜の地表温度。
そのままでは、それぞれが何年前のものなのか判断できない。
「場所は?」
「観測地点識別子も一部欠損しています」
「じゃあ、さっきの信号の癖は?」
リリアはアルノを見る。
「癖?」
「ほら。記録院で言ってた。違う言葉じゃなくて、同じような作り方をしてるって」
「はい」
「同じ発信元の記録なら、壊れてても何か共通してない?」
リリアは媒体を見る。
確かめる。
信号本体は読めない。
けれど、記録されるたびに媒体へ残った微細な振動。
通常なら誤差として捨てるもの。
これらは完全には失われていない。
ただし小さすぎる。
一つずつ増幅しても、周囲の雑音まで大きくなり、違いが消える。
リリアは床へ手を触れた。
「できるかもしれません」
「何を?」
リリアは並べた媒体を見る。
「記録そのものを戻すことはできません。消えた情報は、そのままです」
「じゃあ?」
「でも、同じ信号に含まれていた残響なら、その関係だけは残っているかもしれません」
少し考えてから続ける。
「プロジェクションで、『同じ信号の一部だった』という関係を少しだけ強めます。共鳴すれば、どの断片が同じ系列なのか分かるはずです」
アルノが媒体を見る。
「順番を拾えるかもしれない?」
「はい」
言葉にしながら、自分の中でも形ができる。
形相投影。
意味層へ触れる。
世界へ命令するのではない。
残っているものに、自分の意思を重ねる。
同じだったもの同士が、もう一度だけ互いを見つけやすくなるように。
リリアは媒体の位置を調整した。
三基。
床下から外した一基。
合計四基。
アルノがそれぞれへ記録線を接続する。
「俺は?」
「波形を記録してください。私には共鳴しているように感じられても、実際の順序は人間用の記録へ残した方がいいです」
「了解」
アルノは紙を広げ、筆記具と記録板を並べた。
リリアは手を伸ばす。
四つの媒体の間へ。
現象操作を開始する。
まず、ごく弱い振動だけを拾う。
位相。
周期。
残響。
その中へ、自分の意思を言葉として流す。
「同じ場所から生まれたものなら」
声は静かな観測室へ小さく広がった。
「もう一度だけ、同じ方を向いてください」
形相投影を重ねる。
意味層へ干渉する。
強くは押さない。
揃えようと命令しない。
残っている関係へ触れる。
最初は何も起きなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
一基の媒体が、ほんのわずかに震える。
次に、離れたもう一基。
周期が近づく。
完全には一致しない。
けれど。
「二と四」
アルノが言う。
「同じ?」
「同系列です」
「順番は?」
リリアは集中する。
二番目の残響。
減衰率。
四番目。
位相遅延。
「二が先です。四が後」
アルノが記録する。
操作を止める。
すぐに共鳴は消えた。
「大丈夫?」
「はい」
ソウル消費、軽微。
内部負荷、低。
継続可能。
ただし長時間維持、不適。
「もう一度します」
今度は一と三。
反応なし。
一と四。
違う。
三と四。
弱い共鳴。
「三と四」
アルノが書く。
「四が先です」
「じゃあ、二、四、三?」
「まだ確定しないでください」
「はい」
「二と三を直接確認します」
「はい先生」
リリアは彼を見る。
「何ですか」
「何でもない」
もう一度。
少しだけ笑ってから、集中へ戻る。
形相投影を使うたび、媒体の振動がほんの数秒だけ互いへ寄る。
戻らないものもある。
何も反応しない部分もある。
壊れた記録が奇跡のように甦ることはない。
それでも。
ばらばらだった断片の間に、細い線が生まれていく。
リリアが共鳴を探す。
アルノが順番と位置を記録する。
リリアが読み取った古い記号を、アルノが現在の地図へ対応させる。
アルノが見つけた物理的な交換跡から、媒体が途中で入れ替えられた可能性をリリアが補正する。
一人ではできない。
それが、少し嬉しかった。
「これで最後」
アルノが四本目の線を引いた。
「はい」
リリアは形相投影を解く。
観測室が静かになる。
中央の演算台へ、再構成した順序を入力した。
完全な記録ではない。
欠損は多い。
時期が重なっている場所もある。
それでも、ばらばらだった断片が一つの流れとして並んだ。
最初の記録が表示される。
地表温度。
降水量。
機械生物活動数。
人間活動圏。
簡潔だった。
次。
季節が変わる。
植物分布。
地形変化。
人間移動数。
次。
また同じ。
環境。
文明。
機械生物。
それらを測り、分類し、保存している。
「ずっと、これ?」
アルノが聞く。
「観測記録としては正常です」
リリアは答えた。
さらに進める。
一つの映像が現れた。
小さな集落。
人間が五人。
中央で何かを囲んでいる。
音声は途中からしか残っていない。
一人が何かを言う。
他の者が笑う。
笑い声。
リリアは少し身を乗り出した。
記録表示。
人間音声活動。
五個体。
継続時間、十一秒。
それだけ。
なぜ笑ったのかという分析はない。
会話内容への関心もない。
映像は次へ移る。
「戻す?」
アルノが聞いた。
「いいえ」
次。
黄色い小さな花。
風で揺れている。
植物個体。
開花状態。
周辺温度。
湿度。
異常なし。
映像終了。
リリアは少し長く、消えた画面を見ていた。
きれいだった。
小さな花だった。
形も珍しくない。
色も、リベルナ周辺で見かけるものと大きく違わない。
それでも、きれいだと思った。
記録者はどうだったのだろう。
分からない。
「何かあった?」
アルノが聞く。
「花がありました」
「見えてた」
「きれいでした」
アルノは少し笑う。
「うん」
それだけだった。
次の記録。
人間が二人、施設の外に座っている。
移動なし。
作業なし。
危険行動なし。
会話音声、一部欠損。
夕方から暗くなるまで、同じ位置にいる。
観測記録には、
人間個体、二。
長時間滞在。
活動低下。
とある。
リリアは、その映像を見ながら考えた。
待っていたのだろうか。
話していたのだろうか。
ただ景色を見ていたのかもしれない。
何をしていたのかは分からない。
記録者も、その理由を書いていない。
それを「理解できなかった」と判断した記録さえない。
ただ見ている。
分類している。
それで終わっている。
違う。
リリアは、そう思った。
自分とは違う。
その判断は、優劣ではなかった。
記録が不足しているという意味でもない。
この観測者は、自分がかつてしていたように、世界を正確に見ている。
観測するために必要な情報を集める。
異常を識別する。
変化を比較する。
役割を果たしている。
そこに、人間の行動理由を知りたいという記録がない。
だからといって、何かが欠けているわけではない。
次々に記録を見る。
年月が進む。
外部の観測装置が減る。
接続数が少なくなる。
周辺の機械生物も変わっていく。
それでも観測は続く。
信号は規則的だった。
迷いがない。
ある記録では、遠くの町が火災で半分失われている。
被害。
熱源。
避難人数。
復旧。
次の年には、同じ場所に新しい建物が立つ。
それも記録されている。
ある年には、施設のすぐ近くで人間の子供が転び、泣いている。
数分後、大人が迎えに来る。
記録表示。
小型人間個体。
転倒。
軽微損傷。
大型個体接近。
離脱。
リリアは画面を見る。
自分なら。
今の自分なら、どうするだろう。
施設から出るかもしれない。
怪我を確認するかもしれない。
泣いている理由を考えるかもしれない。
少なくとも、その子供が「小型人間個体」として記憶に残ることはない。
三年前なら。
どうだっただろう。
分からない。
でも、観測施設にいた自分にも、アルノの行動を理解したいと思った瞬間があった。
完全に同じではない。
最初から。
そうだったのだろうか。
「リリア」
アルノの声で、思考が戻る。
「次、変だ」
画面を見る。
時期はさらに後。
観測数が急に減っている。
異常ではない。
外部との接続が次々に切れている。
リリアには、その変化が分かった。
知っている。
自分にも起きた。
ある夜。
世界の深部から広域信号が届いた。
終末判定。
再演算。
強制終了処理の保留。
そして。
観測権限の移譲。
リリアの中で、遠い記憶が立ち上がる。
北東の機械生物。
視界が消えた。
南側の振動板。
水の音が消えた。
西の観測塔。
夜空が消えた。
一つずつ世界が狭くなり、最後には観測室だけが残った。
画面の向こうでも、同じことが起きている。
外部観測系。
切断。
再接続。
失敗。
別系統。
切断。
再接続。
失敗。
観測可能領域が縮小していく。
リリアは息を止めた。
あの時の自分なら、次に何をするか分かる。
再接続を試す。
状態を確認する。
任務終了の通知を読む。
そして。
その後。
自分は、休止設備の前で止まった。
そこへ入ることができた。
それでも入らなかった。
外へ行った。
この観測者は。
どうしたのだろう。
次の記録。
表示は短かった。
広域観測権限、終了。
外部観測系、接続不能。
主観測任務、完了。
継続要求、なし。
リリアは画面を見た。
次へ進める。
何もない。
再度。
何もない。
アルノが静かに尋ねる。
「これで最後?」
「……はい」
「そのあと、記録してないだけ?」
「分かりません」
リリアは周囲を見る。
観測室。
停止した端末。
外された記録媒体。
奥へ続く小さな通路。
休止設備が残っている可能性はある。
探せば、何か見つかるかもしれない。
だが、記録は終わっている。
画面の端に、最後の映像断片が一つあった。
リリアが開く。
暗い観測室。
現在とほとんど同じ角度。
中央演算台。
停止していく観測面。
その前に。
白銀色の人影が立っている。
映像は粗い。
輪郭の半分は欠けている。
顔は分からない。
人間に近い形かどうかも、正確には判別できない。
けれど。
観測主体。
おそらく。
旧世代のルーメン。
自分と近い何か。
白銀の影は、停止した観測面の前に立っている。
動かない。
数秒。
映像が切れる。
それで終わった。
リリアは、しばらく何も言えなかった。
探していた。
自分に似た存在。
自分が何者なのかを知るための糸口。
製造記録。
役割。
設計思想。
なぜ人間に興味を持ったのか。
なぜ変化できるのか。
何か一つでも、答えが残っていると思っていた。
そこにあったのは。
世界を観測した記録。
正確に役割を果たした記録。
そして、役割が終わったという記録。
それだけだった。
胸の奥に、空いた場所ができたような気がした。
違う。
空いたのではない。
最初から期待していた場所に、何も置かれなかった。
それが。
寂しかった。
言葉は、自然に浮かんだ。
悲しいとは少し違う。
怖いとも違う。
この場所へ来るまで、どんな存在がいたのか考えた。
会えなくても。
記録の中で何かを知れると思った。
人を見て何を思ったのか。
役目が終わったあと、どこへ行こうとしたのか。
その答えがない。
だから。
寂しい。
「リリア」
アルノが呼んだ。
リリアは画面から目を離さなかった。
「大丈夫です」
言ったあと、自分で違うと思った。
大丈夫という言葉は便利だった。
活動継続に問題がない。
損傷がない。
助けが要らない。
けれどアルノが聞いたのは、そのどれでもない。
「……寂しいです」
言い直した。
アルノはすぐには何も言わなかった。
隣へ来る。
画面の白銀の影を見る。
「そうだな」
リリアは首を振った。
「でも」
自分の言葉を聞いて、もう一つ気づいた。
「この人が寂しかったとは限りません」
アルノがリリアを見る。
「この観測者は、人を知りたいと思わなかったのかもしれません」
人間の笑い声を記録した。
花を記録した。
長く座る二人を記録した。
泣く子供を記録した。
でも、その理由を問う記録はない。
「役割が終わったあとも、外へ行きたいと思わなかったかもしれない。新しい役割を探す必要も感じなかったのかもしれません」
「うん」
「私がこの記録を寂しいと思ったからといって、この人も同じように寂しかったと決めるのは違います」
それは、この存在へ自分の意味を押しつけることになる。
形相投影を使う時、リリアは意味層へ触れる。
けれど世界へ命令しない。
元から存在する可能性へ、自分の意思を重ねるだけ。
人に対しても同じなのかもしれない。
自分が人と暮らすことを大切だと思うからといって。
この観測者にも、それが必要だったとは限らない。
自分が名前を持ったことを嬉しいと思うからといって。
名前のない存在が不幸だとは限らない。
自分が寂しいから。
この影も寂しかったと決めてはいけない。
「私は、この人を知りません」
リリアは言った。
「記録しか見ていません」
「そうだな」
「だから、分からないままにしておきます」
「それでいいと思う」
リリアも、少し笑った。
「以前なら、答えが出るまでずっと処理していたと思います」
リリアが自分からそう言うと、アルノは一瞬考え込んだ。
「……そうだったかもね」
「今は、アルノの方が処理に時間がかかりました」
「そう返すか」
二人の声が、誰もいない観測室へ残る。
その響きが消えるまで、リリアは聞いていた。
この場所で、昔も誰かの声が響いたのだろうか。
分からない。
それも、分からないままでいい。
リリアはもう一度、旧観測者の最後の記録を見た。
自分にも、役割が終わった瞬間があった。
観測権限を失い、休止することもできた。それでも施設を出た。当時はうまく言葉にできなかったが、今なら、人を知りたかったのだと思う。
その先で名前を選び、リベルナに残った。アルノと暮らし、人と関わり、形相投影を生み、自分の身体に時間を残すことまで選んだ。
今日見た旧観測者の記録には、その三年間はない。
すべてを自分だけで選んだとは言えない。出会った人や場所に導かれたことも多い。それでも、そのたびに自分が選んだことは覚えている。
「答え、あった?」
アルノが聞いた。
リリアは考えた。
出発前。
自分に似た存在を見れば、自分が何者なのか分かるかもしれないと思った。
その意味では。
「ありませんでした」
アルノは静かに頷く。
「そっか」
「でも」
リリアは白銀の影を見る。
「来てよかったです」
「何か分かった?」
「この人は、私ではありませんでした」
アルノが一瞬黙る。
「それ、かなり当たり前のこと言ってない?」
「重要です。まだ途中です」
「はい」
「同じような観測者でも、同じものを求めるとは限りません」
リリアは画面を閉じた。
白銀の影が消える。
観測室には、自分とアルノだけが残る。
「私が人と暮らしていることも。プロジェクションを作ったことも。身体を変えたことも。この人と同じ種類だから起きた、と決めることはできません」
「うん」
「逆に、全部が私だけのものだとも、まだ言えません」
「それでいいんじゃない?」
アルノは軽く言った。
リリアは彼を見る。
「簡単に言いますね」
「難しく言っても分からないなら、簡単な方がいいだろ」
「それは少し違う気がします」
「じゃあ違う」
アルノは笑った。
リリアも笑う。
観測室を出る前に、二人でもう一度記録媒体を確認した。
持ち出しはしない。
施設そのものがまだ安定しているため、位置と状態を記録し、必要なら後日正式な回収班を送る。
アルノが媒体の位置を紙へ写す。
リリアは壁面の記号を現在の表記へ置き換える。
最後に、リリアは記録媒体の末尾に残った小さな領域を開いた。
主観測記録とは別に設けられた、短い補助ログだった。ほとんどは接続確認や観測機器の状態を示すものだったが、その中に一つだけ、目に留まる記録がある。
観測体類似反応、検知。
方位、西。
旧広域観測施設周辺。
個体識別、未登録。
リリアは数秒、その文字を見つめた。
「これ……私でしょうか」
アルノも画面を覗き込む。
「時期は?」
「正確には残っていません。でも、私が施設にいた頃と重なる可能性はあります」
遠く離れた場所から、自分もまた観測されていたのかもしれない。
不思議な感覚だった。
自分はずっと、世界を見る側だと思っていた。
「向こうも、リリアと同じように気になったのかな」
アルノが言った。
リリアは少し考えた。
「そうかもしれません」
同じ観測者だからといって、同じものを見て、同じことを思うとは限らない。
だから、この記録だけで相手が何を考えていたのかまで決めることはできない。
「今は、これ以上分かりませんね」
「うん。記録だけ残しておこう」
リリアは補助ログの位置を記録した。
それ以上は追わなかった。
作業はいつもの調査と同じだった。
それが少し不思議だった。
自分の正体へ近づくために来た場所で。
最後にしていることは、二人で記録を残すことだった。
外へ出ると、夕方になっていた。
霧は少し薄くなっている。
傾いた塔の向こうに、淡い夕日が見えた。
白い草の先が光っている。
リリアは立ち止まった。
「きれいですね」
アルノも同じ方を見る。
「うん」
観測施設にいた頃。
同じ景色を見たなら、自分は何を記録しただろう。
日没時刻。
光量。
地表温度。
植物反射率。
今も、全部分かる。
でも。
夕日はきれいだった。
その言葉で、足りた。
リリアは背後の旧観測施設を見る。
そこにいた誰かが、同じ夕日をどう見たのかは分からない。
きれいだと思ったかもしれない。
何も思わなかったかもしれない。
そのどちらでもいい。
自分とは違う誰かだったのだから。
そして。
違っていたからこそ。
自分の三年間が、少しだけ見えた。
リリアは調査鞄の肩紐を直した。
帰り道は長い。
「今日はここで泊まろう」
アルノが谷の浅い場所を指した。
「風も弱いし」
「周辺に大きな機械生物反応はありません」
「じゃあ決まり」
二人で野営の準備を始める。
リリアはもう一度だけ旧観測施設を振り返った。
求めていた答えはなかった。それでも、自分とは違う観測者がここで世界を見ていた。その違いを知ったことで、施設を出て、名前を選び、人と暮らしてきた三年間が、かえってはっきり見えた。
自分が何者なのかは、まだ分からない。
けれど、自分が歩いてきた時間まで、誰かの記録の中に答えを探す必要はないと思えた。
◇
日が沈むと、旧観測施設は霧の向こうへ見えなくなった。
二人が野営場所に選んだのは、谷の底から少し上がった岩棚だった。背後に低い岩壁があり、正面は緩やかな斜面になっている。地面には白い草がまばらに生えていたが、ヴェイル由来の危険植物は見当たらない。
リリアは荷物を下ろす前に周囲を確認した。
風向き、北東。
胞子濃度、低。
大型機械生物反応、なし。
地表振動、安定。
二時間以内の降雨可能性、低。
「ここで大丈夫です」
「了解」
アルノは背負っていた荷物を岩のそばへ置いた。
いつもなら、そのまま野営の準備へ移る。
今日も作業は同じだった。
防湿布を敷く。携帯炉を安定した地面へ置く。器具を一度確認し、明日の帰路で使うものだけを取り出しやすい位置へ移す。
リリアが周辺を確認している間に、アルノが炉へ水を載せる。
アルノが湯を沸かしている間に、リリアが記録板へ今日の調査結果を転記する。
誰が決めたわけでもない。
何度も外勤へ出るうちに、自然にそうなった。
湯が温まり始める音を聞きながら、リリアは昼間に見た旧観測者の記録を整理した。
記録年代。
施設構造。
観測形式。
旧観測網との類似。
白銀反応。
残された映像。
そして最後の数行。
主観測任務、完了。
継続要求、なし。
そこから先は、何もない。
調査記録としては、それ以上書きようがなかった。
分からないものを、分かったように記録することはできない。
けれど、その空白を見た時に自分が寂しいと思ったことは、調査記録には書かなかった。
書けないのではない。
これは地方記録院へ提出する資料で、自分の日記ではないからだ。
その区別も、三年前にはうまく分からなかった。
「温かいの飲む?」
アルノが尋ねた。
「飲みます」
差し出された器を受け取る。
薄い香草茶だった。
少し苦い。
リベルナへ来て間もない頃なら、成分と温度を先に認識していただろう。
今は、冷えてきた夜に温かいものを飲むと落ち着くことを知っている。
リリアは器を両手で持った。
必要ではない。
けれど好きだった。
アルノは向かいの岩へ座り、今日使った筆記具を布で拭いていた。
その横顔を見ていると、六年前の映像が重なった。
まだ十七歳だったアルノ。
現在より少し細い身体。
長かった髪。
ヴォイド・リリーへ向けられた古い端末。
通信越しに何度も戻れと言われながら、それでも花へ近づいた。
危険を知らなかったわけではない。
測定もしていた。
風向きも確認した。
安全距離も分かっていた。
それでも、前へ進んだ。
あの時の問いは、まだ残っている。
なぜ。
六年前の自分は、何度も条件を組み替えた。
追加情報を得るため。
採取のため。
確認のため。
未知の現象を調査するため。
どれも一致しなかった。
その後、リリアは人間を見た。
アルノと暮らした。
たくさんの人と話した。
行動の外側だけを見ても、その人にとっての理由は分からないことがあると知った。
あの秋、危険な場所へ入りたい人をただ止めるのではなく、その理由を残したまま帰れる方法を考えるようになった。
だから今なら。
アルノが何を答えるのか、以前より想像できる。
けれど。
想像できることと、本人の答えを聞くことは違う。
昼間、旧観測者の記録を見て知ったばかりだった。
自分が相手に意味を与えて、それを本人のものだと思ってはいけない。
リリアは器を置いた。
調査鞄が、すぐ隣にある。
その一番奥。
布に包んだ古い端末。
施設へ向かう前、自分でも理由を一つにはできないまま入れた。
今なら分かる。
旧観測者の記録を見たからこそ。
過去に答えを探しに来たからこそ。
もう、持っているだけではいけないと思った。
「アルノ」
「ん?」
「返したいものがあります」
アルノが筆記具から顔を上げた。
リリアは調査鞄を開いた。
上にある記録具を外し、底の布包みを取り出す。
六年間。
自分の手元にあったもの。
布をほどく。
黒い筐体が夜の中へ現れた。
角は削れ、一部に白い傷がある。表示面には細い亀裂が走り、現在は光を出さない。
アルノの動きが止まった。
視線が端末へ落ちる。
数秒。
何も言わない。
それから、少し前へ身体を乗り出した。
「……それ」
リリアは両手で差し出した。
「アルノの端末です」
「いや」
アルノは受け取る前に、端末の横から覗き込んだ。
「これ、俺の?」
「はい」
「待って。古いやつ?」
「六年前まで使用していたものです」
アルノはさらに端末へ顔を近づける。
右下の傷を見る。
背面の留め具を見る。
「……本当に俺のだ」
声が少し低くなった。
「これ、どこにあった?」
リリアは一度、息を吸った。
必要だからではない。
話す前に、そうしたかった。
「ヴォイドで拾いました」
リリアは一度、息を吸った。
いつからそうするようになったのか、自分でも分からなかった。
「ヴェイル中層で拾いました」
「中層の、どこ?」
「ヴォイド・リリーの近くです」
アルノが顔を上げた。
驚きが、はっきり分かった。
「いつ?」
「六年前です」
沈黙。
アルノがリリアを見る。
端末を見る。
もう一度、リリアを見る。
「六年前?」
「はい」
「リリア、六年前って」
「アルノが十七歳だった時です」
「それは分かるけど」
アルノは手を伸ばしかけて止めた。
「なんでリリアが持ってるの?」
答える時が来た。
ずっと隠していたこと。
必要がないと思っていたこと。
話そうと思いながら、何度も機会を逃したこと。
「見ていたからです」
「何を?」
「アルノを」
アルノの眉が寄る。
「……六年前に?」
「はい」
「どこから?」
「観測施設です」
リリアは、自分がかつていた場所の方向を見た。
今いる旧施設とは別の場所。
もっと西方。
六年前には、そこから広い範囲の観測網へ接続できた。
「私は、周辺の観測装置や機械生物と接続していました。自分の視覚だけではなく、それらを通してヴェイルを見ていました」
アルノは黙っている。
「ある夜、一人の人間が中層まで入ってきました」
「それが俺?」
「はい」
「最初から?」
「旧道から外れたあたりから観測していました」
「……かなり見てるな」
「記録も残っています」
「残ってるの?」
「現在は観測施設へアクセスできないので、元の記録は確認できません。ただし、私の記憶にはあります」
アルノが片手で額を押さえた。
「どこまで見た?」
リリアは正確に答えようとした。
「ヴォイド・リリーを発見したところ。距離を測定したところ。通信で戻るよう指示されていたところ。安全域を越えたところ。胞子を吸入して倒れたところ――」
「もういい」
アルノが手を上げた。
「だいたい分かった」
「救助されるところまで見ています」
「追加しなくていい」
リリアは少し笑った。
アルノは額を押さえたまま、長く息を吐いた。
怒ってはいない。
困惑。
恥ずかしさ。
それから、少し笑っている。
「最悪だな」
「何がですか」
「十七歳の一番恥ずかしい事故を、今まで一緒に暮らしてた相手に最初から全部知られてた」
「一番かどうかは判断できません」
「そこは慰めるところ」
「もっと恥ずかしい事故があるのですか」
「聞かなくていい」
アルノはようやく端末を受け取った。
手の中で裏返す。
「これ、ずっと持ってたの?」
「はい」
「俺、完全になくしたと思ってた」
「翌日、私が回収しました」
「翌日?」
アルノの手が止まる。
「リリアが自分で?」
「はい。施設を出て、同じ場所へ行きました」
少し間を置いて、リリアは続ける。
「観測施設の外へ出たのは、あれが初めてです」
アルノは端末からリリアへ視線を戻した。
「……初めて?」
「はい」
夜の光景を思い出す。
青年が倒れた場所。
ヴォイド・リリー。
地面へ落ちた端末。
自分の足で歩いた地面。
施設の観測装置から見ていた世界と、自分の目で見た世界。
同じはずなのに、違った。
「どうして?」
アルノが尋ねる。
「端末を拾いに?」
リリアは少し考えた。
当時の自分なら、どう答えただろう。
青年の行動理由を確認するため。
観測結果との差異を検証するため。
未解決事象の追加情報を取得するため。
どれも間違いではない。
けれど。
今の言葉なら。
「気になったからです」
アルノが少し目を見開いた。
「アルノが、どうして花へ近づいたのか」
リリアは続ける。
「危険は理解していました。遠くから記録することもできました。すでに必要な映像も取得していました。それでも近づいた」
「……うん」
「理由が分かりませんでした」
「まあ」
アルノは少し苦笑する。
「俺も、今思うと何やってるんだって思う」
「私はその理由を知りたくて、翌日、同じ場所へ行きました」
自分も花の前へ立った。
アルノがいた位置。
安全距離の境界。
風が変われば、白い胞子が届く場所。
「そこで、この端末を見つけました」
「中、見た?」
「はい」
「やっぱり」
「観測施設から電力を供給して、記録を読みました」
端末の内部には、花の映像が多く残っていた。
ヴォイド・リリーだけではない。
小さな野草。
湿地の花。
崖に咲いた青い花。
アルノが歩いた場所で見つけた植物。
専門的な植物研究ではない。
外勤調査の中で、気になったものを記録した跡。
「そこに、あのヴォイド・リリーもありました」
アルノは、もう光らない表示面を見る。
「同じ花です」
時刻。
位置。
花弁数。
光。
周辺地形。
すべて一致する。
「私が観測していたものと、アルノが記録したものは、情報としては同じでした。でも……」
「でも?」
リリアはアルノを見る。
「違って見えました」
六年前には、それ以上説明できなかった。
映像に含まれる光量の違い。
撮影位置。
角度。
焦点。
それらを比較した。
でも、それだけではなかった。
今なら少し分かる。
「アルノが、どこから見たかが残っていたからだと思います」
「俺が?」
「はい」
アルノは何も言わない。
「観測装置は、花を対象として記録します。形。状態。危険性。変化。それで十分です」
リリアは一度、言葉を止める。
「でも、アルノの端末には、アルノが見たいと思った花が残っていました」
同じ花。
同じ夜。
同じ光。
それでも違う。
観測した世界と。
誰かが見た世界。
「それが、分かりませんでした」
リリアは笑った。
「今も、全部は分かりません」
「でも少しは?」
「はい」
自分も、同じように感じられるようになったから。
市場の景色。
アルノの作業室。
枯れた青い花。
ただの石。
旧観測施設で見た黄色い花。
情報だけなら、他の誰かと共有できる。
けれど、自分がそれをどう見たのかは、自分にしか持てない。
「この端末を見てから、人間を以前より注意して見るようになりました」
アルノは端末を握ったまま聞いている。
「笑っている理由。必要がないのに何かを残す理由。誰かを待つ理由。危険でも行こうとする理由」
それから数年。
観測を続けた。
人間を見ることが、環境観測とは別のものになっていった。
そして世界の終わりが保留され。
役割を失い。
リリアは施設を出た。
「だから」
少し迷う。
「アルノが、私を人間の方へ向けた最初の一人です」
アルノが目を瞬いた。
リリアも、自分が使った言葉を考える。
最初の一人。
正しい。
ただし、それだけで今までのすべてを説明するわけではない。
アルノは端末を持ったまま、少し視線を下げた。
「責任重大だな」
「責任ではありません」
「そこは否定するんだ」
「私が選んだことですから」
言葉は自然に出た。
その瞬間、施設へ向かう前に考えていたことがもう一度胸へ戻る。
設計。
役割。
条件。
出会い。
自分をここまで動かしたものは一つではない。
アルノとの出会いも、自分一人では作れなかった。
それでも。
その後、何を見るかを決めた。
外へ出た。
東へ向かった。
名前を選んだ。
リベルナへ残った。
少なくとも、その選択まで他人の責任にはしたくなかった。
アルノは小さく頷いた。
「分かった」
端末をもう一度見る。
「ところで」
「はい」
「もしかして、名前もこれと関係ある?」
リリアは少し驚いた。
「なぜ分かったのですか」
「いや、花の記録まで見てたって聞いたら」
アルノは端末の裏を指で叩く。
「植物分類の資料、かなり入れてたから」
「Lilium」
リリアが言う。
アルノの表情が変わった。
「ああ」
「覚えていますか」
「古い呼び方だろ。リリー」
「はい」
あの時。
リベルナで名前を尋ねられた。
自分には固有名がなかった。
アルノは、自分で決めればいいと言った。
リリアは考えた。
自分を他者へ示す音。
誰かが自分を呼ぶためのもの。
端末に残っていた言葉。
Lilium。
ヴォイド・リリー。
初めて観測だけでは分からないと思った花。
初めて施設の外へ出る理由になった出来事。
「そこから『リリア』という音を選びました」
アルノはしばらく黙った。
「じゃあ俺が名前つけたみたいなもの?」
「違います」
即答した。
アルノが笑う。
「早いな」
「選んだのは私です」
「……うん」
「アルノは、自分で決めればいいと言っただけです」
「そうだな」
「端末も材料の一つです。ヴォイド・リリーも。私が施設から出たことも」
リリアは自分の名前を、心の中で一度呼ぶ。
リリア。
三年前より、ずっと自然に自分へ馴染んでいる。
「だから、私の名前です」
「うん」
アルノの答えは短かった。
それでよかった。
少しだけ沈黙が続いた。
夜のヴェイルは静かだった。
観測施設にいた頃から、リリアは夜が好きだった。
情報が減る。
遠くの音が見つけやすくなる。
世界の一つ一つが、昼よりはっきりする。
今は、別の理由もある。
誰かと話したあとに生まれる沈黙が、嫌いではない。
言葉がない時間にも、二人が同じ場所にいることは変わらない。
それを知っているから。
リリアは、残っていた問いを口にした。
「アルノ」
「うん」
「六年前」
アルノがこちらを見る。
「ヴォイド・リリーへ、どうして近づいたんですか」
アルノはすぐには答えなかった。
「ああ」
それだけ言って、霧の向こうへ視線を移す。
「やっぱり聞く?」
「六年間、分からなかったので」
「長い宿題だな」
「はい」
アルノは携帯炉の火を少し弱めた。
その間も、考えているようだった。
リリアは待つ。
答えを急がせる必要はない。
やがてアルノが言った。
「きれいだったから」
単純な言葉だった。
六年前なら。
それだけでは理由にならない、と判断しただろう。
リリアは何も言わず続きを待った。
「記録では何度も見てたんだ」
アルノは話す。
「ヴォイド・リリー。危険なのも知ってた。あの時も、近づく前に風を測ったし、安全距離も見てた」
「はい。見ていました」
「そこは今はいい」
アルノは苦笑する。
「遠くから一枚撮って、それで戻ればよかった。実際、記録としてはそれで足りてた」
「はい」
「でも」
少し間がある。
「もっと近くで見たかった」
リリアは、その言葉を受け取る。
「なぜですか」
尋ねてから、六年前と同じ問いだと気づいた。
アルノも気づいたらしい。
「そこから先は、うまく説明できない」
「光り方ですか」
「それもある」
「霧?」
「たぶん」
「花の形?」
「それも」
アルノは笑った。
「でも、全部並べても違う気がする」
「では?」
「見たいと思ったんだよ」
答えは、最初へ戻った。
リリアは黙る。
以前なら、循環した説明として不十分だと判断した。
今は。
不思議と、それ以上の説明がなくても分かった。
完全に同じ気持ちを共有しているわけではない。
けれど、自分にもある。
今日。
旧観測施設へ行った。
危険がないわけではなかった。
そこに答えがある保証もなかった。
地方記録院の業務として必要不可欠な調査でもない。
それでも。
見たいと思った。
自分と似た存在を。
自分の前にあったかもしれないものを。
「判断としては、間違っていたと思いますか」
リリアが尋ねる。
「思う」
アルノは即答した。
「死にかけたし」
「はい」
「仲間にも迷惑かけた」
「かなり怒られていました」
「そこも覚えてるのか」
「はい」
「忘れてほしい」
「記憶消去はしません」
「知ってる」
アルノはため息をついた。
「今なら絶対あんな近づき方はしない」
「では、どうしますか」
「望遠器使う。風が安定するまで待つ。防護具持って戻る。必要なら班の人間に相談する」
「帰る選択も?」
「する」
「見ない?」
「その日は見ない」
アルノは少し考えてから続けた。
「でも、見たいと思ったことまで間違いだったとは思ってない」
リリアは目を閉じた。
あの秋。
行方不明の子供。
胞子濃度の高い場所。
中へ行こうとしたアルノ。
あの頃にはもう、少し分かり始めていた。
危険だから行ってはいけない。
それだけでは、人の行動を理解したことにはならない。
なぜ行きたいのか。
その理由を知る。
そのうえで、戻れる方法を作る。
「分かります」
リリアは言った。
アルノが意外そうにこちらを見る。
リリアは、その視線の意味に気づいて付け加えた。
「今なら、です」
「六年前は?」
「まったく分かりませんでした」
アルノが笑った。
リリアも笑う。
「今の私が、六年前のあの場所にいたら」
「いたら?」
「近づかないでください、と言います」
「結局止めるんだ」
「はい」
「厳しい」
「でも」
リリアは続ける。
「見たいなら、どうすれば安全に見られるか一緒に考えます」
アルノの笑いが少し止まった。
リリアは自分の言葉を確かめる。
「それなら、見たいと思ったことを消さなくて済みます」
アルノはしばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくり頷いた。
「うん」
小さな答えだった。
「たぶん、それがいい」
夜の霧が動く。
携帯炉の熱で、近くの空気が少し揺れた。
六年前。
分からなかった問い。
今、答えを聞いた。
答えそのものは、驚くほど単純だった。
きれいだった。
見たかった。
それだけ。
変わったのは、答えではないのかもしれない。
自分の方だ。
六年前には理由として受け取れなかった言葉を。
今は、理由として受け取れる。
完全に理解したわけではない。
同じ感情になったわけでもない。
それでも。
そうしたくなることがある。
そのことを、知っている。
アルノが手の中の端末を見る。
「じゃあ」
声が少し変わった。
「三年前にリベルナで会った時も、最初から俺が誰か分かった?」
リリアは彼を見る。
「はい」
「どうやって?」
「声紋。歩幅。姿勢。右足の着地位置。肩の高さ」
「もういい」
アルノが片手を上げる。
「分かった。俺だったんだな」
「一致率は高かったです」
「怖いな」
「観測能力です」
「そういうところは本当に変わらない」
リリアは少し笑った。
アルノは端末を膝へ置く。
「じゃあ、あの時、俺のところに来たのも」
そこから先を言うまで、少し間があった。
「六年前の答えを知りたかったから?」
リリアは、すぐには答えなかった。
当時を思い出す。
身元がない。
行く場所もない。
街の仕組みも分からない。
そこでアルノと再会した。
かつて観測した青年。
理解できない行動をした人間。
一緒にいれば、あの時の理由が分かるかもしれない。
確かに。
「それも理由でした」
アルノが「ああ」と小さく息を吐く。
怒ってはいない。
ただ、少し複雑そうだった。
リリアは続ける。
「アルノを観察すれば、人間を理解できるかもしれないと思いました」
「観察対象だったんだな」
「最初は」
アルノの視線が上がる。
「最初は?」
「今は違います」
答えは、考えるより早く出た。
迷いはなかった。
自分でも、そのことが分かる。
アルノは何も言わない。
リリアは言葉を探した。
どう違うのか。
一つの理由へまとめることは難しい。
「今のアルノを、六年前の行動を理解するために見ているわけではありません」
「うん」
「人間を理解するための代表として見ているわけでもないです」
「それは助かる」
「アルノは、人間全体を代表するには偏っています」
「そこまで言う?」
「危険植物へ近づきすぎます」
「昔の話だろ」
二人で笑う。
そのあと。
リリアは少しだけ真面目に続けた。
「一緒に調査をしたいと思います」
アルノは聞いている。
「帰りが遅いと心配します」
言葉にすると少し照れくさい。
この感覚を、照れくさいと認識する自分にもまだ少し驚く。
「食事をするのも好きです」
「食べなくてもいいのに?」
「はい」
「甘いもの多いけど」
「アルノも食べています」
「俺は必要だから」
「量が必要以上です」
「そこはいい」
リリアは笑った。
「部屋に帰った時にアルノがいることも。外勤で別のものを見て、あとでそれを話すことも。二人で置き場所を決めた棚も」
アルノの表情が少し柔らかくなる。
「それらは、六年前の問いに答えるために必要なものではありません」
「そうだな」
「でも、私には必要ではないから価値がない、とは思いません」
必要ではない。
それでも大切。
今なら、その言葉を使える。
「だから」
リリアはアルノを見る。
「今、一緒にいることは、私が選んでいます」
風が、白い草を揺らした。
アルノはすぐに答えなかった。
何かを考えている。
その沈黙が少し長く感じられた。
昔なら、経過時間を測っていたかもしれない。
今は測らない。
やがてアルノが笑った。
「そっか」
それだけだった。
リリアは少し不満に感じた。
「それだけですか」
「何か言った方がいい?」
「分かりません」
「じゃあ、それで」
リリアは首を傾げた。
アルノが続ける。
「俺も最初は、行くところのない子をそのままにできなかっただけだった」
「はい」
「保証人になって、しばらく一緒にいればいいと思ってた」
「はい」
「三年一緒にいるとは思ってなかった」
その言葉に、胸の奥が少し沈む。
けれど、次の言葉を待つ。
「でも今は」
アルノは携帯炉の火を見る。
「調査から帰って、リリアがいないとたぶん変な感じする」
リリアは彼を見る。
「変?」
「静かすぎる」
「私の発声量は大きくありません」
「そういう話じゃない」
「では?」
「説明しづらい」
六年前と同じだ。
人間は、重要なところで説明できないと言う。
以前なら困った。
今は少し笑える。
「分かりました」
「分かったの?」
「完全には」
「ならよかった」
「なぜですか」
「全部分かられるのも困るから」
また、分からない言葉だった。
でも、今夜はそれを解こうとは思わなかった。
夜が深くなった。
アルノは端末を自分の鞄へしまう前に、もう一度表示面を見た。
「記録、残ってるかな」
「結晶記録式なので、保存部分は無電源でも保持されます」
「じゃあ帰ったら読める?」
「適合する給電器があれば」
「記録院に古いのがあったはず」
「無理に起動すると損傷する可能性があります」
「そこは慎重にやる」
「六年前よりは、慎重になりましたね」
アルノがリリアを見る。
「俺があんな無茶したの、まだ気にしてる?」
「いいえ」
「絶対ちょっと楽しんでるだろ」
「少し」
それから二人は、明日の帰路を確認した。
夜間移動はしない。
朝、霧の流れを見てから出る。
崩落した旧道は避ける。
来た時に使った谷を戻る。
いつもの調査と同じ話だった。
けれど。
六年前から持っていた問いを話したあとでは、いつもの会話も少し違って聞こえた。
その夜、リリアは人間と同じように横になった。
休止に入る必要はない。
けれど、この数年で夜には横になることが増えた。
目を閉じる。
記録の整理が始まる。
旧観測者。
白銀の影。
役割の終わり。
六年前のアルノ。
ヴォイド・リリー。
端末。
Lilium。
リリア。
情報は互いに分離できる。
けれど記憶の中では、もう別々ではなかった。
一つが次の一つへつながっている。
もし、六年前にアルノを観測しなかったら。
もし、端末を拾わなかったら。
もし、世界の終わりが保留されなかったら。
もし、リベルナへ来なかったら。
もし、アルノと再会しなかったら。
今の自分は、ここにはいない。
それは事実だった。
でも。
だからといって、今の自分がそれらに決められただけだとは思わなかった。
分岐はいくつもあった。
そのたびに、自分は何かを選んだ。
自覚していなかった時もある。
選択と呼んでいなかった時もある。
それでも。
施設を出た足は、自分のものだった。
名前を選んだのも。
リベルナへ残ったのも。
身体に時間を残すと決めたのも。
そして今。
アルノと一緒にいることを選んでいる。
そのことは、誰かの記録を探さなくても分かった。
翌朝、霧は前日より薄かった。
東から弱い風が吹いている。
リリアは出発前に斜面を確認した。
地表湿度、低下。
昨日確認した空洞、変化なし。
胞子濃度、低。
遠距離機械生物反応、一。
進路との交差予測、なし。
「行けます」
「じゃあ帰ろう」
アルノが鞄を背負った。
帰る。
その言葉を、リリアは自然に受け取った。
旧観測施設から離れる。
霧の中を進む。
昨日まで、ここは過去へ向かう道だった。
今日は、リベルナへ戻る道になっている。
同じ道。
進む方向が違うだけで、見えるものも少し違った。
谷を越えるところで、アルノが先に進んだ。
古い石標を見つける。
その先ではリリアが地中の空洞を確認する。
「右へ二メートル」
「了解」
「そこから先は安定しています」
「先行って」
「はい」
役割は何度も入れ替わる。
どちらが守る側でもない。
どちらが教える側でもない。
それでも、相手にしか見えないものがある。
昼頃。
二人は高い岩場で休憩した。
遠くに、白い花が一輪見えた。
距離がありすぎて、種類までは判別できない。
アルノが先に気づいたらしい。
「花」
指差す。
リリアも見る。
白い。
霧の切れ目。
光を受けている。
「見に行きますか」
リリアが尋ねる。
アルノは少し考えた。
「遠いな」
「一・二キロメートルです」
「明日の仕事に遅れる」
「はい」
「今日はいい」
「そうですか」
アルノがリリアを見る。
「何、その顔」
「試しました」
「何を?」
「六年前と同じか」
「ひどい」
「今なら別の日に来ますか」
アルノは遠くの花を見る。
「気になるならな」
リリアも見る。
今日は行かない。
でも、見たいと思うことは残せる。
それでいい。
夕方近く。
ヴェイルの霧が薄れ、地面に人の道が増えてきた。
古い舗装。
補修した土。
荷車の跡。
見慣れた道標。
リリアは、自分の感覚が少しずつ緩んでいくのを感じた。
危険がなくなったからだけではない。
知っている場所へ戻ってきたから。
やがて丘の向こうに、リベルナの記録塔が見えた。
灰白色の建物。
屋根。
煙。
水路を渡る橋。
遠くからでは、人の姿までは見えない。
それでも。
帰ってきた。
そう思った。
「見えたな」
アルノが言う。
「はい」
街へ近づくにつれ、音が増える。
荷車。
工房。
市場。
子供の声。
水の音。
初めて街へ入った時には、そのすべてを分類していた。
死角。
人口。
移動経路。
音源。
今も、必要ならできる。
けれど今日は。
街の音だった。
それだけでいい。
門を通る。
見知った係員がアルノへ手を上げる。
「長かったな」
「予定通りですよ」
「リリア、こいつ無茶しなかったか?」
リリアはアルノを見る。
「六年前の話なら――」
「待て」
アルノが止める。
係員が笑う。
「何だ、聞きたいな」
「何でもないです」
「アルノがヴォイド・リリーに――」
「リリア」
「はい」
少しだけ楽しかった。
市場を抜ける。
朝によく会う少年が、向こうから走ってきた。
「リリア!」
名前を呼ばれる。
リリアは手を上げた。
「ただいま」
口から出た。
少年は一瞬不思議そうな顔をしたあと、
「おかえり」
と返した。
その言葉が、胸の奥へ静かに収まった。
部屋へ戻ると、出発前と何も変わっていなかった。
棚。
ただの石。
瓶の中の枯れた青い花。
二人で決めた配置。
アルノが鞄を床へ置く。
「端末、どこに置こう」
リリアはその問いに少し驚いた。
返したのだから、アルノが決めるものだと思っていた。
「アルノの端末です」
「うん」
「アルノが決めてください」
「六年もリリアが持ってたんだろ」
「所有者は変わりません」
「でも、もう俺だけの記録でもない気がする」
アルノは棚を見る。
石の横。
花の瓶の横。
記録箱。
少し考える。
「ここ空ける?」
リリアも棚を見る。
そこには、使用頻度の低い工具箱が置かれている。
「工具箱を下段へ移せば入ります」
「使いにくくない?」
「少し」
「じゃあ別」
「記録箱を右へ二センチ移せます」
「それでいこう」
二人で棚を動かす。
端末を置く。
黒い古い筐体。
隣に、ただの石。
枯れた青い花。
そこだけ見れば、用途の分からないものばかりだった。
けれど。
リリアには、それぞれが何なのか分かる。
必要だから残っているものではない。
意味があるから。
それも。
最初から決められていた意味ではない。
時間の中で重なったもの。
リリアは棚を見た。
六年前。
観測施設の外で拾った端末。
三年前。
名前を選んだ自分。
今。
同じ端末をアルノへ返し、二人で置き場所を決めた。
物は同じだった。
意味は同じではない。
それでいいのだと思った。
「リリア」
「はい」
「お茶飲む?」
「飲みます」
「甘いやつ?」
「今日はそうしたいです」
アルノは炉へ向かった。
リリアは窓を開ける。
夜になる前のリベルナの空気が入ってきた。
水路の匂い。
遠くの炉。
誰かが夕食を作っている匂い。
人の声。
街は、観測施設よりずっと騒がしい。
以前なら、静かな夜の方が世界をよく見られた。
今は。
この騒がしさの中にも、自分が知っている音がある。
そのことが好きだった。
自分が何のために造られたのか。
まだ分からない。
旧観測者の記録にも、答えはなかった。
人を知りたいと思ったことが、どこまで自分の設計に含まれていたのかも分からない。
これから何をするのかも、まだ決まっていない。
でも。
六年前には理解できなかった花の理由を、今は少し分かる。
三年前には観測対象だったアルノと、今は自分の意思で一緒にいる。
そして。
この街へ帰りたいと思う。
その三つは、誰かに教えられなくても分かった。
リリアは窓の外を見る。
夕方の光が、水路の上で揺れていた。
きれいだった。
何のために造られたのかは、まだ知らない。
けれど。
どこへ帰りたいのかは、もう知っていた。