リベルナへ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
丘の上から街が見えた時、リリアは足を止めた。
灰白色の屋根。細い水路。記録塔。その向こうに工房の煙が何本か上がっている。三年前、初めてこの街を見下ろした時と、基本的な形は変わっていない。
それでも、同じには見えなかった。
橋の脇には新しい休憩所がある。水路沿いには去年できた修理工房の屋根が見える。市場の端に張られた赤い天幕は、春になってから菓子屋が使い始めたものだ。
見れば分かるものが増えている。
あの屋根の下では、朝になると焼いた穀物の匂いがする。
あの細い路地は荷車が通るには狭いが、記録院への近道になる。
水路の二つ目の橋は冬に板を交換したばかりで、雨の日には少し滑る。
街の構造を知っているだけではない。
そこに何があるのかを知っている。
「どうした?」
少し先を歩いていたアルノが振り返った。
「帰ってきたと思いました」
「見れば分かるだろ」
「そういう意味ではありません」
アルノは一度だけ街を見下ろした。
「ああ」
それだけで理解したらしい。
二人はまた歩き始めた。
ヴェイルの旧観測施設から持ち帰った記録媒体は、アルノの鞄とリリアの調査鞄へ分けて収めてある。内容の大半はすでに現地で確認している。残りは地方記録院の設備で照合する必要があった。
記録。
旧観測系統。
施設位置。
残留反応。
未登録個体。
考え始めれば、確認すべき項目はいくつもある。
けれど今は、それよりも街へ戻る道の方が気になった。
石畳の端に、小さな黄色い花が咲いている。
少し先では、洗濯物が風に揺れていた。
パンを焼く匂いがする。
知っている匂いだった。
門を抜けると、詰所の男が二人を見て片手を上げた。
「お帰り」
「ただいま戻りました」
リリアが答えると、男は特に何も言わず記録板へ目を戻した。
三年前なら、このやり取りだけでも考えることが多かった。
帰る。
戻る。
ただいま。
誰かがそれを受け取る。
今は、自然に口から出る。
そのことを考える必要もなかった。
市場へ入ると、いつもの焼き菓子屋の女性が先にリリアを見つけた。
「あら。今回は長かったね」
「予定より一日増えました」
「顔は元気そう」
「はい。問題ありません」
少し考えてから付け加える。
「疲れてはいませんが、温かいものは食べたいです」
女性が笑った。
「じゃあ明日の朝、焼きたて置いとくよ」
「今日ではないのですか」
「今日はもう午後だから」
「なるほど」
横でアルノが笑う。
「そこ納得するところ?」
「時刻との整合性があります」
「三年経っても、そういうとこは変わらないねえ」
女性が言った。
リリアは足を止めた。
「変わらないですか」
「全部じゃないよ」
女性は棚に焼き菓子を並べながら、リリアを上から下まで見る。
「背も伸びたし、前よりよく笑うし。最初の頃なんて、甘いの勧めても『摂取の必要はありません』みたいな顔してたじゃない」
「実際、摂取は必要ありません」
「ほら、そこ」
アルノが吹き出した。
女性も笑った。
リリアも少し遅れて笑う。
「でもね」
女性は手を止めずに続けた。
「昔から、知らないものがあるとずっと見てるところは変わらないよ」
リリアは答えなかった。
その言葉だけが、少し長く残った。
知らないものがあると、見る。
六年前。
観測装置の向こうで、危険な花へ近づく青年を見た。
翌日、初めて施設から出た。
三年前。
リベルナへ来た。
名前を選んだ。
それらを行った自分には、今のような言葉はなかった。
けれど、行動は残っている。
「行くぞ」
アルノが少し先から呼んだ。
「はい」
リリアは店の女性へ手を振り、歩き出した。
以前の自分が消えたわけではない。
そのことが、今は少し嬉しかった。
地方記録院では、帰還報告より先に班長から叱られた。
「一日遅れ」
「旧道北側の崩落が予測以上でした」
「理由は聞いてない」
「では、何を答えればいいですか」
「無事でした、とか」
リリアは考えた。
「無事でした」
「よし」
機材担当が机の向こうで笑う。
アルノが鞄を下ろしながら言った。
「それでいいんですか」
「帰ってきたならいい」
「報告する意味がなくないですか」
「報告はこれからだ」
机の上には、すでに記録板が準備されていた。
リリアは自分の席へ座る。
誰かに示される必要はない。
椅子の位置も、記録端末の接続方法も知っている。
現地で採取した記録媒体を読み取り器へ入れる。
会話の空気が変わった。
リリアも自然に意識を切り替える。
旧観測施設識別信号。
一致率、九十一パーセント。
記録欠損、多数。
外部接続、停止。
残留ソウル反応、低。
補助観測記録、二十七件。
未登録類似反応、一件。
画面へ情報が並んでいく。
短い文字列。
日時。
方位。
距離。
リリアは必要なものだけを拾い上げる。
班長が横から覗き込んだ。
「この未登録ってやつは?」
「断定できません」
「お前と似てるんじゃなかったのか」
一瞬だけ、部屋が静かになった。
班長が意味しているのは、リリア自身の構造ではない。観測施設から発せられていた信号形式の話だ。
「類似しています。ただし、同一とは判断できません」
「追える?」
「現在の記録だけでは無理です。記録された時点も古いです」
「じゃあ保留か」
「はい」
班長は迷わず記録板へ書き込んだ。
未登録反応。
照合不能。
追加調査、保留。
それだけだった。
リリアも、それ以上は言わなかった。
記録だけで意図は分からない。
自分と似ているからといって、同じことを望んでいるとも限らない。
あの旧観測施設で、そのことはもう知った。
「次」
班長が言う。
リリアは別の記録を開いた。
旧観測者が残していた人間活動記録。
花。
笑う人間。
食事。
道を歩く人。
そこには、観測以上の意味を求めた形跡はなかった。
以前なら、それが自分の過去へつながる可能性を探し続けたかもしれない。
今は、保存すべき記録として整理できる。
少し寂しい。
その感想は残る。
けれど、寂しいと感じたのは自分だ。
記録の中の誰かが寂しかったとは限らない。
それでよかった。
報告を終える頃には、窓の外の光が傾いていた。
班長が記録板を閉じる。
「とりあえず中央への照会は出す。ただし、返事が来てもすぐ再調査には行かないからな」
「なぜですか」
「お前とアルノが戻った翌日に次の調査を組んだら、医療担当に俺が怒られる」
窓際の医療環境担当が振り向いた。
「もう怒ってます」
「ほら」
「私に疲労はありません」
「お前はそうでもアルノは寝る」
全員がアルノを見る。
「なんで俺なんですか」
「顔」
「そんなひどいですか」
リリアはアルノを見る。
皮膚表面温度。
眼球運動。
姿勢。
反応速度。
連続活動時間。
必要なら、数秒で疲労状態を推定できる。
けれど、それを口にする前に分かった。
「少し疲れて見えます」
アルノが眉を上げた。
「数値は?」
「見て分かります」
班長が大きく笑った。
アルノだけが少し複雑そうな顔をした。
記録院を出る頃には、夕方の市場が始まっていた。
昼間より人が多い。
水路沿いの道を歩いていると、前方で年配の男女が立ち止まった。
男が大きな紙袋を抱えている。
隣の女性が何か言い、袋の片側を持った。
男は首を振る。
女性は聞かずに半分を持つ。
二人はそのまま歩き始めた。
礼を言う声は聞こえなかった。
しばらく進むと、橋のそばで若い男が一人、欄干にもたれていた。
誰かを待っているらしい。
何度も市場の方を見る。
数分後、同じくらいの年齢の女性が走ってきた。
男は少し怒ったような顔をしたあと、笑った。
女性も笑う。
それから二人で同じ方向へ歩いていった。
リリアは足を緩めた。
「また何か見てる?」
アルノが聞く。
「人を見ています」
「それは見れば分かる」
「関係を考えています」
アルノは少し不思議そうな顔をした。
「関係?」
リリアは先ほどの年配の男女を振り返る。
もう人の間に紛れて見えない。
「二人は、互いに荷物を持つ必要はありませんでした」
「まあ」
「頼まれてもいません」
「たぶんね」
「でも、女性は持ちました」
「重そうだったからじゃない?」
「はい。なぜ持つのですか」
「……重そうだったから」
リリアはアルノを見る。
「同じ答えです」
「同じ質問に答えたからな」
「私の聞き方が悪かったです」
アルノは笑う。
「たぶん、手伝いたかったからだよ」
手伝いたかった。
それは理解できる。
リリア自身も、誰かの作業を見て、自分にできることがあれば手を出す。
しかし、それだけではない気がした。
「知り合いだから、ですか」
「それもあると思う」
「知らない人でも手伝うことがあります」
「あるな」
「では、違いは何ですか」
アルノは考え込んだ。
「俺に聞く?」
「人間なので」
「範囲が広すぎるだろ」
「アルノは比較的長く観察しています」
「その言い方、六年前ならちょっと怖かったな」
リリアは笑った。
「今は?」
「今も少しだけ」
帰宅したあと、リリアは久しぶりにライブラリーの遠隔閲覧端末を開いた。
部屋の机は、二人で使うには少し狭い。
アルノは向かい側で今日の装備を点検している。金属具の擦れる小さな音が時々聞こえた。
リリアは検索欄へ語を入れる。
家族。
最初に開いた記録は制度史だった。
血縁。
婚姻。
扶養。
居住単位。
相続。
登録。
途中で閉じる。
次に生活記録を開いた。
親子。
兄弟。
血縁を持たない養育関係。
共同生活。
家族として登録されていなくても、家族と呼び合う例。
別の記録。
恋人。
恋愛。
夫婦。
愛情。
こちらは定義がさらに一定しなかった。
互いに好意を持つ者。
特別な関係を選んだ二者。
婚姻以前の関係。
婚姻を目的としない関係。
身体的接触を伴う場合。
伴わない場合。
長期間共に暮らす場合。
別々に暮らす場合。
リリアは眉を寄せた。
「難しいです」
工具を持っていたアルノが顔を上げる。
「何が?」
「人間関係です」
「今さら?」
「今までより細かい分類です」
「何調べてるの」
リリアは端末の表示を少しアルノ側へ向けた。
アルノの手が止まった。
「家族、恋愛、夫婦……」
「はい」
「急だな」
「今日、街で人を見ました」
「それで?」
「以前にも観測しています」
観測施設にいた頃。
同じ住居へ出入りする二人。
離れていても、一定時間になると同じ場所へ戻る二人。
片方が停止すると、長時間その場所から離れない人間。
手をつなぐ者。
言い争いながら一緒に歩く者。
当時は、接触頻度や居住地、移動経路で分類していた。
今なら、その中には家族や恋人や夫婦と呼ばれる関係があったのだろうと分かる。
「行動だけでは分からないのですね」
リリアが言う。
「何が?」
「関係です。同じ家に暮らしていても、家族ではない場合があります。家族でも同じ家に住んでいない場合があります」
「そうだな」
「恋人も、登録情報だけでは判定できません」
「たぶん勝手に判定されたら嫌だと思う」
「夫婦は記録上確認できます」
「アーカイブらしい結論だな」
リリアは端末へ視線を戻す。
制度は記録できる。
行動も記録できる。
それでも、二人が互いをどう思っているかは、外から完全には分からない。
かつてヴォイド・リリーへ近づいたアルノもそうだった。
危険域。
風向き。
距離。
取得済みの映像。
観測できる情報をすべて並べても、その一歩の理由だけが分からなかった。
今は、その理由を知っている。
きれいだった。
もっと近くで見たかった。
短い言葉だった。
けれど、それで十分だった。
人間の関係も似ているのかもしれない。
外から得られる情報だけでは、その人たちにとって何であるかまでは決まらない。
リリアは、向かいに座るアルノを見た。
三年間、同じ部屋へ帰っている。
食事をする。
調査へ行く。
帰りが遅ければ気になる。
危ないことをすれば止める。
物の置き場所を互いに知っている。
最初は保証人と保護対象だった。
その後は、教える側と教わる側。
今は調査仲間。
どれも間違いではない。
でも、それだけでもないように思う。
「何?」
アルノが聞いた。
「いいえ」
リリアは視線を端末へ戻した。
今すぐ名前を決める必要はない。
そう思った。
知らないものがある。
それは以前なら、埋めるべき欠損だった。
今は少し違う。
まだ知らないものとして、そこに置いておける。
翌朝、地方記録院で前日の報告書を確認していた時だった。
リリアは自分の登録情報を開いた。
調査協力者として報告書へ名前を付加するため、本人記録との照合が必要だった。
名前。
リリア。
居住地。
リベルナ第二区。
登録開始。
三年前。
身元照会。
完了。
出自。
未確認。
リリアはそこで指を止めた。
三年前と同じ文字だった。
未確認。
それ自体は正しい。
自分を造った場所も、造った存在も分からない。
製造時期も確定していない。
だから、出自は未確認でいい。
しかし、その下にある種別欄には、人間住民用の仮分類が残っている。
三年前。
必要だった。
アルノは自分がルーメンだと気づいた。
けれど、公的には申告しなかった。
自分もそれを受け入れた。
理由は分かる。
当時、自分はこの街のことをほとんど知らなかった。
ルーメンがどう扱われるのかも分からなかった。
人間社会で何をしたいのかさえ、まだ決まっていなかった。
ただ、人を知りたかった。
今は。
画面の名前を見る。
リリア。
この名前で三年間暮らした。
この名前で呼ばれた。
この名前で調査報告を書いた。
記録院の机にも、自分の分の資料が置かれるようになった。
自分がルーメンであることは、それらと矛盾しない。
むしろ、そこだけが空白のまま残っているように見えた。
「どうした?」
隣の机からアルノが声をかけた。
リリアは画面を閉じなかった。
「私の記録を見ています」
「何か間違ってた?」
「間違ってはいません」
少し考える。
「でも、足りません」
アルノが椅子ごと近づいてきた。
画面を見る。
出自未確認。
彼の表情がわずかに変わった。
「出自のこと?」
「それは分かりません」
「じゃあ?」
リリアは自分の名前の下を指した。
「ここです」
「種別?」
「はい」
アルノは黙った。
リリアも急がなかった。
窓の外から、人の声が聞こえる。
荷物を運ぶ音。
水路を流れる水。
三年前、この街に入った時、自分には名前がなかった。
今はある。
三年前、自分が何をしたいのか分からなかった。
今は、まだ形になっていなくても、やりたいことがいくつかある。
人と一緒に調査をしたい。
知らないものを見たい。
自分の力を、誰かの手が届くように使いたい。
記録の中にある知識が、工房や道や水路で別の形になる瞬間をもっと見たい。
その中で、自分だけが人間として仮置きされたままなのは、少し違う気がした。
「直したいです」
リリアが言った。
「出自は直せません。今も分からないので」
「うん」
「でも、私はルーメンです」
アルノはすぐには答えなかった。
机の上の記録板を指で一度撫でる。
「申告するってこと?」
「はい」
「中央まで話が行くと思う」
「そうでしょうね」
「どう扱われるか、俺にも分からない」
「はい」
「三年前とは状況が違う。ルーメンの存在自体は知られてる。でも、だから大丈夫だとは言えない」
「分かっています」
アルノはリリアを見る。
「それでも?」
リリアは自分の記録をもう一度見た。
名前は変わらない。
出自も分からないまま。
ただ、一つだけ、今の自分が知っている事実がある。
「私が、そうしたいです」
口にすると、思っていたより単純な言葉になった。
アルノはしばらくリリアを見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「なら、俺が止めることじゃないな」
「止めませんか」
「危ないかもしれないからやめろ、って言うことはできる」
「はい」
「でも三年前に隠したのも、俺が勝手に決めたわけじゃない」
リリアは頷く。
「私も同意しました」
「じゃあ、今変えるのもリリアが決めればいい」
少しだけ胸の奥が軽くなった。
何かを許されたからではない。
決めたことを、アルノがそのまま受け取ったからだった。
「一緒に来ますか」
「行くよ」
「私一人でも申告できます」
「知ってる」
「では、なぜ?」
アルノは少し笑った。
「一緒に行きたいから」
リリアは、その答えをすぐには分析しなかった。
「はい」
それで十分だった。
地方記録所の窓口は、三年前とほとんど変わっていなかった。
古い建物。
補修された壁。
記録棚。
待合用の椅子。
窓口の横には、新しい案内板が一枚増えている。
初めて来た日、自分はここで名前がないことを問題にされた。
年齢も答えられなかった。
家族を尋ねられ、「該当する関係を持ちません」と答えた。
今なら、同じ質問をされても少し違う返事をするかもしれない。
受付にいた女性は、リリアの顔を見るとすぐに名前を呼んだ。
「リリア。今日はどうしたの?」
名前を知っている。
それだけのことが、三年前とは違う。
「私について、記録へ追加したい情報があります」
「住所変更?」
「いいえ」
女性が記録板を引き寄せる。
「所属?」
「それでもありません」
「じゃあ何?」
リリアは一度、アルノを見た。
彼は何も言わない。
だから前を向く。
緊張している。
そう思った。
危険ではない。
敵意もない。
いつも来る記録所。
知っている職員。
それでも、少し怖い。
その感覚を数値へ変える必要はなかった。
「分類上、私はルーメンです」
女性の手が止まった。
記録板へ触れていた指が、そのまま動かなくなる。
数秒。
周囲の音だけが聞こえた。
紙をめくる音。
奥の部屋の扉が閉じる音。
外を通る荷車。
女性はリリアを見る。
次にアルノを見る。
またリリアへ戻る。
「……ルーメン?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
女性は声を落とした。
「いつから?」
質問の意味を考えて、リリアは少し笑いそうになった。
「少なくとも、ここへ来る前からです」
女性は目を瞬いた。
アルノが横で口元を押さえる。
「笑うところですか」
「いや」
「今、笑いました」
「ごめん」
受付の女性も、困ったような顔のまま少しだけ笑った。
緊張が、わずかに薄くなる。
しかしすぐに彼女は真面目な表情へ戻り、記録板を確認した。
「ちょっと待って。これ、私の権限では変更できない」
「はい」
「はい、って分かってたの?」
「可能性は高いと思っていました」
「そう……」
女性は席を立った。
警備を呼ぶ様子はない。
奥の棚から手続き記録を出し、別の職員へ何かを確認している。
しばらくして戻ってくる。
「中央照会になる」
「分かりました」
「たぶん、本人確認と……安全性の確認。それから、昔の記録との照合も必要になる」
「はい」
女性は言いづらそうに少し間を置いた。
「今日ここで、すぐ記録を書き換えることはできない」
「構いません」
「その……結果がどうなるかも、私は言えない」
「それも分かっています」
女性はリリアを見る。
三年前、自分へ「怖くないからね」と言った人物ではない。
けれど、似た表情だった。
何と言えばいいか分からない時の人間の顔。
「どうして今、言おうと思ったの?」
リリアは答えようとして、少し考えた。
正確な説明なら、いくつも作れる。
社会環境の変化。
三年間の生活実績。
情報秘匿の必要性低下。
将来的な活動範囲。
公的記録との不整合。
どれも間違いではない。
けれど、それらを並べても、今ここへ来た理由の全部にはならない。
「隠したままにしたくなくなりました」
女性が静かに待っている。
「私は三年間、この街でリリアとして暮らしました」
自分の声が、思ったより穏やかに聞こえる。
「それは変わりません。ルーメンであることも変わりません」
少しだけ息を置いた。
呼吸は生命維持には必要ない。
それでも、人間と話す時に間を作るための呼吸を、いつの間にか覚えていた。
「両方とも私なので、両方を記録してほしいと思いました」
女性はすぐには返事をしなかった。
やがて記録板へ視線を落とし、ゆっくり頷いた。
「分かった」
中央への照会書類が作られた。
確認日時は、二日後。
場所はエデン・アーカイブ首都圏。
地方記録所では扱えないため、中央側の担当者と面談を行う。
紙面には、いつもの文字で名前が記された。
リリア。
その横に、小さな追加記載。
本人申告。
種別再確認申請。
ルーメン。
その文字を見ても、自分の名前は少しも変わって見えなかった。
記録所を出ると、夕方の光が水路へ落ちていた。
アルノが隣で伸びをする。
「二日後か」
「はい」
「首都、久しぶりだな」
「私は前回以降も二度行っています」
「そうだった」
「アルノも同行しています」
「……そうだった」
リリアは笑った。
「疲れていますか」
「今日は認める」
二人で歩き出す。
いつもの道。
いつもの街。
さっきまでと何も変わっていない。
それでも、リリアには少し違って見えた。
二日後。
何を聞かれるかは分からない。
どのように判断されるかも分からない。
以前なら、可能性を一つずつ並べ、結果の確率を求めたかもしれない。
今も計算しようと思えばできる。
けれど、しなかった。
少し怖い。
そして、少し楽しみだった。
自分が何者なのかを、誰かに決めてもらいに行くのではない。
もう知っていることを、自分の言葉で伝えに行く。
リリアは水路の向こうへ目を向けた。
街の灯りが、一つずつ点き始めていた。
そのどれも、三年前には遠くから見るだけだった光だ。
今は、その中へ帰っていける。
アルノが先に曲がり角へ入る。
リリアはすぐ隣へ追いついた。
◇
二日後の朝、搬送車はまだ薄い霧の残るリベルナを出た。
窓の向こうを、水路と低い屋根がゆっくり後ろへ流れていく。
三年前にも、リリアはこの道を通った。
あの時は、中央ライブラリーへ行くためだった。
人間の感情。
言葉。
現象操作。
意味層。
知らないものを知るために、アルノの隣へ座っていた。
今日も座る場所は同じだった。
けれど、目的は違う。
自分について、知っていることを伝えに行く。
それだけなのに、胸の奥が落ち着かなかった。
「緊張してる?」
隣からアルノが聞いた。
「しています」
すぐに答えた。
アルノは少し意外そうにリリアを見る。
「認めるの早いな」
「否定する理由がありません」
「前なら、循環核の出力が何パーセントとか言ってなかった?」
リリアは窓へ映った自分を見る。
十六歳ほどの少女。
髪。
目。
人間と変わらないように見える肌。
けれど、その下に人間の骨も、心臓もない。
「必要なら測れます」
「測らなくていい」
「はい」
外を見る。
畑の向こうに白い記録塔が立っている。塔の一部は崩れ、上半分だけが空へ残っていた。
以前なら、用途を知りたかった。
識別番号。
建造年代。
稼働状況。
今も知りたいと思う。
でも、分からないまま遠ざかっていく姿も嫌いではなかった。
アルノが座席へ深くもたれる。
「帰り、遅くなるかな」
「面談時間は二時間以内と通知されています」
「それで終わればね」
「追加確認の可能性があります」
「やっぱり緊張してない?」
「しています」
「そうだった」
リリアは小さく笑った。
搬送車が揺れた。
アルノの肩が一瞬こちらへ触れ、すぐ離れる。
以前なら接触として認識しただろう。
今は、それだけだった。
首都圏へ着いた頃には、霧は消えていた。
高い保存棟の白い壁が陽光を反射している。空中には記録媒体を運ぶ細い搬送路が幾重にも走り、その下を人々が行き交っていた。
三年前、初めて見た時には情報量の多さに圧倒された。
今も大きい。
人も多い。
文字も多い。
けれど、知らない街ではない。
アルノと何度か来た。
好きな飲み物を売っている店も知っている。
中央ライブラリーの東側入口は午後になると混む。
保存棟の間を抜ける近道も覚えた。
知識の街だった場所に、少しずつ自分の記憶が重なっている。
面談場所は中央ライブラリーではなく、その北側にある記録管理棟だった。
入口で名前を告げる。
受付の職員は手元の記録を確認した。
「リリアさんですね」
「はい」
一拍置く。
「アルノさんは、同行者として登録されています」
「はい」
「面談室まではお二人で。確認の内容によっては、途中から別室でお待ちいただく場合があります」
アルノが頷く。
リリアも頷いた。
拘束される様子はない。
武装した人員もいない。
扉も通常のものだった。
そんなことを確認している自分に気づく。
やはり、怖いのだと思う。
面談室には、三人が待っていた。
年齢の違う男女。
一人は中央記録院の徽章をつけている。もう一人の机には現象解析用の小型端末。最後の一人は、資料を何枚か重ねていた。
名前は名乗られた。
リリアは覚えた。
けれど、その名前より役割の方が重要だと感じた。
上席記録官。
現象技術担当。
安全評価担当。
リリアとアルノは向かい側へ座った。
最初に上席記録官が言った。
「今回の確認は、あなたから提出された記録修正申請に基づくものです」
「はい」
「先に一点。これは処罰を前提とした聴取ではありません」
リリアは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「分かりました」
「ただし、あなたが申告した内容が事実である場合、現在の登録形式では扱えない項目が複数あります。ですので、できる限り正確に答えてください」
「はい」
質問が始まった。
「あなたは、自分をルーメンだと認識している」
「はい」
「根拠は?」
「身体構造と内部系統です。ソウル循環核、現象演算回路、自己修復機構、旧観測施設との接続履歴があります」
現象技術担当が記録板へ目を落とす。
「製造者は?」
「分かりません」
「製造年代」
「確定できません」
「所属系統」
「不明です」
「目的」
リリアは一瞬止まった。
「世界の観測を行っていました」
「それが製造目的ですか」
「断定できません」
「人間との接触を想定した構造を持っている?」
「はい」
「それが、最初から人間理解を目的としていた証拠には?」
「なりません」
男は頷いた。
「分からないものは分からない、と」
「はい」
質問は続く。
旧観測施設。
観測権限。
機械生物との感覚共有。
現在は失われていること。
外部通信。
未登録観測者の記録。
他のルーメンと接続できるか。
リリアは一つずつ答えた。
分からないことは、分からない。
推定できることは、推定と前置きする。
事実と仮説を分ける。
それは観測施設にいた頃から変わらない。
次に、安全評価担当が口を開いた。
「現象操作について確認します」
リリアは意識を切り替えた。
最大出力。
連続行使可能時間。
ソウル消費。
操作可能範囲。
対象への直接干渉。
攻撃転用可能性。
頭の中で必要な情報が整列する。
通常生活時出力。
低。
精密操作適性。
高。
広域現象改変。
不可。
長時間連続行使。
ソウル消費により制限。
物質破壊。
小規模なら可能。
文明基盤への単独干渉。
現実的ではない。
戦闘能力。
人間の熟練戦闘員と比較して優位とは限らない。
「大規模な現象操作はできません」
リリアは答えた。
安全評価担当が尋ねる。
「できない、というのは構造上の制限ですか。それとも、行わないという意思ですか」
「両方です。私の演算能力とソウル容量では、セレスティア級の現象改変は不可能です」
名前を口にすると、三人の反応がわずかに変わった。
「セレスティアを知っているのですか」
「記録上は」
「会ったことは?」
「ありません」
上席記録官が短く頷いた。
安全評価担当が続ける。
「小規模なら、攻撃に使える」
「はい」
アルノが横で動いた気配がした。
リリアはそちらを見なかった。
「使用したことは?」
「自衛を除けば、ありません」
「自衛では?」
「機械生物に対して使用したことがあります。人間に対する攻撃目的の使用経験はありません」
安全評価担当は淡々と記録する。
否定も肯定もしない。
「プロジェクションについて」
今度は現象技術担当が顔を上げた。
リリアは少しだけ姿勢を正した。
「あなたが独自に構築した技術だと報告されています」
「既存記録を参考にしています。完全な独自技術ではありません」
「現象操作とは違う?」
「補助です」
「説明できますか」
リリアは机の上に置かれた水差しを見る。
「現象操作が、実際に起きている現象へ直接干渉するものだとすれば、プロジェクションは意味層を介して、その干渉の方向を補助します」
「意味を書き換える?」
「完全な書き換えではありません」
リリアは言葉を選ぶ。
「対象が持っていない性質を作ることはできません。私自身が扱えない現象を実現することもできません」
水を凍らせられるなら、その過程を少し安定させる。
空気の流れを変えられるなら、人の作業を邪魔しない方向へ精度を上げる。
圧力を動かせるなら、壊れかけた構造の一点ではなく、別の場所へ逃がす。
「命令するというより、方向を伝えるのに近いです」
現象技術担当は少し考えてから尋ねた。
「対象に意思があると考えている?」
「いいえ」
「では、なぜ言葉を使う?」
「私自身の意思を意味層へ明確に接続するためです」
男は手元の資料をめくった。
リリアには見覚えがあった。
三年間の外勤報告。
旧送水設備。
崩落した道。
風に煽られた資材。
高濃度胞子区域からの退避。
調査班の記録。
自分が忘れかけていた小さな作業まで残っていた。
「この水路補修」
男が一つを指す。
「圧力を止めたのではない?」
「はい。作業員が機構を抜く間だけ、負荷の集中を分散しました」
「十二秒」
「十一・八秒です」
アルノが小さく咳をした。
リリアはそちらを見た。
「何ですか」
「いや。そこは十二秒でいいんじゃないかなって」
現象技術担当が少し笑った。
緊張していた部屋の空気がわずかに緩んだ。
彼は別の記録を見る。
「風による資材落下。流れを消していない。落下方向を変えている」
「はい」
「理由は?」
「強い操作を行うより、必要な範囲だけ変えた方が安全だったからです」
「あなたは、できることを増やそうとしてこの技術を作ったのでは?」
リリアは少し考えた。
三年前、ライブラリーで調べていた頃。
意味層。
人間の感情。
現象操作。
あの時、自分は何を求めていたのだろう。
「増やしたかったのだと思います」
「力を?」
「使い方を」
男の指が止まった。
リリアは続ける。
「同じ現象操作でも、壊すために使うことと、作業する人を助けるために使うことは違います」
「出力は同じでも?」
「はい」
少し間があった。
現象技術担当は資料を閉じた。
「興味深いですね」
その言葉に、評価されているのか単に研究対象として興味を持たれたのか、リリアにはまだ判断できなかった。
上席記録官が別の束を手に取った。
「能力だけで判断するつもりはありません」
そこには、地方記録院から送られた証言があった。
班長。
医療環境担当。
機材担当。
記録所の職員。
工房。
いくつかの名前。
班長の報告は短かった。
危険判断は適切。
指示に従える。
勝手な大出力使用なし。
現場で必要なことを言う。
余計なことも正確に言う。
最後の一文を見て、リリアは眉を寄せた。
「これは安全評価に必要ですか」
アルノが横から覗く。
「必要なんじゃない?」
「なぜですか」
上席記録官がわずかに口元を緩めた。
「個人を知る記録としては、役に立つかもしれません」
リリアはもう一度その文字を見る。
余計なことも正確に言う。
自分らしいと言われれば、そうなのかもしれない。
記録は、能力だけではなかった。
調査への参加回数。
帰還記録。
事故対応。
報告書。
生活記録。
市場での住民照会。
居住継続。
三年間。
そこにあるのは、世界を救った記録ではない。
大きな事件もほとんどない。
水路を直した。
崩れた道を調べた。
人を探した。
物を運んだ。
帰ってきた。
それが何十枚も積み重なっていた。
自分が過ごした時間を、別の人間の目から見せられているようだった。
上席記録官が資料を置いた。
「一つ聞かせてください」
「はい」
「なぜ、三年前には申告しなかったのですか」
リリアはアルノを見る。
彼は答えない。
予定通りだった。
「危険性が判断できなかったからです」
リリアは前を向く。
「当時、私は人間社会についてほとんど知りませんでした。ルーメンという存在がどう扱われるのかも分かりませんでした」
「あなた自身の判断?」
「アルノとも相談しました」
「彼が隠すよう勧めた?」
「勧めました」
アルノが一瞬こちらを見る。
リリアは続ける。
「私も同意しました」
上席記録官はアルノへ視線を向ける。
「理由は?」
アルノは少し姿勢を直した。
「拾ったばかりの……」
言ってから止まる。
「拾ったわけではないですね」
「私は拾われていません」
「そうだった」
室内に小さな笑いが落ちた。
アルノは頭を掻く。
「正体の分からないルーメンを公表したら、何が起こるか俺にも分からなかったんです。少なくとも、リリア自身がこの街でどうしたいか決めるまで、急いで知らせる必要はないと思いました」
「そして今は?」
アルノはリリアを見る。
「本人が知らせたいと言ったので」
それだけだった。
上席記録官がリリアへ戻る。
「では、なぜ今なのですか」
昨日、地方記録所でも聞かれた。
答えは変わらない。
「隠したままにしたくなくなったからです」
「理由を、もう少し詳しく」
リリアは膝の上で指を重ねた。
自分は何のために造られたのか。
まだ分からない。
旧観測者の記録を見ても答えはなかった。
でも。
「これから、人間と一緒に何かを作りたいと思っています」
三人が静かに聞いている。
「まだ具体的には決めていません。でも、知識や技術を、記録するだけではなく使う場所を作りたいです」
工房。
職人。
調査班。
ライブラリー。
旧い機械を直す老人。
いろいろな人の顔が浮かぶ。
「その時に、私だけが人間であるように記録されたままなのは、違うと思いました」
「人間として認められたいわけではない?」
「いいえ」
迷わなかった。
「私は人間ではありません」
自分の声が、静かに部屋へ残る。
「でも、人と一緒に生きたいです」
以前なら、この二つは矛盾するように見えたかもしれない。
今は違う。
違うものが、一緒にあっていい。
あの施設で見た旧観測者と自分が違ったように。
アルノと自分が違うように。
「ルーメンである私として、ここにいたいです」
上席記録官は、しばらく何も言わなかった。
窓の外で、記録搬送機が低く通過する音がした。
やがて彼女は、小さく息を吐いた。
「三年前にも、似た問題がありました」
リリアは顔を上げる。
「セレスティアですか」
「はい」
その名前が、この部屋では少し重く響いた。
「当時の私たちは、まず彼女を分類しました。旧文明の高位ルーメン。大規模現象操作能力。未知の権限。文明に対する潜在的危険」
上席記録官は淡々と話す。
「どれも間違いではありませんでした」
リリアは聞く。
「しかし、その分類だけでは、彼女が何を選ぶかまでは分からなかった」
セレスティア。
会ったことはない。
記録でしか知らない。
本編の出来事も、断片的な公開記録とアルノから聞いた話しか知らない。
それでも、世界がまだ続いていることは知っている。
「彼女が危険でなかった、とは今でも言いません」
安全評価担当が口を挟んだ。
「実際、危険な能力を持っていました」
「はい」
「ですが、能力の規模と個体の意思は別です」
上席記録官が続ける。
「三年前、私たちはそれを非常に高い代償で学びました」
リリアは何も言わなかった。
セレスティアがこの場にいるわけではない。
自分を助けてくれるわけでもない。
名前を使って保証してくれるわけでもない。
それでも。
三年前に彼女がしたことが、今この部屋に残っている。
人間が一度学んだこととして。
上席記録官が現象技術担当へ目を向けた。
彼はリリアの報告書を一枚持ち上げる。
「あなたのプロジェクションについて、一つ訂正したい」
「何ですか」
「最初、私は意味層干渉技術として危険度を見ていました」
「妥当だと思います」
「ええ。ただ、記録を見た印象は少し違いました」
彼は水路補修の報告を示す。
「あなたは世界を思い通りに変えようとしていない」
リリアは首を傾げる。
「できません」
「能力の話ではなく、使い方です」
男は考えながら言葉を選んだ。
「そこにある流れを少し変える。人間が工具を入れる時間を作る。風を消すのではなく、荷物が落ちない方向へ逃がす」
彼は資料を机へ戻す。
「世界を壊す力というより、世界を形作る側へ使われているように見えます」
世界を形作る。
リリアはその言葉を胸の中で繰り返した。
自分の力だけでは何も作れない。
水路を直したのは職人だった。
崩れた道を整えたのも人間だった。
自分は少し手を貸しただけ。
でも。
その少しが、誰かの仕事とつながる。
「私は、その使い方が好きです」
思わず言った。
現象技術担当が微笑んだ。
「記録からも、そう見えます」
面談は、そのあとも続いた。
身体構造の確認。
公的医療制度で対応できない項目。
緊急時の連絡先。
能力使用時の報告基準。
今後、旧観測施設と新たな接続が生じた場合の申告。
どれも現実的な話だった。
最後に、上席記録官が記録板へ署名した。
「現時点で、隔離または行動制限を必要とする根拠は認めません」
リリアは瞬きをした。
分かっていた言葉なのに、意味が入ってくるまで少し時間がかかった。
「居住記録と調査協力記録は継続します。種別欄は本人申告および確認済み情報に基づき更新します」
画面がこちらへ向けられる。
名前。
リリア。
居住地。
リベルナ。
出自。
未確認。
種別。
ルーメン。
リリアはしばらくそれを見ていた。
出自は空白のままだった。
何年に造られたのか。
誰が造ったのか。
なぜ自分だけ人間に近い形をしているのか。
何も埋まっていない。
でも。
名前はそのままだった。
リリア。
三年前、自分で選んだ名前。
その横に、ルーメンと書かれている。
何も失われていない。
「これでいいです」
リリアは言った。
上席記録官が頷く。
「では、更新します」
短い操作音がした。
それだけだった。
世界が変わるような音ではなかった。
部屋の光も変わらない。
外の街もそのままだろう。
それでもリリアには、小さな扉が一つ開いたように感じられた。
帰りの搬送車で、アルノは途中から眠った。
首が少し傾いている。
リリアは窓の外を見ながら、時々その姿を見る。
三年前なら、姿勢による頸部負荷を計算して起こしたかもしれない。
今も、長時間なら起こす。
でも、まだ大丈夫そうだった。
夕暮れの光が車内へ差す。
アルノの頬へ細い橙色の線が落ちている。
リリアは静かに座っていた。
嬉しい。
そう思った。
認められたからだけではない。
自分で言えたことが嬉しかった。
リベルナへ戻ると、翌日には地方記録院へ更新情報が届いていた。
班長は朝の打ち合わせで記録板を見て、リリアを見た。
もう一度、記録板を見る。
「ルーメンなのか」
「はい」
「本当に?」
「昨日も同じ質問をされました」
「そりゃされるだろ」
機材担当が身を乗り出す。
「じゃあ、あれ全部?」
「何ですか」
「やたら耳がいいのとか、暗い所で俺より先に段差見つけるのとか」
「ルーメンだから、とは限りません」
「そこはそうなんだ」
医療環境担当が眉を寄せる。
「体温測定で毎回微妙な値が出てたのも?」
「はい」
「……もっと早く言って」
「すみません」
「医療担当としては本当にそう」
リリアは少し申し訳なくなった。
班長が腕を組む。
「で、仕事は?」
「何がですか」
「続けられるんだな?」
「はい」
「なら、今日の午後も来い。北水路の接合部がまたずれてる」
話はそれで終わった。
リリアはしばらく班長を見る。
「何だ」
「もう終わりですか」
「何が」
「私がルーメンだという話です」
班長が眉を上げる。
「他に何かあるのか?」
「ありません」
「じゃあ終わりだろ」
機材担当が笑う。
「白銀の羽でも出るのかと思った」
「出ません」
「残念」
「なぜですか」
いつものように話がずれていく。
リリアは笑った。
午後、北水路の接合部で、小さな補修作業が行われた。
金属管の片側に圧力が偏り、固定具が噛み合わなくなっていた。
以前なら、周囲に気づかれない程度の出力で補助した。
今日は違う。
技師が工具を入れながら言う。
「あと三ミリ寄れば入る」
リリアは配管へ手を添えた。
「プロジェクションを使います」
誰も驚かなかった。
班長がすぐに答える。
「何秒持つ?」
「十五秒なら余裕があります」
「十分。いけ」
リリアは目を閉じる。
金属。
水。
内圧。
固定具。
作業員の手。
必要なのは、三ミリ。
世界を変える必要はない。
ここだけでいい。
「少しだけ、こちらへ」
意思を言葉へ乗せる。
意味層へ触れる。
現象操作を重ねる。
配管がわずかに軋んだ。
「今!」
工具が入る。
固定具が噛み合う。
「止めていい!」
リリアは手を離した。
作業は終わった。
誰かが拍手することもなかった。
技師が工具を片づける。
班長は記録板へ時間を書き込んでいる。
いつもの現場だった。
それが、とても嬉しかった。
夜。
部屋の机には、紙が何枚も広がっていた。
リリアが持ち帰ったもの。
中央ライブラリーで借りた記録。
工房から以前もらった簡単な設計図。
地方記録院の共同調査要項。
アルノは向かい側で、紙の山を見ていた。
「何これ」
「考えています」
「見れば分かる」
「場所についてです」
「場所?」
リリアは一枚の紙を取り出す。
古い倉庫の平面図。
現在はほとんど使われていない、地方記録院の別棟。
「こういう場所があればいいと思います」
アルノが図面を受け取る。
「倉庫?」
「倉庫でなくてもいいです」
「何に使うの?」
リリアは窓の外を見る。
夜のリベルナ。
水路沿いの灯り。
工房の火。
どこかから聞こえる笑い声。
「知識を、使う場所です」
アルノは黙って聞く。
「アーカイブには記録があります。たくさんあります」
「うん」
「でも、旧送水設備の老人が知っていたことは、ライブラリーの設計資料だけでは分かりませんでした」
修理し続けること。
自分たちで直せること。
性能だけでは決まらない価値。
「工房の人が知っていることもあります。調査班が危険な場所で覚えたこともあります」
子供の思いつき。
古い技術。
新しい技術。
現象操作。
ルーメンの感覚。
「全部を、同じものにする必要はありません」
リリアは言った。
「でも、一緒に置けば、今までなかった使い方ができるかもしれません」
アルノが図面を机へ戻す。
「研究所みたいな?」
「少し違います」
「学校?」
「それも含められます」
「工房?」
「それも」
「欲張りだな」
「はい」
リリアは笑った。
「作りたいです」
言葉にしてみる。
作れる。
ではない。
作るべき。
でもない。
作りたい。
その違いが、今はよく分かる。
アルノは腕を組んだ。
「金は?」
「必要です」
「場所」
「必要です」
「管理する人」
「必要です」
「危ない技術を扱うなら規則もいる」
「はい」
「文明圏をまたぐなら許可も増える」
「はい」
「人間とルーメンって言っても、ルーメンの知り合い、今のところいないだろ」
「はい」
アルノはしばらく黙った。
「問題、多いね」
「多いです」
「どうする?」
リリアは紙を見る。
全部を一度に作る必要はない。
最初は机一つでもいい。
地方記録院と工房で、共同の検証をする。
古い資料を一つ持ってくる。
職人に見てもらう。
自分ができることを試す。
誰かが興味を持てば、次を考える。
「まず、小さく始めます」
「どれくらい?」
リリアは今使っている机を見る。
二人分の資料で、もうほとんど空いていない。
「この机よりは広い方がいいです」
アルノが笑った。
「それは賛成」
「アルノも手伝いますか」
言ってから、少しだけ緊張した。
アルノは机の上の紙を一枚取り上げる。
「もう手伝ってる気がするけど」
「正式には?」
「正式にって、何に登録するんだよ」
「まだありません」
「じゃあ、できたら考える」
リリアは彼を見る。
アルノが少し笑う。
「冗談。手伝うよ」
「ありがとうございます」
「でも、俺にもやりたいことあるから、全部は無理」
「はい」
それがよかった。
アルノが自分のためにすべてを変える必要はない。
リリアも、アルノのためだけに未来を決めるわけではない。
別々のものを持ったまま、一緒にできるところで一緒にやる。
たぶん、自分が作りたい場所も同じなのだと思う。
数日後。
地方記録院の打ち合わせ机に、一枚の植物調査票が置かれた。
班長が全員へ回す。
「西側外縁。植生異常の報告」
リリアは受け取る。
白い花。
六枚の花弁。
中心へ向かって暗くなる色。
縁に残る青銀の発光。
見間違えるはずがなかった。
ヴォイド・リリー。
ただし、添付された測定値は通常個体と異なる。
胞子濃度。
低。
生体毒性反応。
通常種比、推定二十四パーセント。
発光周期。
やや長い。
周辺植生への侵食。
限定的。
測定例、一件。
確定情報、不足。
安全性。
未確認。
リリアの意識が静かに研ぎ澄まされる。
風向。
地形。
観測位置。
測定器精度。
採取者の防護装備。
通常種との距離。
誤認可能性。
危険域設定。
必要装備。
退避経路。
頭の中で情報が並ぶ。
まだ安全とは言えない。
毒性が低いという測定も一回だけ。
近づくなら、追加測定が必要。
風向きが変わる可能性。
防塵具。
予備薬剤。
複数人。
帰還経路。
全部確認する。
それでも。
写真を見た瞬間から、別の感覚があった。
「リリア」
向かいからアルノが呼ぶ。
「はい」
「見に行く?」
リリアは写真を見る。
六年前。
観測装置の向こうに見た花。
危険域へ一歩入ったアルノ。
倒れた身体。
地面へ落ちた端末。
翌日。
初めて施設の外へ出た自分。
今は、そのすべてに別の意味が重なっている。
「はい」
答えた。
それから、自分の気持ちをもっと正確に言いたくなった。
「近くで見たいです」
アルノが一瞬黙った。
やがて笑う。
「そう言うと思った」
「なぜですか」
「六年前の俺と同じ顔してる」
「顔は違います」
「そこじゃない」
リリアも笑った。
「安全に見ます」
「もちろん」
班長が机の端から口を挟む。
「まず現地で毒性測定。近づくのはそれからだ」
「はい」
「風が悪かったら帰る」
「はい」
アルノも答える。
「今回は俺も帰ります」
「今回は?」
班長が低い声を出す。
「言い方間違えました」
出発は二日後になった。
前夜、リリアとアルノは装備を床へ並べた。
防塵具。
胞子測定器。
採取容器。
予備薬剤。
通信器。
簡易風向計。
記録端末。
アルノが薬剤の期限を確認している。
リリアは防護具の密閉部を一つずつ見る。
「六年前より多いですね」
「六年前の俺が少なすぎたんだよ」
「測定器は持っていました」
「持ってるだけじゃ駄目だった」
「はい」
アルノが顔を上げる。
「そこは否定してくれない?」
「事実なので」
「厳しいな」
二人で笑った。
六年前。
見たいと思ったことが間違いだったのではない。
近づき方が間違っていた。
それを今なら分けて考えられる。
翌朝。
街を出る空は、よく晴れていた。
リリアは調査鞄を背負う。
アルノも隣で肩紐を直す。
三年前、この街へ来た時、自分は荷物をほとんど持っていなかった。
行き先もなかった。
名前もなかった。
今は違う。
帰る場所がある。
自分の道具がある。
これからやってみたいことがある。
街の門を抜ける。
アルノが隣を歩く。
以前は、彼の少し後ろを歩くことが多かった。
道を知らなかったから。
人間社会の歩き方も知らなかったから。
今は同じ速度で歩ける。
街が少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
水路沿いの道を抜けたところで、リリアはふと思い出した。
数日前に読んだ記録。
家族。
恋人。
夫婦。
愛情。
まだ答えを出していない問い。
「アルノ」
「何?」
「一つ聞いてもいいですか」
「いいよ」
リリアは少し考えた。
「私たちは、家族でしょうか」
アルノの足が半歩だけ遅れた。
リリアも止まらず、速度を少し落とす。
「急だな」
「以前から考えていました」
「そうなの?」
「はい」
アルノは歩きながら前を見る。
「家族か」
「血縁はありません」
「ないね」
「制度上も違います」
「うん」
「現在、保証人でもありません」
「それはとっくに終わってる」
「同じ場所に住んでいます」
「住んでる」
「一緒に食事をします」
「するね」
「帰りが遅いと心配します」
アルノがこちらを見る。
「それ、俺も?」
「はい」
「そうなんだ」
「知りませんでしたか」
「言われるとちょっと恥ずかしい」
リリアには、なぜ恥ずかしいのかはまだ完全には分からなかった。
アルノは少し考えたあと、肩をすくめた。
「そんなようなものなんじゃないか」
「そんなようなもの」
「きっちり決めなくてもいいなら」
リリアはその言葉を考える。
家族。
完全には一致しない。
でも、違うとも感じない。
「分かりました」
「それでいいの?」
「はい」
以前なら、定義が曖昧なことが気になった。
今は、それで困らない。
少し歩く。
風が草を倒し、また起こしていく。
リリアはもう一つの問いを思い出した。
「アルノ」
「まだある?」
「あります」
「何?」
「恋愛についてです」
今度はアルノが明確に咳き込んだ。
「どうしましたか」
「いや。続けて」
「人間は恋愛という感情を持って、恋人という関係になる場合があります」
「うん」
「その後、夫婦になる場合もあります」
「まあ」
「愛情が重要だと書かれていました」
「そうだろうね」
リリアは横顔を見る。
「アルノは、分かりますか」
「何が?」
「恋愛です」
アルノは前を向いたまま黙った。
返答まで七秒ほどかかった。
数えなくても、長いと感じた。
「……経験ないから、よく分からない」
「私もです」
「そっか」
「本にはたくさん書いてあります」
「うん」
「でも、読んでも自分が知っているとは思えませんでした」
知識として理解すること。
自分で経験すること。
その違いは、もう知っている。
花。
食事。
寂しさ。
嬉しさ。
名前。
どれも同じだった。
「だから、知りたいです」
「恋愛を?」
「はい。夫婦の愛情も」
アルノの歩幅がまた少し乱れた。
リリアは首を傾げる。
「危ないです」
「誰のせいだと思ってるの」
「道は平坦です」
「そういう話じゃなくて」
リリアはしばらく考えたが、分からなかった。
なら、聞けばいい。
「一緒に探してみませんか」
アルノが止まった。
リリアも数歩先で止まり、振り返る。
彼の顔が少し赤い。
気温による変化ではないと思う。
「アルノ?」
「リリア」
「はい」
「それ、人間に言う時は、もう少し……」
彼は言葉を探している。
「意味を考えた方がいいかもしれない」
「考えています」
「たぶん足りない」
「そうですか」
アルノは額を押さえた。
リリアは自分の発言を再確認する。
恋愛を知りたい。
愛情を知りたい。
アルノと一緒に。
どこが問題なのか。
少し考えて、ある可能性に気づいた。
「恋人になってください、という意味に聞こえましたか」
アルノは黙った。
それが答えだった。
「今すぐその関係になる提案ではありません」
「……そうだよね」
アルノが大きく息を吐く。
なぜか少し安堵している。
その反応を見て、リリアの胸に小さな引っかかりが生まれた。
安堵。
なぜ。
その理由を、今すぐ解析したくはなかった。
「私はまだ分かりません」
リリアは言う。
「でも、知りたいです」
家族も。
恋愛も。
夫婦も。
愛情も。
それが人間にとってどんなものなのか。
自分がアルノに感じているものと、どこが同じで、どこが違うのか。
「アルノと一緒なら、知れることが多いと思います」
アルノはしばらくリリアを見ていた。
困ったような顔。
でも、嫌そうではない。
やがて笑った。
「うん」
短い答え。
「一緒に探そう」
リリアも笑う。
アルノは歩き始める。
「世界には、まだ知らないものがたくさんあるから」
「はい」
リリアは隣へ戻る。
「アルノと一緒に、いろいろなものを見たいです」
今度はアルノが何も言わなかった。
ただ少し笑っていた。
道は、低い丘の向こうへ続いている。
その先に、まだ見たことのないヴォイド・リリーがある。
毒性が本当に弱いのか。
どんな場所に咲いているのか。
通常種と何が違うのか。
近づけるのか。
今日は見ることができるのか。
まだ分からない。
未来も同じだ。
自分が作りたい場所が、本当にできるかは分からない。
何人が集まるのか。
人間とルーメンが、どんな形で同じ場所に立てるのか。
アルノとの関係が、これから何と呼ばれるのか。
自分がどこで造られ、何のために生まれたのかさえ、まだ分からない。
以前なら、分からないことは空白だった。
埋めるべき場所。
観測すべき対象。
今は違う。
まだ何も決まっていないから、そこへ行ける。
風が吹く。
草が揺れる。
遠くに白い霧が見える。
リリアは歩きながら、アルノの横顔を見る。
帰る場所がある。
一緒に歩く人がいる。
作ってみたいものがある。
知りたいことがある。
そして。
見たい花がある。
それで、今は十分だった。
六年前。
ヴォイド・リリーは、危険植物だった。
胞子。
毒性。
安全距離。
観測対象。
その花へ近づいたアルノの行動は、理解できなかった。
今も、花が危険であることは変わらない。
けれど、それだけではなくなった。
アルノがきれいだと思った花。
自分が初めて施設を出るきっかけになった花。
名前へつながった花。
六年前から、二人の時間のどこかに咲いていた花。
一つのものに、一つの意味しかないわけではない。
自分も同じなのだと思う。
観測者。
ルーメン。
調査員。
リリア。
どれか一つだけが、自分のすべてではない。
与えられた意味がなくなっても、何もなくなるわけではない。
空いた場所には、自分で新しいものを見つけられる。
虚無は、終わりではない。
まだ何になるか決まっていない場所なのかもしれない。
丘の上へ出る。
遠くの地平が開けた。
リリアは足を止めなかった。
未来を観測する必要はない。
成功率もいらない。
その先に何があるのか、まだ分からなくていい。
ただ。
自分が、その先を見たいと思ったから。